砂の地平が金色に染まる。 色のない砂漠に日に二度、太陽は鮮やかな色を許した――朝に金色、夕 に紅。 青年は夜の内に冷やされた砂を足下に感じながら、ゆっくりと色づく地平 の様子を見つめていた。 この光景は懐かしい。 青年が生まれ育ち、存在したあの至上の国の、雲海に生まれる朝に似て いた。 何もかもが美しい彼(か)の国で、そのどれよりも美しいと思った、あの朝 の光。 目を閉じれば目蓋の内と外で、二つの光景は重なる。 ――懐かしいのじゃないのかい? 気がつくと青年の隣には、今一人が立っている。 が、しかし、青年は驚くでもなく、声に振り向くでもなく、己が身に徐々に 近づく光を見つめていた。 ――帰りたいのじゃないのかい? 今一人は、地平に置いていた視線を、青年に向けた。 青年は口元に笑みを浮かべ、 「懐かしいけれど、帰りたいわけじゃない」 と静かに答えた。 「この時間を美しいと思っているだけだ」 陽の光は、青年の夜のような黒い髪を、乾いた大地のような薄茶の肌を、 砂同様に金色に染め始める。 ――そうしていると、君は以前と変わらない。 陽の光を借りずとも、自ずと輝く髪を持ち、この地に存在しえないほどに 白い肌を誇る今一人は、その手を青年の頬に伸ばす。 しかし触れることは出来ない。 今一人は少し表情を曇らせて、伸ばしたそれを戻した。 ――こんなに近くに在りながら、天と地ほどの開きがあるのだね? 握りこむ拳を、今一人はただ見つめた。 ――私は後悔しているよ。 こんなことなら、あの折に、もっと強く君を止めるべきだった。 地の国に、一人で行かせるのではなかった。 「私は後悔など、してはいない」 青年は今一人に振り向いた。 青い、鮮やかに青い瞳だけは、光の色に染まっていない。 二人がかつて共に在った国の、青年の瞳の色そのままだった。 ――そんな姿に変えられても? 千里を見晴るかし、人の心を読み解いた術(すべ)も、優雅に空を翔けた 翼も、『尊き御身』が創り給うた稀有なる身の上の全てを、青年は天上を去 る時に失った。 ――君に残されたものは、その碧玉の瞳だけだ それだとて、物を見る以外に何の役にも立ちはすまい? 今一人は口惜しげに、青年から目を逸らした。 共に生まれ育ち、『尊き御身』に導かれ、その使いとして働くことの喜びを 分かち合った同胞(はらから)の、望んで地を往く姿が我慢ならない。 素晴らしい力を与えられながら、それらを否定し堕ちて行く様が我慢なら ない。 青年は笑む。 「物を見るだけで十分なのだよ。 目はその為のものなのだから。 そこに見えるものを見て感じることが出来る。 それがどんなに幸せなことか。 遠くを見晴るかす力は、目の前の小さな花を見逃してしまうかも知れな い。 遠くの人心を聞く耳は、近くのそれを聞き逃してしまうかも知れない。 それらがどれほど美しいものかを知らないままに、心は次へ次へと翼と共 に飛んで行くだろう」 今一人は、頭(かぶり)を激しく振った。 ――天の国にあるもの以上に、美しいものがあるものか。 この地の国を見給えよ。 どこかで争いが絶えず、血の色を見ない日はない。 人間の、あの醜い姿を見給えよ。 口は罵るためにあり、目は侮蔑の表情を隠しもしない。 手は、食するを得るため以外にも命を奪う。 年月が体に皺を刻みつける。 あれのどこが、美しいと言うのだね? 地の国は『ぢごく』と読むとも言う。 まさに言い得て妙ではないか。 「傲慢は天の国にも存在する。 それは美しいと言えるだろうか? 人間の口は、なるほど罵りの言葉を吐くだろう。 けれど、必ず優しい言葉も紡ぐ。 目は蔑みの表情を他者に向けるだろうけれど、それと同じくらいに慈しみ の表情を知っているのだよ。 過ちに手を染めても、一度は悔いることを知っている。 罪に苛まれて、涙することも知っている。 皺が語るのは醜さではなく、生きた証ではないのか? 君の姿は確かに美しい。 けれど、楽の調べのように並べた今の言と、私の姿を醜いと思う君の気 持ちは、果たして美しいと言えるだろうか?」 今一人は青年を見る。 青年は、今一人から地平へと視線を転じた。 太陽は姿を現し、辺りを一層、金色に染め上げる。 あと少しもすれば、いつものように無慈悲な熱を放ち、砂漠に入るものを 夜になるまで拒み続けるだろう。 そろそろ、ここを離れなければならない。 翼を持たない身の移動の術は、地に立つ二本の足以外にないのだから。 砂が冷たさを残すうちに、人に許された場所へ戻らなければ。 青年は踵を返し、歩き始めた。 ――…行くのかい? 言葉が止まった今一人は、遠ざかろうとする青年の背に、やっとのことで 呼びかけた。 「行くよ」 ――どこへ? バサリ…と、今一人の背で音がした。 白く大きな翼が揺れる。 今一人は、ふわりふわりと青年の後を追った。 「わからない。 でもどこへでも行ける。私はもう自由だから」 青年にはわかっていた。 今一人の姿を見ることも、その声を聞くことも、これが本当に最後になる だろう。 今一人が、彼らしからぬ言で地の国を罵ったのは、青年を引き止めようと するが故だと言うことも。 青年は歩みを止め、後ろを振り返る。 今一人も止まった。 この地に来るため、今一人は『尊き御身』に奏上した。 どうか、彼を連れ戻すことをお許しください…と。 『尊き御身』は、あれにその意思があるのなら、行っておまえの好きにせ よ…と仰せられた。 しかし機会は一度きり、もしそれを拒んだならば、無理強いしてはならぬ …とも付け加えられた。 地の国に堕ちて、戻ったものは誰もいない。 戻れなかったのか、戻ろうとしなかったのか。 何ゆえ彼らが地の国を選んだのか、天上を去ったのか。 『尊き御身』がご存知であるかは知れない。 ただ、この結末は知っておいでではなかったろうか? 「会えて嬉しかった。 たぶん、この記憶も失ってしまうのだろうね?」 青年の鮮やかな青い瞳が、まっすぐに今一人を見つめる。 ――君が望んだことだろう? 独りで往ってしまうのだから。 今一人は、青年の前に降り立った。 髪と肌と同様に薄い色目の瞳が、青年のまなざしを受け止める。 「そうだね、私の望んだことだ」 遥かな天上は懐かしい。 自分はどれほど愛したろう。 花々が咲き乱れ、極楽鳥の歌声に、幼い御使いが合わせて踊る。 誰も死なない。誰も泣かない。 穏やかな時間が、悠久に流れる美しい処。 それでも、地上は愛おしい。 住まう人々の愚かさも、目を逸らしたくなる現実も。 悲しみに打ちのめされて尚、立ち続けるその姿が、理由など不必要なほ どに青年を魅了する。 ――さようなら、私の同胞だった君。 今一人の腕(かいな)は、青年を抱きしめるために広げられた。 「さようなら、私を愛してくれた君たち」 青年の腕も応えるように伸ばされる。 今しも触れ合おうとした刹那、互いの腕は無情にもすり抜けた。 気がつくと、青年は光を抱きしめていた。 両の腕には何もなく、ぽっかりと空いた空間に、生まれて間もない朝陽が 満ちる。 何を抱きしめようとしていたのか、思い出せない。 その光が美しい故なのか、なぜだか彼の双眸は潤んでいた。 そうして青年は金色に染まった砂を踏みしめ、歩みを進める。 一歩、また一歩。 やがて彼の姿は、何処(いずこ)とも知れずに消え失せた。 雲海の高き淵より、今一人は去り往く青年の姿を、目で追った。 ――泣くのではないよ。 あの子は天上を捨てたわけではないのだ。 あの子は地上を選んだのだ。 あの子が選んだあの道を、『生きる』と言うのだよ。 今一人に、深く暖かい声が降り注ぐ。 しかし、地上に心が釘付けの彼の耳に、その声の入る余地はない。 声は構わずに続けた。 ――おいで、私の可愛い子供。 おまえの記憶は、私が引き受けよう。 悲しい色の瞳など、『おまえたち』には似合わない。 声は見えない手に変わり、今一人の双眸を塞いだ。 天を往くもの。 地を往くもの。 いずれの姿もすでになく、ひと時、色を与えられた砂漠が、ただ広がるば かりであった。 |
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