臀部から内臓に響く、気味の悪い刺激に、ようやくぼんやりと意識が戻り来た。 ああ?ここ、どこだ?……ええ、俺の部屋か、ベッドの上かよ。 意識がよりはっきりとして来れば、音質の悪い、今流行りの音楽の出もとも自然 理解出来る。 鮮やかに光を点滅しつつ、賑やかに鳴るケイタイを、ズボンの後ろポケットより ずい、と引き出して、寝ころんだまま。 『今日の二講目、必修英会話でしょ。忘れるなよ。』 ……ミヤか。この間、ケンカした切りなのに。 寝返りを打つように枕元の時計を見る。途端に頭の中に、ビッグベンの半鐘も かくあらんと、いや、実際聞いた事など一度もないが、きっとこんなじゃないかと、 思わせるばかりの、まるで首から先が落ちてしまいそうな大音響が脳の中に。 痛(つ)ううう……。 ……それにしても記憶がない。昨夕、バイト代が入ったからと、ユウヤが誘ってくれて 5人ばかりで居酒屋に繰り出した、そこで大騒ぎ。覚えているのはそこまでだ。 これはどちらにしても、行かなきゃ仕様がない、英会話も実際、これ以上の欠席は かなりヤバいし、何よりユウヤ達に会って、謝らないとな。 鐘鳴り響く頭に手をやりながら、半身を起こすと、途端にその顔に歪みが走る。 ……ったく……忘れていられるのは、酒飲んでる時だけかよ……。 つるべ落とし、なんて言うのは今頃の時期か。赤く細いトンボの群れ飛ぶ草むらに、 西の空が、赤みを帯びて、雲の影の灰色を濃くしたかと思えば、陽のかげりは あっと言う間に。 「よう、また見てるのか。」 「おう、タクか。」 ジャケットの胸ポケットから、タバコの箱を取り出して、ほい、とタクの方に揺らせば 一本が顔を覗かせる。 「さんきゅ。」 抜き取って、口に咥える。 100円ライターに、一瞬灯る火はまるで、ぼっと一瞬、空の色を写し取ったかのよう。 こぉん、と耳に柔らかい、木製バットの音。飛び交う歓声。滑り込めば舞い上がる土煙。 二本のゆらゆらと、ゆれては消える白灰色の煙を吐き出しながら、無言に、フェンスに もたれかかり、それらを見つめる二人の影は、薄い闇に隠されて、おぼろにぼやりと、 姿もままならず。 「もう、戻らんのか?」 「あぁ。決めたからな。」 「……惜しいな。オレは仕方ないけど、アキ、お前はな。」 ふふん、と笑う。何とも言えぬ表情に。 左耳に三つ、縦に並んだ銀の小さなピアスが、夕闇のなかに、まるでそぐわぬものの ように、きしりと浮く。 二人ともの視線は、ただ、フェンスを隔て、遠いグラウンドに。 ものごとには何にでも、きっかけ、というものがある。 最初は、何だったんだろう。 娘息子の、何人居ようとおかまいなし、晩酌の共となるTV番組のチャンネル権は いつだって親父のもの。その、モニターに映し出された、プロ野球中継か。 それとも、六歳離れた兄貴との、ただの他愛もない遊びの延長だったのか。 気がつけばいつ、どこに行くのにもグローブと軟球を持っていた。近所のガキ 連中と作った秘密基地に行く時さえも。 そんなに好きならリトルリーグに入ってみるかと、連れていってくれたのは親父。 一瞬にしてその世界の虜となった。 体躯には恵まれなかったが、それを補って余りあるセンスと、足の速さがあると、 監督からもすぐに目をかけられた。ロングヒッターには成り得なかったが、器用さに 打率は常にクリーンアップを張る連中に緊迫した。厳しい練習にいつも、最後まで 残りついてゆく根性もまた、監督を唸らせた。 片道2時間半を要して通う、私立強豪高校附属中学への進学を、リトルリーグの 監督が親父に直談判をする始末。最初は頑なであった親父もとうとう首を縦に振る。 一年からショートに準レギュラー。家に戻るのは、ただ、飯を食べ、眠る為だけ。 高校に上がれば通学時間が惜しいと、監督直々の親父への、これもまた直談判に、 寮生活が始まる。ますますに実家とは疎遠になっての、正に野球漬け、こちらでも 一年からのショート1番のレギュラー・ポジションに揺らぎはなく、特にその守備の 反射感覚はますますに鋭くに、コンマ数秒の差違を、周囲に唸らせた。 高校自体の実力から、甲子園の土は遠くにあれど、その先を見据える事も奴なら 可能と噂もそこここに、実際にプロ・スカウトの姿を時々にも見た。 盆暮れのみにしか戻らぬ実家に、元々愛着のあった訳ではない。何に不足がある のか、ただの己のはけ口にか、お袋に手を上げる親父を敬うこころなど持てる筈も なく、そうしてまた、子供の頃より、殴られても決して歯向かいもせず耐えるばかりの 兄貴に到れば、ただ弱い奴とより他には映らなかった。いつも誰にでも優しく接した 姉貴が、大学受験失敗に、くだらない事務所に就職したと聞けば、一方に好き放題 したい放題の自分を顧みて、流石に身の置き場に重苦しい思いも拭えない。 唯一の救いは五歳年の離れた、妹だった。 じっとしていればそれなりに可愛いものをと、いつもからかいの対象にあった妹は、 とうとうそのお転婆ぶりをリトルリーグに発揮して、それ故に、誇らしげに自分を見た。 「でもな、次(つぎ)兄(に)ぃ。オレは絶対、ピッチャーになるねん。」 へぇそうか、と、肘を痛めるという理由から、リトルリーグでは監督が禁止している、 スライダーやカーブの、球の握り方を教えてやれば、まだ小さな手に上手く持てる筈もなく、 それでも一生懸命に、自分を相手に投げて来る球には勢いも、何よりも爆発するような 喜びがその一球一球に込められていて、あぁこいつが男だったらと、思わないでは いられず、また一方に、いつもいつも偉そうな、言葉も仕草も、何もかもが、男まさりに すればするほどに、不思議にもどこかに愛らしさを含み持たせた。 極限近くまで肉体を酷使する毎日、骨折や脱臼、肉離れなどは日常茶飯事に、 数ヶ月の戦線離脱を余儀なくされる者も少なくない。高校二年の夏合宿、腰に激痛が 走ったのも、単なるいつもの使い痛み程度だろうと、高をくくった。 合宿が終わりを告げる頃、耐えかねる痛みに、とうとう起きあがる事さえままならず、 診断を任された医師は若く、流石に気の毒にも思ったのだろう、腰椎のヘルニアと、 病名を明かし、手術を薦めるまでは良かったものの、話が選手生命に及べば、 こちらの目をまともに見もせずに、声までもが小刻みに震えていた。 馬鹿か、お前に何の関係がある。 監督のツテに、スポーツ医学専門医の元での手術が決定する。妹には決して 話さず隠し通してくれと、お袋に懇願した。何故、と言われても良く分からない。 手術は、医師の曰くに、予想以上の成功を見たらしく、これならばと、担当医は 目を輝かせる。何を嬉しそうに御託並べて喜んでいやがる、こちとら元よりその つもりだ、馬鹿にするな。 確たる目標がなければとうに投げ出していただろう、リハビリを医者も驚く程の 短期間に切り上げて、肌寒さを感じる頃には懐かしい、グラウンドの土を踏んだ。 うおお、と、感嘆の声があちこちより地に空に響く。あれほどの期間を休み、 尚腰に爆弾を抱えての、あれがプレイか。一週間、二週間と時を経るごとに 勘を取り戻して、正ショートの地位を奪還するのなど時間の問題。 それでも隠しきれない、自分には隠しきれない。何なんだろう、この、全身が ごく薄い、しかしとてつもなく強固な膜にくるまれたような、素手に掴みきれない、 名状しがたい、感覚は。 医師連中からの厳重注意は勿論にあった。だが、無理も無茶も、した覚えはない。 得体の知れぬ膜を突き破る為に、本来の感覚を取り戻す為に、サッカー部も、 陸上競技部さえもが羨望の眼差しに見た足を取り戻す為に、ただ自分がそうしたくて、 した、それだけだ。 ぎん、と、ある日突然に蘇り来た痛み。だがこんなものは耐えられる、そうだ、 いくらでも耐えてやる。 授業中、ただ、椅子に座っているだけが辛い。つい、教師に悪態をつく。度を 超せば当然に鉄拳制裁を免れない。殴られれば反射的に返しそうになる拳を、 ぐっと握りしめ堪える。早くグラウンドに行きたいと、それだけを思う。そこでならば、 そこでのみ、自分は全てをぶつけられる、例え痛みに脂汗を、全身に滲ませて いようと。 戻りたくもない実家に戻れば、暮れ、正月だというのに姉貴の姿がない。お袋に 問いつめて事実を知る。殴られれば殴り返すまで、やんちゃばかりが集結したような 男子校に、厳重禁止の部則も何処へやら、喧嘩の場数もそれなりに踏んだ。もう ガキの頃とは違う。それでも尚、言い様のない威圧感を全身に発する親父の前に 立てば自然、身体が竦んだ。 殴り合いになった内に、身を割って兄貴が入り込む。止めるな、と上げた手元が 狂い、兄貴の鼻面を直撃し、血を噴いた。それでようやく、こちらの血気が引いた。 兄貴の部屋に、今はまだ力がない故に、たいした事も出来ずには居るが、この 家の者であれば、どんな事をしても必ず、一生をかけて力を添え続けると、また これは憶測に過ぎないが、親父は誰にも言わぬままに、今現在その力添えを、 姉貴に対して行っている節があると、いつものように静かな口調に話す兄貴に、 自分はただ、愕然とした。 世界が一瞬にして、違う色を発した。それは、身に苦く、じわりと深く入り込んで まとわりつき、そうして二度と離れる事がなかった。 故障の情報は矢のごとく、それでなくともプロ・スカウトの目など欺けるものでは ない。残る道はスポーツ推薦での大学進学。医師より処方される、最大限度の 経口鎮痛薬は全て練習時に用い、重要な試合には、容認される皮下注射を打っての 出場に、やはりそれなりの結果を残せば、流石に六大学を含む一流どころからの 声はかからずとも、様々な大学が名乗りを上げ、その中から、野球の実力は二流 の名にさえもようやくぶら下がれるかどうかの、だが一般入試の偏差値で言えば 有名私立大学の名を欲しいままにする大学を、自らに選び周囲を少なからず驚かせた。 親戚連中に鼻も高いと単純に親父は喜び、分不相応とより思えない贅沢なマンション を契約、欲しいなどと一言も発した覚えもないのに、クルマの祝いまでつく始末。 もう中学生になる、隠して隠し通せるものでもないのだろう、事実を知ってか知らずか、 妹は、ただ一言、おめでと、と素っ気なく、予想も予期も、していた筈が、やはり 堪えないと云えば嘘になる。いや、それよりも、部活とそれがことごとく重なって、 ただの一度もリトルリーグでの活躍を、この目に見る事が叶わなかった、それが 口惜しくて仕様がなかった。 「お。沢木先輩が投げるぞ。」 「おう。」 物思うかに眺めていた双眸ふたつに、一瞬にして輝きが宿る。 こんな野球的二流ギリギリの大学にも、頭抜けた選手というのは居るものだ。 沢木先輩はその中の筆頭に、自分の憧憬の的となった。上背があり、鍛え抜かれた 足腰に支えられた、長い腕をしならせて、渾身に投げられる直球は、計測器の150km/h などという数字を嘲笑うかに、打席に立てばその丁度、ホーム・ベース手前にぐん、と 恐ろしいまでの伸びを見せ、与える心的感覚は160kmにも165kmにさえもそれを感じ させた。球は重く、運良くバットに当てた処で、打球は勢いを殺される。その上に絶妙 のコントロール。投げれば相応の威力を発揮する変化球に頼らずとも、直球だけの 勝負で充分に相手を制圧する力を有した。 「いつ見てもすごいな、先輩。」 「ああ。ほんまや。」 「まだ3年なのによ、もう、プロ10球団から、誘い来てるらしいぜ。」 「そらそやろ。他の2球団がアホなんちゃうか。」 はは、と笑い合う。 沢木先輩の存在が、先輩と共にやれるという喜びが、自分を今まで引き留めた、 そう言って恐らく、何らの間違いもない。 この大学に進学を決意した段階で、もう、覚悟を決めていた筈だった、もう二度と、 あの、膜のない頃の感覚を取り戻せないのだと、それは自身の身に、もがき求めれば そうする程に、まるでグラウンドそれ自体が、物分かりの悪い弟子に滔々と教え諭して いるかのような、そんな錯覚を覚えるほどに。 そうして、今後の実生活に及ぼす影響を考えればという意味でのドクター・ストップと なれば、そんなものはとうの昔の話であった。 何故だろう、こうして沢木先輩を見ていると、あいつを思い出す。 確かに上背があって腕が長く、小学生にあるまじき速球を、これもまたあるまじき コントロールに投げもしたが、足腰が細く、また、発する気の感覚も随分に違うもの だと思うのに。 「タク、お前、建築工学科やろ、ちゃんと一般入試受けて入った。 将来は、やっぱり、建築士目指してるんか?」 「何だよ、急に。……さあな、親父は普通のサラリーマンだしな。 そりゃあ、建築士は、特に一級は、夢だけどな……まあ、どうなるか、な。」 タバコを取り出し、タクにもまた一本を。 しゅ、と点けられた火の元に、咥えられた二つのタバコの端が、一瞬に寄り添い、 その先をぱあと赤く染めたかと思えば即座、お互いにあらぬ方を向いて煙りを 吐き出す。 「あ、それで思い出した。」 「アキ、前に言ってたよな、電子工学科のナオキ。地元の昔の連れと、 出身高校が同じ、って。」 「おう、そうそう。前に、昼飯食いながら、色々、話、聞かせてもろうた。 せやけど何やな、あんなトップ校から、こんな私立に来る事もあんねんな。 あ、いや、すまん、悪口ちゃうで。話、楽しかったって、礼、云うといて。」 「いや、悪口じゃないぜ、ここの電子工学科の教授、知る人ぞ知るで、ナオキも その教授目当てらしいしな。 いや、それで、ナオキも楽しかった、って、云ってたんだけどな。 あれから、思い出した事があるらしくてよ、お前の事、探したらしいんだけどな。」 「……あぁ、すまん。前期試験の後、俺、しばらく、籠もってたから。」 部室の片隅に、タクが何気なく広げていた、工学部学生録に、その高校名を見た のは、もう随分前の事。へぇ、そんな奴も居るのだと、当時は関心も、その程度に 留まった。 地元に戻れば、ガキ時代の連れとの昔話に花が咲く。その中に、あいつが中学時代を 全て受験に擲(なげう)って、その名門中の名門校に入学したとの話題も出た。 また一方に、狭い田舎の事、その勘当も、事件としてすぐ耳に入り来た。 勘当など。想像だに及ばない。文武両道にこれでもかというレベルに秀で、 性格性質共にあれほどまでに出来た息子が、他に居るなら出してみろと、他人の こちらが口のひとつも出したくなる程だというのに。 だが一方に人の口に、母親は心身両方の、と、噂の車椅子生活に、父親は仕事の 殆どを若手に任しての介護生活、とも。 ……何があったというんだ。 この盆に帰省した、その時に、あいつが戻っていたかも知れない、駅前に出来た コンビニに、良く似た姿を見かけた奴が居ると、これも連れの口にのぼった話。 聞いて、懐かしさと興味が共に大きく舞い戻り来た。 ナオキは一年時にあいつと同クラスに過ごしたという。人当たりが良く、成績もまずまず に、仲間も少なからず、日々をそれなりに満喫している様子だったと。ただ、毎日曜日に 母親に、一人暮らしのマンションに来られるのがと、それならばと友人連中で、今日は 数学の任意講義が、と、今日は英文法の集中講座が、と、嘘八百を並べ立て、連れ出し ては、同じくマンションに一人暮らしの連中の間への匿い合戦が始まって、そんな事さえも 楽しんでいる風が、少なくとも最初は、あったと。 あぁ、と思い当たる。 あいつの母親には、何というか、度を超した処があった。あいつ自身は問題なく良い奴で、 その上に新作ゲームというゲームが揃うとなれば、当然足はその家に向く。 ゲームであろうと、何であろうと、遊びの途中に必ず何度も母親が顔を出す。 その都度に、あいつは後で、ごめんと謝る。あの閉塞感には容赦がない、ガキ時代、 他人の自分にさえ、あれにはたまらないものがあった。 野球はしていなかったのかとの問いに、ナオキはきょとんと、え?と聞き返しさえした。 これには驚きも禁じ得ない。リトルリーグで正ピッチャーだったと言えば、次に本気に 驚いたのはナオキの方だった。 二年時に、ナオキは理系、あいつは文系とクラスが分かれ、その後の事は詳しくは 知らないが、夏休みを境に、徐々に学校に顔も出さず、仲の良かった友人達との 連絡も途絶え勝ちにとなり、とうとう留年、中途退学が決定したが、その実、身を 経済ヤクザの若頭格に、引き受けられ重宝に扱われていると、もっぱらの噂だったと。 こうなればもう、笑うより他にない。およそ、暴力等という類のものと、あいつを どこをどう取り繕えば結びつくというのだろう。学校でも、遊びにも、血気盛んな連中の 集団であるリトルリーグに於いてさえ、ただの一度も問題を起こさずにいた男子は、 実際あいつ位ではなかったか。 自分が野球の為に遠い私立中学に通う事にしたと話をすれば、あいつはただ一言、 「ええな。僕は三年後になる。」 と言った。三年後、高校に入ればまた野球が出来る、そういう意味だとばかり思っていた。 「で、ナオキ、なんて?」 「ああ、それだけどな。」 一年時の夏に、友人がチケットを当てたと、プロ野球観戦に、ナオキとあいつも 含めた5人で繰り出した。何しろ時間はある、随分早めに観客席になだれ込めば、 内野指定席の事、見事なまでに美しく整備されたグラウンドが、円を描いて盛り 上がるピッチャー・マウンドが目前に、あちらこちらで選手がウォーミング・アップを 繰り返している。 うおお〜、と歓声を上げ興奮状態のなかに、あいつがひとり、急に座席にうずくまり、 前のめりに膝に肘を乗せ、手に額を顔を抱え込んでいる。どうしたのかと問えば、 ごめん、ちょっと気分が、すぐに治るから、とだけ。 その声が、あまりに弱々しく、妙な響きを放つものだから、本当に大丈夫かとの 問いにも、本当に大丈夫、ごめん、と繰り返すばかりなので、しばらく様子を見ていれば、 実際に5分ほどの間に顔を上げ、試合が始まる頃にはもうすっかりいつものあいつに 戻って、全員声を嗄らすまでに声援、試合を心底楽しんだ。 そんな事があった、と。 「ふぅん……。」 ひとつ大きく、タバコを吸い込めば、先が濃いオレンジに、きぃと光って、その次には 灰となる。 そうして吸い込んだ煙を、今はもう、澱むような茜と灰と、濃紺の混じり合う背景に、 星の白い光がちらほらと点滅する空間を見上げ、ふうう、と吐き出す。 その時、夜間練習用のライトが一斉に点灯した。 途端に眩しく、白銀に浮かび上がる、晴れ舞台のグラウンド。 この時期、どんなに手入れをしても黄味を帯びる、外野の芝もが、光を浴びて それらすべてが、マウンドに立つ沢木先輩をひときわ誇らしげに照らし出す。 フェンスの後ろの二人の姿は、蜻蛉目のようなライトを四方に受けて、 その影を薄めては何本にも、あちらこちらと、伸びては交差し、交じりあって 先がどこにあるのかも。 あぁ、そうかと、今頃になって気付いたのは何故だろう。 似ているのだ、あの表情が。 自分の思い通りのコースに、思い通りの直球が決まった時。 その一球で、試合を制した時。 奥にとどめようとしても、隠そうとしても、溢れ出てやまないありとあらゆる感情を、 どうすればそんな事が可能なのだろう、すっと抑制し、まるで照れるように、任務完了と、 安堵を得たように、ほんの少し、顔を緩ませるだけ。 わぁ、と沸き上がる歓声に、マウンドに走り寄るチーム・メイトの手荒い歓喜と称賛に、 ようやく白い歯を見せ、満面の笑みに顔を埋めて、まるで子供のように、ガキのように。 あほやな、あいつ、ほんまに、ガキやったくせに。 ふと見上げれば、爛漫と照らされるグラウンドの上に、ぼやり、薄闇に、浮かぶ月。 野球をやめるのなど些末なことだ。何百何千と言い聞かせて来た、その同じ言葉を、 もう一度、こころのなかに反芻する。 遅かれ早かれ、そうだ、プロ野球選手にだって、必ず引退の時期は訪れる。 ともかく、明日にはナオキに礼を言って……それからミヤに会おう。 もう何度目になるだろう、今度こそ、きちんと謝らないとな。 でもそれよりも、何よりも。 今はもう、なんか無性に、お前に会いとぉて。 なぁ、ショウ、なんでやろうな。 |
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