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2026年
8月9日
葉月。少し、秋の立つ日を過ぎました。
『秋の立つ日はもう直ぐ其処に、指折り数える間近に在った。それでも熱
く湿る鉛のような大気には相も変わらず容赦がない。蝉の時雨は喧(かま
びすか)しく遠近の感覚をさえ狂わせた。庭と部屋とを隔てる硝子戸を彼
は開け放ち其処に凭れて半身を外気に晒して居た。それでも頭が一向に機
能する気配を見せないので彼は書物を諦め閉じ置いた。その時気が付いた、
腕に次から次へと浮かぶ汗の水玉をまるで仕掛けの有るものの様に眺めて
居た。』
これは拙作『修羅・外伝4・半神・This Mortal Coil』の文頭、出だしです。拙作のなかでは一番良く書けた文頭なのではないかなぁと自分では思っています。こういうの書いている時は本当に楽しかった、わくわくしながら書いていたなぁ。今読み返すと本当に「読み手ほってらかし度」が高すぎて、苦笑と平伏以外ないのだけれど、結局の処、全ては自己満足であったのだなぁと思うばかりです。そんな自己満足品を、それでも貴重な時間を割いて読んで下さり、興味を抱いて下さる方もいらしたのですから、本当に果報者としか言い様がありません。ありがとうございます。幾重にも感謝致します。
7月18日
文月。とても遅くなってしまいました。
「モーツァルトは二楽章」……これ、Xのクラオタ(クラシック・おたく)の間で言われているのを時折拝見しておりました。要するに「モーツァルトは、二楽章こそが素晴らしい」「真のモーツァルトの良さは二楽章にこそ宿る」といった意味なんでしょう。それを、「あぁ、分かるわぁ」と思ってしまえる、年齢を重ねた自分を自分で可笑しく思います。子供の頃からモーツァルトこそ至高、と断じて止まぬ父親の元に育ったものの、中学でブリティッシュ・ロックに目覚め(笑)、まぁそれでもピアノも習っていたし、クラシックを嫌いになったりする事は一切なくむしろ好きではありましたが、そんなロック仲間といつも言うのは「でもモーツァルトってそんなにいい?」でした。なんと少ない仲間の、他二人の父親までもが「クラオタ」で、しかも「モーツァルト・フリーク」だったのです。モーツァルトの曲は総じてコロコロと軽やかに愛らしい、けれど、なぁ、と。なんでだろう。モーツァルトのどこがそんなに良いんだろう。ずっと、謎でした。その謎が解けたのは、これは以前にも書きましたが本当に偶然のなせる業です。或る日突然それは下りてきた、ただそれだけでした。そこにモーツァルトのかなしみがありました。かなしみとよろこびがらせんのように交差していました。他の誰にもない、それは特別なものでした。そうして、そう、そう、言われれば確かにそうなのです。一番目立たなくて、一番閑かで、一番ひっそりと佇んでいる、二楽章。そこに、天衣無縫の、ほんとうにそれは天からゆらゆらと降りて来たのとまごう程の美しさのなかにかなしみを湛える音が、あります。例えばクラリネット協奏曲。例えばピアノ協奏曲23番。ああ、前者は父が本当に好きだったのでしょう、ほんとうによく家でこの曲は鳴っていた。全曲今でも諳んじられます。父は今、天に居てこの曲を聴いているでしょうか。クラリネットが欲しかったんや、と言っていた父。今、存分に奏でているでしょうか。
6月4日
水無月。
今日は少し趣向を変えて、今日、お誕生日の、ある人について書こうかと思っています。彼女とは、大学入学時に知り合いました。正直私とは何もかもが違うタイプ。どうして一番にお友達になれたのか不思議です。でも、随分あとになって彼女が「白状」してくれました。大学入学時、一泊二日のオリエンテーリングがあったのですが、その当日、私の乗った電車が、何の理由でだか数十分の遅れが出て、まぁこの電車に乗っている人だって幾人か居るだろうから私ひとりが遅刻する訳じゃないだろう、なんて高をくくっていたら、なんとも遅刻したのは私一人だったという(笑)。それで大いに悪目立ちして、説明会の始まっている最中に、新一回生全員の眼を集めに集めた私だったのです。で、彼女、ここではMとします、Mは、わぁ、この人とお友達になろう、その時そう思ったのだそうです。不思議です。それを他の友人に言うと、「ええ、なんで、あの人髪染めてるやん、不良やん」って言われたと(笑)。実はその時私はパーマをあてた長髪で、(高校は地元の公立校でパーマに関して禁止では全然ありませんでした。染めるのは禁止だったかも知れないけれど普通に染めている人何人も居ました・笑)元々色素があまり濃くないうえに髪が傷んで毛先の方は色がすっかり抜けてまるで染めたような色合いになっていたのでした。入ってみて初めて知ったのですが、普通の単科大学だというのに、私立高校から来たお金持ちのお嬢さんがとてもとても多いのには驚くやら閉口するやらだったなか、Mも私と同じ公立高校出身の庶民(笑)で、そういう処は気が合いました。ただ、片道2時間かけてひーふー通学していた私とは違い、四国出身のMは大学から徒歩15分くらいの処に下宿していて、ゆっくり寝られていいなぁ、なんて言っていたりしました。彼女のこの下宿先で、私は、洋服を着替えて、ロックコンサートに行ったりしていました、一旦帰宅している時間がなかったので。大学二年終了時に、私は、必須科目の出席日数が足らず、留年が決定してしまい、留年する位なら辞めて専門学校に行く事を即決してしまいました。後から考えたら、いつも一緒にいて、お昼ご飯も一緒に食べていたMを放りだして随分ひどい事をしたものです。でもMは全く平然としていました。Mは当然のようにきちんと大学を卒業しました。卒業した後でだったか、神戸北野に一緒に遊びに行かない? と、彼女からお誘いを受けて楽しく一日過ごしたりしました。当時はまだ船で、四国に帰る彼女を見送ったら、それからまたずっと後に、「あの時ずっと見送ってくれて嬉しかった」と言われました。私にしたらごくごく普通の事だったので、そんな事でそんなに喜んでくれるなんてと不思議に思いました。それから彼女は小学校の教員免許を自力で取得しました。その際に必要な事の為に大学のある処に行かなければならないから、泊めてくれない? と、或る日突然電話がかかってきました。それは全然構わないけれど、片道2時間かかるよ? うん、全然それも構わない、と。実家は建て直した直後で、新しいお家に初めて泊まりに来てくれる友人となりました。とても嬉しかった。それからは、ほとんど、連絡もあまり取らず、メールアドレスもあまり良く分からず、でも時々、お家で採れる野菜など送って来てくれたりしました。年賀状だけはちゃんと毎年送り、もらい続けていました。そうして彼女は小学校教諭を美事に勤め上げました。不足のない退職金、年金を彼女は自力でつかみとったのです。そうして先年の年賀状に、私は驚くべき一言を見ました。「○△って、やっぱりいいですね」○△は、私が当時傾倒していたロック音楽の中でも、一番好きだったアルバムの名前です。え、えええええ??? 確かに、私は、そのバンドが好きなんだ、とは言っていたと思います、でも、あまりにも一般的なものとはかけ離れているから、例えばカセットを貸すとかそんな事もしませんでした。一番好きなのは○△だとも多分言った覚えはない、何故なら当時○△と×□と、どちらが一番か決めかねる、なんてバカな青春の悩みを抱えていたりしたから。そうして、その年賀状を見る少し前、同じく高校時代からそういった音楽に傾倒していた友人と、「結局やっぱり○△やね、これはもう本当にすごいね」と意気投合していた処だったのです。不思議なこと、って本当にあります。彼女は今も、私とは全然趣味の違う服装をして、本や漫画を読んで、お菓子作りに熱中したりしているのでしょう。そんな中で○△を聴いてくれている。彼女のなかに○△が生きている。それが、どんなに私を喜ばせるか、私が大学に行った事は決して無意味ではなかったと思わせてくれるか、Mに伝える事は決してないけれども、ただただ、Mという人と知り合えた事、その不思議を思うばかりなのです。お誕生日おめでとう、M。今日が良い日でありますように。これからの人生も、佳き日々でありますように。
5月11日
皐月。書きたい事があれこれと頭をよぎるのに、全然まとまって書くいとまがありません。いえ、精神的な。また書けましたら書きたいです、いえどのみち、全くたいした事などないのですけれど。
4月3日
卯月。四月が来ると私はとりあえずホッとする。三月の雛祭り、春の御彼岸に加えて我が事でお恥ずかしながらの誕生日、を終えて、これで所謂年中行事が落ち着くからだ。でもこれから季節がどんどん変わってまた色々と忙しい事に変わりは無いのだけれども。桜も、今年も無事拝む事が出来た。けれども前に此処にも書いただろうか、染井吉野の寿命に加えての虫害、美事な大木がばっさばっさと伐採され、勿論苗木を植えはしてくれているのだけれど、あの威厳さえ漂う風情はもうどこにもない。木漏れ陽などなく、春のあたたかな光が川面全体をきらきら煌めかせている。ほんとうに、世の中諸行無常なのだなと思う。この川沿いには、ほんの一箇所だけ、夜店のような出店が出る。通ってみると、あったあったいか焼き。思い出す、ここではないけれど、我が町には、駅前の通りに、9のつく日だったか、夜店が出た。そこで飼っていた犬を連れて行ってみようという事になり、母や夫と一緒に意気揚々と出かけたのだけれど、さぁもう夜店はすぐそこ、という処で、ぺたん、とへたり込んでぴくりとも動かなくなった。拒否反応である。ぼくはそっちにはいかない、という強固たる意志表示。人が多く集まっているのが厭だったのか、いや多分あの妙な明るさが動物的な感覚と強烈に相容れないものがあったのだろう。どんなになだめすかしても絶対に動かない。「ほら、いか焼きやさん、あるよ、いか焼き買うたげるから、おいしいよ!」と言っても素知らぬ顔だ。仕方ないなぁ、とUターンすればそそそそと帰ろうとする、皆で苦笑い、大笑いだった。今でもいか焼きの屋台を見るとあの時の事を思い出す、もう、十年が一昔なら、二昔、三昔も前の事なのに、まるで昨日の事のように。若い苗木の桜を見ても、そんな想いがよぎる事など何も無い。大きな枝を伐り落とされて尚、幹からひとひらふたひらと花咲かせる老木に、想いを寄せる。
3月3日
弥生。お雛祭り。桃の節句。
私もちいさなかわいいお雛様を持っています。母方の祖父が買ってくれたものだそうです。お雛様が、祖父の娘である母に良う似ているから、という理由でこれになったとか、主人公の私は何処へ行ったんだ(笑)。住んで居た家に合わせてちいさいガラスケースに入ったお雛様です。お雛様お内裏様、三人官女も五人囃子も、皆々、てんてんてまり、てんてまり、鞠のようにまぁるくて、そうしてお顔はその時代をちゃあんと反映して昭和ン十年代のそれで、日本の、美しい女性のそれで。私が結婚してからは、私の住む家の方で飾ります。あれ、何やら場所がまた違うのう、なんてお雛様もきっと思っていらっしゃるでしょう。今年も何とか飾らせて頂く事が出来ました。そうして今日は、菱餅も、ひなあられも、ちらし寿司も御供えする事も。お寿司に関しては、母の作ってくれるばら寿司は本当に美味しかった、蛤のお吸い物と共に。だからきっとお雛様も、なにやこれ、不味いのう、前はもっと美味だったろうに、等と思っていらっしゃるに違いありません。ごめんなさいお雛様、私も、もう二度と味わえないあのばら寿司の味を想います。買ってくれた祖父も、一緒に飾り付けた母もいなくなり、ひとりそんな事を想う、桃の節句です。
2月10日
如月の月……ということで、『修羅』について少しだけ。これっていつ書き始めたんだっけ、と見てみたら、1994年、と書かれていた。なんと20年以上前だ。怖ろしい(笑)。我ながら下手だなと思う処多々、自分にしては良く書けているかも、と思える処も少々、であるし、内容としても、まぁ20年経っても成長が殆どないのを思い知らされるように、今読んでも、まぁ私ってこんな感じだなと思えてしまうのが面白いような情けないような。けれどももしこれを今書いたとしたら、きっと人様には相手が誰であれ、お見せする事はなかっただろうなと思う。元々私は創作脳ではなく、完全な受動態脳なのだという事を再認識する。それでも、当時友人知人に読んでもらったり、挙げ句にこうやってネットの海に放り上げてしまったりしているのはもう本当に若気の至り……って全然当時でも若くはなかったんだけど(笑)、としか言い様がないのだけれど、でもその御陰で、本来の自分なら経験できなかった事をあれやこれや、色々体験、経験出来たのは本当にしあわせで幸運な事だったと心底思う。個人の立ち上げるホームページが流行った時に、その片隅に一緒に住まわせていただけた時期があった、その、偶然に、本当に深く深く、感謝しております。
1月5日
あらためまして
新春を寿ぎ謹んでお慶びを申し上げます。
午年ですね。午年生まれだった母は、「午はあかんよ。全然節約の観念がない。あるだけ使うてしまう。せやから全然お金貯まれへん。」と笑っていましたが、さてどんな年となりますやら。皆様にとりましてもどうか佳き御年となりますよう、お祈り申し上げます。
2025年
12月4日
師走。早い。早過ぎる。
十五夜、十三夜月と、今年の月は大変美しかった。それで夕刻にはベランダに出てお月様を探すようになった(笑)。なにしろ家々がひしめき建つなかである、雲間に隠れられる事も多い、お月様一体どこに行って仕舞われたの? なんて時の方が多いという惨状。そんななか、あっお月様みっけ!!……えええ、一体いつからこんな処に……? そして不図。これって、もしかしたらこの位置だと、私の部屋の窓から見えるンじゃ……? 私の部屋の窓は北向き。でも、少し体軀を乗り出してみたら……見えた! なんと! この、冬の時期、お月様、私の部屋の窓から拝む事が出来るんだ! ……一体、何十年知らなかったんだろう、虚けも良い処だ。そして不図また思い出した。実家が建て替えて、割り当てられた私の自室。お友達を新しい部屋に紹介した。その時、友人が、ごろんと、ベッドに寝そべって、「あ、この部屋のええ処みっけ」何かと思うと、「ほら、寝転んだら夜空の星が見える」……確かにそうだった、今と同じく北側ではあったが、窓に沿ってベッドが置かれていたので、普通にベッドに横たわると、その窓から、夜空が見えた。けれども結局私が、その夜空の見えるベッドのある部屋を使えたのはたったの3年間だけであった、結婚して家を出てしまったから。もう二度と、あの、ごろんと寝転べば満天の夜空が見える部屋に私が戻る事はない。あの3年間、楽しかったな。もうすぐ満月、という月を今の自室から眺めながら、いろんな事が懐かしい。
11月12日
霜月。
昨日11月11日は、まさに「〜の日」なんでもありデーでした。我が閑古鳥宅にも1時に拍手を送って下さる御仁の御陰で、これまた素敵な1並びが出来上がっていたりもしました。そんな、なんでもありデーななか、私が昨日初めてその存在を知ったのは、「シマリスの日」です。背中の5本縦縞が、11/11に見えるからだそうです。なるほど! SNS、これは旧Twitter ですが、も、やっていて良かったと思う時は、こんな時かな。小学二年生の時に飼い始めたシマリス。遠き、佳き日々を思い起こしていました。
10月6日
10月はひとつの国、神無月。
今日は仲秋の名月です。十月にあるのは少し珍しい気がする。少し前まで天気予報では今日は曇で、あまりお月見は期待出来ないという感じだったのだけれど、実際に今日となると晴れている。朝方まで雲も多く残っていたから、一番美しい雲たなびく十五夜、が、見られるかも知れない、と、わくわくしながら、芒を飾りお月見団子も買って来て準備万端である(笑)。そういえば友人が、最近空を見上げて月を見ることが多くなった、と言っていて、気持ちがものすごく分かる! と、思った。思いはしたのだけれど、実際の私はというと、残念ながらそれが全く出来ていない。お月さんカレンダーもあるというのに。何故ならまず、自室の窓は北向で見えない。唯一見えるベランダに出るには人の部屋を通らなければならない、というこの何とも風情のない家の故なのであります。玄関から外に出るという方法もあるけれど、それもまたいちいち面倒だし。これでも、裏の家が平屋だった昔は、東にそびえる山の稜線から月が昇り来る様が手に取るように眺められるという、最高に美しく贅沢な刻を持つことが出来たのだけれど。まぁ、色々と愚痴を言っても始まらない、そんな様々なこちらの都合を他所に、月はただのぼり、沈みゆく。だからこそ、美しいんだなぁ。これからますます、月の季節になってゆく。せめて気持ちだけでも、寄り添いたい、と、思う。
9月7日
長月。
最近、「戦中派としての」父母、を、想う。
母とは少し話しもしたが、父とはほぼ全くしなかった。ただ1度、「高校で週に一度、軍事教練があるんや、ゲートル巻いてな。それがもう厭で厭で……」と、あれは一体何の折にであったのだろう、そう言った、それだけしか覚えがない。母は家族で大阪大空襲を逃れた疎開組で、呉服屋だったので、よくテレビドラマである、疎開先の農家の方々に呉服を取ってもらって野菜などを分けて頂く、という、あれをまさに地でやっていたらしい。授業中に、教師から突然、「お前の家に爆弾が落ちた、すぐ帰れ!」と告げられ、「あぁ、ひとりぼっちになってしまった、ひとりぼっちになってしまった」と泣きながら走り戻ったら、反対側の家がぺしゃんこになっていて、自分の家は無事だった事もあったと。母に、苦労したんやね、と言ったら、いいや、私ら子供はただ、親に連いて行ってりゃ良かったんやから。大変やったんは、おかあちゃん(母の母。私の祖母)やわ、と言っていた。おばあちゃん、息子二人を戦死させて、人生変わってしまったおばあちゃん……。そうして理系の学生であった父は、今日赤紙が来るか、明日来るかという地獄の日々を過ごしていたのだろう、と今想像すると、よくあの父がそんな状況に耐えられたなと思う。父の偏屈は私達子供の間でも有名だったが(笑)、私が大学にあがった頃には、「新聞も、テレビも、本も、どんな偉い人が言うてたとか、そんな事一切を信じるな。自分の目で見て自分で考えて判断しろ」と言っていた。偏屈ここに極まるな、と思っていたけれど、あの戦争を経験した人間は多かれ少なかれそういう考えを持たざるを得なかっただろう。養老孟司も阿川弘之も全くその通りだ。そしてただの一度も、「あなたたちの時代は恵まれている」などとは言わなかった父。どの時代にもそれぞれにあるのだという事も分かってもいたのだろう。SNSで情報だけが溢れかえっている世界。安心してお父ちゃん、私は何も信じない。ただ父を、母を、想う。
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