“強くなれ。私の修羅。” “修羅。待っていた。” はっと瞳醒めれば 一人きりの闇のなか。 辿り着いたのは 一見長閑な小さな集落。 その土塀に凭れ座り 修羅は微睡(まどろ)んでいた。 晴れた真昼の 冬の陽差しの心地良さ。 遠くに聞こえる子供達の 騒ぎ声さえ夢うつつに拍車をかけた。 だがその声と物音が 次第に大きく耳障りとなり 仕様事なしに瞳を開け ゆっくりと頭をもたげた。 おう……これはまた……。 瞳前の様を見つめていた修羅は 暫くのあと探り小石を手に取ると そちらに軽く放り投げた。 「痛えな! 何しやがるんだ!」 殴る手を止め少年は ぎらと光る瞳で修羅を睨む。 鶯(うぐいす)いろに澄んだ瞳に 怒りだけを迸せて。 「その辺で止めておきな。 死んでしまうぜ。」 「殺しているんだ!」 修羅の言葉に少年は まだ幼げな声を荒げ ぐたりとうなだれる相手を 引きずり起こして また殴り出す。 だが二三度殴りつけたかと思うと少年は 急に手を止め修羅を見る。 「何だよ。 もう止めねぇのか。」 ふん と修羅は笑う。 「加減が分からねぇのかと思っただけさ。 殺りたいのなら殺りゃあいい。」 少年は襟首掴む手を突き放す。 「あんた……変な奴だな。」 ぎらり光る瞳で睨み 修羅の方へと歩み寄りながら その視線が 修羅の腰の剣へとむいた途端。 「剣士なのか!?」 ふん……修羅は返事をしない。 その修羅を 見る鶯の瞳に煌めく憧れのいろ。 「あんた……凄え瞳してる。強いんだな。」 「餓鬼に用はねぇよ。……殺るんじゃなかったのか? まだ生きてるぜ お前の相手。」 だが修羅の言葉など 最早少年の耳に入りもせず。 「……その剣 見せてくれないか。」 その言葉に銀の瞳で その幼い顔を見据えたかと思うと 修羅はすくりと立ち上がる。 少年の瞳には 聳え立つようなその姿。 それから柄に手をやって すぅと剣を抜いたと思うと その光る刃先を 少年の喉元にぴたりと当てる。 そうしてにやりと笑って言う。 「見えたか?」 一瞬脅えを隠せない鶯の瞳。 だが次に驚いたのは修羅の方。 喉元に迫る 光る刃に少年は 殴り腫れ 擦り傷だらけの左手をやったかと思うと それをぐっと握り締め おまけに手前にそれを引く。 掌と首筋に 滲み滴る血。 「俺は持たせてくれって言ったんだ。」 鶯のいろの 痛みの微塵も見せぬ真剣な瞳に 思わず修羅は ふ……と微笑み。 「仕様がねぇな。手を退けな。」 そうしてその剣の柄を 少年に向け手渡そうとすると 思いもかけぬ少年の戸惑う様子。 「手に血が……汚れてしまうよ。」 くっと修羅は噴き出すように笑う。 「血に汚れていねぇ剣があってたまるか。」 「うわぁ凄え! 重いんだなぁ。」 至上の喜悦を得たように 燦々輝く少年の瞳を見ていると 修羅は思い出さずにいられない。 初めて兄が 真剣を与えてくれたのも 丁度この位の年齢の頃。 それから少し重い剣 そして最後に 結婚の祝いにと この剣を与えてくれた。 “最上の鉄(はがね)で創らせた故 人のそれより重さが響く。 だがそれ故 そこらの剣には負けぬはず。 見事な使い手となれ 私の修羅。” 「あんた……この村の人間じゃないな。」 突然の少年の畏まった声が 修羅を現実(うつつ)に引き戻す。 「そのうち どこかに行ってしまうんだろうけど……」 鶯の瞳は まるで懇願するかのよう。 「それまでの間! それだけでいい。 俺に……剣技を仕込んでくれないか?」 修羅は見る。 砂と泥に汚れまみれる 仔犬の綿毛のような 鳶(とび)いろの髪。 殴られ腫れあがり 擦り傷や切り傷で あちこちに血が滲む顔。 「……亜魏の奴らが彷徨(うろつ)く処に 腰を落ち着ける事は出来ん。」 修羅が低くにそう言うと 途端に輝き増す瞳。 「それなら大丈夫だぜ! 此処辺は奴らの管轄区じゃない。 ただ隊商の通り道──奴らの荷積みと休憩の場所。 此処辺の小さな集落は 皆そうさ。 ……隊商には 用心棒の犬も付いて来るから あんたが亜魏に遭いたくねぇなら 俺が毎日あの闍(うてな)から 奴らの来るのを見張ってやる!」 もう一度 修羅は見る。 鶯いろの瞳のなかを。 「……剣が好きか。」 修羅の低い一言を受け 少年は話し出す。 鶯の瞳に 怒りと その年齢に似合わぬ哀しみ ぎらつかせて。 「俺の名前……沁邪(しんじゃ)って云うんだ。 巳の年巳の月巳の日巳の刻。 それに生まれた女は 神巫になると云って貴ばれるけど 男は ただの賤(しず)の者だと。 両の親さえ 捨てやがった。 唖の姉貴と一緒にだぜ。 ……皆殺しにしてやるんだ。 俺を嘲笑いやがった奴ら皆!」 修羅は可笑しくさえなった。 思わず漏れる笑い声。 「何が可笑しい!」 怒りに奮える小さな肩に 修羅は ぽんと手をやり低く言う。 「沁邪。 良い名じゃねぇか。 俺は修羅だ。」 一瞬呆気にとられた沁邪は 次には喜々として言う。 子供っぽい笑顔 満面に浮かべて。 「凄え名だなあ! 俺の家はこっちだよ。 まぁ家は荒(あば)ら家だけど……姉貴の料理は 結構いけるぜ。」 八雲達の旅は 遅々として進まない。 初太刀をさえ 受け止める事の怪しい木晩を護り守り ようやく辿り着いた小さな集落。 その丸太小屋のなかで 木晩はちいさく話し出す。 「御免なさい 私の所為で。 分かっているの 故郷に帰るのが一番良いって。 でも私は 約束したんだ ねえさまと。 亜魏国を 必ずこの瞳で見てくるって。 そうして修羅と 戻ってくるって。 そのどちらもを 果たせなかったとは とても言っては 戻れないよ……。」 優しく微笑んで 如月は榛いろの髪を撫でる。 「木晩が 気に病む事は何もない。 幸い此処は暫の間 落ち着いて暮らせる場所のようだから まずはゆっくりと体躯を休め そうして考えれば良いよ。 必ず良策がある筈だから。」 そう言って 瑠璃の瞳で八雲を見遣ると 「そのとおりだ。」 と 静かな一言。 「……それに私も 亜魏見るまでは 久遠に戻るつもりはないから。」 如月がそう言うと 八雲の碧の瞳に静かな煌めき。 その瞳感じながら 如月は思う。 ……あれから八雲は 微笑まなくなった……。 小屋の扉の前に立つと ぱたん……ぱたんと機織りの音。 その扉を一気に開けると 入り込む冷気と共に 音は止み かわりに漂うのは ほのかな香の薫り。 ……訶梨勒(かりろく)の香か……確か魔除けの香だった筈……。 「姉貴は涓(しずく)って云うんだ。 機織りの名人なんだぜ。」 そう言って沁邪は 機織る手を止め 振り向き立ち上がる 姉の方へと向かって行く。 喧嘩三昧の弟を 咎めるような所作をして 姉はその体にまみれた埃を落とし 傷の具合を確かめる。 「この人は修羅。 俺に剣を教えてくれるんだ。 暫く此処に 居てもらってもいいだろ?」 沁邪の言葉に 姉が修羅の方へと瞳をやると その瞳の まるで青磁の水壺に ぽとりと水滴を 一粒落としたような 淡い 淡い勿忘草のいろ。 「いや 俺は……。」 「何だよ。そうしてくれるんじゃねえのか!」 涓は 弟の不作法を 戒めるような動きをし それから修羅の方を向き 柔らかく微笑んでお辞儀をする。 まだ少女の趣さえ 僅かに残る若い貌(すがた)に 複雑に編み込まれた 亜麻いろの髪 狐疑の色ひとつない 浄らかな瞳。 「……俺は……可いが……。」 涓はもう一度微笑んでから 背を向けて それから遅い 昼餉の用意にとりかかる。 「……耳は 聞こえるのか?」 修羅が小声で沁邪に問うと にやと笑って大きな声。 「姉貴は人の口唇を読むんだ。 何喋ったって聞こえねぇから そんなに照れなくても大丈夫だぜ!」 「……殺すぞ。」 一言投げ捨て 頬の昂揚を隠すように 手の甲で叩きながら 修羅は見る。 機織りに織られた 平の 綾の 繻子の 金糸 銀糸の 織りの美事さ。 一瞬 過(よ)ぎる男の姿──。 昼餉が終わるやいなや 沁邪は修羅の袖引っ張って言う。 「さあ 早くやろうぜ!」 村には凶器の類となるものの 設置を禁止されていたので 修羅の剣を 貸してやるしか術がない。 「お前には重すぎて 手に負えねぇぜ。」 だが 沁邪が聞く筈もなく。 「それに……俺の教わったのは 基礎中の基礎だけで 後は適当に 揮り回していただけだしよ……。」 「じゃあその基礎ってやつを 教えろよ!」 「……まず……柄はこう持って……。」 「おい。 俺は左利きだぜ。」 「……ややこしい餓鬼だな……。」 「……で、それからどうするんだ。」 「それを頭上から真っ直ぐ揮り降ろせ。」 「……出来るかよ! こんなに重い物!」 「じゃあ諦めな。」 「……おい。まず見本を見せろよ。」 沁邪は修羅に剣を手渡す。 にやり と修羅は笑う。 「動くなよ。」 斬(ざん)……。 頭上より渾身に揮り降ろされた剣の刃は 沁邪の 鳶の綿毛の真上でぴたりと止まり 切れた髪がさらさらと 風に舞い飛んでゆく。 それに見遣る間もなく次は右腰 その次は左膝 そうして最後は 心の臓。 びゅん と風切る音と共に その刃は それらの手前に ぴたりと止まる。 「……凄え……。」 「重すぎる剣は 平衡感覚を壊して良くないぜ。 何か代わりになるものはないのか。」 「それでいい! その剣を貸してくれ!」 「……ほらよ。」 修羅は沁邪に剣を手渡す。 その剣を一心に沁邪は持ち上げる。 ふらつきながら 何度も 何度も。 夕餉が済んだと思えば 疲れ切った沁邪からはもう寝息の音。 「……俺は 外で眠るのには慣れているから……。」 修羅が 揺々そう言うと 涓は微笑み 首を横に振り 沁邪の横に 修羅の寝床の用意にかかる。 それから ぱたん……ぱたんと機織りの音。 その前に歩み寄り修羅は 小さな低い声で言う。 「沁邪に剣など持たせて……気を悪くしたか。」 するとその 淡い勿忘草の瞳に ちいさな 凛とした光り。 そうして修羅の 手を取り その掌に 指で平仮名をなぞり書く。 “あ……り……が……と……う” 寝床に仰向けになり 修羅はある秋の日を思い出す。 あの男は……剣には天魔が棲むと言った。 たとえそれが天魔の思うがままであろうとも 沁邪の瞳は こころは最早 剣の光りに魅入られている……。 肉刺(まめ)が潰れた掌に 冬の小川の水は身に凍む。 代わりに 魚採りをしてやると 「修羅は凄えな。 何でも出来るんだ。」 修羅は全く可笑しくなる。 俺の出来るのはこの二つと ……後は かの国の結い位のものなのに。 沁邪が剣を揮っていると 噂は風の吹くより早い。 誰も手出しをしなくなって ますます沁邪は剣に夢中。 この辺りは冬晴れが続く。 修羅は 沁邪が剣揮うのを 横瞳に寝転び陽光を楽しんでいた。 するといつの間にか 涓がやって来て 弟の様を愛おしく見つめながら 修羅の横に腰を下ろした。 涓が修羅の顔に 瞳を見遣った時に 修羅はその 淡いいろの瞳見て言う。 「俺は……眩しい光りが苦手だが あんたもそうか?」 涓は修羅の手を取って そうして以前のように指でなぞる。 “し……ず……く” 「……涓もそうか……?」 涓は微笑む。 そして頷く。 その途端。 「おいおい! 人が死ぬ思いしてるってのに そんな処で 逢瀬楽しんでるんじゃねぇよ!」 ある夜 木枯らしが吹き荒れて 夜更けになる程ひどさを増した。 相変わらず 疲れ切った沁邪は 叩いても起きない様子。 修羅は思わず起きあがる。 部屋の隅に 床を取っていた筈の涓は そこに居ず 部屋の土壁に手をやって じっとしたまま動かない。 「涓。」 そう言い乍ら そっと近づき肩に手をやった。 驚かさないようにしたつもりだったが びくりと涓は驚き振り向く。 するとその 淡い勿忘草いろの瞳から 恐怖と安堵の入り交じった おおきな涙が溢れ落ちる。 そっと修羅が そのか細い体躯を抱き寄せると 縋(すが)るように修羅の背に 涓は手を回ししがみつく。 冷えてしまった体躯から 伝わる細かい震えのなかに 修羅は感じる──この若い女が 幼い曰く付きの弟かかえ 口もきけず 音のない世界に生きる その心細さ──溢れる寂寥の想い──。 「怖くねぇよ。唯の風だ……。」 思わず呟く。聞こえはしないのに。 そうして 抱き締める。溢れ来る想いをたけに。 「怖くねぇよ……。」 それから幾日が過ぎたのだろう。 沁邪はあの重い剣を どうにか操れるまでになり 修羅は魚を採り 沁邪をからかい からかわれ そして涓は 機を織る。 やわらかな 陽射しのなかの 穏やかな日々。 だが来るべき時は 必ず来る。 「修羅! ……隊商が来る。 半時もすれば辿り着くぜ!」 轍の絡みつくような 大通りを横切って 修羅は 林の樹木に身を隠す。 ざ……ざ……。 次第に大きくなる俥と大勢の足音。 樹からその 様子を覗き見ていた修羅の 先頭を歩く用心棒の男を見た途端 体中に震撼が襲う。 な……何で 奴が居るんだ……。 隊商が 修羅の隠れた樹の前を 通り過ぎようとした時 何人もの用心棒のなか その男だけが修羅の方を振り向いた。 そうして一度 にやりと笑った。 隊商が集落を後にして 修羅も沁邪の元へと戻る。 「……おい 顔色が良くないぜ。 そんなに亜魏が怖いのかよ。」 「……うるせぇ餓鬼は嫌われるぜ。」 「あぁ俺は 元から皆の嫌われ者さ!」 そうだ……何の関係もない事だ。 あいつが亜魏の犬になぞ 身を窶していようが そこに理由があろうがどうかも 俺には 何の関係もない事だ……。 「隊商が来るよ! 早く何処かにお隠れ!」 馴染みになった女性が 八雲達の居る小屋に声を掛ける。 急ぎ その場を離れようとした その途端。 「やぁ。 ようやくお遭い出来ましたね。」 扉を開き 八雲を見遣る男の瞳は 落ち着き 品格さえ漂わす浅葱のいろ。 「久遠の八雲。 本当に美事な金の髪なのですね。」 「……亜魏の者か。」 八雲の声の 静かな事は相変わらず。 「いいえ。 貴方に遭う為に 少し便乗させては いただきましたが。」 「……では 私に何用か。」 「……もうすぐ此処に 隊商が来ます。 見つかれば厄介なので 何処かに場所を移しませんか。」 「……如月と木晩は 此処に居ると良い。」 振り向きそう言う八雲の言葉に 即座に応答する如月。 「私は行く。」 遅れて 木晩。 「……じゃあ 私は此処に残る。 如月姉様 この剣を 持っていって下さる? そうすれば私は この村の人達と どこも違わない筈だから。」 そう言って如月に 細い女の剣を手渡す。 「……私はどちらでも構いませんよ。では行くとしましょうか。」 ……これ以上 如月姉様達の 邪魔をしてはいけないもの……。 「この辺りで良いでしょう。」 集落から 少し離れた林のなか。 男は浅葱の瞳に きらと光りを煌めかせる。 「……修羅もこんな 林のなかに居ましたよ。 もう 二三 手前の集落の近くのね。」 八雲と如月の瞳に 同時にたとえようもない陰影。 「修羅の知り合いか。」 八雲の声の 静かな中にも揺れを隠せず。 「昔の同胞(はらから)……と言えば言い過ぎでしょうね。」 「それで……私に 何をしろと。」 男はくすりと笑う。 暗褐色に艶夥びた髪 風になびかせて。 「手合わせですよ。 それ以外に何があります?」 「何故 私が貴方と。」 男はくすりと笑う。 「本当に 噂に違わぬ人ですね。 普通の剣士なら 決闘と聞けばそれだけで 喜び飛びつくものなのに。」 そう言って男は話を始める。離れて立つ如月にも言い聞かせるように。 「私は……そう 十の頃 親にはぐれていた処を ある男に拾われましてね。 その男というのが ちょっとした剣の使い手で 谷間(たにあい)で 私に剣技教え込むのを 生き甲斐に。 そうする内に その谷間は 剣の修行求めて来る者の 溜まり場のようになりましてね。」 「……子夜谷か。」 男の瞳に煌りと光り。 「御存じなら話は早い。其処で私は一応これでも 筆頭剣士などを気取っていたのです。 ……呼び名は違っていましたけれどね。 そう 修羅も一時 居たのですよ。 尤も私と手合わせをする前に 出ていってしまいましたけれどね。」 思い出すように 男は遠い瞳をする。 「少し前の事でした。 滅法 腕の立つ女性の剣士が来ましてね。 その女(ひと)が偶然にも 長と──私の育ての親と 故郷が同じだったのです。 そうしてその女の言うのには 久遠には 八雲という金の髪をした男が居て その強さは 神宿るごとくだと。 驚いたのは 長さえも それを否定しなかった事です。 私は女に問いました。 八雲は今も久遠に居るのかと。 すると その女の言うのには 八雲は亜魏に旅立ったと。銀の瞳をした男と共にと。」 “月弓が……” 八雲と如月の 同時に思う。想いを馳せる。 その姿を横目で眺めながら 男の 浅葱の瞳に煌めき。 「いずれ私は 長の跡を継ぐ身。 一度位 外界に出て その噂に高い男との 手合わせを願った処で 何ら不思議もないでしょう。 ……尤も黙って旅立ったので 今頃 谷ではちょっとした騒動かも知れませんが。」 くすりと 男は笑う。 「亜魏への隊商に連いて行けば 情報収集にも事欠かないと 単純にそう考えていたのですが まさか こんなに早くにあの 銀の瞳の修羅と 出逢えるとは 思ってもみませんでしたよ。 ……何故 貴方がたが別行動を取っているのかまでは 私にも 理解りはしませんけれどね。」 「断る と言えば。」 八雲の静かな声を受け 男は くすりと笑って 唯一言。 「修羅が死にます。」 「おい。」 沁邪が修羅に歩み寄る。 「ほら。」 沁邪はその鶯の瞳で じっと修羅を見つめながら その重い剣を 修羅に手渡す。 「行きたいんだろ。」 修羅は銀の瞳を 落としたまま。 こんな感情は初めてだ……どうすれば良いのか分からない。 「行けよ!」 沁邪は声を荒げる。 あの隊商が来てから どれ位の時が流れただろう。 「沁邪。」 修羅の 呟くような低い声。 「この剣……お前にやりたいが こいつは……兄貴の形見なんだ。」 沁邪は 横を向いて言う。 「要らねぇよ。そんな重い剣。」 修羅はまだ 瞳を上げられない。 「沁邪。涓に……。」 「姉貴には会うな! ……会わずに行け。」 修羅は歩き出す。 一言も発しないまま。 瞳上げないまま。 「修羅!」 沁邪の 溢れるばかりの叫び声に 歩を止める。 「あばよ!」 修羅は振り返らない。 そのまま歩く。 歩いて行く。 何だ……この しずくは何だ……。 「分かった。」 男は意を得て微笑する。 その 瞳のなかの 刹那のいろ。 「有難う。 ではどちらかの 命果てるまでという事で。」 「……そこまでやる必要があるのか。」 男はただ 微笑んだまま。 「情けに助けられた命ぶらさげてまで 谷の長に納まる程 私も厚顔ではないのですよ。 ……あの女性達の事は 御安心を。 久遠であれ 亜魏であれ どこへなりと お連れします。 尤も 根の国を御所望となれば 私の御共出来るのは 黄泉津比良坂までですけれど。」 それから 如月の方を向いて言う。 「貴女。 どうぞ寿詞(よごと)御唱えなさい。」 「では行きますよ……。」 ギン……。 冬の真昼の陽光のなか ざわめく枯葉吹く風のなか。 男の瞳に 限りない憧憬のいろ。 「これが朱壬剣。素晴らしい。」 陽暮れた径を 独り急ぎゆく修羅のこころに ふと ある思いが 宿りつく。 “強くなれ 私の修羅。” わたしの……修羅……? では この俺の 今こうしているのは 兄の見ている 夢だというのか? ……それでは 八雲の今この瞬間(とき)は 彌勒の見ている 夢なのか……。 その時ちらりと 瑠璃の羽が 瞳横をすうと 飛ぶのが見えた。 何だ……今の思いは……幻は。 人の心に忍び巣喰う 妖魔の 夜叉の 成せる仕業か……。 男の剣が八雲の髪を 束ねる麻紐をすぅ……と斬る。 はらり広がる 金の髪。 陽の光りを受けて 輝き撒き散らし。 その光りのなか 八雲の耳元に まるで悲しいような 男の囁き。 「そんなに心ここにあらずでは……。 貴方……死にますよ。」 その言葉の終わらぬ内 男の剣刃が 八雲の脇腹に食い込んだ。 びゅっ……。 噴き出し 迸る赤い血。 見開く瑠璃の瞳。 その瞬間 封印は放たれた。 立ちのぼる気の物凄さは しゅんしゅんと音さえ立てるよう。 金の髪はその一本一本が ふわりふわりと 命宿したようにゆらめき立ち 冷酷極まる光り放つ ふたつの碧の瞳の奥底には 闘神の姿宿るのが 男には垣間見えた気がしたが それに怯む間もない一瞬に 朱壬の剣は いとも容易く 男の首を 斬り落とした。 ごろり……転がる男のこうべ。 首から胴体から 赤い鮮血はいつまでも 噴き上がり続け。 それは真に 阿鼻叫喚の地獄絵図。 ゆっくりと 金の髪は肩に垂れゆくけれど 八雲は 血滴る剣を ぶらり垂らし持ったまま。 振り向きもせず ただそのまま。 一歩……足が震える。 それから一歩……まだ震える。 もうあと一歩……もう大丈夫だ。 大丈夫だ。 如月は 八雲の方に 歩み寄る。 立ちすくむ 八雲の瞳前にそっと立ち その静かな碧の瞳の 何をも映していないのを一瞳見て そっとその 両の手を 八雲の背に回し その腕に力をこめる。 それから頬を 返り血に染まる胸のなかにそっとうずめる。 「八雲。 あなたは私の誇りだ。」 如月の その言葉のひとつひとつが 言霊のように 八雲の耳に こころに ゆっくりと沁み入ると その碧の瞳は 開け放たれたまま 元のいろを取り戻し その 片方の瞳から ちいさな しずくが溢れ落ちる。 その涓は 頬に染みつく返り血の 上を滑って色を変え だが 細い顎(あぎと)に流れ着く前に 吹く冬の風に 姿を消した。 ばん! と扉を開け放つと そこには 息切らせ立つ 修羅の姿。 「修羅……!」 木晩の 喉奥からの震える声。 だが 修羅の瞳にまず入るのは 血滲む麻布を 脇腹に巻き付けて 壁に凭れ座る 八雲の姿。 「奴が……来たんだな。」 響く……聞き慣れた 修羅の低い声。 「修羅。」 如月は 修羅を見ない。 「謝れ。──木晩と 八雲に。」 だがその言葉の終わると同時に ほんの少し微笑んで 静かに 呟くように八雲が言う。 「修羅。……待っていた。」 |