ざわ……。 風は呼び起こす。 樹木のざわめき、水面(みなも)のゆらぎ。 それから──。 「……あった……! ほら、これ……アーチの跡だよ。」 典型的な英国式庭園ののどかさ広げる、見渡す限りの緑の間。 その端に流れる細く、ごく浅い小川のせせらぎ。 小川の向こう岸には生い茂るばかりの樹木の壁。 キャット・ウォークほどの足場もない。 絶え間ない小鳥たちのさえずり。 広大な芝地を背に、足元を濡らすままに小川の端に体を埋め 樹木の合間合間を丹念に調べていた少年の 歓喜の声がそれらの中にひときわ深くに響き渡る。 「うわ……本当だ。 これ、錆び朽ちてるけど、確かに鉄の造りものだぜ。 すげぇぞエド!……って事は、本当にあるんだよな、この奥に。」 「……でも何でこんな小川の向こうっ側に……第一ここ、私有地だろ?」 「……あのな、アル。」 感動の腰を折られ、ロイはひとつ溜息をつく。 「だから言ってるだろ? 見つかっちまったらこう言う。 “すみません、ナショナル・トラストの地域だと思っていました。 ホリディの課題でナショナル・トラストを調査しているんです。” 私有地への侵入が怖くて“少年秘密情報部隊”やってられるか? それよりさっさと渡れよ、水に濡れるのが何だってんだ。」 往時は美しく蔦の化粧も施して、行き交う人々を上の横の木枝より 守る役目を果たしていたのだろう鉄のアーチは、ロイの今言う通り、 今やその面影もなく形骸をさえ留めていない。 手入れに刈り取られもしなくなった伸び放題に絡みつく木枝を まるで敵の攻撃のように手に払い除け払いのけ、降り積もり湿気を含み その色を琥珀に変えた木の葉を足に、踏みしめ少年達は歩を進める。 「……アイルが知ったら怒るだろうな。」 少し荒げた息の下に、ぽつりとアルが言葉を落とす。 「いいんだよ。女子のくせに無理矢理入隊なんかするからさ。」 「だいたいロイが悪いんだよ、隊長のくせに負けるんだもの。」 「じゃあお前勝てるのかよ、あいつカラテやってるんだぜ?」 その時。 「うわ……」 「おい急に立ち止まるなよ!」 「な、何?」 三人の少年の前に急に姿を現したのは ぽかりと口を開けたひとつの世界。 枝をまるで他の生命体のように伸ばす樹木に囲まれた。 まなかに泉。 そこに湛える、逃れる術を失った水はその色を、濃い苔色に変化させ 水明(すいみょう)は遙かの時遡りそれを無くしたままに 幕を張るがごとくに水底(みなそこ)を隠す。 その水の、またまなかにたたずむちいさな像。 向こう岸にはガゼボ。 ドーム型に半円の屋根を頂き 六本の円柱がそれを支える。 「本当にあったんだ……“オーガスタスの泉”……。」 ぽつんと呟き目の前の、景色とたちこめる雰囲気に まるで魂ごと飲み込まれたかに立ち竦むエドを押し退け まずその世界に一歩踏み入れたのは隊長の誉れ高きロイ。 その姿に励まし後押しされたかに、我に戻ったエドとアルが続く。 悠久のかなたには美しい緑輝く芝一面であったのだろう足元も 今では雑草と、重なる落葉が少年達のくるぶしまでもを覆ってしまう。 泉岸の背にはもうすぐそこに、梢が迫り来ているけれども 少年達が通る分には邪魔にもならない。 さわと風が漂えば起こる波は、その波頭のみを鈍い銀に光らせて 濃深緑の生き物が様にぬらりと動く。 囀る鳥の声はさきほどと、ひとつの変わりもない筈なのに まるでここが隔てられた別世界だと告げるばかりに 遠くに聞こえるのは何故だろう……。 「すげぇ……。」 泉のまなかの立像とガゼボを結ぶ線が90度を織りなす場所に足を止め 泉覗き込むようにしてロイが言う。 「なぁエド。本当にここで男爵令嬢が自殺したのかな。」 まるで重なり合うように立つ三人の少年達。 ある瞳は一心に水面をみつめ、またある瞳はきょろきょろと周囲を探り 伺うように動きを止めない。 「“14世紀の頃、オーガスタス男爵令嬢がハイランドの侯爵との政略 結婚に絶望してこの泉に身を投げた。その死体は引き上げられる事なく 未だここに、令嬢の身につけていた様々な装飾品と共に眠る。” ほらこれが上の兄貴の持っていた本の切り取りだぜ。」 エドはズボンのポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出し見せる。 「なんで死体を引き上げなかったのかな?」 何度も目を通した紙切れを横目にちらと流しながらアルは言う。 「当時は政略結婚なんて当たり前だったし、それに自殺は大罪だろ。 みせしめの意味もあったんじゃないのかな。」 これはロイ。 「……なんだかひどい話だよな……。」 この探検の言い出しっぺのエドがつぶやくように言う。 「死体はともかく……首飾りや指輪なんかは、もうないだろうなぁ。」 まるで惜しんででもいるかのロイの一言。 「だよな。今じゃ水もこんなに濁り切ってて底も見えないけど こんな庭園の泉なんて、そんなに深くは造られていないだろうし 小川の水を循環させていたとすれば、尚更深くは造れないだろうから あっという間に盗賊の餌食だよな。」 「げぇ……ぶくぶくの水死体から装飾品を抜き取るの?」 にやりと笑ってからかうロイ。 「ああそうだぜぇ。なんだ怖いのかアル?」 「怖くなんかはないけどさ。でも…… でも何で今は水がこんなに滞ってるんだろ。」 「だからさ。それは死体が詰まって──」 「なぁ、あれさぁ。」 彼等の応酬を遮るエドの声には今までにない色が滲み出る。 「あれ、天使の像だよなぁ?」 「あぁ、そうだよな。 背中の羽根のところが朽ちてるのか、ここからじゃ良く分からないけど 弓に矢をつがえてるのは確かなようだから、多分キューピッドか そのあたりだよな。」 「……何か変だと思わないか? 泉の立像ってのは普通噴水になっていて 水に関連するモチーフが多いよな? 白鳥とか、魚とかさ……。 ……矢をつがえてる天使なんてさ……。」 ざわ……。 風の、おと。 ぬらりとゆれる、波。 「な。あのドームの処に行ってみようぜ。」 まとわりつく、名状しがたい気味の悪さを払い除けるべく 隊長のロイが提案する。 「ガゼボだよ。」 「何だって?」 「ガゼボ。 ああいう建造物の名称だよ。」 は……緊張の糸の弛緩に思わず歩きながらその肩に腕を回し抱くロイ。 「これだからお前って……いい奴なんだよなぁ、アル。」 勿論、当の本人には何のことやらさっぱり。 真半円の天蓋、ギリシャ建築様式の六本の柱、そして床。 全てを独特の淡い墨流し模様に美しい大理石で造られたガゼボは 例に漏れず降り注ぐ木の葉の洗礼を受け 積もり積もる塵埃にその輝きを封じ込められ 悠久の年月を耐え忍んだ傷にあちらこちらを欠けさせてはいるが 堂々とした風格には何らの変化もない。 入り口には二段の階段。 そこが泉の岸辺と重なり、ガゼボ本体は泉の上に身を置く恰好。 「滑るぜ。気を付けろよ。」 最初に隊長のロイ、それからエド、アル。 この順番が変わる事もない。 「思ったより狭いね。」 アルの言うとおり、少年達三人が入るのにちょうど具合の良い大きさ。 見回しても天蓋の裏にも彫刻のひとつもありはせず また腰を下ろし身を休めるでっぱりのひとつもない。 「うわ!」 つまづき転びそうになるロイの背をエドがようやくに受け止める。 「なんだ? 何かここにあるぜ。」 三人の足に枯葉が退けられるとそこに現れたのは……。 「これ、台座の跡なんじゃないか?」 「なぁ……あれ見ろよ。」 つぶやいたエドの声に 残り四つの瞳が一斉にそちらを向く。 ぞくり……戦慄が一瞬にして魔法をかけたように三人を凍らせ 誰ひとりとしてそのまま眉ひとつ動かさない、動けない。 ただひとつ聞こえた、誰のものかは分からない、唾を飲み込む音。 泉に佇む像の矢が今正に彼らを射抜かんと標的にしている。 「……どういう事だよ?」 ようやく声を発したのは隊長のロイ。 その声が破魔の呪文とばかりに、皆の体に自由が戻り来る。 「変だよ。 何もかも変だ。 この建物って、全体の風景を眺めて休息したりする為のものだろ? それならあの泉の像だって、ここから見て一番きれいに見えるように 建てる筈だろ? おまけにこの台座……。 ……なぁ、もしここに人間の形をした像が立っていたとしたら……。」 「でもあれは天使の像だろ?」 エドの問いにアルが希望的観測を添える。 「堕天使だとしたら?……ルシファーとかさ……。」 エドにも無限に広がり始めた想像力はもう歯止めが効かない。 「……無念に自ら命を絶った、男爵令嬢の霊力を借りて……? この泉の本当の存在理由は、そうだと……?」 ざわ……風の、音。 「いいか。今日ここで見た事は俺達だけの秘密、絶対誰にも内緒だぜ。 オレは親父に殴られても、エドは兄貴に絞め技かけられても、 アルはアイルに蹴り入れられても、だ。」 アーチの残骸かけらと残す樹木の道なき道を走り抜け ばしゃばしゃと小川渡り、膝に手を置き上がった息を整えて ようやくの事にロイが言うその前を、黒猫がさぁと走り抜けた。 「猫だって? イタチじゃなく? ……まったく、最後まで驚かせやがる。」 “え……” じゃあさっきの声、みんなには聞こえていなかった……? 泉を出る間際、確かに耳にした、きれいな女の人の声。 “またおいでなさい……強くなって……。” 十二の月を五度、六度。 その程度の時刻むのなどは息の一吹き。 「うわぁ……。」 木枝にまとわりつかないように長い黒髪を手に束ねたままの恰好に 感嘆の声を漏らす女性の横に立つ青年はふと不思議な感覚に囚われる。 “こんなにちいさかったんだ……。” あの時、あのガゼボから必死で走り逃げた時には 雑草に足を取られ、そのままもつれ、出口は遙かに遠く いつまでもいつまでもたどり着けない気がしたのにな……。 「本当ね。 あの天使の像、ガゼボの方に真一文字に矢を向けている。」 輝く黒髪に自由を与え、泉のまなかに立つ像に魅入っているこのひとは 苔色の泉の景色のなかに、何の苦もなく融けこんで なんてきれいなんだろうと青年は思う。 「……あの本は眉唾物で、ここが令嬢の自殺場所なんて歴史的記述は どこにもないって、後になって知ったんだけど。 ただ、オーガスタス男爵から以降、随分と領主が入れ代わっているって いうだけでさ。」 「確かに厭な感じはしないよね……とても不思議な雰囲気だけど。」 二人は並んでゆっくりとガゼボに向かう。 「でも、絶対秘密って誓ったんじゃないの?」 「……戻ったら二人に土下座する。」 くすりと女性は若々しい微笑を漏らす。 「あの日は本当に大変だったね。村中の騒ぎになって。」 「……帰る途中にオレの5段変速ギアがいかれちまって……。 でも驚いたのはオレ達の方だったよ、よれよれになって やっとたどり着いたと思ったら、村の巡査まで登場しててさ。」 くすり……また微笑する。 子供のころから変わらない、微笑み。 「そりゃあ、真夜中が近づくのに三人ともが戻らないんだもの。 でもあなた達の結束はすごかったよね。誰ひとり口を割らなくて。 ……巡査さんも呆れ返っていたっけ。」 「あの野郎……こんこんと説教だよ。 こちらは腹ぺこで死にそうなのに。」 また、微笑む。 夏の日の涼やかな風のような、微笑み。 たどり着いたガゼボ。 これももう少し大きかったような気がする。 「気をつけて……滑るし、真ん中にでっぱりがあるから。」 「うん。」 女性はガゼボの中に立ち、矢頭を真っ直ぐにこちらに向け立つ天使を じっと見つめながら、ぽつりと言う。 「……私にも、絶対教えてくれなかったよね。」 そう……それが一番辛かった。 親父に怒鳴られ殴られるのも、お袋に口を利いてもらえないのも、 勝手に本を破った罰にあいつに当時の宝物だったフットボール選手の サインを没収されたのも、それに比べればなんでもない。 一人置いてきぼりの上に聾桟敷。 必死に涙をこらえていたその顔。 今も忘れられない。 「ありがとう。 エディ。」 ふりむきもせず。 不思議だな。 何故あの時はこの場所があの天使の像が、あんなに怖かったんだろう。 ……当たり前だな、あの時はただ、ガキだった。 そう、無邪気で馬鹿なガキだった。 「アイル……アイリーン。 オレ、もうすぐグラズゴーの大学に行っ──」 その一瞬、すべてが同時の間に起こる。 ずん……と地が揺れたかと思うと、ぽちゃん……と音がして 天使の像の矢先より、びゅっと苔色の水が解き放たれ噴出した。 「な……地震?」 「この国に地震はない。 遠雷か何かだ。 それより……」 ふたりの瞳は、今まさに一瞬息を吹き返した像に釘付け。 「やっぱり噴水だったんだ……。 それにしても、あの矢から水を噴く仕組みだったとはな。」 「ねぇ……今あの矢先から何か落ちなかった? 石のような……。」 それはエドには分からない。 そちらの方など見ていなかったから。 「そうか……今の地鳴りで矢先に詰まっていた何かが落ち 像のなかに溜まっていた水が夏の熱気も手伝って 一気に噴き出したんだ。」 ふとアイルが気付く。 「見て。ここまで噴水が届いたのかな?」 アイルの白いTシャツの胸元に、ほんの一点の苔色の染み。 ちらと見遣るエドの顔にはすぅと薄赤いほてりが走る。 くすりと笑うアイル。 「まさかね。 噴水が落ちた、泉の水が撥ねたんだね、きっと。」 “え……?” 樹木に隠された出口より、エドの後ろについて出ようとした時。 風のなかより女の人の、涼やかに凛とした声が 流れ聞こえたような気がした。 “しあわせに……。” 時は遡る、百の年月を繰り返し、繰り返し。 “エメラルドの瞳麗しいオーガスタスの誉れたるレティシアよ あのような辺境の地の 礼儀作法もままならぬごとくの 成り上がりの武骨者にそなたを嫁がせることを 私が心痛めぬなどとは夢々思わぬでおくれ そなたのこれよりの幸せを心より願い祈り この隠しの泉を造らせた あれに見えるはガゼボに護られしそなた この泉に浮かぶキューピッドの矢がそなたを常に射続け 侯爵のそなたへの愛を生涯のものとするように せめてもの思いをこめて 私が祈り造らせた――。” 優しく愚かで哀れな父様 これほどの肥沃な領土を持ちながらその狭さを嘆くより能の無く 遠き異国より出土するラピスラズリと同等の価値とさえ囁かれる 碧色の瞳持つ女児(おんなご)の生まれれば いかに高き地位の我身に有利な男に嫁がせるかを模索するより能の無く 幼子の育つに過酷なこの世 死なれては元も子もと それゆえ七つの命を持つという猫の瞳そのままの大きさの真円の 宝石を御守りとして女児に与うより能の無く 娘の想いなど片鱗も頭に心になく嫁ぎ先を決めた後には このような泉を造り 娘の己に対するこれより先の あらゆる意味での庇護を暗に懇願するより能の無い――。 見渡す限りをヘザーと岩山に囲まれた 鉛色の雲流れ 荒涼たる風吹きすさぶハイランドの 血色髪侯―The Marquess of Bloody Hair―と 畏れられるドゥイ・ローモンド侯爵は その名のとおり燃え立つような赤毛の髪 曾祖父までは傭兵の身分に過ぎず 三代を続いて自らの手に王を唸らせ爵位を得るに至った 先の戦いにおいては先陣に立つを畏れず一騎当千の働きに 爵位二階級昇進の特例に加え王直属軍事参謀の地位さえ掌中にした けれども真の褒賞はこれと 彼は指差し微笑して言う 百人斬りとの誉れ高い傭兵の将との一騎打ち 鉄(はがね)の兜をも断ち割った将の剣(つるぎ) その剣の刻んだ深き太刀傷 右目頭上の額より鼻筋をわたり左唇端に至る “この合間に甲冑の横腹に剣食い込ませる事が出来た この傷は他に代えるものなき私の誇り だがそのせいでもう二度とふたたび 華やかな宴の席には出られぬだろう もとより武骨な私には幸いでさえあるけれど それでなくとも何もないこのハイランドの地 そなたにはそれが気の毒な思いがする” そう話すドゥイ・ローモンドの薄灰色の瞳は勇猛に気高く どの宝石よりもまばゆく輝き それよりほかには望むものなど何もないと 私はその時深くこころの底に思った―― だから今私はここに この猫瞳石を置いてゆく 誇り高き彼の元に嫁がせて下さった父様に感謝の意を込め この泉のなかに置いてゆく さようなら 私を慈しんでくれたこの地 この場所 多くの人々 私の夫となる方はいつの日かこの地にも 刃(やいば)向ける日が来るやも知れぬ 私はそれを引き留めさえもしないだろう その時裏切り者との汚名の元 恨みを全身全霊に受け 私を形取ったというあの像は 形骸止めぬまでに打ち壊されるだろう だがそれが何ほどのものと言う? 私はただあの方の 強き信念を貫く生き様に それを映し出すその瞳に こころよりの敬愛を感じやまぬ ただそれだけのこと それだけのこと――。 ざわ……。 風は呼び起こす。 樹木のざわめき、水面のゆらぎ。 そうして、想い。 みずからの足に歩むことさえ叶わぬ時代に 強くありたいと、ただそれだけを思い願い 悠久のかなたに生き 泉に眠る猫瞳石に刻まれた ひとりの女性の、深き想い――。 「ねえ、帰り道なんだけど……。 ちょっとだけ動かさせてくれない? エディのホンダ。」 ほぅら来たとばかりにエドは微笑む。 他の誰にも指一本触れさせない、今のオレのもうひとつの宝物。 「コーナー無茶するなよ。」 ざわ……。 風の、おと。 そよぐ、涼やかに、誇らしげに――。 |
-end-
-back ground music- Mike Oldfield "Discovery" Mozart"Piano Concertos Nos.20" |