『宵月日和一ヶ月間の過去ログ』


 

2026年
5月11日
皐月。書きたい事があれこれと頭をよぎるのに、全然まとまって書くいとまがありません。いえ、精神的な。また書けましたら書きたいです、いえどのみち、全くたいした事などないのですけれど。


4月3日
卯月。四月が来ると私はとりあえずホッとする。三月の雛祭り、春の御彼岸に加えて我が事でお恥ずかしながらの誕生日、を終えて、これで所謂年中行事が落ち着くからだ。でもこれから季節がどんどん変わってまた色々と忙しい事に変わりは無いのだけれども。桜も、今年も無事拝む事が出来た。けれども前に此処にも書いただろうか、染井吉野の寿命に加えての虫害、美事な大木がばっさばっさと伐採され、勿論苗木を植えはしてくれているのだけれど、あの威厳さえ漂う風情はもうどこにもない。木漏れ陽などなく、春のあたたかな光が川面全体をきらきら煌めかせている。ほんとうに、世の中諸行無常なのだなと思う。この川沿いには、ほんの一箇所だけ、夜店のような出店が出る。通ってみると、あったあったいか焼き。思い出す、ここではないけれど、我が町には、駅前の通りに、9のつく日だったか、夜店が出た。そこで飼っていた犬を連れて行ってみようという事になり、母や夫と一緒に意気揚々と出かけたのだけれど、さぁもう夜店はすぐそこ、という処で、ぺたん、とへたり込んでぴくりとも動かなくなった。拒否反応である。ぼくはそっちにはいかない、という強固たる意志表示。人が多く集まっているのが厭だったのか、いや多分あの妙な明るさが動物的な感覚と強烈に相容れないものがあったのだろう。どんなになだめすかしても絶対に動かない。「ほら、いか焼きやさん、あるよ、いか焼き買うたげるから、おいしいよ!」と言っても素知らぬ顔だ。仕方ないなぁ、とUターンすればそそそそと帰ろうとする、皆で苦笑い、大笑いだった。今でもいか焼きの屋台を見るとあの時の事を思い出す、もう、十年が一昔なら、二昔、三昔も前の事なのに、まるで昨日の事のように。若い苗木の桜を見ても、そんな想いがよぎる事など何も無い。大きな枝を伐り落とされて尚、幹からひとひらふたひらと花咲かせる老木に、想いを寄せる。


3月3日
弥生。お雛祭り。桃の節句。
私もちいさなかわいいお雛様を持っています。母方の祖父が買ってくれたものだそうです。お雛様が、祖父の娘である母に良う似ているから、という理由でこれになったとか、主人公の私は何処へ行ったんだ(笑)。住んで居た家に合わせてちいさいガラスケースに入ったお雛様です。お雛様お内裏様、三人官女も五人囃子も、皆々、てんてんてまり、てんてまり、鞠のようにまぁるくて、そうしてお顔はその時代をちゃあんと反映して昭和ン十年代のそれで、日本の、美しい女性のそれで。私が結婚してからは、私の住む家の方で飾ります。あれ、何やら場所がまた違うのう、なんてお雛様もきっと思っていらっしゃるでしょう。今年も何とか飾らせて頂く事が出来ました。そうして今日は、菱餅も、ひなあられも、ちらし寿司も御供えする事も。お寿司に関しては、母の作ってくれるばら寿司は本当に美味しかった、蛤のお吸い物と共に。だからきっとお雛様も、なにやこれ、不味いのう、前はもっと美味だったろうに、等と思っていらっしゃるに違いありません。ごめんなさいお雛様、私も、もう二度と味わえないあのばら寿司の味を想います。買ってくれた祖父も、一緒に飾り付けた母もいなくなり、ひとりそんな事を想う、桃の節句です。


2月10日
如月の月……ということで、『修羅』について少しだけ。これっていつ書き始めたんだっけ、と見てみたら、1994年、と書かれていた。なんと20年以上前だ。怖ろしい(笑)。我ながら下手だなと思う処多々、自分にしては良く書けているかも、と思える処も少々、であるし、内容としても、まぁ20年経っても成長が殆どないのを思い知らされるように、今読んでも、まぁ私ってこんな感じだなと思えてしまうのが面白いような情けないような。けれどももしこれを今書いたとしたら、きっと人様には相手が誰であれ、お見せする事はなかっただろうなと思う。元々私は創作脳ではなく、完全な受動態脳なのだという事を再認識する。それでも、当時友人知人に読んでもらったり、挙げ句にこうやってネットの海に放り上げてしまったりしているのはもう本当に若気の至り……って全然当時でも若くはなかったんだけど(笑)、としか言い様がないのだけれど、でもその御陰で、本来の自分なら経験できなかった事をあれやこれや、色々体験、経験出来たのは本当にしあわせで幸運な事だったと心底思う。個人の立ち上げるホームページが流行った時に、その片隅に一緒に住まわせていただけた時期があった、その、偶然に、本当に深く深く、感謝しております。

1月5日
あらためまして
新春を寿ぎ謹んでお慶びを申し上げます。

午年ですね。午年生まれだった母は、「午はあかんよ。全然節約の観念がない。あるだけ使うてしまう。せやから全然お金貯まれへん。」と笑っていましたが、さてどんな年となりますやら。皆様にとりましてもどうか佳き御年となりますよう、お祈り申し上げます。


2025年
12月4日
師走。早い。早過ぎる。
十五夜、十三夜月と、今年の月は大変美しかった。それで夕刻にはベランダに出てお月様を探すようになった(笑)。なにしろ家々がひしめき建つなかである、雲間に隠れられる事も多い、お月様一体どこに行って仕舞われたの? なんて時の方が多いという惨状。そんななか、あっお月様みっけ!!……えええ、一体いつからこんな処に……? そして不図。これって、もしかしたらこの位置だと、私の部屋の窓から見えるンじゃ……? 私の部屋の窓は北向き。でも、少し体軀を乗り出してみたら……見えた! なんと! この、冬の時期、お月様、私の部屋の窓から拝む事が出来るんだ! ……一体、何十年知らなかったんだろう、虚けも良い処だ。そして不図また思い出した。実家が建て替えて、割り当てられた私の自室。お友達を新しい部屋に紹介した。その時、友人が、ごろんと、ベッドに寝そべって、「あ、この部屋のええ処みっけ」何かと思うと、「ほら、寝転んだら夜空の星が見える」……確かにそうだった、今と同じく北側ではあったが、窓に沿ってベッドが置かれていたので、普通にベッドに横たわると、その窓から、夜空が見えた。けれども結局私が、その夜空の見えるベッドのある部屋を使えたのはたったの3年間だけであった、結婚して家を出てしまったから。もう二度と、あの、ごろんと寝転べば満天の夜空が見える部屋に私が戻る事はない。あの3年間、楽しかったな。もうすぐ満月、という月を今の自室から眺めながら、いろんな事が懐かしい。


11月12日
霜月。
昨日11月11日は、まさに「〜の日」なんでもありデーでした。我が閑古鳥宅にも1時に拍手を送って下さる御仁の御陰で、これまた素敵な1並びが出来上がっていたりもしました。そんな、なんでもありデーななか、私が昨日初めてその存在を知ったのは、「シマリスの日」です。背中の5本縦縞が、11/11に見えるからだそうです。なるほど! SNS、これは旧Twitter ですが、も、やっていて良かったと思う時は、こんな時かな。小学二年生の時に飼い始めたシマリス。遠き、佳き日々を思い起こしていました。


10月6日
10月はひとつの国、神無月。
今日は仲秋の名月です。十月にあるのは少し珍しい気がする。少し前まで天気予報では今日は曇で、あまりお月見は期待出来ないという感じだったのだけれど、実際に今日となると晴れている。朝方まで雲も多く残っていたから、一番美しい雲たなびく十五夜、が、見られるかも知れない、と、わくわくしながら、芒を飾りお月見団子も買って来て準備万端である(笑)。そういえば友人が、最近空を見上げて月を見ることが多くなった、と言っていて、気持ちがものすごく分かる! と、思った。思いはしたのだけれど、実際の私はというと、残念ながらそれが全く出来ていない。お月さんカレンダーもあるというのに。何故ならまず、自室の窓は北向で見えない。唯一見えるベランダに出るには人の部屋を通らなければならない、というこの何とも風情のない家の故なのであります。玄関から外に出るという方法もあるけれど、それもまたいちいち面倒だし。これでも、裏の家が平屋だった昔は、東にそびえる山の稜線から月が昇り来る様が手に取るように眺められるという、最高に美しく贅沢な刻を持つことが出来たのだけれど。まぁ、色々と愚痴を言っても始まらない、そんな様々なこちらの都合を他所に、月はただのぼり、沈みゆく。だからこそ、美しいんだなぁ。これからますます、月の季節になってゆく。せめて気持ちだけでも、寄り添いたい、と、思う。


9月7日
長月。
最近、「戦中派としての」父母、を、想う。
母とは少し話しもしたが、父とはほぼ全くしなかった。ただ1度、「高校で週に一度、軍事教練があるんや、ゲートル巻いてな。それがもう厭で厭で……」と、あれは一体何の折にであったのだろう、そう言った、それだけしか覚えがない。母は家族で大阪大空襲を逃れた疎開組で、呉服屋だったので、よくテレビドラマである、疎開先の農家の方々に呉服を取ってもらって野菜などを分けて頂く、という、あれをまさに地でやっていたらしい。授業中に、教師から突然、「お前の家に爆弾が落ちた、すぐ帰れ!」と告げられ、「あぁ、ひとりぼっちになってしまった、ひとりぼっちになってしまった」と泣きながら走り戻ったら、反対側の家がぺしゃんこになっていて、自分の家は無事だった事もあったと。母に、苦労したんやね、と言ったら、いいや、私ら子供はただ、親に連いて行ってりゃ良かったんやから。大変やったんは、おかあちゃん(母の母。私の祖母)やわ、と言っていた。おばあちゃん、息子二人を戦死させて、人生変わってしまったおばあちゃん……。そうして理系の学生であった父は、今日赤紙が来るか、明日来るかという地獄の日々を過ごしていたのだろう、と今想像すると、よくあの父がそんな状況に耐えられたなと思う。父の偏屈は私達子供の間でも有名だったが(笑)、私が大学にあがった頃には、「新聞も、テレビも、本も、どんな偉い人が言うてたとか、そんな事一切を信じるな。自分の目で見て自分で考えて判断しろ」と言っていた。偏屈ここに極まるな、と思っていたけれど、あの戦争を経験した人間は多かれ少なかれそういう考えを持たざるを得なかっただろう。養老孟司も阿川弘之も全くその通りだ。そしてただの一度も、「あなたたちの時代は恵まれている」などとは言わなかった父。どの時代にもそれぞれにあるのだという事も分かってもいたのだろう。SNSで情報だけが溢れかえっている世界。安心してお父ちゃん、私は何も信じない。ただ父を、母を、想う。


8月10日
葉月。葉も枯れ萎れてしまいそうな酷暑。ぼんやりTVをみていたら、仕事で倫敦に行った芸人さんが、倫敦はいつも涼しいらしいけれど、あちらも異常気象で、東京並みに暑かった、と仰っていて、え!? と驚き調べてみたら本当にそうであるらしく、33度などあるらしい。普段25度程度で、夏の暑さに慣れている日本人ならどちらかというと少し「肌寒い」くらいの気温、半袖だと寒いかなというくらいの気温だから、当然どこにもエアコンなんてない。私の知っている限り冷房があったのは、ちょっと用事で立ち寄ったキュー・ガーデンの近くにある図書館だけだったが、そこはきっと資料保存という意味合いでのそれだったのだと思う。当然電車も地下鉄にもない、ので、今地下鉄は窓を開け放していても蒸し風呂状態だという。また熱波は英国だけでなく欧州全体だとも。なんだかとんでもない事になってしまったな。ほんの、2〜30年前まで、それまで数百年、いや千年単位で、当たり前だった気温、気候が、どんどん、当たり前でなくなり、当たり前でない事がどんどん当たり前になってきている。日本は今、少なくとも人類だけは、エアコンという文明の利器でなんとか生き延びているけれど、作物や、海水温度の影響から海の動物にも、どんどんと影響が出てくるだろう。これから、どんどん、当たり前でない事が起こってくる、そんな時代に生きてしまっている事を、なんだか空恐ろしく思う。


7月4日
文月です。蝉の声も聴かぬ間に梅雨が明け、酷暑の文月のはじまりです。
よく、「やってしまった後悔、やらなかった後悔。やらなかった後悔の方が絶対大きい。やれるのならばやった方が絶対に良い。」と言いますよね。でも本当にそうでしょうか。私はこのことを考える時、いつもひとつの例が頭に浮かびます。私の青春時代(笑)、夢はとにかくイギリスに行く事でした。語学留学の名の下に彼の国の土を踏みそこで生活している女性の友人が二人もいたので、決して全くの夢物語という訳ではなかったのです。でも私にはお金も健康も、そして何より勇気がありませんでした。でももし、私にいくばくかのお金とともかく健康と、そして無鉄砲ともいえる行動力があったとしたらどうだったでしょう。両親の止めるのも聞かず飛び出して行ったかも知れません。勿論、得るものは山のようにあったでしょう。でもそこで、もし、私に声を掛けてくる人、つまり男性が居たら。その男性がたちの悪い種類の人物であったとしたら。日本でなら、色んな逃げる方法も思いつく、それに第一そういった男性の居る処には近付かないという知恵もある、でも言葉すら中途半端にほんの少しだけしか分からないような国での事です。そうした時、私の負う枷は、「してしまった後悔」で済むものでしょうか。身体もこころも、それこそ一生の傷です。私はいつもこの事を思います。しなかった後悔は勿論ある、でも、してしまったことで受ける後悔は、それなどとは到底比べものにならない程大きなものであるかも知れない、という事を。だから私は絶対に、しないと後悔するよ、とは人にも言いませんし、自分にも言いません。


6月9日
あっという間に水無月です。
このHPに使用しているメールフォームが、いつの間にやら使用不可能になってしまっている事に、つい最近気付きました。もうあっちもこっちも瑕疵だらけでお見苦しい事甚だしいですが、とりあえず「作品が普通に読める」「管理人に連絡がつく(このページの「拍手」か、若しくは「mail」画面に記してある管理人直接へのメールアドレスからメールを送って頂く)」この二点、何とか死守して管理していきたいと思います。つたなすぎるHPですが今後もどうぞ宜しくお願い致します。
さて最近何らかの記念の年とかあるのか、『赤毛のアン』が取り上げられる事が多いように思います。今もそれを原作としたアニメ『アン・シャーリー』がNHKで放送されています。『赤毛のアン』は私の少女時代にも、少女が読む名作として冠たる地位を誇っていました。で、私はというと、「夢見る孤児だった女の子の物語」というただそれだけで、「あ、要らんわ」と、読まずに来たという、子供の頃からのヘンコっぷり(笑)。そんな私が『赤毛のアン』について、ほんのちょっぴりだけ興味を持った、のは、大学に入って初めて出来たお友達の、彼女は遠くから出て来て大学の近くに下宿していたのですが、その下宿先に遊びに行かせてもらった時に、その本棚に、これが並んでいた事からでした。彼女は宝塚歌劇も大好きで、私とはそういう意味では趣味は全然違ったのです。それから数十年の時が流れ、つい最近、昔のアニメの再放送やら、海外ドラマやらで、アンを知る事が出来ました。勿論、小説を読むのとは恐らく随分違う面もあるとは思いますが、まぁ大方の流れなどは知る事が出来たかなという感じではありますが。やはり今でも、私という人間には、そう、大層興味を引かれるとか、心に残るとか、そういった面は殆どないのですけれど、ただ、あの、大学の時の友人が、この作品を大好きだった、という、それが、とてもとても腑に落ちて、ただそれだけでも私にとっては、とても嬉しい事であったのです。彼女は、苦労して小学校の教員免許を取り、そして半生を小学校教諭として立派に勤め上げました。これもまた、『アン』が、彼女の根底にありもしたのかな、など想像したりします。ひとつの作品というのは人それぞれに色んな位置にあるものです。私達の学科は英語専門だったので、彼女はもしかしたらこの作品を原文で読めるようになりたかったのかな、等と、六月生まれの彼女に想いを馳せます。私には『赤毛のアン』は、そういう位置にある、作品です。






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