昼の月―埋火―


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櫻 さくら さんざめく。
宝相華(ほうそうげ)かくのごとし と
夢之間(ゆめのあわい)かくのごとし と――。



“あ……。”
蒼穹閉ざすかの花々の 爛漫の霞みのなかに
ちらとその姿現すは ほのかに浮かぶ昼の月。
木晩は思い出す。あの時もこのように腕に抱かれてそれを見た。
そうして抱く父様に あれが欲しいと だだをこねた。
世界の何もかもがただ 自分のためだけにあった あの頃……。


「ごめんなさい 八雲兄様……。」
流れ刃に傷つき痛みと痺れ残る 木晩の左足。
「気にしないで良い。」
微笑みそう言いながら 迫り来るかの枝花と舞う花びらのなか
碧の瞳 あちらこちらと光らせ歩みゆく八雲。
「それにしても……」
山辺を横目に奥へ奥へと軽い坂の道。
魅入られたかの 如月の一言。
「畏ろしいような桜だな……。」

「おう。」
行く先を ひとり歩む修羅の声 低く響く。
道程共にしながらも 修羅は皆と一距離置くを止めようとしない。
日の経つほどに 回復をみせる右の腕(かいな)の
今では普段に不便も見せぬが 不思議にも
剣持とうとすればするほど かたくなにそれを拒む。
空ける間(あわい)木晩が傷ついてのち 更に深く底が何処やも。
「ようやく山里らしき処のお出ましだぜ。」



「ここは故ありて 我々のごとき老者と女 童子ばかりの里。
殿方には申し訳もないが 御遠慮申し上げる他はない。」
ようやく開いた門の中 立つ白髪の姥の声 深と響く。
「なら 尚更に男手も要るだろうによ。」
ふん……と いつものように片方の唇だけに笑み浮かべ
吐き出す修羅の言葉遮り そろりと木晩地に降ろし言う八雲。
「有り難い。このように一人は手負いの身。
傷癒えるまでこの女(ひと)と共に 雨露しのがせていただければ。」
姥は少し驚いたように如月を見遣る。
「これは……華奢な殿御もあるかと思わば女性(にょしょう)にあったか。
……そのように断髪されておられるものに……申し訳のない。」
「はっはあ!こりゃあいい。」
噴き出し笑う修羅を 頬淡く染め横目に睨む如月。
「……殿方には 正に雨露さえしのぐかどうかもさだかでないが
炭焼きの廃屋がほんの一足奥にあるで 好きにお使いなされば良い。」


「有り難うございます。心より礼を言います。」
木晩に肩を貸し 一歩一歩ゆっくりと歩みながら言う如月。
「これはまた……声までうら若き殿御のような。」
「あのね姥様。」
口をはさむのは木晩。
「如月姉様はね。八雲兄様の御許婚なんだよ!」

皺刻む顔に慈しみの笑み 柔らかに浮かべる姥。
「それは良き事。さぁまずこの縁に腰かけて休まれるが良い。」
村長(むらおさ)の役担う姥の 檜皮葺きの屋敷の縁に腰降ろし
ようやく落ち着き見渡せば 確かに映る姿 女性と童子ばかり。
「かくの乱世であればなおさら 助け合うていかねばの。」



「ふぅん……。」
蜘蛛の巣手に払い除け 舞い立つ埃の中歩み入りながら修羅は言う。
「こいつはなかなかの荒み具合だが……まぁ俺には関係の無い事だ。」
す……と止まる八雲の動作。
「俺は暫く山に籠る。木晩の傷が癒えれば適当に先に進んでくれ。」
「修羅。」
「じゃあな。」
キン……。 一瞬に散る剣花。
「何……しやがる……!」
銀の瞳ぎらりと光り その一閃(いっせん)真一文字に
交差する刃の合間通り越し 静かに澄む碧の瞳へと。
対峙するその瞳 見る間に和らぎ微笑へと変化する。
「安心した。」
「……何?」
左の腕だけでは 凄まじきその剣圧押さえるのがようやく。
「人の瞳見る事もかなわぬほどに萎えてしまったのかと思ったが。」
「……なん……だと……。」
「修羅。私を御前に必ずひれ伏させると言ったのはお前だ。」
洞の内より沁み出ずるかの八雲の声。
「忘れるな。」
銀いろのもの凄い眼光 ほの暗い小屋のなか一筋に。
狂気さえ佩(お)びるかの光 静かな微笑にのみ受け止め
修羅の剣軽々と払い退け 鞘に収まる神剣 朱壬。
「行け。こちらの事は任せておけば良い。」
ごくり……唾と共に怒り飲み込もうとして尚 小刻みに震える声。
「……寝首かき斬ってやりたい気分だぜ……。」
「何時でも。待っている。」
八雲の表情(かお)にあるのは微笑のみ。

がちゃりと剣収め 扉乱雑に開け放ち外に出やると
そこは爛漫の花ばかり。
足踏み出すも ふわりふわりと どうにも心地の落ち着かぬのは
足元に 積もり積もった はなびらの故か。




「八雲。」
霞立ちこめる朝となれば まさに桜白の色ただひとつ。
「朝餉をいただいて来た。」
軋む扉開け現れた八雲の長い髪は 結わえられずに遊ぶまま。
とくん……。何?……ちいさなひとつの胸の鼓動。
「……住み心地を尋ねるまでもなさそうだな……修羅はどうした。」
「山に籠ると出た。昨日あれからすぐに。」
ふ……とちいさく微笑む如月。
「そんな事だろうと思っていた。」
「そちらの様子は……。 木晩はどうしている?」
「姥様始め皆がとても良くして下さる。木晩は……」
くすり 笑みを漏らす如月。
「姥様は言うに及ばず 仔牛程もある番の犬達にまでなつかれている。」
満面に 微笑たたえる八雲の顔。
「木晩らしい……あれこそ天賦の才というものだな……。」
「八雲。」
ほんの少し 首傾ければ さらり流れる金の髪。
「朝餉が済めば……少し散歩につきあってくれないか。」




「じゃあ この里の男の人は皆 連れ去られてしまったの……?」
春麗らかの陽射し三方に受ける縁側に 姥と二人話す木晩。
「そう……あれからもう 三年(みどし)の月日が流れるか。
あれもまた桜の頃。腕立つ鍛冶も居るには居たが
大抵はそこいらの 何の能ある訳でもなき鋤鍬持つ者達。
だが戦とはそうしたもの。
……それでも此処はまだ良しよ。三日前に御触れが立ち
一人残さず差し出せば 女童子に手出しはせぬと。
その言葉ひとつに 想像に難くない。
獣と化した男どもの 女は それというだけに餌食となり
堪え忍んだところで 呪いはその日のみに留まらず 十月十日の後
訪れるさらに忌まわしき……その怨嗟 思うだに地獄よ。
……ここにはそれがない。それだけが救いよ。大きな救いよ。
あるのはただ かなしみと慈しみ。
夫なくした 生まれ来る子の父(てて) なくしたかなしみと
なくして尚 継がれゆく命への慈しみよ。」




霞立つ朝の陽を浴びながら 修羅は意を得てにやりと笑う。
一晩を歩き通した甲斐も ここならあろうと云うもの。
目前に崖 横に音なす小滝。それよりきらめく水絶え間無く流す沢。
それに沿い頃合に開けた草地。その横には樹木生い茂る林。
今は咲き誇りさんざめく 桜木ばかりの。
間断無く落ち舞う花びらからは この季節どこにも逃げようがない。
……それもまた良い。

はぁっ はぁっ はぁっ。
如鱗の枯木 流れ落ちる水 舞う花びら ただの空(くう)。
それらを相手に 修羅は剣を揮う。
はだけた上半身の そこかしこに浮かぶ汗の珠
生じた途端 激しい動きに飛沫と弾き飛ばされ
立ちのぼる蒸気へと 姿を変える。
筋肉の 脳髄の火照り我慢ならなくなれば
汗水垂らす漆黒の髪 ざぶりと沢に突っ込み
それでも熱気収まらなければ そのまま体躯ごと水の中。
はあ……はあ……はは……ははは……!
切れた息 哄笑へと変化し 森に木霊と響きゆく。
はは! あははは……!
ずぶぬれの顔 涙溢れようがおかまいなし。


陽が暮れ時 塒支度を始めると ふと気がついた崖の上。
“狼か……でかいな。”
舞散るはなびら 夕陽をあびれば 名残雪のよう。




花 吹雪に舞う森の道。瞳に映るのは ただ桜。
「……八雲。」
如月が歩をとめれば 自然八雲も立ち止まる。
「気に入ってくれていたのだろう? あのいろの髪……。」
八雲がくすりと笑えば まるで少年のよう。
「あなたは時々大胆な事をして私を驚かせるけれど……」
見上げれば 降る花びらの 身に押し寄せるよう。
「何故かな……そんなあなたが 私はただ いとおしい。」

如月が鞘より剣抜けば しゅ……と流れる音 陽を撥ね光る剣刃。
「八雲。このひとときの間(ま) 私に剣を仕込んでくれないか。」


その剣眺め 八雲は静かに言う。
「久遠に於ける初の女流二等級剣士とならしむるに余地のない試合……
今尚語り草となる驚愕の試合の際に月弓はその柄を握っていた。
……鍔に月の紋様があるだろう?」
「そんなに……思い出深く大切な剣だったのか……。」
八雲のまなざし 咲く花の遠い向こう。
「月弓はあなたを見込んでいた。月の紋様のあなたの名に合うのにも
縁(えにし)感じていたようだ。……ただ……わからない事がひとつ……」
碧の瞳に 一鱗のかげり。
「……あなたも観ていただろう? 月弓の修羅との試合を。」
「あぁ……すごい手合わせだった。力に幾らも勝る修羅を相手に
全くひけも取らず……。修羅もようやく勝ちを拾った恰好だったな。」
「……あの手合わせは月弓のものだ。」
山の物音(もののね) 一瞬に彼方。


「それまでに月弓には 修羅の剣術を目にする機会が幾度かあり
実際に試合えば五太刀目にして既に それを見切っていた。
少なくとも二度 完璧に急所を突く間合いが月弓にはあった。
その勝機 二度とも月弓は故意に外した。
……対峙する修羅にさえも気付かせぬ 絶妙の剣さばきで。」

さあ……と風吹けば一斉に 枝々の花は舞い落ちて
落ちた花びらその逆に 螺旋のように舞い上がる。
桜花の精の そこにかしこに戯れるかに。

「……そうか……。」
如月の そう言うのがようやく。 こころのなかを渦が巻く。
理解っていたんだ。月弓にはもう その時すべてが。
修羅に勝利譲り 私ごときに己の分身とも云うべき剣あずけ
自身は身を引き そののち久遠からさえ姿を消した。
すべてはただ 八雲のためにのみ。
……なんという……なんという女(ひと)だ……。


見上げれば 白桜ばかりの間にまに 紫清の天。
その蒼さ 波にゆれ滲む。
「……どうした……?」
「……いや……。」
次に視線落とせば 我が足は 積み積もるはなびらのなか。
「何でもない。約束だ八雲。明日より私に剣を……」
頭(こうべ)上げ見遣れば そこにあるのは
いつもと同じ 自分をみつめる寂静の碧の瞳。
いつもと同じ ほのかになびく金の髪。
とくん……胸に また。
「……剣を……」

……なに……?……これは……そう……櫻……さくらだ……。
魅入られ 如月の瑠璃の瞳は綴じられてゆく。
花の かおり――。
まるでそのなかに 沈みゆくように。



“あ……”
まどろみのなか瞳ひらくと 古傷残る白い肩越しに
ひらと舞い飛ぶ 揚羽の蝶。 瑠璃のいろかくも鮮やかな。
沸き上がる言い知れぬほどの恥じらいに 思わず顔広い胸にうずめる。
短く切られた髪いとおしく撫でる 八雲の長く白い指。
花散るなか 佛か ただよう
血の におい──。




時 ちょうど同じくして 修羅の前にも揚羽の蝶。
ぞく……魔障に囚われたかの 一瞬の金縛りを力まかせに振り切り
剣揮れば その風切る勢いに ふわり身を乗せ 悠々と姿を消す。
“ちぃ……”
ひとつ溜息をつき 暫くの間まとわりつく思いに身を固め
次にはそれ断ち切るように また剣を揮り続ける。




「……恨みは……愛する人を連れ去られた恨みは?」
「ない訳のある筈もなく……だがそれはのう……いずれ薄れゆくものよ。
生まれ来る子の 生成す際の叫び声と血が それら全てを流し去る。
木晩とやら……子を成すとは そういうものよ。」
木晩の榛の瞳の前に 遊び戯れるちょうど二つ児らしき童子達。
畑仕事に精出しながら それ覆い包むような瞳に見つめ微笑む女達。

「だとしたら……その御触れを出した人は偉いんだね……。」
ふ……と皺刻む姥。
「嬢はなかなか頭の良い。そうあの隊長には先見越す才があった。
世に何より恐ろしいのは 人の心の奥底に 澱みと棲まう暗恨よ。
その遺恨 最小限に任務遂行した長は……女性であったよ。」

「あれを見やれ 木晩とやら。」
目の前には 一心に積み木に遊ぶ一人の童子。
憑かれたように 積み上げ積み上げ そうして
ようやく出来上がったものに 喜悦の表情露わにしたかと思うと
自らの手に平然とそれを壊す。
「男とはああしたもの。夢追い生き それを手中にした途端
次には違う夢求め それそのものを壊すを厭わぬ。
……女は自らの手に紡ぐ。幾度切り刻まれようとまた初めより。
紡ぐ糸の色は それこそ女の思うがまま。
切り刻む者 紡ぐ者……。
はて勝ち敗けなどは男の言い草だが。」

積木遊びの思いどおりにゆかぬと泣き出す童子。抱きあやす母。
「そんなものなのかな……。」
「木晩とやら。嬢はまだお若い。」




はぁっ はぁっ。
日毎夜毎揮り続け 我血の滲む剣柄それでも離そうとせず
切り株に腰おろす修羅。
桜花の命かくも短く 舞う花びら はや途切れ途切れ。
耳に入るは鳥のさえずり。風の音。息吹の音。
ふと見れば 桜の下枝(しずえ)に一匹の虫。
その斜め上の枝にとまるは 狙い定める杜宇(ほととぎす)。
今 得たりと飛び立ったその瞬間 上空飛ぶ隼の餌食と化す。
虫はただ 何も知らずに枝這い上りゆく……。


“また来ているのか……”
気配感じ見上げると 金色の瞳鈍く光る狼 崖の上に。
“……肩から背中の肉が落ちていやがる。”
じっと修羅見つめる狼 黒い毛並艶もなく灰色に色褪せて。
“あの巨躯なら大群の長誇っていたのは間違いない……だが
あの年恰好……曾孫にさえ媚びへつらい その食べ残しに
あずかり生き延びるより術もないか……。
それとも群れ抜け 孤高に果てゆく道を選んだか。
つい昨日まで 爪牙自在に操り 捕らえた獲物足元に
勝鬨の遠吠え誇り高く 王者の栄華欲しいままに森闊歩し
風満身に受け 鬣 靡かせ疾走していただろうにな……。”


かさ……と音のすれば 剣と銀瞳の反応は瞬時。
肉と骨斬れる音と感触……飛び散る血飛沫。
ぞくり……体躯貫き 脳痺れさせ惑わせる えもいわれぬ感覚……。
それは穴から飛び出して来た ただのちいさな野うさぎ。
「おう!」
崖の上より その一部始終じっと見つめる金の瞳に向け。
「すまなかったな。お前の餌食だったのに。」

ほうと梟の啼く月明かりの頃 焚火の炎(ほむら)にゆらぎ
老狼の黒い陰影と 野うさぎ喰らう骨砕く音。
“お前にはかけらもないんだろうな……。
……こんな感覚……埋火(うずみび)みてぇに燻って……。
化物……そうだ化け物だ……。
……しかももはや逃れも出来ん……。
お笑い草だぜ……無くしてようやく身に沁むなんざ……。”




「如月姉様。修羅はどうしている?」
温かい褥の中で木晩が言う。
「……隠した処で仕様がないな。山に籠ると出たそうだ。」
その答え 予期していたと ひとつの溜息。
「じゃあその小屋には八雲兄様お一人なの?」
「……そうだね……。」
「如月姉様 行ってさしあげれば良いのに。」
とくん……。
「まさか。……あれは修羅の戻る場所だ。」


「ねぇ姉様……子供が欲しいと思われた事がある?」
「私は一生 子など持たない。」
即答された言葉の刹那の響き 暗い部屋に響きわたり
木晩の次の言葉さえ彼方へと吹き消してしまう。
「明日より私は八雲に剣の手ほどきを受ける。
木晩には寂しい思いをさせてしまうかも知れないけれど。」
「……ううん。」
微笑みそう言いながら 木晩は思う。
如月姉様……なんだかまた少し変わられた……。
髪を切られた時にも笑ってはおられたけれど
“こんな無様な許婚は要らないんじゃないか?” などと
八雲兄様に向かって笑ってはおられたけれど
私には如月姉様が なんだかどんどん遠くなり
そうしてまるで悲しいように
お美しくなってゆかれるような気がする……。




真昼にかさ……と梢の揺れる音。 ぴたりと修羅の剣が止まる。
“少しでかいな……仔鹿あたりか。”
銀の瞳線のみ そちらに向け 息殺し待つと
現れいでたのは 想像だにせずもの。
それは修羅の姿見た途端 あ……とちいさく断末の叫びあげ崩れ落ちた。
“な……こんな山奥に餓鬼だと……?”
近付き見ると 乱れきった雲母(きら)のような銀灰いろの髪
擦り切れ 土に汚れた葛布の着物。
首には赤い勾玉一連(ひとつら)の そのちいさな体躯に
不釣合いにも大きく 美事な瓔珞。
“……しかも女だぜ……。”


ぱち……ぱち……。
焚火の爆ぜる音 暖かい炎。 ようやく童女は瞼を開く。
「こ……」
「おう。気がついたか。」
揮るう剣止め 近づく銀の瞳の修羅に 童女は素早く上身起こし
脅え震えて後ずさりする。 その睨みつける瞳 濃藍のいろ。
ふん……嘲るかに笑う修羅。いつものように。
「こ……殺すなら……」
「は!」大声に笑い出す。
「そりゃあそうだ。山奥にこの態(なり)にひとり
剣揮りまわしていりゃあ お情け深い杣人には見えねぇな。」
修羅はまるで面白がるように 童女の傍に にじり寄り
震える顎に血の滲む手を添えて 囁くように低く呟く。
「しかも名前が修羅とくる。」

丸い濃藍の瞳おののきにふるえ 見る間に涙溢れ落ちる。
「こ……ころ……」
ふ……と微笑む修羅。
「その魚。食べ頃に焼けているぜ。」
……え……?
ようやく気付く。 焚火の側に串刺しにされた岩魚達。
傍に 体躯に巻き付けてくれていたのであろう 鹿の毛皮。


「少しは食えたか。」
焚火に枯木を足しくべて 童女より少し間 空けた処に腰下ろし
修羅はがつがつと 焼けた魚を口にする。
「何もしねぇから横になっていな。……ったく餓鬼には懲り懲りだぜ。」
その言葉にびくん……と反応し ようやく乾いた童女の瞳に
また思う間もなく涙滲み溢れる。
「死んだ……みんな死んでしまった……わたしが……子供だから……。」

ふん……と修羅は倦気(たゆげ)に吐き捨てる。
「だがお前は生き残ったんだろうがよ。話があるなら明日
一日中でも聞いてやる。とにかく今は体躯を休めろ。
……全く餓鬼で女のくせに 依怙地(いこじ)だぜ。」
途端 童女の濡れた瞳にぎらと光り。
「……好きで子供で 好きで女で居るんじゃない……!」
「……分からねぇ奴だな……。」
修羅は すうと両の腕伸ばし その手を童女の首に回す。
「きゃ……」 怯えの余り体躯こわばり動きも取れぬ。
「この手にほんの少し力入れればお前なぞ あっという間にあの世行きよ。
そうはしねぇと言っているんだ。」

心身を消耗し切りながら 童女はそれでも健気に半時ばかりを
座りじっと炎見つめ耐えていたが とうとうその場に倒れ込むように
すうすうとちいさな寝息立て始める。
体躯に鹿の毛皮かけてやり 修羅はこころのなかに呟く。
“全く……餓鬼はもう真っ平だって云うのによ……。”
浮かぶ……鳥いろの髪なびかせ 瞳輝かせていたあの笑顔……。




剣突然に鞘に収め 息荒げながらも構え崩さぬ如月の手首取り
八雲は力まかせに 握る柄 離させる。
たった今 肉刺潰れ 血の滲み出した掌。
「手当を。」
「この程度。手当なら陽の落ちた後自分でする。時間が惜しい。」
「如月。」
「構わないと言っているだろう!」
春のうつろい みる間に 陽だまりに落ちる花影 はや僅か。
そのなかに 静かに佇む碧の瞳。
「剣に身を任せる者の己の傷の手当怠らないのは基本の第一だ。」

「……すまない……。」
忸怩に頬染め 血に塗れた両の掌そっと八雲に差し出す如月。
その肩に手をやり 共に腰下ろし 八雲は慣れた手つきに手当をする。
「……焦る事など何もない。あなたの上達ぶりには目を見張る。」
「すまない……。」
くすりと碧の瞳微笑むと いつもの八雲の優しい面差し。
「謝る事も何もない。」




「……名前は荷珠(かしゅ)と云います……。」
花びらのような唇開いたのは 次の日の逢魔刻の頃。
びゅん……と大きく一揮りして 鞘に収められる修羅の剣。
「素葉(すよう)の国のものです……。」
「聞いた事がある……ここからだと北東にかなりの道程だな。」
幼さとどめる丸い濃藍の瞳 見る間に潤む。
「そう……なんですか? 私にはもう……ここが何処かも……。」
汗滴らせる髪乱雑に掻き上げ 修羅は少し間を空け腰を下ろす。
「……で 素葉の国の 身なりの良いお嬢様が何故
たった一人こんな処に居る羽目になったんだ。」
涙懸命に耐え 荷珠はぽつりぽつりと話し出す。


「この瓔珞……」
今一度瞳凝らして見れば 濃赤の勾玉のなか ひとつひとつに
白く星の模様浮かぶ様 かくも美しく面妖な事。
「これは伊紗那(いしゃな)と云い
国の守り本尊 救世(ぐぜ)観世音様の像のお胸を飾る
我が国の霊宝です。……いにしえの昔 観世音様が彼の地に
降臨されたという伝説が残っています……。」

「……で?」
「……ある日 急に軍隊が……」
修羅の銀の瞳に光り。
「……亜魏か。」
「……さあ……ただ私は 侍真(じしん)様に命じられ お付きの僧の方達と
この瓔珞を持ち国を出て しばらくの間 身を隠せ と……。
観世音像奪われ国が滅びても この伊紗那 私が持ち帰りさえすれば
人心必ずもういちど そこに集い再建の道が開けるから と。」

ふん……と修羅は嘲り笑う。いつものように。
「どこにでも転がっている ふざけた御伽話だぜ。
お前は体の良い人身御供って訳か。」

「でも私は必死で……なのに 国を出てしばらくすると
何故だか気を失ってしまったらしくて……次に目醒めた時には
もうそこがどこなのかも……お付きの僧の方も残るのは唯一人……。
その方も自ら狼の群れに身を……私を守るために……守るため……に……。」
堪え切れずに大粒の涙ひとつこぼれ落ちれば とどまるところを知らず。

ひとつちいさな溜息をつき 修羅は片腕伸ばし
その雲母の髪をくしゃりと撫でる。
「泣くんじゃねぇよ。」
途端 濃藍の瞳 大きく開いたかと思うと
「わああ……!」
今の今まで ちいさな体躯ちいさなこころにひとり堪えていたものが
津波のように一気に溢れ流れ出し 荷珠は大声に泣きじゃくる。
修羅の広い肩にしがみつき その胸に身を委ね。
とめどなく溢れる涙 はだけた胸に直に温かく
腕のなかに嗚咽に揺れる体躯 こんなにもちいさく やわらかい。
「……と云っても無理だな……こんな餓鬼だ……。」
片手で髪撫で 折れるような細い首筋 かばい守るように。




「如月姉様の御許婚の八雲兄様はね 姥様。
あのように 本当にお美しくて お優しい。
そしてね姥様 剣を持てば それはものすごいお強さなんだよ。」
「……確かに腰に美事な剣 差されてはいたが……そのような剣士とはの。
雲心月性 絵に描いたかに見受けたが。」
「……なあに? 雲心月性って?」
「心浮かび流れゆく雲のごとく 性さながら闇間に淡い月。
無欲無心そのままのありさまよ。」
「姥様。」
キン……剣合わせる音の 微かに風の運ぶ気がする。
如月姉様と 八雲兄様の。

「姥様……八雲兄様は 確かにそのとおりのお人だけれど
そうありたくてそうなのではなく
ただそのようにしか 生きられないのだとしたら……?」




「……この瓔珞の色……私達の国では“がらんす” と呼んで……」
ひととき溢れた感情を 気丈にも
涙と共に 堪え こらえ 荷珠はまた 話し出す。
「……この色を持って生まれた者は良い憑人(よりまし)となると云われ
男女の区別なく 幼い時から僧籍に入ります。」

暮れゆく暗冥迫るなか ぎらりと光る修羅の銀の瞳。
脳裏よぎる……忘れられない 冬の久遠の神祠のなか。
金瞳の盲の男より発せられし呪わしの言葉。

その想い 振り切るように口元に笑みを浮かべ修羅は言う。
「銀灰の髪 濃藍の瞳……お前のどこにあるって云うんだ?
その“がらんす” とやらが。」
そっと荷珠が修羅に背を向け 着物の肩はだけると
そこには赤子の掌ほどの大きさの 勾玉の形そのままの 色そのままの痣。
ぞく……走り抜ける……いや とぐろ巻きつくような戦慄。

「……気を失ったのは 素葉国を出てどれくらいの後だ。」
「え……? さあ……四日……五日……良く覚えていないけれど……。」
蘇る……あれは久遠を出て十日目の事……。



次の朝 旅立つ準備済ませ 修羅はふと振り返る。
崖の上には ただ朝陽の燦々とふりそそぐばかり。
“あばよ……俺はもう少し此処でじたばたする事にするぜ。”
それから 荷珠を軽々抱き上げ 肩車。
「きゃ……」
「女の餓鬼の足なんぞに付き合っていられねぇからな。
しっかりつかまっていろよ。」




「おう。嬉し恥ずかし女連れでの御帰還と洒落こんだぜ。」
辿り着いたのは月も真上の頃。
軋む扉力まかせに開けると 揺らぐ蝋燭の炎 背に
金に光る天衣(てんね)の髪ゆらめかせ 振り向いて
修羅の傍に立つ年端もゆかぬ童女 碧の瞳とらえた
その一瞬の 八雲の表情(かお)。
神を見た 鬼を見た 何を見た……?
それと時ひとしく同じくして荷珠よりひとつの言葉が漏れた。
「……がらんす……?」




「とても綺麗な女の子だったね……ずっとここで過ごすのかな。」
「さあな……。」
そう言いながらも 修羅の瞳線は横の如月。
その風情 何故と問われても分からない。
ただ ぴっ……と こころの薄氷(うすらい)に細い罅の入るような。


行く道 紫翠に輝き 桜の宴 夢のあと。
ふと見上げれば そこに昼の月。
あれは私だ……如月は思う。
豊饒の恵みもたらさず 夢彩ることもなく ただ あるばかりの。
「おう。」
その肩 とんと弾むように叩き にやと笑って修羅が言う。
「しばらく見ぬ間に より磨きがかかったんじゃねえか?
“男前” によ。」

「……はは。」
思わず笑みこぼす如月。 そうしてもう一度 天空見上げ
新緑と変化(へんげ)した 櫻の園をあととする――。




-end-



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