らせん―memories―


 
燈心に 一旦灯った 想いでは
よせては かえす 波のよう。



暁は 何らの 変化ひとつ見せずに 訪れる。
朝啼き鳥の さえずり。
閉ざされた しとみのすきまから
漏れ入るひかりの 帯々は その 一本ごとに
浅春の 悦び 運び来ていた。

まばゆいそれらを 背にうけて
修羅は なかば微笑んでいた。
えも言われぬ表情に 微笑んでいた。

「またかよ……。」
無意識の 一言に
振り返り見る 八雲の瞳の そのなかに
失くしてしまった 子供のころの
くだらぬ 宝ものを ふたたび得たような
そうして 掌中に それが壊れゆくような
奇妙な貌は 泳ぎをやめぬ。
「……触れても 無駄だぜ。
 感覚さえ ないんだからな。」

修羅は 変わらず 微笑んでいる。
動かぬ体躯の一部と 己 みつめる 瞳を よそに
その こころのなかに
忘れ去られた 過去 ひとひらの
一旦 姿 現せば つぎつぎと
千鳥格子を 嵌め込むように
よみがえりゆくのを 楽しんでいるように──。




秋の 夕陽(せきよう)。
まだらの 薄雲 ひとつひとつの 表面を
千紫万紅に 染めあげて
裏には 濃灰の 影をひく。
その 対照の 美事なこと。
だが その下を 歩き行く 修羅にとり
それはただ 日々 繰り返される 塒支度の始まりを
告げる 事象に こと過ぎぬ。

山の端(は)に 夕陽の 沈み切る前に
修羅は 今宵の 場所を決める。
ざわざわと 色とりどりの 朽葉の 落ちる音
さらさらと 小川 流れる 音。
かすかに まざり聞こえる 場所。

“……全く うるせえ奴が居ないと 楽でいい。”
くすりと 笑みを 漏らしながら
先日しとめた 獣の毛皮に くるまって
迫る夜の 無明の闇と その冷気を
まるで 歓迎するかのように
焚火の ゆれる ほむらのなかに
ゆっくりと 瞳を綴じる。

梟の ほうほうと 啼く声の
次第 次第に 遠くなり
眠り……すべてを 優しくつつみこむ ねむり……。
夜の とばり。
天空の 斗機星の 見守る ひかり
冴え冴えと 美しい。


地面の吐息のような 濃い白色の 霞み時。
“……な……なんだ……?”
両手に突如 ひろがりゆく 生温かく ぬるりとした 感触。
瞳 見開き その手を 見やる。

“……まさか……”
朝靄のなか 修羅の瞳に
手に べっとりと 血の まとわりついている。
今まさに 生躯より もれ出した
生温かく 腥ささえ 放つ 生き血。
毛皮の褥 脱ぎ捨て 小川へと 走りゆき
凍える流水に 手を浸せば 痛みにも似た 身を切る つめたさ
脳をも 覚醒させていること 自明の理。
だが 清らかな 流水に
どれだけ 浸し 皮膚の破れる程に 洗い流したところで
その 赤い血は 流れゆくことなく
修羅の両手に 彫り物のように とどまるばかり。

“馬鹿な……”
修羅は 慄然とした。
冬待ちの 霞たちのぼる 小川の流水に さらされて
手は 疼痛 通り越し もはや感覚さえ 失している。
それでも 修羅は 同じ動作を 止められない。
“俺を……俺を……馬鹿にするんじゃねえ!”

はぁ……はぁ……。
疲労に とうとう 川辺に 腰おろし
息の 鎮まるのを 待って
いまだ混乱と つのる恐怖のなか
おそるおそるに 手を見やると
それらは 凍る流水に 桜色に 変化して
ほんの少し 腫れてもいる。
ただ それのみ。

“夢魔か……”
修羅はとうに その存在に 気付いていた。
こころの 暗い片隅に その答 うずくまり
こちらをじっと うかがい見て
時の来るのを ただ 待っている事。
瞳合わせば それで 終幕。


その瞬間 瞳前に
あの 情景が 閃光の速さに よみがえる。
やつれはてた 父の 胸先に 光る刃 突き立てる 己の姿。
ぐいと 剣くいこませる 肉の感触。
噴き出す血。 襲いかかる 生温かい 血飛沫。
微かな だが 確かに聞こえた 末期の言葉。
その顔に 浮かぶ 至上の微笑。


次の夕刻 同じように 塒の支度。
まとわりつく 恐怖の感覚
追いやろうと すればする程に。
だが 眠らねば。
あれに 隙ひとつ 与えないように。

ようやくの 朝のおとずれ。
褥のなかで 思わず修羅は ほくそ笑む。
勝利味わい 立ち上がろうとした その瞬時
笑みは 体躯は たちまちのうちに 凍り付き
まぶた 綴じる事さえ かなわない。

「うおああああああああ!」
ばたばたばた……突然の咆吼に 枝 飛び去る 鳥たち。
はぁ……はぁ……はぁ……。
よろよろと 褥を 後にした修羅は
近くの大木に 身をまかせる。
ようように 左の手で 触れてみても
鉱物をでも 触っているかのよう。
枯木 拾い上げ 力任せに 叩きつけても
ぶらり 垂れ下がった 右腕には
穂先ゆらぐ 麦の触れるほどの 感触もない。
みるみるうちに 赤く腫れあがる方が 嘘と 言わんばかりに。


“……右……なぜ 右腕なんだ……”
そう 左腕なら いくらでも
理由(わけ) 己に 得心させることが 可能。
その瞬間 また 同じように 閃光の光景─flash back─。
幼い頃の 私刑の悪夢。
ぼきりと 左腕の折れる 鈍いおと。
虫 蠢くように 体のうちを 這い回る。
いま まさに 瞳前に 行われているかに 鮮明な。

「うおおおあああああああ!!」
咆吼は 無意識に ひきおこされた。
涙 るいるいと溢れ出て 頬を 鼻を 顎を這い
顔中の 穴という穴から 流れでる 液とともに
ぼたぼたと 襟元に 胸に 地に落ちた。
「うお……おお……おおお……」
たましいの咆吼は 自然 嗚咽へと変化し
体躯と共に 修羅は その場に 崩れ落ちた。


ざわ……。
埋もれるまでに つもりつもった 枯れ葉 踏む音に
獣の 感覚 瞬時に めざめる。
うずくまる修羅に そっと近づき
男は 「もし?」 と 優しい声に
その肩に 手を置いた。
銀に光る刃先 男の喉元に
ぴたり 当てられたのは それと 同時。
「ひぃ……!」
竦み声さえ 出せもしない。
「……手を……どけろ……。」
絞り出された 地の底からの うめき声。
剣 突き上げるのは 一瞬。
びゅっ……。 飛び散る 血飛沫。
どうと倒れ往く 旅人。 瞳 見開いたまま。


返り血に まみれ修羅は 立ち上がる。
そうして ゆらゆら 歩き出す。
左に 血のしたたる 剣 ぶらさげたまま。
その 銀に光る瞳 まさに 魔魅。

瞳前を ふさぐもの
それが 意識の混乱の 招く幻影かの 判明もつかず
修羅に出来るのは 片手に持つ 太刀 振りまわす事ばかり。


はぁ……はぁ……はぁ……。
行く手に 現れたは 瀞(とろ)の大河。
その横手に 濡れ 苔むした 岩肌せまる
枯葉に埋まる ちいさな 径。
人すれちがうのが ようやくの 細い ほそい。

天羅の景色を どれほど 進んだことだろう。
脳裏掠める 久遠への道程など 今さらのこと。

あてなく 滑る小径 歩いてゆくと
向かう方より 近づく 人影。
もはや手負いの 山鬼と化した 修羅にとり
逃げ足絡む 男など 恰好の 餌食に過ぎぬ。
瞬きの間に 痩せた体躯 岩壁に 押しつけて
喉元に 刃先つきたてれば ふと 気付く
朱に鮮やかな 独特の 着物。
荒い息の元 低く 這う声に言う。
「……禰宜(ねぎ)か……。」
「……はい……。」
少年の域 ようやく脱した 年格好。
小刻みに 震え 脅えるも 無理からぬ。
嘲り 嗤う修羅。
「こりゃあ良い。命乞いの 御祈祷の 時間位は くれてやるぜ。
 御手さしのべて 助けて下さるかも 知れないなあ?」
刃を横に すう と 滑らせると
添って 滲み ひとすじを描く 鮮血。
ずる……。 ほんの少し 足動かせば こぼれ落ちゆく 小石の数々。
……ぽちゃ……ん……。 一呼吸おき 響く 音。

「私は……」

出る言葉 絶え絶えに 震え 聞き取るのが ようやく。
「……私は 神など 信じていない……。」
男の瞳に 潤う涙。
「……は!」
声荒げ 嗤う修羅。
「これはまた 困った禰宜も 在ったものだぜ。
 ……まぁ 不信心の 罪滅ぼしに
 無限地獄とやらに
 せいぜい永劫の 業火に さいなまれるんだな。」
その左腕に 渾身 込めようとした その時。

「……神が……本当に……おわすなら……何故 こうも
 ……慈悲のない 生き方を……
 課され 平気で おられるのだ……」

溢れ出した 涙 とどめる 術を知らぬ
茶褐色に かすかに 青みのかかる 瞳の
若い禰宜の 発した言葉に
修羅は 懐かしい 兄との情景を 重ね見た。

ひら……。 踊り 舞うように 落ちゆく 紅葉。
それ おおらかに 受けとめる 瀞のながれ。
「……行きな。」
柄握る手で 男の喉笛 ぐいと 押し退け
乾いた 血のりの こびりつく
剣を 修羅は 鞘におさめる。


どれほどの 道のりを 過ごし来たか ふと見やれば
岩壁に沿い 巨石の三つ 明らかに 人の手に 積み上げられた。
その岩間には 人 ようやく一人
身を添わせるほどの わずかの 隙間。
苔むす岩の その部分のみ 摩耗にやわらかな 線を描く。

滑り入れば なかは 真冬のいてつき。
幽かに 漏れ入る 陽のひかりに 照らされて
上から 鍾乳 下には 石筍
それらが 乳白に 淡い緑 混ぜこみながら
生き物のように つらなりあって
この世ならぬ 夢幻の景色 つくりだす。
だが 不思議にも ひと一人 ようやく通る 道筋に
浸食は それを 諦め
奥へ 奥へと ただ一本の いざなう道。

“……さしずめ 黄泉津比良坂と 云った処か……。”
こころに つぶやく 修羅の なかは
荒れ狂う嵐 その目に ひととき 入ったかのよう。

外のひかり もはや とどかぬ 深さのはずが
洞のなかは 暗闇に とざされる事がない。
それどころか 歩を進めるほどに
ぼやり 明るさ 増す 不思議。
途端 道は 終焉を迎え
魔物が 口を開けたかの おおきな洞窟が現れた。


洞の真中に 広がるは かなりの大きさの 円い泉
その 泉の ちょうど真上 高い たかい 天井には
ぽかりと 穿つ 穴 ひとつ。
まるで 誰ぞの 手によって 計測に計測を 重ねたように
美しく 完璧を描く 真円の。

その 泉めがけ 落つる光は
薄闇のなか 白く 淡い虹色の 光彩放ち
真円柱を 描きだす。
その円柱のなか きらきらと
光塵の 二重(ふたえ)の らせん 描いて たちのぼる。
根の国……反して 月宮殿……。 いずれにせよ
この世のものとは 思えぬ光景。


そっと修羅が 泉のほとりに ちかづくと
その泉の 水の澄むこと おそろしいほど。
深い ふかい深淵に 蒼さを 暗い緑に変えて
みなそこを はてしもない 無限に隠す。
そのなかを ちらちらと ちいさな
魚の泳ぐは まるで 白い花びらの 水のなかを 遊ぶよう。
そうして尚 不思議な事には そのほとりに
玻璃と みまごう 虹いろの
美しいかけら ひらりひらりと 落ちている。
そのひとつに 手を伸ばした その時。

「だめ……!」
女のちいさな 叫び声 洞のなかに 反響する。
瞬時 射るかの 銀に鋭い瞳光が あたりを 見回し
剣柄に かかる手 遅れること わずかに一間。
“ちぃ……左は 慣れねぇ……。”

修羅の来た 道とは 泉隔てて 対称の方角の
更に 奥のあるらしき 岩のくぼみより
女は 半身 あらわした。
その姿 さきほどの 男と同じ 着物をまとう。

「それは……銀龍神さまの 大切な 御体の一部ですから……。」
は……修羅は 思わず皮肉な 笑みを漏らした。
「驚いたぜ。今度は 巫女か。
 ……何だって こんな処に 居やがるんだ。」
「……今度は……?」
女は ちいさく驚きの声をあげ 歩を踏み出す。
「……それ以上は 近付かないが いいぜ。
 ……どうやら俺は 事の みさかいが
 つかなくなっているらしいからな。」
だが 女にとり 修羅の言葉など かやの外。
また一歩 女は 修羅の元へと 歩む。
「……外で 兄と 遭われたのですか……?」
そうして 天から降るひかりに 助けられ
修羅にも それが 腑におちた。
「貴様達……一腹子か。」

もう一歩 女は修羅にちかづく。
「答えて下さい。 兄に 遭われたのですね?」
「……あぁ。」
「斬った……のですか……?」
修羅は 自嘲に ふんと笑う。
「さぁな……。」
女は 修羅を 遠い場所から じっとみつめ
湧き上がる 心底の安堵に 微笑んだ。
「……おいて下さったのですね……。」
今度は 修羅が その銀の瞳で みつめる番。
「……ふうん……」
そうして つぶやくように言う。
「一腹子の 互いに 霊(すだま) 通じ合うという話
 まんざら 嘘でも ないんだな。」
女は 安堵に 座り込む。
しばらくの 静寂。

「……私は……齊宮(いつきのみや) 名は 暁(あか)。
 この 笙窟(しょうのいわや)にて 銀龍神さまに
 御使い申しております。」
「……どこの 国村の。」
「この 窟の真後ろにあたる 山深きところに
 数十人の暮らす ちいさな 隠国(こもりく)があるのです。
 先程 あなたが 言われたとおり
 私が ここで行う 帰命頂礼の儀式の様が
 国にいる 兄の 暁(ぎょう)に 伝わって
 銀龍神さまの 御陰をもって
 私達は しずかで 清らかな一生を 過ごす事が 出来るのです。」

修羅の顔に 険しい表情。
「ではお前は 生涯を ここに幽棲するのか。」
「三日に一度 食物を持ち 兄が たずね来てくれます。」
暁の しずかな微笑たたえた その様子に
修羅は またひとつ 腑に落ちた。
禰宜の 嗚咽にまみれた 言葉の意味。


沈黙……ちゃぽん……と 魚の跳ねるおと。
「……では 俺も ひとつ 話を。」
その声 さらに低く 洞のなかを 泳ぐかに響く。

「昔むかし 高名な学者がいて 研究を重ね
 とうとう 魔物たちと 会話かわす術 掌中にした。
 富も名声も 欲しいままの その学者の
 願いごとは ただひとつ
 死した後の 神の国への とびらの鍵。
 魔物にそのありか 問いただすと
 ひきかえには 条件がふたつ。
 己の子孫 すべての命 魔族に与うる事。
 いまひとつが
 己の命 子孫のひとりに 絶たせること。
 その 親殺しの魂 生きながらに 魔族がものと するために。
 “承知。” 学者がそう言うと 魔族 声高に 笑い出し
 “では 神の王国 そなたのもの” と。
 それからまもなく その学者 末の息子に 薬草盛り
 気狂いに させたあげくに 我身 斬り殺させた。
 その他の子孫 その後に 戦に絶たれ すべて散華。
 ……学者の死後の ゆくすえに ついては 触れられてはいない。」

ふん と 修羅は嗤う。
「餓鬼のころ 読んだ 他愛もない 創り咄(はなし)さ。
 俺の生国の 国造りの神と 奉られる男にまつわる な。」

縅黙(しじま)……。

「あなた……名は。」
「……修羅。」
意を得たように ほんの少し微笑む 暁。
「……俺が 怖くはねぇのか。」
「……銀龍神さまは ふしぎな神。
 破壊と 慈悲と 混沌の すべてをつかさどる 一つ神。
 荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま) その 両方が
 せめぎあうかの あなたの 気は
 まるで 銀龍神さま そのもののよう。」

そう言うと 暁は すくりと立って 先程の
くぼみの方へと 歩を進め それから 手に
何物かを 持ち また 姿 現す。

「この笛……これは翔凰(しょうおう)さまの 羽根を休めた形なのだそう。
 太古 銀龍神さまの 御妃であったという 伝説の……。」
そう言って 吹く笛の音の 典雅のひびき
洞に 共鳴(ともなり)して 霞が様に すべてを覆う。
音……楽の音……龍笛の音……笙の音……。
その時。


ゆら……。 泉面の 揺れた と 思うと
ざあ……と 水面(みなも) 高く割り
水飛沫 ひかりと飛び散る なかに
その姿の片鱗 ちらと見せ すぐに 沈みゆく蛇尾。
巨躯に 群を抜き 銀白の鱗 月虹のごとく。
濡れ輝く様 まさに 神蛇。
驚き 泉 覗きやる 修羅の瞳に映るのは
もはや ただ 雲珠(うず)ばかり。

「動きましたね。」
微笑む 暁。 瞬時 意を得ぬ 修羅。
次の 瞬間に 事を知る。

「な……な……」
あまりの 突然の不可思議に 声は言葉と なし得ない。
溢れ あふれ出る 涙。
おお……おおお……
うずくまり 顔 手で覆い
破裂しそうな よろこびと
恐怖より 解放された 代わりに生じる
名状しがたい 畏れとに
体躯 自然とふるえ 落ちる涙は とめどがない。

「……神の身さえ こうして 日に二度 笛の音に
 なぐさめを 求めるものならば
 人の身に 一人背負うに 重すぎる物の
 あって 不思議も ないのでしょう。」


「……強いんだな……。」
「いいえ。」
暁の やわらかに 哀しい微笑。
「このように 生きるのは 弱いがゆえです。」



狭い岩穴 くぐり抜け 外に出やると
暮れなずみゆく 薄明かりに
ぼやり 傘をかぶった 夕の月。
その夜 修羅は 眠る事なく 歩み続けた。
久遠への道。
様々に あらわれては 消えゆく memories。
降りだした 秋の 霧雨。
それでも眠らず ただ 歩いていたかった──。




「以前にも 同じ事があったのか。」
八雲の 静かななかに 毅然とした声。
「あぁ……。」
「その時も 右腕か。」
「……察しが良いのは 相変わらずだな。
 そう 右だ。 骨二本折った 左と違ってな。」
「……原因は。」
「さぁな……。 第一 治った訳も 良く分からねぇ。」
「……如月達に 話して良いか。」
「……好きに。」


「えぇ……?」
不安の表情に みるみる染まる 木晩の顔。
「……それで 修羅の様子は……。」
更に 低くなる 如月の声。
「……落ち着いている。」
その返答に さらに貌 曇らせる 如月。
「……治るの? 八雲兄様……。」
木晩の ふるえるような声に
反応するかに やさしく微笑する 八雲。
「以前は すぐに 治ったという。」

だが 八雲の こころのなかに
拭い去れない ひとつの真実。
厭というほど この瞳にした。
人の生き血を 浴び続けるほどに
刻々と 降りつもりゆく 魔の暗闇。
それに 飲み込まれた 剣士たち。
また その一方に ひとつの光明。
それ 振り払えたなら。 そう それが 出来れば。

思い起こす。 久遠において
久しぶりに見た 修羅の姿。
以前とは 趣ことなる 静けさ 芯に秘めた。


「海を見に行かないか。」
意表つく 如月の 一言。

「南西に下れば 見られるそうだ。
 ……行程には 数日を 要するだろうし
 断崖絶壁に 過ぎぬ処らしいけれど……。」
不安気に 如月みつめる はしばみの瞳。
「木晩は 海を 見たことは?」
微笑み 話す如月に ようやく にこりと 貌ゆるめる。
「子供の頃 とうさまに 連れられて……。
 岩ばかりの ほんのちいさな 入り江だったけれど……。」

「良いな。」
しずかな 八雲の声。
「この瞳で 一度。 ずっと そう思っていた。」


「断崖絶壁か……。 面白そうだな。」
またしても 予想にたがう やわらかな声。
だが修羅の 脳裏に 浮かんでいたのは
あの潮 満ち欠ける 湖と
そこに浮かぶ 島に住む 仏師との 不思議な ひととき。



吹く風の 次第に強く そのなかに
汐のかおりを たちこめて
ざぁん……ざぁん……と 断崖に 波
うちすえ 砕ける音も また 同じく。
辺りには 木一本 生える事なく そのかわり
汐に負けずに 命はぐくむ 芝と 野の花々。
かるい傾斜の 上り坂を 登りきれば そこに。

視界のかぎりは 満面の 蒼一色。
茫洋の 水たたえ 遙か はるか かなたまで。
ゆれる 波々 真昼の 陽を あまたに吸収し
金銀に 光り 力強く たわむれる。

「わぁ……。」
汐風に 髪もてあそばれながら 木晩は
魅入られた声に 言う。
「やっと着いたね。 あれは……何て言うの?」
「……水平線……。 そんな事も 知らねぇのか……。」
「悪かったね! ……それが あんなに遠くて……なんてきれい……。」

くすり 微笑んで 八雲見やる 如月。
「どうだ? 念願叶った 感想は。」
「……うつくしいな……。」
そうして 思う。
……このかおり……。 おなじ 香りだ……。
瞼に 声よみがえる 姿 よみがえる。
“八雲……にいさま?”
“彌勒……?”
“はい。にいさま。”
その ほほえみ。
ざあぁん……。 波の 裂けるおと。


「なぁ 信じられねぇな。」
左肘 並ぶ肩に もたせかけ 顔ちかづけて 修羅が言う。
「この 水平線の向こう側に 我々の 見知らぬ世界があり
 そこにもまた 人の生き死にの あるとはな。」
八雲の 不思議そうに 修羅を 見遣る。
「は……俺は 地獄耳なのさ。
 ……そこにも 闘いは あると思うか?」
「……人の 在るかぎり。」

ざあぁ……。 突如 吹き荒れる 汐風の ものすごさ。
八雲の 麻紐に 結わえた髪さえ 舞い狂わせる。
かなしみと よぶよりほかに ない いろに
ゆれる 碧の瞳 おおい隠してくれるように。


修羅は ひとり 岸壁に 立っていた。
水平線への 落陽を 経験するのは これが初めて。
紅茜色の 火の玉が 波頭を 焼きながら
その身を 悠々たる速さに 沈めてゆく。

「修羅。」
呼ばれるまで 気付かなかった。
「夕餉の 支度が出来た。」
夕暮れに より強さ 増す 汐風。
さぁっ……。 流される 麻糸 解かれた 如月の髪。
「……本当に 海のいろ そのものだな。」
どきり……。
「……知って……いるのか。」
くすり 微笑する修羅。
「言っただろう。 俺は 地獄耳なんだ。」

「私は……つい せんまで 知らなかった……。」
横瞳に 修羅は 如月を見遣る。
「不思議だな……。 昼 見た時には
 郷愁など まるで 感じなかったのに。」
今 沈み切らんとする 陽の玉
その 赤い色 柔軟に受け入れ 染まる 瑠璃の瞳。

「迷いが生じたのなら やめるがいいさ。」
「修羅。」
まなじり決する瞳 一心に 海のかなた。
「わたしのなかに 迷いなどは 一塵もない。」

「あるのは……」
吹く 汐風に 舞う髪を ようよう ひとつにまとめあげ
それから 剣 抜き去ったかと思うと
一思いに 斬り放つ。 ざく と その音。
瞳みはる 修羅。
「……こんなことなど いくら したところで
 おさまるはずもない 慚愧の想いばかりだ。」

握り締める 指より ほんのすこし 力をぬくと
強い 汐風に 舞い舞って
生じた みなもとに もどりゆく 灰青の髪。
修羅の方を向き 微笑む如月。
その貌 刹那のいろ 満面。
じっと みつめる 銀の瞳。


ざぁん……ざざぁ……ん……。
「……は。」
修羅は笑う。 いつものように。
そうして そびらをかえす。
「礼を言うぜ。」
歩き出す 修羅。 海を背に 如月を背に。
「……お前は 最高の──」
そのつぶやき 打ち砕く波に 飲み込まれたか。



褥のなかで 修羅は 思う。
俺の腕は 必ず 治る。
そうして それが “何処”であれ 今度こそ
かの国の結い方を 必ず お前に 教えてやるぜ……。


-end-



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