森の夕暮れである。
しんと深く人気のない小径をひとりの男が歩いていた。
麻紐でひとつに束ねられた髪の、金のいろが薄暮れの淡い陽光を浴びて、
男の歩のひとつごとに綺羅と輝く。
小径の隅に、木に背を凭れ頭をうなだれて坐る男がある。その髪の、
闇のような黒。
金の髪の男はその前を、その碧に澄んだ瞳を一度もそちらに向ける事
なく通りすぎる。その時である。
「おう。」 低い声。
「金を出しな。」
黒髪の男が頭を上げる。すると薄闇の中にぎらりと銀の瞳が光る。
金の髪の男は歩を止める。銀瞳の男はにやりと笑う。
「文無しならば、その腰に揺れる物でも構わねぇぜ。飾りには重く厄介
だろうが、なぁ色男。」
その金の髪をきらめかせ、男は眉ひとつ動かさない。
銀の瞳の男はふんと低く笑う。
「竦んで声も出せねぇか。それも静かでいい。言われたとおりをしさ
えすれば、何も命まで取りはしねぇさ。」
ようやく金の髪の男はゆうるりと、その瞳を対峙する男に向ける。すると
その時、その静かな碧のいろに、僅かばかりのきらめきが走る。
「渡せるものはなにもない。」 静かな声。
銀瞳の男はくっと笑う。
「その天の使いの顔立ちが、二目と見られぬようになるぜ……。」
銀の瞳がぎらりと光る。
「これが最後よ。腰の剣と、あるなら金もそこに置き、行け。」
金の髪の男はしばらくして、やはり静かな声で言う。
「断ると言った。」
男はにやりと笑う。そしてその銀の瞳に、ぎらりと閃光が走ったその瞬間。
「なら斬るまでよ!」
言葉の終わらぬ内に、男は鞘より剣を抜き、立ち上がりざまに斬りかかる。
疾い! そしてギン……と鋭く重い音。
「な……」
その太刀は瞳前で男の剣が受け止めた。そうしてそれから追い付くように、
男の金の髪がふわりとなびく。
銀の瞳が大きく見開く。ま……さか……朱壬(すじん)……か!?
銀瞳は男を一瞥する。だがその碧の瞳は同じように、ただ静かに澄むばかり。
男はまるで悟ったようににやりと笑う。その、表情(かお)。それから
渾身の力を込め、次の太刀を振り降ろす。
ギン……。ただ刃の音ばかりが夕闇の森に響き亙る。
同じ音が幾度か繰り返された後の事。シュ……と軽い、肉の薄く切れる
音がする。同時に金の髪の男の、左の白い二の腕から鮮らかな血の紅が、
まるで何本もの糸のごとくに細くほとばしる。
ちぃ、浅い! 男は舌打ちをする。そしてその次の瞬間、ぞくりとひるむ。
血を噴き出した腕をちらりと見たその碧の瞳は、瞬時にその輝きを変え、
凍るごとくに冴え冴えとした、この世のものとは思えぬ光りをぎらりと
放つ。そしてその乱れた髪は、生命を宿した炎のように、ゆらゆら
金に光ってゆらめいている。
男は一瞬で剣の柄の握りを変え、脅えさえ見せる銀瞳の男の喉笛と、
続けて鳩尾(みずおち)を突き上げる。その、閃火のごとくの疾さ。
そして、鬼神のごとくの強さ。
口から炎のような血飛沫をあげ、男はどうと前に崩れる。銀の瞳が大
きく見開き、剣を持つ手がぶるりと震える。
乱れきった金糸の髪をゆらめかせ、腕から血を滴らせて立つ男の碧の
瞳には、もう元の静けさが戻っている。その静かな瞳の前で、ぐお、と
厭な音をたて、男は大変な量の血反吐を吐く。
「殺……れ……」 消え入るような声。
碧の瞳にちいさなきらめきが走る。まだ声が出るのか。
「こ……ろせ……」
男は剣を、腰の鞘に収める。碧の瞳が静かにみつめるその中で、虚ろ
な銀の瞳はしずかに閉じてゆく。
ちらちらと赤いゆらめきを感じ、男は瞳を静かに開く。
あれは……焚火か……。ここはどこだ……。
体躯を動かすと、落ち葉ががさりと音を立てる。痛(つ)っ。
とたんに激痛が走る。
「気がついたか……早いな。」
柔らかな声が響く。闇に慣れ、焦点の合い始めた銀の瞳に、金の髪の男が映る。
男は少し離れた木に凭れかかって坐っていた。腕の傷には油薬が塗ら
れ、髪を結わえていた麻紐で縛り止血をしてある。さらり放たれた金の
髪は、冴えた月明かりとぼやりゆらめく炎を反射して、暗闇の中魔法の
ように妖しく光りを放つ。
「幸い近くの木立のなかに、このようなちいさな木の間があった。」
ふん……男は立ち上がろうとする。だがまたしても苦痛に顔を歪め、
鳩尾に手をやり体躯を強張らせる。
「無理に動かぬ方が良い。下手をすれば臓腑が潰れる。」
「は……」
銀瞳の男はにやりと笑う。そして消え入るような声で言う。
「ただの色男と思えば……朱壬の使い手とはな……。」
金の髪の男は静かに微笑む。
「朱壬の名はこの異の国にまで知れ亙っているのだな……。だが噂は
所詮尾鰭の付くもの。伝説に語るようなものは何もない。」
銀瞳の男はにやりと笑う。
「遙か北の地にある一子相伝の名剣。御伽噺とばかり思っていたぜ……。
だがその使い手が、何故このような地に……。」
碧の瞳はただ静かに澄むばかり。
男は急に背を丸め、ぐお、とどす黒く濁った血反吐を吐く。それを見て
男が立ち上がると、金の髪がふわりと靡く。
「これで血溜まりも最後であろう。」
男は焚火の方へと歩み寄り、銀瞳を背に腰を下ろす。
懐の中からちいさな器を取り出し、そこに水を注ぐ。それから小さな
袋より乾葉を取り出し、それに加える。そして焚火にかざし煎じ始める。
銀の瞳でその姿を追い乍ら、男は尚消え入るような声で言う。
「何故……殺らん……。」
ほのかな薬草の香りが辺りに漂い始める。
「さぁ……だが、良い腕だ。我流なのだろうが。」
ふん……。男は銀瞳をそらす。
「盗賊風情に傷つけられ、殺ったとあっては身が許さんか……。」
碧の瞳が静かに微笑む。
「もう良いだろう。」
暫くして男が言う。その煮え立つ薬湯に、男は冷たい水を少し差し、
その器を持って立ち上がる。そしてまだ動けぬ男の側へと歩み寄る。
「初めは一口で良い。」
男は跪き、ちいさな器を銀瞳の男の口元へと運ぶ。
銀の瞳はちらと男の顔を見る。それからそろりと口を付け、
少しの量を内に含む。
怖々飲み込もうとしたが、すぐに咳きこみ男は血色に染まった
液体を吐きもどす。
「不器用な男だな……。それともまだ自力では無理か……。」
金の髪の男はそう言うと、その薬湯を少し、自らの口に含む。
それに気付いた男の銀の瞳が少し見開く。
男はすう、と頭を屈めたかとおもうと、その、血がどす黒く固まり付いた
くちびるに、自分のそれを圧しあてる。流れ落ちる金砂の髪の中で、
男の銀瞳がぐっと見開く。
温かい薬湯は傷付いた男の喉の中を、細くゆるやかに流れていく。
一筋、またひとすじ……。淡色に光る金の髪と、月の静寂ばかりがふたりの
姿を包みこむ。
暫くのあと、男は静かに離れる。
「貴様……。」 低い声。
「全くこの味にはいつまでも慣れぬ。」
碧の瞳がくすりと笑う。
「だが良く効く。しばらくすれば楽になろう。そのあと残りを飲めば
良い。夜が明ける頃には歩けるだろう。」
「ふん……。甘い奴だぜ……。」
金の髪の男は初めにいた場所に腰を降ろし、腕に巻く麻紐をほどき取
る。そして、その傷にもういちど油薬を塗り、木に背を凭れて瞳を閉じる。
それを瞳で追った男も、それから静かに銀瞳を閉じる。
耐え難い程の喉の熱が、確かにひいてゆくのを感じ乍ら……。
朝鳴き鳥の囀りに瞳を醒ます。陽は薄明るく辺りは靄にかすんでいる。
腕にぐっと力を込め起き上がろうとする。痛みは酷くふらつきもするが、
今度は立てた。にやりと笑い、男はどうと腰を降ろす。
その音に瞳を醒まし、金の髪の男は立ち上がる。銀の瞳が振り返る。
男は衣服を整え焚火を始末し、身支度を始める。
「おう」 低い声。
金の髪が振り返る。
「強靱だな。」
男は銀の瞳を落とす。そして小さな声で言う。
「……どこに向かう。」
男の碧の瞳に一瞬ちいさな影がさす。そしてそれから静かに言う。
「どこへも。」
最後に男は麻紐を取り、その金の髪をひとつに束ねる。
「名は……。覚えておくぜ、朱壬の使い手よ。」
「八雲。久遠の村の。」
八雲はもう一度、その静かな瞳で男を見る。
「では行く。銀の瞳の男よ。」
「……修羅だ。」
「修羅。また遭う事もあるかも知れぬな。」
銀の瞳がきらりと光り、修羅はにやりと笑う。
「おう、その時こそはお前を倒すぜ。」
八雲はちいさく微笑む。そして歩き出す。
八雲の白い手が枝を払う。木の葉のざわめき、樹木のゆらめき。
八雲が通った最後の葉のざわめきがおさまって、辺りは一瞬しん、となる。
修羅は八雲の残していったちいさな器に瞳をやる。そして思う。
哀れな瞳の脆弱な男、それ以外には見えなかった。
それが何故だか無性に癪に障り声をかけた。それがどうだ……。
あの一瞬の奴の姿、あれは憑依なんて生易しいものじゃない。
あれはまさしく闘神だったぜ……。
それからちいさな器を手に取り、くっと低く笑う。
朱壬だと……。綺麗な面しやがって、
幾度の修羅を通り抜けて来やがったんだ……。
それからその冷たくなった液体を、はじめはそろりと、そして一気に
飲み干す。体躯の痛みと薬湯の苦さに顔を歪め、それからそのくちびるを、
指で少し触れてみる──。
小径を歩き乍ら八雲は思う。
“修羅”などと……。黒髪黒瞳のこの地、排他の色濃いこの地にあって、
あの者のあの瞳の色は、生まれ落ちたその瞬間から“忌むべき者”との
烙印を、免れるものではなかっただろう。それが故かは知る由もないが、
あの者のあの表情、あの瞳の光り。八雲は思う。鏡に映せば正にあのとおり、
あれは私の表情だった……。
八雲の生まれた久遠の地では、金の色を持ち長子に生まれた男は皆、
五歳を迎えた新月の夜、その身を神に捧げる事となる。だが極希には神官の
長に、訳なく拒まれる子供がおり、八雲が正にそうだった。その時
哀れな幼子に、残された生きる道はただひとつ、神の道とは対極をなす、
血塗られた剣の道。それだけでもちいさな心を打ち砕くには充分なのに、
そのあと生まれた可愛い妹は、神の怒りを一身に受けたかのように、生まれ
ついて立ちさえ出来ぬ。八雲は身を恥じ身を憎み、その気持ちをただ
一心に、剣に向ける事で強くなる。妹を守るためだけに強くなる。だが
その妹はただの一度も癒される事なく、実にあっけなくこの世を去る。
剣など何一つ、なにひとつ役には立たぬ。八雲は生きる道標を失い、
朱壬を持つ身で村を捨てた。
八雲は思う。あの修羅の瞳、あれはただ自分を倒してくれるのを
待っている瞳だった……。
八雲は村に戻る決意をした。そしてそののち、如月を知る。
修羅はこのあとしばらく行方知れずとなる。
その後急速に世は終末の色を濃くし、ただひとり自分を慈しんでくれた
兄を殺された修羅が久遠の地に八雲を訪ね行くのはこののち数年の事、
そこに木晩が加わるのにはさらに月日を待たねばならない。