『宵月日和一ヶ月間の過去ログ』


 

2025年
4月1日
卯月。刈り取られた桜がそれでも懸命に花を咲かせている。

I miss you. 若しくは Miss you. という言い方は今では極一般的に、そう I love you. と同程度とまではいかないかも知れないがまぁそれ位に日本でも良く知られたものになっているけれど、私は中学高校は勿論、大学や専門学校でさえ、この言い回しに触れた事はなく、だから意味も知らなかった。たまたま好きな音楽の歌詞に出て来て知った、のが、二十歳も越えてからだったと思う。たった二言三言で、「あなたがいまここにいない、わたしのそばにいなくなってしまった、それがわたしにはとてもさびしくせつなくやるせないのです」という気持ちを表すなんてすごいなぁ、と思っていた。
そうしてその程度の英語力で不敵にも40日間英国生活の真似事を、やらかし始めた。夜はひたすら退屈なので、日本に居る人達に良く手紙を書いた。メールなんてまだなかったのですよ。実家宛にも良く書いた。40日もあるので、届くのに一週間、向こうが書いて投函したものが届くのに一週間としても、二往復は出来る勘定、けれどもこちらはいちいち返事の届くのを待たないでまるで日記のように、暇つぶしに書いて送るものだから、父母もいい加減苦笑していたのではあるまいか。その全部に、返事を書いては送って来てくれたのは、ただ一通を除いて全部母だった。父はそんな事をする人間ではなかったから。でもたった一通、父が手紙をくれた、そう、返事というよりは父からの手紙といった内容だった。特に何、という事は書かれていなかった、自分は旅を好まない人間だけれど、それなりに良さもあるのでしょうとか何とか書かれていたっけな。そして、○も元気にしています、と、これは当時飼っていた犬の名前だ、おや、とちょっと驚いた、何故なら父は特別その子を私や母のようには可愛がってはいなかったようにも思っていたから。私がそれこそ猫っ可愛がりに可愛がっていたから、そのこちらの気持ちを汲んでくれているのだろうな等思い続きに目を遣れば。元気にしてはいますが、その様子を見ると、どこか、I miss you. と言っているように感じるのは、それは私がそう思っているからなのでしょうか、と、あった。私は驚いた、いや、父の英語力は私など遙かに凌駕していたからそこに驚いた訳ではない、「あの」父が、こんな事を言うなんて、という事に、だ。帰国して母に、母は英語を全く解さないから、そこも説明しながら話すと、そうやろあの人はそういう言い方をするねん、ほんまに素直やないねんから、と笑っていた。そういう言い方しか出来ない人がそういう言い方で手紙に書いて送ってくれた、その事に、その後どれだけ、どれだけ私が救われたか父は知っているだろうか。世の中に生まれ、たったひとりの人間で、に、全く構わない、I miss you. と、言ってくれる人に出逢えたならば、それはそれでもう生まれて来て良かったのだという証左のようなものだ。あの手紙、まとめてどこかに置いてある筈だけれど、別にもう読み返さなくても構わない。I miss you. この一言ほど美しく、深い言葉も、そうはない、と、私は思う。


3月4日
桃薫る弥生。
人間、馬齢を重ねると色々想いや考えにも少々変化も顕れてくるとみえて、最近、仏教というのは如何にも外来のものであるのだなとつくづく思ったりする。つい最近、坂口尚の『あっかんべェ一休』を再読して、以前読んだのは15年くらい前だったかと思うが、その時には殆ど感じなかった、その「外来」の感覚を新たにしたりしていた。重なるように星野之宣の『宗像教授世界篇』を読んで、あぁ、仏教も「また」、政治に利用されての、伝来であったのだと、そこに全く今の今まで思いが及ばなかった自分を情けなく思った。仏教推進派である蘇我氏と神道派の物部氏の闘いでは物部守屋が片眼を射貫かれ蘇我氏が勝利を収める、その蘇我氏の軍勢に「あの」厩戸皇子も居た事もあり、歴史的にまるで物部氏は悪者のように描かれているが、そうしたものでは決してなかったという事も。聖徳太子は元々蘇我氏に近しい人間でもあったのだけれど、「和をもって貴しとする」のには仏教の教えはそれは分かり易く有り難いものであっただろう。日本の神様達はそれぞれとてもとても個性的で、和をもってどうとかなんて全然脳裏にもないような方々ばかりだ(笑)。お寺はその後威信を示すようにどんどんと豪華絢爛なものになってゆき、お坊さんの袈裟はキンキラキンキンになってゆく。およそ日本の美意識とはかけ離れていると、私は今になって思う。けれども外来のものだから悪い、と言っているのでは決してない。不勉強極まる私だけれど、御釈迦様のお唱えになった「色即是空空即是色」はそれだけで真理だと今でも思っているし、謂わば他に類を見ない哲学者のような御方であったのではないかと、尊敬とか崇拝とか、そういう言葉では言い表せない感情を持って捉えている。また一方、荒れ果てた世の中で這うように苦しむ世上の人々を救う為にと、日本独自の解釈として生まれた宗派の中にも優れた考えが沢山あるようにも思う。だから仏教が伝来しなければ良かったとか、元来外国のものであるのだから云々という事を言いたい訳では決してない。ただ、太古の昔から口伝えであったか、八百万の神々、また、天つ神国つ神、そういった神々の、ここはおわす地であるのだということ、神社の、深閑として森厳なる風情、そういったものに、改めて、こころ奪われる思いがする、自分の本来居る場所に戻って来たような思いが、する、ただ、それだけの事であります。こんな事を書いていても中宮寺の半跏思惟像が己の中で世界最高の像である事に何の揺らぎもなかったりする訳ですし、仏様にも神様にと同様、手を合わせもし祈り願いもする訳です(笑)。


2月5日
とうとうまた来てしまった、如月の月。
こんな私だって、あんな作品だって、きちんと最後まで書き上げたかったよ。情けない。情けない。ちゃんとラストシーンあるのに。そこまで持って行けなかったなんて。……と、慚愧と自己嫌悪に苛まれる月な訳です(笑)。
とりあえずここで。また書きます。


1月4日
新年明けましておめでとうございます。令和7年、西暦2025年の幕開けです。2025年……それで想い出しましたが、このサイト、開設は2005年でした。あれからなんと20年もの歳月が流れたんですね。20年の間に、良くして下さった方々も、ひとっりも居なくなってしまいましたははは(笑)。まぁ私個人の不徳の致すところでしかありません。別に今更閉める理由もないので、これからもずっと開店休業のまま運営して参ります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

2024年
12月1日
師走。嗚呼、何て一年だったんだろう。
ともかく日に日に体調がヨロシクないので、ホントにいつ、今できている事が出来なくなっても何ら不思議じゃないから、しなくてはならない事は思いついて、身体が動くならすぐにする、という事が習慣になりつつある。そんな私、今日、師走のお一日に、年賀状の宛名書きしました(笑)。勿論最速記録ですよ。今年ちゃんと年の瀬を乗り切り、新年を迎えられるか、本気で自信ないよー。しかも、来年の、なんか、縁起でも無い事思いついちゃったし。まぁ、ケ・セラ・セラだ。なるようにしかならんし、ならんものはならん。
ふとした事で気になって、『雫の犬』の改稿版を読み返す事になったんだけれど、うん、まぁ、本当に自己満足の極みでしかないなぁこれ、と、感心も呆れもしたんだけど、でもそれから勢いづいて『潮のおと』も読んで、なんというか出来は悪いんだけど、こういう内容はやっぱり面白いなあって思う、何しろ自分が興味のある事、面白いと思う事を書いているんだから、そんな自分が読み返すのだから、正直面白いと思わない訳がない(笑)。今、こんな感じの事をテーマにした漫画とかほんっっっっっっっっとうにないよなぁ、って思う。昔は三原順、萩尾望都、山岸凉子なんかが良く描いてくれていたものだった。今の子ってどこでこういう感情消化させてるんだろうかな。サイトを公開、は、今もしているんだけど、一番元気よくサイト運営が出来ていた頃、それでも感想なんて、ほんと、ほとんど相互リンク頂いた方々から頂けるだけという状況だったけれど、或る日、どなたか全く存じ上げない、というか、お名前も確か書かれていなかったと思うけれど、なんとなく男性かなと思われる方から『潮のおと』について、「ここのHPにある作品はどれも面白いと思うけれど、今作品は特に良いと思ったので、一言残しておきます」という、本当に一言の感想を頂けたのは、全く書き手冥利に尽きるというか、本当に本当に嬉しかったなぁ。公開しているのだから、どの作品も、色んな方々に、知らないうちに読まれていたりなんかもしたのかも知れないけれど、そんな時、あぁつまんねぇ、時間損した、と思われる事も多かったかも知れないけれど、なんかちょっと良かったな、なんて、もし、思ってもらえていたら、こころのどこかに、触れるものがあったとしたら、どんなにどんなにしあわせだろうなぁ、と思う。楽しかったなぁ、あの頃。もう、今は昔だ、思い出だ、何もかも。でも、サイト公開して良かったと思ってる、本当にそう、思っている。


11月8日
霜月。
自公過半数割れで夫婦別姓に一歩前進しただろうか。結婚する時、何が厭と言って、まぁ厭な事は色々あったけれども(笑)、とにかく姓が変わるのが耐え難い程厭だった。自分のこれまで歩んで来た人生を丸々抹消させられた気分になった。これも受け止め方で人それぞれだという事はよ〜く分かる。第二の人生を歩み始める事を嬉しく思う人が、もしかしたら大半かも知れないとも思う。私の旧姓は、結構珍しい苗字だった。それだけにかどれだけにか知らないが、名前は極々、というかもう、猛烈に平凡な名前である。もう父が鬼籍に入ってから、母に、どうやって命名したのかを尋ねた事があったが、「とにかくあの凝り性の父がもう、あれやこれやと調べに調べ考えに考え抜いた挙げ句につけた名前」であったそうだ。それだけに今簡単にネットで出来る姓名判断など見てもだいたい、まぁ幸運と出る。で、結婚した相手の苗字は、それこそ日本では「石を投げれば当たる」位多い、何の変哲もなければひねりもない単純極まりないもので、ここに姓名ともに痛切に平凡な、しかもまた、漢字がもう、一体どこをどうやったらこんなにシンプルな漢字ばっかり持ってこられるのかという漢字の羅列で、もうここまで来ると笑うしかない。どれくらい平凡かというと、クルマの免許取得の際、なんか呼び出し受けたなぁと思ってのこのこと顔を出したら、なんと、同姓同名、誕生日一緒で既にクルマの運転免許持ってる人間が日本にあと三人いる事が判明した位の、あれである。それである。で。姓名判断、これがもう激烈に最悪になる訳ですよ皆さん。ここまでひどい結果は、まぁ出ないという代物。それでなくとも、苗字が変わるというその事実だけで厭なのに、これでもかこれでもかと降り注ぐようにやってくる「この姓名になるの勘弁して下さい感」。嗚呼。考えれば、もう、この、ひどい姓名になってからの方が私の人生、長くなってしまった。それでも今尚、厭だ。厭なものは厭だ。もし、夫婦別姓が認められたとしても、もう今更変更する面倒の方が大きすぎて、それもないかも知れないが、でも私は、生まれた時の姓名で死んでゆきたい。誰それと結婚したから、結婚した時点で大切な大切な、親と一緒の苗字を捨て去らなければならない、なんて制度の方が絶対おかしいんだと、今でも思っている、もし、姓名判断がここまで悪くなくても(笑)、この感覚には全く何の変化もないと信じる。生まれた時、幼稚園、小学校、高校、大学を過ごした、父が一生懸命に考えて付けてくれた姓名に、戻って死にたい。


10月4日
神無月。たそがれの国。
入るやいなや、叔父の訃報が届いた。約半年前に旅立った、叔母の弟にあたる、父の、弟にあたる人。要するに父方の人。なのに、母の葬儀には、遠方関東から、駆けつけて下さった。母は生前、この叔父の事を、「○○ちゃんは優しいよ。○○ちゃんの怒ってる処、見た事ない」と、とても好いて、そして頼りにもしていたから、葬儀に参列して下さった事をどんなにか喜んでいただろうと思う。父母の葬儀に参列して下さった方々が、どんどんと旅立たれ、あちらは賑やかかも知れないが、こちらはただもう寂しい限り。歳を取る、という事はこういう事なのだな、涙もろくなるなどと云うが、これでは涙もろくならない方がおかしい、と、腹の底より痛感する。今年は猛暑の所為で、彼岸花の開花がとても遅れていた。お彼岸に咲くから彼岸花、なのに、今頃漸く咲き始め、川沿いを赤く染めている。母の葬儀に来て下さった事への御礼、その後もこちらから季節の葉書など送らせて頂けば必ず電話で近況をお知らせ下さる等、とても親しくして頂いていた事への感謝を、こころに想いながら、もう、季節の絵葉書を用意する必要も楽しみも、なくなってしまったなどと、詰まらぬ事を思いながら、紅い花を見遣る。


9月7日
長月。
今思い返せばあの子は神の子であったに違いない。ありついたけれどどのみち長くは続けようもない仕事、出勤に朝ご飯をかきこんでいたら、母が、ものすごく可愛い仔犬を抱いてダイニングに入って来た。もう、とんでもなく、ものすごく、破壊的に可愛い仔犬だった。そうして恐らくはまだ生後三ヶ月にもなっていないであろう、まだ赤ちゃんの粋を出ない仔犬の癖してもう既にかなりでかかった。成長して大きくなるか否かの判断材料となる前脚の太さは、まぁ、はっきり言って、これまたぶっとかった(笑)「どないしたん!」「なぁ。なぁ、飼おうか、この子。」母の顔は慈しみで微笑みまくっている。「飼おう! 飼おう!」……で、即決。とにかくすぐ出勤しなければならないので詳細は帰宅してから、という事で。で、帰宅して話を聞いてみると。母、いつものように早朝、外の掃除をしていたそうだ。すると、3〜4筋向こうに飼われている、シェトランド・シープ・ドッグ、通称シェルティを散歩する、その家の人が来た。母とは知り合いだ。「奥さん、この子、要らん?」なんの事かとみれば、そのシェルティの後を、そのもっふもふのほっこほこが、てこてこと付いて歩いている。「分からへんのよ、どこからかついて来たんよ。うちはもうこの子おるから飼われへんし。」見ればあんまりにも可愛い。壊滅的に可愛い。ので、母も一発コロリと参った、という訳だったらしい。そういう事なので私はしばらく、「その子うちの子です、返して下さい」と誰かが言って来るのではないかと不安でたまらなかった。この子は予想通りみるみる大きくなり、獣医さんが漏らした、「この子シェパードの血入ってんなぁ……」との一言も、「いやいやどうみても普通のその辺に居る日本犬の雑種」と心中笑っていたが、大きくなるにつれてどんどんシェパードっぽくなって、さすが獣医さん侮るべからずと感心したり。感心しているのはいいが、あんまり大きくなりすぎると、散歩に連れて出てやれなくなるので、「なぁ、それ以上大きなったら、散歩困るようになるよ。」と言ったら、その子は、なんだか神妙な顔付きになった。これは犬を飼った人なら分かると思うが、犬は本当に、神妙な顔付きというものを時々する。心配している顔、ごめん僕が悪かった顔なども本当にある。話戻って、それから、この子の成長は本当に嘘のようにぴたりと止まり、私でも母でも、なんとかぎりぎり散歩に連れて出てやれる大きさにとどまってくれた。それからの事を、今思うのだ。それから私は、生まれて初めて、やっと、やりがいのある仕事に就けた。毎日の出勤が楽しかった。それから私は、生涯の夢であった、渡英を果たした。40日間、ロンドンで生活する、という、普通考えたらどうやっても叶えられそうにない夢を叶えた。それから私は、ご近所の、あぁ、こんな、ちいちゃくて可愛い家に住めたらどんなにいいだろうなぁ、とふと、降って湧いたように思ってしまった、正にその家に住む事になった(もっと大きな家にお引っ越しされる事になり売りに出たのだ)。それから私はクルマの運転免許を取得し、クルマ自体も手に入れて運転を覚えた。それから私は、憧れであったブランドの服を買えるようになった。その子が虹の橋をわたるまで、いわゆる「お金に苦労する」事がなかった。……、そう、こんな事々は何もかも、ただの、「偶然」である。どんな風にだって解釈出来る事でしかない。それでも今となって私は思う。あの時、母の腕に抱かれて、おとなしくしていたもっふもふの子は、どこから来たのかわからない、けれどもまさに天使であった、そうであったに違いないと。


8月7日
葉月はお盆の月。
我が家では、私が生まれる前から、「日曜日はお好み焼き」と決まっていた。特注で、鉄板焼きが出来るようなテーブルをしつらえる始末(笑)。私が結婚してからも、夫もお好み焼き大好きという事で仲間に加わり、それはずっと続いていた。そんな中で、飼っていた犬が病気になった。外飼いの犬だったが、居間に入れる事になった。食卓テーブルは目と鼻の先にある。あれ、今日はみんなで何するの? って顔を、犬はしている。家族で犬を飼った経験のある人ならすぐにご理解頂けると思うけれど、犬というのは家族が集まり楽しそうにしているのを本当に嬉しく思い、自分もその輪の中に入ろうとする。犬は身体が大きくて、おすわりをするとテーブルに顎が乗る。「分かった分かった、○○のも焼いてあげよう、なぁ」と母が言う、みんなが笑う、犬が嬉しそうに尾を振る。一般のお好み焼きの三分の一位の大きさの特注犬用お好みに、また皆が笑う。焼けたものを母が皿に取ると、犬はもうもらえるものと思うのに、何故だかなかなかくれない、お皿のまま。じれて犬はつい、ほん、ほん、と遠慮気に鳴く。「まだこんな熱いの食べられるかいな。もうちょっと待ち」と母。でも犬にそんな理屈は通じない。ほん、とまた鳴く。仕方ないなぁ、と、母がちょっと切ってやると、犬は当然たちまち熱くて吐き出してしまう。「ほらみてみぃな。」皆がどっと笑う。犬はとても照れくさそうにしている。犬はほんとうに、良く照れくさそうな表情をする。それからしばらくして、冷めたお好み焼きを犬は本当に美味しそうに、あっという間にたいらげ満足し、私達のお好み焼きの夕飯も和やかに幕となった。こうして思い出していると、母にも、母には母の家の、父にも、父には父の家の、家族の食卓の団欒、というのがあったのだろう、と思い至る。それぞれに、沢山の想い出があったのだろう。そんな時々を、父母は、思い返す事はあったのだろうか。時ばかりが音も立てずに流れてゆき、その中に私達は、その時が後になって想い出となる事など想像もせずにただその時々を生きている、そんな当たり前のことが、ふと、とても不思議なことのように思えてしまう。






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