最初のマッチは湿気ていた。 かじかむ手で不器用に次の一本をつかむと、また擦った。粗悪品のそれはぽっ きりと真ん中で折れた。 三本目、ダメかと思ってつけたら、それでも小さな火がついた。 コーリャはその小さな火を消してしまわないようにマッチの箱を持つ手で風 除けを作りながら、そっと地面に置かれた本の端に触れさせる。しばらく小さ な炎はぐずぐずとしていて、マッチの柄ばかりを這い上がりコーリャの白い指 先にまで迫ってきたが、やがてあきらめたようにその身を本へと移すと、とた んに勢いよく表紙全部に流れ渡った。表紙の紙が端から焼失し、残りの部分も きゅうっと丸くなり、本文の粗悪な紙は動きすらなくただ次第に黒く消失して 行くさまを観察しながら、コーリャは自分の首に巻かれていた真赤なネッカー チーフをほどくと、それもまたその火の上に置いた。一瞬その赤が火を覆った かにみえたが、次の瞬間には火がすぐに赤を飲み込んで、次第に黒く、そして それもまた失われていった。 森の黒い木々の間を抜けてきた弱い風が、炎を優しくなでて草原を吹き去っ てゆく。薄く朱い光で空を染めながら、遠くなだらかな地平線の先へ、小さな 太陽はゆっくりと落ちようとしていた。 冬の夕暮れの、なんと寂しいことだろう。 コーリャの住む小さな石造りの家もまた、その光に包まれている。 えもいえぬ悲しい光が、きっと台所の母を照らしているのだろう。そしてそ のもの悲しい柔らかな弱い光に、火を見つめて座り込んだコーリャの小さな影 が長く伸びる。 だがやがて空の淡い色合いは次第に濃さを増していき、カラスは遠くでその 身を隠す闇を呼んだ。 火はもはや燃やすものをほとんど失い、闇にその身を溶かすように静かにゆっ くり細くなる。 そしてついに火が消えた時、足元にあるのは焼け残りの真っ黒い何かでしか なく、コーリャはそれを土に埋めてしまうと何事もなかったかのように家へと 戻った。 家では母が夕食の準備をしていた。寒い冬にはたくさん作って冷凍しておく ペリメニ(ロシア風水餃子)を、今年はいつもより遅かったけれど、ようやく 作り始めたようだ。まだそれほど多くはなくて、おそらく今日の夕食で食べきっ てしまう量だけど、コーリャにはそれが新しい重苦しい季節を感じさせる憂鬱 な料理となった。 彼はいつもならその時間はキッチンのテーブルに教科書とノートを開いて勉 強をするのが習慣だったが、もうそんな気分ではなくなっていた。 すべてはただ、無意味。 何もかもが終わって、今までの全部が無駄になった。繰り返し教えられ暗記 させられた他国の手本となるべき優れた歴史は大間違いで、良いとされてきた 事は荒唐無稽な自己満足。 コーリャはただその大きな、だけどここ数日で急激に起きた変化を、細く小 さな体で黙って受け止めるしかなかった。何も言わなかった。喜びも悲しみも しなかった。ただその事実を受け止めただけ。だって、抗いたくても彼の両の 手はあまりに小さすぎ、声はあまりに細すぎた。 それゆえに今、コーリャは思う。毎日朝早く起きて学校に行くことに、同じ 時間に食事をとることに、同じような他愛のない会話を繰り返すことに、いっ たい何の意味があるのだろう。 暇つぶしにテレビをつけても面白いニュースなどあるわけはなく、すぐに消 して、家族みんなが使い慣れている古いラジオをつけた。早口で話される内容 は、ここ数日で何度も何度も聞いたものばかり。 新しい国家としてのロシアは…… ついに我々の新しい時代が始まったのだ! 党に支配される時代は終わり、これからは…… 自由。そして、金。 クーデターの失敗は…… ……ソ連は、崩壊した。 ただやみくもにラジオをいじって局を変えてみたけれど、どれもほとんど同 じことしか言っていないことにやはり絶望し、そのうちラジオも消した。 その瞬間に不意に訪れた沈黙に、やがて台所からぐつぐつとスープを煮込む 音が戻り、そして匂いもそれを追ってただよってきた。 いつもなら心が躍るような、おなかがすいて待ちきれないせわしない気分にな るのに、今日はちっとも気持ちが動かなかった。 もうすることもない。 心の中にあるのは、闇ではない。あのもの悲しいロシアの夕日が、彼の胸を 占めていた。 椅子に座ってだらだらしてみたけれど、台所から聞こえてくる音にどこか後 ろめたさを感じて落ち着かず、やがて少年は自分から台所へと入って行った。 「手伝うよ」 「宿題は終わったの?」 「今日は宿題が無いんだ」 それ以上母は聞かなかった。彼もまたそれ以上何も言わず、食器を棚から出 して並べる。ちらちら向けられる母の視線に居心地の悪さを感じながらも、そ してその意味をだいたいのところで理解しながらも、コーリャは一言も言い訳 をしなかった。 「学校は? 先生はなんて?」 今年の初めころに、このままの成績を維持したらモスクワのリツェ(寮付き 高等専門学校)に行けると言われていた。地区の教育委員会が推薦してくれる のだと。 モスクワで勉強して、モスクワ大学に入って、いい仕事が見つけられる。シ ベリアの田舎育ちの貧しいコーリャにとって、それは魅力的な夢だった。 だからコーリャはそれが夢で終わらないように頑張った。元から秀でていた 勉強はより一生懸命に。またピオネール(ソ連の青少年育成のための奉仕活動 団体。ソ連版ボーイスカウト)の活動にも積極的に参加した。去年の夏からは ついにリーダーに選ばれたほどだ。 どの大人もコーリャを褒めた。 まさに模範的な、優秀な子供だ。 いずれはこの村出身の党幹部となるかもしれん。 みんな、コーリャを尊敬し、コーリャを見習いなさい。 大人たちは誰もが自分のことのようにコーリャの活躍を喜んだ。学年の半分 が終わって、成績はまた上がっているはずだった。 だけどコーリャにはわかっていた。モスクワ行きがもう夢だということは。 国が無くなり、制度が変わり、これからはお金がなければ勉強もできなくな る。 そして母親もそれは知っているはずだった。毎晩ラジオを聴いているのだか ら、モスクワで何が起きているかはコーリャより詳しいはずだ。でもまだ希望 を捨てていないのかもしれない。だからそれは、コーリャが自分で言わなけれ ばいけないことだった。 「先生が言ってた。もうモスクワには行かせられないって。国がなくなって、 全部ひっくり返ってしまったんだって。母さんも知ってるだろ?」 だからもう必要なかった。教科書も、ピオネールの証である赤いネッカーチー フも。 母は何を言ったらいいかわからないようだった。悲しそうな顔をして、だが コーリャがあまりにもあきらめた目をしていたから、コーリャの前で嘆くのは 逆効果だとわかったらしい。もう誰が言ってもどうにもならない。それだけは 確かなのだから。 だから母はそれ以上何も言わずに、大鍋の中で美味しそうに湯気を立ててい るペリメニをコーリャが用意していた皿に、少し多めによそった。 「おじいさんが食べるのを、手伝ってあげるのよ」 寝たきりの祖父は奥の自室で食事をとる。いつもは母が食事を手伝うのだけ れど、今日は一人になりたいのか、それともコーリャを一人にさせるのが心配 なのか、珍しく彼に祖父の介護を頼んだ。コーリャは言われたことを嫌とは言 わない、いい子だった。 コーリャの祖父はもう満足に立って歩くことはできない。 時折杖をつきながら居間に出てきてペチカの前で気持ちよさそうにウトウト したり、本を読んだりするくらいで、あとはたいていベッドの上。 祖父は近所の人に好かれていて、時折顔なじみの老人や青年たちが訪ねてく ることもあった。そういう時、彼らは一時間か二時間、奥の部屋で畑の話やト ラクターの話をし、その後でコーリャの母が作った料理を食べながらまたひと しきり話をして帰っていくのが常だった。 早くに働き手であった父を亡くし、老人と女子供だけの家を気遣っての事だ ということは誰もが知っていた。だからコーリャの母も贅沢ではないがおいし い料理でもてなすのだ。 だが最近コーリャの祖父の体の調子が悪くなってからは、それらもほとんど なくなり、一家は静かに慎ましく生活していた。 「おじいちゃん、起きてる?」 ノックをすれば中からはかすれたような声。起きていることに安心し、コー リャは食事を載せたお盆を持ったまま部屋の中へ入った。 祖父はベッドの上で体を起こし、本を読んでいた。 「今日はペリメニか」 匂いで察した祖父が笑みを浮かべる。コーリャはベッドわきにある机にペリ メニの皿や黒パンを並べた。 「コーリャ、どうだ勉強は?」 黒パンを震える手でゆっくりとちぎり、ペリメニのスープにしっかり浸しな がら祖父は聞いた。 「普通だよ。ちゃんとやってる」 「そうかい?」 祖父がコーリャの言葉を信じていないことを声音で感じて祖父の目を見れば、 彼はいたずらを発見したときのような笑み。 「勉強ができるなら、勉強をしたほうがいい。学問は身を助けるぞ」 コーリャの嘘なんかお見通しで、だから嫌がるような事を言う。祖父はそう いう子供っぽい所があった。 「でもおじいちゃん、学校で習ったことは全部嘘だって。ソ連は世界のリーダー なんかじゃなくて、世界で一番強い国でもなかったんだよ。本当はこの国はも う駄目だから、勉強しても無駄だって……」 「先生がそう言ったのかい?」 祖父は、少し怖い口調になった。コーリャは首を横に振る。 「違うよ。外国のテレビを見たっていう同級生が言ったんだ」 「いいかい、コーリャ」 祖父は今度は少しゆっくりと、はっきりとコーリャの名前を呼んだ。 「習ったことは嘘なんかじゃない。数式は国が変わっても変わらないし、10月 革命が起こった日も、国が変わったからって変わるわけじゃない。変わったと 思うのは、人の考えだけさ。だってコーリャは昨日もコーリャで、明日もコー リャだろう? それの何が変わるって言うんだ」 いや、昨日までのコーリャは優等生でピオネールのリーダーだった。でも今 日のコーリャはそれを全部燃やし、明日のコーリャはもう優等生でも、ピオネー ルのリーダーでもない。人の考えが変わっただけだと言われて、そのせいで将 来が閉ざされたと感じているコーリャはたまらなくなって叫んだ。 「でも、僕は頑張って勉強したのに、もうモスクワには行けないんだ! 全部 無駄になったんだよ」 「じゃあ勉強を辞めて働くか? なんなら、セルゲイの息子にトラクターの運 転の仕方を習ったらいいじゃないか。トラクター乗りはもてるぞ」 「いつの話だよ、おじいちゃん。今じゃトラクターなんか乗れたってもてない よ!」 父さんは村で一番のトラクターの乗り手だったと、近所のおじさんが話して くれたことがあった。だから村でいちばんの美人だった母さんが父さんと結婚 したらしい。 でもトラクター乗りは、結局壊れたトラクターの下敷きになって死んでしまっ た。 「そうかい? じゃあおまえは何になりたいんだ」 「宇宙飛行士だよ。僕は月に行って、その後にはアメリカより早く火星に行く んだ」 「だったら、それを目指せばいいじゃないか。国が変わったからって、火星の 方が月より近くなることもないだろうしな」 「でもリツェには行けないんだ。いくら勉強したってもう無駄なんだよ!」 絶望は、やはりコーリャを捕らえて放そうとはしなかった。すべてが無意味 だというむなしさが、胸いっぱいに広がる。だが祖父は、それを知ってか知ら ずか、豪快に笑い飛ばした。 「そんなことはないさ。頭がいい奴っていうのはな、無理なんて言わないでど うやったら夢がかなうかいっつも考えてる奴のことだ。コーリャはそういうの が向いていると思うね。それとも何かい? なんでもかんでも学校で教えてく れないとわからないのかい?」 カチンときたのは、まだコーリャが幼いゆえか、この祖父の孫だからか。 「そんなことない! 僕は自分で考えられるし、自分で勉強できるんだ」 ムキになって口答えするコーリャに、祖父はふふんと鼻で笑った。 「だったら、どうやってモスクワの大学に入るか考えればいいだろう。だいた い、お前はまだ八年生だ。ゆっくり考えてるうちに、国も安定するさ。さて、 ペリメニがちょうど良く冷めた頃だな。最近は熱いのが食べられなくての」 祖父はそういって、スプーンですくったペリメニを美味しそうに食べはじめ る。 今までの話はペリメニを冷ますための時間つぶしかと思うとコーリャは面白 くなかったし、ペリメニはコーリャには冷め過ぎていた。 窓の外はもうすっかり夜の帳が下りて、ずっと遠くに隣の家の小さな明かり が見える。あの明かりの下で、やはり同じように隣の家族が食卓を囲んでいる のだろう。今日は寒かったから、もしかしたら隣の家もペリメニかもしれない。 国の体制が、名前がが変わったと、全てがひっくり返ったと言いながら、そ の景色は何一つ違わない。去年よりコーリャの身長が伸びた分だけ、少し遠く まで見渡せるようになった。それだけだ。そしてその遠くは今、夜の闇に隠れ ている。 「前の革命は、わしが10になったばかりだったなぁ」 祖父は食べきれない分のペリメニをコーリャの皿に押しつけながら、遠くを 眺めてそう呟いた。 「ロシア革命?」 「そう、17年のな。まさか生きている間に2度も国が変わるとは思わなんだが」 そういう祖父の口調には、ただ懐かしそうな気持ちだけがこめられている。 息子を戦争で、父を粛清で失くし、妻に先立たれた生活が平穏だったはずは ないのに、ただ懐かしさだけのその声と表情にコーリャは怒っていた自分がひ どく小さな人間に思えた。 「革命の前も、この村はこんなだった?」 「ああ、何も変わらないさ。あの家も、あの森も、あの畑も。ここから見える 景色は全部同じだ。きっと何百年も前から、ほとんど変わっとらんのだろう」 コーリャは最後のペリメニを口に入れた。 「ペリメニもな、味はずっと変わらんよ。わしの母さんが作ってたものを、今 はお前の母さんが作ってる。お前からしたら曾祖母さんにあたるわしの母さん が家内に教え、家内がお前の母さんに教えた。きっとこの味も昔々のご先祖様 の時代からずーっと変わらないんだろうよ」 コーリャは、冷めていてもやはり美味しいと感じられるその味に、思わず頬 が緩む。 祖父はそんなコーリャを見て、皺だらけの顔をさらに皺だらけにして笑った。 「さて、おなかもいっぱいになったし、わしはもう寝るよ。ありがとうコーリャ」 コーリャは食器を持って階下に降りた。 「お母さん、おかわり」 母は、いましがた上で祖父とご飯を食べてきたはずの息子が空の皿を渡すの に驚きながらも、鍋からアツアツのペリメニをよそった。 「あんた、おじいちゃんと食べてきたんじゃなかったの?」 「僕にはぬるすぎたんだよ」 そう言いながら、コーリャは小さな食卓で母と向かい合わせに座ると、まだ 湯気の立っているそれを一つすくって口に入れた。何とも言えない優しい味が口 いっぱいに広がる。 「あんた、ずいぶん美味しそうに食べてくれるんだね」 「だって僕、ペリメニ大好きだから」 母は目を丸くして驚いて、次いで祖父とよく似た顔で笑った。 「そうかい。そりゃ良かった」 パンをちぎりながら、コーリャはちょっとだけ天井を見上げる。 「おじいちゃんって、革命の頃の夢とか見るのかな?」 「さあ、どうだろうね。今度聞いてみたら?」 「そうだね」 きっと祖父は、その頃の夢をとても懐かしがるだろうけど、思い出すことは 少ないんじゃないかと思った。 「母さん、僕はきっと今まで通り良い子じゃなくなると思う。ピオネールもも う行かない」 母は、息子の気持ちに気付いていたのだろう。優しくうなずいた。 「あんたの好きにしたらいいよ」 「うん。僕は勉強と体育は頑張る。将来宇宙飛行士になって、宇宙から母さん に電話するからね」 「そりゃ楽しみだね。じゃあそれまで長生きしなくちゃ」 楽しそうに笑う母に、コーリャは少し残念そうな顔を見せた。 「でもね、今日ちょっとした間違いで教科書をなくしちゃったんだよ」 「あら、それは大変ね。全部かい?」 「うん、全部。だからさ、新しいのを買わないといけないんだ」 燃やしたとは、まさか言えるはずもない。だけど教科書は、やっぱり必要だっ た。燃やしたことを今更ながらに後悔しつつ、それでも彼は教科書を手に入れ るために少々ずるい手を考えたのだ。 母は、そんなコーリャの言葉に騙されたのか、大きくうなずいた。 「そうだね。新しいのが必要だ。それも今までみたいなお古じゃなくてピカピ カのがいいよ、新品のさ。なんてったって新しい国になったんだからね!」 「そうだよね。だからさ……」 コーリャが先を言う前に母はバシッとコーリャの肩を叩いた。 「宇宙に行くには、まず教科書を買うお金を工面する方法を考えないとね。新 しい時代は自由があって、金が大事になるって言うじゃないか。あんたは頭が いいから、どうやってお金をこさえるかちゃんと考えるんだよ!」 ついていけない展開に、コーリャの目が丸くなる。 「え? 買ってくれないの?」 「自分で教科書燃やしちゃうような子に、何で買ってあげなきゃいけないのさ。 自分でなんとかしな!」 母もまた、すべてお見通しだった。いつだって母は、コーリャの考えを見透 かしてしまうのだ。きっと教科書は、近所のもう学校を卒業した家の子から、 貰わなければならないだろう。いつものことで、またお古だ。 なんだよ。何一つ、変わってやしないじゃないか。 コーリャは心の中でため息をつきながらも、その顔には笑みがこぼれた。だ が彼には一つだけ気づいていないことがあった。そう、一つだけ変わったこと。 それは、彼が教科書と赤いネッカーチーフを失くしたこと。 今年もまた厳しい冬がシベリアの小さな村を覆うだろう。 そして彼らは今年もただじっと、ひっそりと長く寒い冬をやり過ごす。これ までずっと、そうしてきたように。 |
-終-