いま、花へと



-presented by Ms. Shinobu Kujoh-

小真珠 この作品は『エスペランサ』の九条忍さまより賜りました
『エスペランサ』さまへはこちらより、是非ご訪問下さい
小真珠


 「おじさん、ここでいいわ……」
「おや、こんなとこでええのか?」
 激しい冬風が、しがみついた枝葉を容赦なく凍った道端に吹き飛ばす。
コートの襟をぎゅっと立て、首を竦めなくては寒さでまともに歩けやしな
い、除夜の鐘を残すだけの大晦日の夜。街灯もまばらな山際の道でメータ
ーの料金を支払う、鞄も持たない髪の乱れた若い女の客など、奇妙を通り
越して気味が悪かったに違いない。
 運転手はバックミラーに映る私を一瞥し、怪訝そうに眉を寄せた。
「こんな山ん中、帰りはどうするね? ここで、待ってもいいだに」
「ううん。ありがとう、おじさん。本当にここでいいから」
私は礼を言い、薄手のセーターの上から抱えるようにして両腕をさすった。
肌を刺す厳しい風が、寒さを越えて痛かった。スカートの裾を勢いよく引
き裂き、車道の柵を跨いで、山に連なるなだらかな斜面へと足を踏み入れ
る。【私有地により立入禁止】の看板の前で邪魔なヒールを脱ぎ捨て、重
い足を引きずりながら少しばかり進んだ。樹木葬の御山は一見して、普通
の山と何ら変わりはない。勾配の上から車道を見下ろすと、ハザードの点
滅が消え、乗って来たタクシーがようやく走り出すのが見えた。
 一歩、また一歩と、踏みしめる度に、突き出した鋭い枝や小石の間で霜
が啼く。
(おじいちゃん先生、おばあちゃん先生……。こんなはずじゃなかったの
に。あたし、こんなことのために――今日まで)
破れたストッキングからは血が滲み、擦り剥いた脛(すね)からは、ぬめ
りを帯びた温かな雫が滴っていた。私は耐え切れずに座り込み、枯れた草
の上へと胃液を吐き散らした。背中を丸め、えずくように体を震わせるが、
胃の中にはもう吐くものが何もない。胃袋が引きつれるように収縮する痛
みだけが、嘔吐感を煽っていた。
両の掌に、はあっと白い息を吹きかけこすり合わせる。
「血、血が…とれない、とれない……とれないよぉ」
 私は手の皮が剥けるのも厭(いと)わず、粗い地面をがむしゃらにかき
むしった。泥に染まり割れた爪の間にも、うっすらと血が滲んでいたが、
剥がれかけた爪と肉の痛みすら感じない。頬や目元にできた青あざの痛み
など、とうに鈍く、押さえてみなければ分からないほどになってしまって
いる。手についた血など、どこにもない。だけど両の手を染めた、鼻につ
く真っ赤な血の匂いと、生々しい温かさが、手の皮を一枚隔てた下に、濯
ぐことのできない烙印として、べっとりとこびり付いているように思える。
きっと、私の体には救いようのない毒素が沈み、全身の穴から膿となって
噴き出そうとしているのだ。たまらず口の中へ指を突っ込み、吐くものを
求め、無理にでも掻き出そうとした。


 御山管理事務所の夜勤の明かりも、年の瀬ともなると、せいぜいひとつ
かふたつが関の山だ。あつあつの年越しそばをすすりながら、係りの者が、
二年参りで鐘を突きに向かう参拝客の中継を眺めている。そんな近くを堂
々と通ったとしても、気付かれることもない。途中で立たなくなった腰を
諦め、膝小僧を擦り剥きながら、私は這うようにして立ち枯れた雑木林の
間をひたすら登った。
(こんなことになるなんて、あの頃は思いもしなかったのに)
 孤児院で、両親のいない『兄弟』と呼ばれた皆と、おじいちゃん先生と
おばあちゃん先生。ひもじくて空腹の虫が鳴いても、毎日が大家族のよう
な賑わいだったことしか、思い出すことはできない。たまに届く、寄付の
玩具を取り合ってみたり。隣の皿からつまみ食いをしては追いかけあい。
洗い立てのシーツにくるまっては、怒られてみたり。毎日がお祭りのよう
に過ぎて行き、今よりもずっと、家族の暖かさに包まれていた。
 少しばかり離れていてもいい。肩を並べてくれなくてもいい。同じ目線
で、尺度で、同じものをいつも見て欲しいなんて、贅沢なことを望みはし
ない。背中を合わせては、無言で膝を抱える。触れ合いそうで、触れ合わ
ない。微妙な距離で、ふいに人肌が恋しくなる、誰でも描きそうな人並み
の家族を望んだことが、そんなにいけないことだったのだろうか。
 息も切れ肩を大きく揺らす頃、ようやく埋葬地に辿り着くことができた。
まだ子供の木に、楽しみにしていた花は付いていない。皆で出し合った、
なけなしのお金で敷地を買い、大好きだったおじいちゃん先生と、おばあ
ちゃん先生の骨を砕いて、手玉代わりに遊んだナツメの実と一緒に、埋葬
してヤマツツジを植えた。骨堂(カロート)もなく、墓石もない。季節が
巡れば上品で素朴に朱を誇る、死んで花に生まれ変わる。
「おじいちゃん…おばあちゃん……、私には誰もいない。いないよぉ」
 額を土にすりつけて、大声で泣きたいのに乾き切ってしまった涙は出て
こない。かわりに口を突いて出るものは、みじめで虚ろな笑い声だけだっ
た。大晦日は、迎えるはずの新年は、こんなはずではなかった。年越しは
テレビを囲み、新年は同じ食卓で手を合わせて、引き締まった心で朝を迎
える。換気に開けた窓から飛び込む空気は新鮮で、きっと清冽な気を宿し
ている。
今年最後の夜に、訪ねてみた窓からもれた華やいだ笑い声と家族の明かり
を見た時、『兄弟』にすら抱いてしまったやり場のない醜さ。いたたまれ
なく、胸の奥が刺すように痛い。針の穴ほどの痛みはじわりと広がり、そ
の場に立っていることもできず、逃げ出した後に振り返ることすらできな
かった。
『お気の毒ですが』
 平らになったお腹をさすれば、医者の声が蘇る。
 私が愛した男は、優しかった。優しいと思ったけれど、情けない男だっ
た。優しければ優しいほど、何かにつけて私を殴った。傍目から見れば、
どうしてあんな男を好きになるのか、酔狂にもほどがある。きっと、そん
なふうに見られていたに違いないとも思う。でも、まるで引力に引き寄せ
られるかのように、自分の手にも余る感情を抱いてしまった時、もう後に
戻ることはできなかった。彼の借金を返すために、夜はバーでお酌をする。
三文芝居でも買ってくれないくらい、よくあるチープな話に陥っても、体
だけは決して売らなかった……なのに、私のお腹が大きくなり始めた頃、
酔った彼は手の付けられない獣のように、酒瓶を振り回して怒り出した。
今まで以上に顔を殴り、髪を掴んでは床に引きずり。そしてついに、安ア
パートの裏路地で、私のお腹を何度も何度も蹴り飛ばした。『この売女
(ばいた)めが』と、ひどい言葉で罵った。しわがれたあの声が、耳をつ
いて離れない。
(どうして、私だけがこんなことになったの?)
 答えのない問いに耳鳴りがする中、蹴り付けられたお腹の子供だけが心
配で、病院に駆け込んだ。
『お気の毒ですが……』
「くっ、くっ、くっ、あははははは」
 私は大きく笑いながら、仰向けに転がり両腕を投げ出した。乾燥した冷
たい風が頬を叩くと思っていたのだが、いつの間にか幾重にも垂れ込めた
雲間から、大粒の雪が舞い落ちている。
「六花(りっか)だあ」
 ひとひらの雪を手に受けて、おじいちゃん先生が教えてくれた呼び名を
口にした。
『六角形の結晶をもって、その形(なり)はむっつの花弁の如し。だから、
雪は六花と呼ぶんじゃよ』
溶けてなくなり、天から地へと還る雪を眺めながら、眦(まなじり)から
涙が伝ってくる。
お腹の中で、父親に蹴り飛ばされた子供は死んでいた。陽の光に瞳を開け
ることもできなくなった子供を、暗いお腹から出してもらった後のことは、
もうよく覚えていない。きっと、張り詰めていた頭の螺子が、どこかで外
れ飛んでしまったのだろう。術後に体の傷跡の問診を受けたような記憶も
朧に残っているが、術着を引っ掛けて素足のまま、看護士の止める手も振
り切り、ふらふらと表へと出たような気がする。
(私の何がそんなにいけなかったの? どうして私だけが、こんなにみじ
めなの?)
 こんな自分を、誰にも知られたくなかった。兄弟はもちろん、見知らぬ
赤の他人にすら、こんな自分は見られたくなかった。アパートの、ゴミ置
き場に捨ててあった鉄パイプ。杖代わりに拾って自分の体を精一杯に支え
ながら、アパートの錆びた階段を一段一段、ふらつく足で上って行った。
部屋に戻ったら、男は案の定、酒気を帯びてすっかりご機嫌に出来上がっ
ていて……やがて意識がはっきりと戻った時、両の手は紅く染まってしま
っていた。悲鳴を上げたくても、恐怖のあまり喉を掻きむしっても、声が
上手く出てこない。頭を抱えた私の足元には、鼻と耳から血を流した男が、
まだ温かいまま横たわっていた。
頬と術着に飛び散った毒々しい赤と、腕に残ったリアルな振動が、パイプ
で男の頭を綺麗に何度も殴り飛ばした真実を、残酷に物語っていた。


「おじいちゃん先生、おばあちゃん先生、あたし――どこで間違っちゃっ
たんだろう」
 ゴーン ゴーン ゴーン
 山麓にある小さな寺の釣鐘が、煩悩の百八つを払い始めている。
(神様、仏様、私は罪人です。こんな私は、生きていても仕方ないのでしょ
うか?)
 誰が教えてくれる答えでもない。本当に、神様が裁くものかどうかも分
からない。いま、白い雪を受けながら思い出すのは、こんな時でも、おじ
いちゃん先生とおばあちゃん先生のことだった。鴛鴦(おしどり)夫婦と
は、少しばかり違うような気もするけれど、おじいちゃん先生は、普通の
墓石の下や納骨堂のように、冷たく、淋しい、暗い闇は似合わない。つば
広の厚手帽子を目深に被り、指先の小洒落た仕草で、和んだ目尻が覗くく
らいにちょいと上げる。笑いじわの弾けた顔で、おどけたようにはにかみ
ながら、『それじゃ、また明日』と、ひょいと帽子を脱いでみせた。おば
あちゃん先生は、おじいちゃん先生の一切を仕切る人だった。『兄弟』の
ために財布を絞めて、タイムセールのチェックに余念がない。目に付いた
食品へ適当に伸ばす、おじいちゃん先生の手をぺちりと弾く人だった。無
駄のないやりくり、厳格な授業を仕切る裏で、洗濯物を天日に干す笑顔は
暖かだった。
(おじいちゃん先生、おばあちゃん先生……まだ、この地にいるのかな?)
 ふと、そんなことが頭を過(よ)ぎる。樹木葬の教えは、死して仏が花
として生まれ変わる。だけど、私はこうも考えるのだ。死してその魂は目
では見えない糸となり、まずは大地に縁(えにし)として繋がる。やがて
その糸は細く細く空に伸び、やがては天へと結ばるのだ。故人への想いを
忘れさえしなければ、その魂は気まぐれに糸の道を伝い降りてくる。待ち
人は、その目印のために花を植えるのだと。
「いつか生まれ変わることができたら、私はどこにでも飛んでいける鳥に
なりたい」
 私は手を伸ばし、鐘の響く夜空を掴むように拳を結んだ。
「――目を瞑り、頭を垂れて、静かに風にそよぐ草になりたい」
 目を閉じれば、寝転んだ耳の側で震える草の音が聞こえてくる。が、そ
れよりも、ぶかぶかな帽子を頭に乗せて、わしゃわしゃと撫でてくれた、
おじいちゃん先生の節くれだった大きな手を思い出す。おばあちゃん先生
の、厳しさの裏に隠された、柔らかな気遣いを思い出す。
「……ううん。私はやっぱり……先生と過ごせる、ヒトでありたい」
 顔を両の手で覆い、しばらくの間動かずにそよぐ風に耳を澄ました。さ
よさよと、湿りを含んだ草が歌う。いつまでも聞いていたい衝動に駆られ
ながら、このまま寝ていたら、このどうしようもない世の中から消えるこ
とができるのだろうか。消えた事実を誰に悟られるわけでもなく、風の便
りに、『ああ、そんな人もいたっけ?』。空気のように、消えて先生の側
に、こんな汚れた私でも逝けるのだろうか。
 小さな風の音に混じり、ふと誰かに呼ばれたような気がした。
 両の目から溢れる涙を拭いながら、首を右へと巡らしてみる。
(えっ……そんな)
 顔のすぐ側で、ヤマツツジがたわわに咲いていた。先端で咲かれる重さ
に細い枝がしなり、花が頭を撫でるかのように、小さく、大きく揺れてい
る。花の下に漂う空気は暖かく、頬を何度も何度も、掠めるように離れ、
離れては撫でていくかのように感じた。
「……せ、ん…せい?」
 花は凛とした香と花粉を撒きながら、大きく揺れる。
「先生! せ……んっ」
 揺れて頷く花に、私は身を起こして口元を押さえた。
「……おじい……おじ…うっ、おばあ…ひっ」
 涙交じりのしゃくりあげる声では、上手く言葉を紡げない。呼びたい名
前を叫ぶこともできないなんて、私はどこまで情けないんだろう。悔しさ
に歯噛みをし、渾身の力をお腹と喉から振り絞って私は叫んでいた。
「お父さん! お母さん!」
 ずっと、ずっとそう呼びたかったのだと。溢れて止まらない涙の数だけ、
私は知った。


「あんた、何をしとるね?」
 目が覚めた時はじめに飛び込んできたものは、瞼に当たる眩しいくらい
の朝陽と管理人の不審をたたえた顔だった。
「あんた、揺すってもなかなか起きんし。死んどるのかと思ったで。その
わりには、あったかい死体だげんどな」
山間での真冬の一夜を屋外で過ごしたのだから、体温をとられて凍死して
いても可笑しくはなく、むしろそれが普通なのだろう。木の幹にもたれか
かった横では、昨夜のヤマツツジが蕾もないまま静かに佇んでいた。
「あけましておめでとう」
 私は軽く握った両手を揃えて突き出し、笑顔を向けた。アパートには真っ
二つに折った携帯も、術着も残したままだ。やがて私を捕らえに、けたた
ましいサイレンを鳴らしたパトカーが到着するだろう。だけど、私は……
みな、等しく生きるものでありたい。そう心から願える新年に、笑みをこ
ぼさずにはいられなかった。


                                     


-end-




九条忍さま、とても素敵な作品を本当にありがとうございました!


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