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『“連作・修羅” 外伝5・巴』UP(5th.Nov.2022)
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サイト名:moon in the dusk
管理人名:moon in the dusk(もしくは「宵月」)
Works' Short-Cut
Yoitsuki-Hiyori
9月7日
長月。
最近、「戦中派としての」父母、を、想う。
母とは少し話しもしたが、父とはほぼ全くしなかった。ただ1度、「高校で週に一度、軍事教練があるんや、ゲートル巻いてな。それがもう厭で厭で……」と、あれは一体何の折にであったのだろう、そう言った、それだけしか覚えがない。母は家族で大阪大空襲を逃れた疎開組で、呉服屋だったので、よくテレビドラマである、疎開先の農家の方々に呉服を取ってもらって野菜などを分けて頂く、という、あれをまさに地でやっていたらしい。授業中に、教師から突然、「お前の家に爆弾が落ちた、すぐ帰れ!」と告げられ、「あぁ、ひとりぼっちになってしまった、ひとりぼっちになってしまった」と泣きながら走り戻ったら、反対側の家がぺしゃんこになっていて、自分の家は無事だった事もあったと。母に、苦労したんやね、と言ったら、いいや、私ら子供はただ、親に連いて行ってりゃ良かったんやから。大変やったんは、おかあちゃん(母の母。私の祖母)やわ、と言っていた。おばあちゃん、息子二人を戦死させて、人生変わってしまったおばあちゃん……。そうして理系の学生であった父は、今日赤紙が来るか、明日来るかという地獄の日々を過ごしていたのだろう、と今想像すると、よくあの父がそんな状況に耐えられたなと思う。父の偏屈は私達子供の間でも有名だったが(笑)、私が大学にあがった頃には、「新聞も、テレビも、本も、どんな偉い人が言うてたとか、そんな事一切を信じるな。自分の目で見て自分で考えて判断しろ」と言っていた。偏屈ここに極まるな、と思っていたけれど、あの戦争を経験した人間は多かれ少なかれそういう考えを持たざるを得なかっただろう。養老孟司も阿川弘之も全くその通りだ。そしてただの一度も、「あなたたちの時代は恵まれている」などとは言わなかった父。どの時代にもそれぞれにあるのだという事も分かってもいたのだろう。SNSで情報だけが溢れかえっている世界。安心してお父ちゃん、私は何も信じない。ただ父を、母を、想う。