そびえ立つオフィスビルに囲まれた、谷間にぽこんと平屋建てが一軒、 その、切り取られた空間分、時代を遡ったかのような、 炭火で焼いたような色合いの木に、 何の模様だか未だに分からない、ステンドグラスの嵌った重い扉は ぐい、と押し開けても、音ひとつ立てない。 『篠薄館』(しのすすきかん)と、名前もアナクロに懐古調、 渋いと云えば聞こえも良いが、要するには古くさい、 この喫茶店を知ったのは、ほんの偶然の出来事だった。 「えぇ? 何? キミ、こんな問題も解けんの? はぁ? 嘘やろ? 嘘やんね? え? ここ、一般国公立クラスやんね? うわ、ビックリしたわ、僕がクラス間違うて来てしもたんかと思た。 間違うて今まで教鞭振るうてたんかと、一瞬、顔、赤うなったわ。 キミね、キミ、今からでも遅うないよ、クラス変えてもらい。 せやね、中堅私立辺りでええかな、それ以下、この学校にないしね。 事務局行ったら、すぐ変更してくれはるわ。 あ、事務局は一階やよ。二階の教務に行ってもアカンよ、念の為ぇ。」 “おい、眼鏡取れや、 顔面やったる、眼鏡取れ。” 何処に行ったら売っているのか教えて欲しい、 毎回毎回、これでもかと柄の変わる、派手なネクタイ締め上げて そう詰め寄らなかった自分を、今となれば褒めてやりたい気もするが 残念ながらその時に、そんな余裕など微塵もなく 気障講師野郎と自分自身、その両方に半々に向けられた 怒りと悔しさに身体が震え、あろう事か周囲の景色までぼやけて見えて、 どいつの視線にも、嘲笑と憐れみが浮かんでいるように歪んで見えて、 次に数学の講義を残すが、とても受講出来る状態じゃない。 ふらふらと、予備校の門をくぐり出たはいいが こんな中途半端な時間に帰宅でもした日には、またお袋の質問攻めだ、 それより何より、今は誰とも、ともかく人間に会いたくない。 家までは地下鉄で7駅、その分を歩けば、その間に 気分も少しは鎮まるだろう、時間も稼げて一石二鳥だ。 都心より少し外れたオフィス街、初夏の太陽照りつける昼下がり、 不思議な程にすれ違う人間は数少なく、 あっちを見てもこっちを見ても、ビル、ビル、ビル、灰色のビルばかり。 一体どれだけ歩いたんだろう、 身の内に渦巻く、はけ口のない怒りと悔しさと、自己憐憫、 コンクリートの照り返しの、結構な温度と湿気がそれらを 上下左右、あらゆる方角から、がんじがらめて、何だかぐらぐらする、 自分が何処にいるのかも、分からないような錯覚に陥り始めた、 その時、ふと、ここが目に留まった。 ドアを開けた途端に、心地好い冷気がすぅ、と、頭部を撫でる。 はぁ……生き返るってのはまさにこんな気分なんだろうな……。 ところが、即座飛び込んで来る筈の、例のお決まり文句、 いらっしゃいませの一言が、どこからも聞こえない。 ……営業中……だよな? 見れば、向かって右側のカウンターのなか、一人立つ、初老のオヤジが、 黙々とグラスを布で拭いて、来客である俺の方を見向きもしない。 え……開店準備中かよ……? そういや、『営業中』の札、ぶら下がってなかったかも知れないな……。 と、入り口に一番近い、左側の席を見遣れば、 奥に座る人物は影と隠れて見えないものの、 そのちいさな、茶色のテーブルの上に、クリーム・ソーダがひとつ、 目にも鮮やかな、エメラルド・グリーンの上に、 ぽこんと、丸まっこい、バニラ・アイスクリームが浮かんでいる。 なんだ、営業してるんじゃねぇかよ……無愛想極まりない店だな。 奥に長い、長方形のなか、二人掛けのテーブルが、 この、クリームソーダの席と、一番奥にひとつ、 間に、四人掛けのテーブルが、みっつ、 カウンターに席はない、それらがゆったりと間を取って置かれている、 ただそれだけの、切り取られたような空間。 壁側の椅子は、田舎を走る寄り合いバスの座席のような 壁を背もたれ代わりの、長い一本の、薄いエンジ色のソファで、 その一番奥の端、二人掛けの、そこに足を運んで、腰を下ろした。 ふぅ、と、息をつく。 堅めのクッションが、なかなかに具合好い。 ようやく気がついた、ごくごく、ちいさな音で、音楽が流れている。 クラシックか?……この手の音楽には疎いから良く分からないが、 ともかく、耳障りでない事だけは確か、今はそれが何より有り難い。 見渡せば、壁も、全部、木製。黒っぽい木の色、一色。 背にした窓から漏れ入る光は、隣接するビルに遮られ鈍色に彩度がなく、 柑橘系の色合いの、明度の低い照明だけが、仄明るさを落としている。 立てかけてあるメニューを見れば、呆れた事に軽食のひとつもなく、 どこにでもあるような、ドリンク類ばかり。 ……こりゃあ……とても今時とは思えねぇな……。 「いらっしゃいませ。」 先程の、マスターとおぼしき初老のオヤジが注文を取りに来る。 「あ……アイス・コーヒー。」 「はい。」 そこは、“はい” じゃなくて、“かしこまりました” じゃねぇのかよ。 というより、若くて可愛いミニスカのウエイトレス一人居ねぇのかよ。 ……いや、雇える筈もないよな、この閑散たる有様じゃあ。 決して地価の安い地域じゃないこの周辺、 どこをどうひっくり返しても、採算の取れる気配はまるでない。 そこで、あぁ、と、全ての点が線と結びついた。 そう言えば、あのオヤジ、歳は六十過ぎ、って処か。 定年退職後、採算度外視の、あいつのご道楽って訳か。 それでこの、時代背景眼中に在らざるが如しの、 タイムスリップしたかの趣味にも合点がいく。 成る程な……成る程、まったく、結構なご身分だぜ。 はぁ……、と、また息をつく。 全く……どいつもこいつも、いいご身分だぜ。 「凉(りょう)、あんた、ほんまに、お母さん、お願いやからね。 まさかお兄ちゃんが、二年続けて、市大、落ちるやなんて。 予備校の先生かて、二年目にはあんなに太鼓判押してくれてはったのに。 あの子、あんなに頑張ってたのに、あんたより、ええ高校行ってたのに。 分かってるやろ、朋(とも)くんは、ちいさい時から、絵、描くのだけが 生き甲斐なんやから、あの子には、絵しかないんやから。 どんな事があっても、芸大か美大に行かせてあげやなあかんのやから。 東京の美大に行く可能性かて、あるんやから。 もう、あんたが、市大でも府大でも、どっちでもええから、 学部も学科も、もうこの際、どこでもええから、 とにかく、特別市民、府民学割制度の効く大学に入ってもらわな、 もう、ほんまに、うち、家計がどうにも立ちゆかへんのよ。」 ……だからその、“朋くん” を止めろと、何度言えば。 あいつには腐っても、朋章(ともあき)って名前があるだろうがよ。 そりゃぁな、あいつは、ガキん頃、ひどい小児ぜんそく持ちで、 外で泥まみれに遊び放題好き放題の兄貴や俺を横目に、 出来る事と言えば、ゲームと、画用紙にいたずら描き位のもんで。 可哀想と言えば、確かに可哀想だったかも知れねぇけど。 けどだぜ。 絵の才能はどうだか、俺にはちんぷんかんぷんだが、 小学二年で府のコンクール二位、四年で特賞に選出され、 以降、もてはやされるのが当たり前、 おまけにガキん頃から家ん中、が、思わぬ処に功を奏した色の白さと どうしても女の子が欲しかったらしい、諦めきれねぇお袋が、 流石にスカートまでのエスカレートには自己制御もかかったらしいが どのみち、お下がりも凉がぼろぼろに着つぶすからと、 着せ替え人形さながらに、次から次へとユニセックスな可愛い服与え、 そのお陰で育まれたのかも知れん、服装に対する絶妙なセンス、 加えて、お袋の願い、歪んで聞き届けたかの、女みたいな顔、武器に、 中学時代から、彼女欠かしやがった事がねぇ。 そいつがお前、阿呆の癖して受験勉強もせず、唯、好きな絵だけ描いて 昨春、唯一美術科のある公立高校に余裕で合格、 今年に入ってつきあい始めたらしい、一つ年下の、 男なら100人中99人が振り返り見るだろうってレベルの、 彼女連れでのご帰宅を、毎日毎日飽きもせず洒落こみやがるんだぜ? あまつさえ、晩飯まで我が家でご一緒に食いやがったりもするんだぜ? 世間のおはじき者最下級難民、浪人生の、俺が居るっていうのにだぜ? 「絵のモデルになってもろてるらしいんよ、無下にでけへんでしょう?」 ……まったく、お袋の、朋章への甘さと来たら、天井知らずというか、 世間知らずというか、思春期の男知らずというか、あぁもう言葉もねぇ。 その点、その点だ、俺と来た日にゃあ……。 ラグビー部活三昧の、高校生活二年半、ピリオドを打った夏休み前、 はっきり言い切れる、あれ程の決死の思いを経験した事などない、 一か八か、大勝負の大告白、見事生涯初めての花、開いたのも束の間、 夏休みは夏期講習、その後も受験受験、デートひとつもままならない。 結果、彼女の方は、第一志望の私立大学に、するっと推薦入学決定、 俺はと云えば……滑り止めの滑り止めまで全壊滅とはどういう事だ。 いや、当然の帰結だ、何せ、勉強なんて全く手に付く状態じゃなかった。 ……違う、白状する、なめてた、大学受験ってもん、そのものを。 ……後は俗に言うお決まりのコースだ、それでなくとも彼女の通う大学は 裕福な子女の集合団体、優美な雰囲気で世間に名を馳せる。 無論、名目上は、“受験勉強の邪魔になっては悪いから”。 俺にだって、なけなしの、プライドってもんも、まだぶら下がってる。 どっちが先、も、糞もない、自然消滅、こうなるのは分かり切ってた。 分かり切ってたさ。 ……くそ。 くそっ! ……違う。 元はと言えば、兄貴、そうだ、兄貴だ。 三兄弟の長兄にふさわしく、一番頭が良いと、何でも出来ると、 親戚連中にも、ずっとそう云われ、褒めそやされ続けて来た、 実際、学区トップの公立高校に進学して鼻高々だ。 ……まぁ、そこからが、ちょっとは気の毒な転落人生な訳だが。 流石に各中学上位10名足らずしか合格をみない学校で これまで唯の一度も経験した事などなかっただろう、 学年平均にも満たない成績しか取れない、なんて屈辱を味わうのは。 挙げ句、どうしても行きたかったらしい、市大理学部生物学科に、 二年続けて撃沈と来た、級友は旧帝大に続々合格を見ているなかで。 だいたい、極度の緊張が腹に来て、試験中三度もトイレに席立ったって、 ……情けねぇを通り越して、そりゃあ最早、悲喜劇の次元だろ……。 でもな。 でもよ。 そのはけ口に、訳もなく殴られるのは、いっつも俺だぜ? 流石に五歳も年下の末弟、三男坊に、手ぇ出すのは気が引けるのか、 女みたいな顔、殴るのに意気消沈するのか理由は定かじゃねぇが。 ラグビーのユニフォームの泥で風呂場が汚れてるだの、 脱ぎ捨てた靴下が耐え難い悪臭を放つだの、 部屋から漏れ聞こえる音楽がうるさいだの。 そういうのは、“訳” とは云わねぇ、唯の “いいがかり” だ。 運動嫌いの癖に、ガタイだけは良い、そもそも三歳の年齢差は決定的だ、 それでもラグビーと、部活内の “いざこざ” で鍛えた身体でやり返し、 この調子だと引き分け位には持ち込める、いや勝機も垣間見えた、と、 思えば必ずお袋の泣きが入って、終了のゴングが虚しくカンと鳴り響く。 ……まぁな。 知ってる、あいつが、どんなに生物ってヤツに興味を持っていたか。 ガキ時代から、隣町連中との闘争に明け暮れた俺とは全く別行動、 遊びと云えば、自転車を15分ばかり走らせばある、広大な府立公園、 そこでの昆虫採集に、亀だのメダカだのザリガニだの、 とにかく狭い庭中、あいつの採って来た生き物だらけ。 ガキん頃から眼鏡かけて、分厚い図鑑とにらめっこだ。 ……浪人してまで蹴られた悔しさに、一晩泣き腫らして ぶっくり膨らんだ無様な顔は、流石に見られたもんじゃなかったし。 ……まぁ、あいつも今は、滑り止めに合格した難関私大物理学科で、 活路見出したみたいだ、元来物理だって得意科目だった訳だからな。 それに、あいつと来たら、俺に輪を掛けて女には縁がない……筈だ。 今だって、実験、実験で、そんな暇ありますか、って飄々としてやがる。 真偽の程は不明だが、まぁ、少なくともありゃコンパって面じゃあねぇ。 どっちにせよ、だ。 元々志望大学も学部も特にない、サークル辺りでラグビー続けられれば。 そんな次男の俺が、有り難くて涙が出る、兄貴の尻拭いに、弟の涎拭い、 お陰様で身の丈には少々嵩の高い、公立大学目指す羽目に陥って、 今日のこの、英文法気障講師野郎との顛末と、相成る訳だ。 ……いかん、再度、怒りが沸々とこみ上げて来た。 ……決めた、やっぱり朋章だ。 殴る。 帰ったら、有無を言わさずあのクソ朋を殴る。 「おまたせしました。」 からん、 白い紙製のコースターの上に、そぉ、と下ろされたグラスのなか、 透明度のない、澱んだような濃い、黒に近い茶の液体にまみれた、 氷が一度、澄んだ音をたてる。 確かに、随分待たされたような気がするな……まぁ、いいが。 “苦っ!" 驚いた。 こんなにとろりと濃厚なアイス・コーヒーなんて初めてだ。 舌に苦さがまとわりついて、そして、不思議に、そのあと、 えもいわれぬ、甘みのようなコクが、口の中、喉奥にまで広がっていく。 ……これが、本来のコーヒーの味、なんだろうかな。 何せ、家じゃぁいつも眠気覚ましのインスタントだし、 外じゃ、ドトールだのマクドだの、安けりゃ何でもいい、 そんなのしか飲んだ事なかったもんな。 ……旨い。苦みと渋みが、慣れぬ自分には少々きつすぎるが、 きっと、これが、本物、なんだろう。 確かに、旨い。 軽いカルチャー・ショックに、意識が現在、今自分の居る、 この場所にようやく舞い降りて、ふと横を見れば、 おいおい、嘘だろ、さっきの、端の席のクリーム・ソーダの主、 こいつもマスターと同年代の、ジジイ間際のオヤジと来た。 オヤジが一人でクリーム・ソーダ?……まぁ、人の趣味に口は出さんが。 ソーダをすっかりたいらげて、悠々自適に、何やら読書に勤しんでいる。 ……もしかして、ここって、定年後の有閑初老人集会所なのか? 懐かしき昭和へのタイムボックス……流石にこれはSFの読み過ぎだが、 ……だが、まぁ、しかし、何というか…… たかだか18歳、平成生まれの俺にも、妙に落ち着く、それは間違いない。 それに……この、アイス・コーヒー。 友人連中の、大学生活エンジョイする噂ばかりが耳に届く、 一人おいてけぼりを喰らった、そんな苛立ちのなかに、 すぅと入り込んで、身と心共、引き上げ掬い上げてくれるかの、味。 ついでに、どうしようもない怒りや悔しさも、いつの間にやら、 どうやら、苦みが、全部引き受けて飲み込んでくれたに違いない。 ……腹が括れた。そんな気がした。 「ごちそうさま。」 レジで小声にそう言うと、相変わらず無愛想なマスターが 「いえ。ありがとうございました。」 と、あのコーヒーみたいに渋みの効いた、やはり小声に答えた。 結局俺の歩いた距離は、何て事はない、たった地下鉄3駅分。 定期ってのは便利だ、講義終了後、3駅で降りて、ここに直行。 アイス・コーヒー一杯で、数時間を粘っても厭な顔一つしない、 人の良いマスターに甘え放題、尤も他に客など殆ど入って来ない訳で。 その日の復習全てを、ここで済まして帰宅。 可愛らし過ぎる彼女連れた、阿呆弟のにやけ顔を見る機会もぐんと減り お袋の愚痴からもしばし解放、自室のエアコン代だって節約出来る。 昼飯は弁当、当然小遣いねだれるご身分じゃなし、 部活に明け暮れバイトの経験さえもない、 そんな俺の唯一の資金源は、小学時代からおばあちゃんにもらい続けた お年玉貯金、そこから一杯のアイス・コーヒー400円分を、毎日毎日 泣く泣く捻出、その都度湧き上がる自己憐憫が、やる気に油注ぐとなれば これはもう、まさに一石二鳥、三鳥、四鳥。 『篠薄館』を巡る、俺の、ちょっと渋めで風変わりな 浪人ライフ・スタイルは、つまり、こんな風にして始まった。 その内に気がついた、例の、クリーム・ソーダオヤジ。 週に一度、多くて二度、俺と同じく、テリトリーを守り、同じ場所に、 常にクリーム・ソーダを、そうして読書を愉しんでいる。 常に俺より早くに席に居(お)り、そうして長居をする俺と どっこいどっこいの粘り様、先に席を立つのはその時々、様々。 要するには俺と同じく、経営者側からすれば甚だ迷惑な常連客って訳だ。 何だか妙な親近感を、勝手に覚えてこっそり探りを入れてはみたが どうにも、決まった曜日のある訳ではなさそうで 茹だる雨中であろうが、強烈な陽射しであろうがおかまいなし、 その来客時に、どういう規則があるのか、全くもってつかめない。 ……まぁ、この辺りにだって賃貸も分譲も、マンションは幾棟も建つ、 そこらの住人なんだろう、ふらり、気の向けばやって来てるんだろう。 定年まで働き蜂、後は濡れ落ち葉扱いか、哀れなもんだな。 いや、他人様の境遇をどうこう言える身分じゃねぇ、ほら、集中集中。 陽のガンガンに、正に殺人的光線を放つ、夏期講習真っ直中の頃だった。 閉店の、午後7時間際まで粘った俺が席を立ちレジに向かえば トイレに席を外していたオヤジの、テーブルの上、残された、 綺麗に飲み干したグラス、その横に置かれた本にふと目が留まる。 ――"The Castle" Franz Kafka。 なぁんだと? 洋書かよ? ペンギン・ブックスだぁ? ……なめんなよ。カフカ位知ってる。名前だけだけどな。 あれだろ、ある朝起きたら巨大な虫になってた、って、 シュール極まる物語書いたヤツだろ。 ヘッセ、カミュ、カフカって、文系高校生の三巨匠みたいなもんだろ。 ……俺もまぁ、理系じゃねぇけど……中途半端に体育会系だしな。 ペンギン・ブックスも知ってる、何せ高三時、授業の教材だった。 ……いけ好かねぇ、スノッブというのか、ペダンティックというか。 そう云やぁ、学者面ってのか、そういう顔立ちだよな、あれは。 ……それにしてもだ、初老のジジイが洋書でカフカ? そしてクリソ? 何なんだこの、魔のトライアングルとしか言い様のない取り合わせは。 ……妙なオヤジだぜ、全くもって妙だ。 そうして、半袖が長袖になり、冷房が只の換気に変わり、 俺の注文がアイス・コーヒーからホットに換わり、 その、アイスに勝るコクの深さと旨さに、正に舌を巻きつつあった、 陽の蔭りの、目に見えて早くなった頃、 クリーム・ソーダ・スノッブオヤジの、長い不在に気がついた。 ……まぁな。もう、クリーム・ソーダって季節じゃねぇ。 だが、この、ステンドグラスの入った、重い木の扉を開ける時、 何やら、期待して左に視線を遣る、そうしてその度、軽く鼻息を吐く、 そんな自分の居るのにも気がついた。 風呂、就寝時以外、飯時さえ参考書を手放さない日々が年をまたいで 狭い庭の梅が白く丸い花をつけた頃、俺の桜はとうとう見事に開花して、 ともかく家計の一段落を見た、お袋の目は遠慮なく潤み、 普段寡黙な親父からも、経済学部なら就職も有利と褒め言葉を一言、 己の進路遮断の危機を逸した、阿呆弟はとりあえず素直に喜び、 兄貴の複雑極まる顔には、流石に歓喜の声高らかに上げるも憚りつつ、 どうにかやり遂げた、使命全うした、その達成感と安堵に満ち足りて、 こうして、俺の、『篠薄館』通いも、幕となった。 Bリーグ昇格なんて嘘だろ? 部員数、高校とどっこいなんだが? そんなラグビー部にともかく所属、講義室より部室に居る方が 遙かに長い、のん気で陽気で、何より自由で、 しかしどこかしら穴の空いたような、そんな、大学生活。 ある日、部室に、文学部の先輩が、ペンギン・ブックスを広げていた。 途端、あの、エメラルド・グリーンの、仄明るい光景が、目の前に蘇る。 「あの、先輩、ちょっと訊いていいっすか。」 「おう。」 「カフカ、って居ますよね。」 「あぁ。旧プラハの作家な。」 「あ……英語圏とちゃうんですか。」 「……凉。お前ほんまアホやな。名前で分かるやろ。原文はドイツ語。」 「あ……そうなんすか……いや、ペンギン・ブックスで 読んでたヤツ、居ったんで……『城』とかって、題名の、あります?」 途端、先輩の、顔色がすっと、神妙に変化した。 「へぇ。」 何だよ……? 先輩の、鋭い視線が、俺の目をじっと見て、ふふん、と微笑む。 「あれな。 日本語訳、出てるには出てるんやが、訳がひどい。 原文で読めりゃ、それに超した事ないけど、英語訳でも十分、いける。 ゆうかな、反対に、最低、英語訳で読まな、理解らんのよ。 意味成しとらん日本語訳で悦に入っとる阿呆、多いんや。 いや、何を隠そう、俺自身、ここに入って、先輩に聞いて初めて知った。 ……なかなかやるな、お前の連れ……か何か知らんが。」 「……はは。」 今度は、俺の顔が、微妙に歪んだ。 相も変わらず、街路樹さえ殆どない、コンクリート・ジャングル、 駅から徒歩、ほんの3分、それだけでもう、汗が腕にしみ出て来る、 梅雨もこれからだっていうのに、全く先が思い遣られるな。 ……初めて押し開けた、それから丁度、一年か。 ステンドグラスの木のドア、この重さも相変わらずだ。 指定席だった場所に座る。申し合わせたように、他に客は誰も居ない。 「いらっしゃいませ。」 マスターの声の響きに、どこかしら柔らかさを含み持つように感じるのは 俺の方の感傷のせいか。 「アイス・コーヒー。」 「はい。」 相変わらずだ。時を止めたように、何ひとつ変わらない。 懐かしいな……懐かしい。 あぁ……ああやって、ネルドリップで、 一手間一手間、かけて淹れてたのか……道理で結構待たされる訳だ。 「おまたせしました。」 これもまた相変わらず、白くきめの細かい紙のコースターの上、 丁寧にグラスが置かれ、そうして、からん、と、氷が鳴る。 「あの……」 「はい。」 何、ドキドキしてるんだよ、オヤジ相手に、恋の告白じゃぁあるまいし。 だが、どうしようもない、この、どっくんどっくん。 思えば10ヶ月足らずの間、会話ひとつ交わした事もなかったんだ。 「俺、受験生やったんですけど……ここの、居心地の好さと、 旨いコーヒーのお陰で、何とかなりました。ありがとうございます。」 マスターの、白髪を存分に蓄えた髪の下、目尻に皺が刻まれる。 「よう勉強してはりましたから、そうやないかと思うておりました。 ご自分のお力の賜物ですが、お役の一端担えたんなら、何よりです。」 年輪深い声に、後押しされた気がした。 「あの……」 「はい。」 「俺が寄せてもろてた頃……夏、週に一、二度、 いつもあっちの端でクリーム・ソーダ飲んでる方、おられましたよね。」 「はい。……彼が、何か。」 “彼”……? 知り合いなのか? その割には、二人、会話などしていた記憶が全くないが。 「いや……その、途中から、全く姿、見かけへんようになったんで、 どうしてはるんかな、と。」 マスターの顔に、より深い、皺が刻まれる。 「……彼も、貴方の事、気に掛けておりましたよ。 多分受験生やろうね、僕らと違うて、ちゃんと志望する処に 行ければいいんやが、と。」 “僕らと違うて”……? 余程、興味津々と疑問符を、顔に露わに乗っけていたんだろう、 マスターが、より、深みのある、包み込むような声に、こう、発した。 「少し話が長うになりますが、よろしいですか。」 俺はただ、無言で軽く、頷く。 「最初に彼がここに入って来た時、あまりの偶然に、 人違いかと思うたのですが、彼がクリーム・ソーダを注文した途端、 確信に変わり、そうして名を呼びかけましたらば、相手も当然のこと、 大変に驚いてはおりましたが、すぐに気づき、 “あぁ、市大経済の。”と、表情を和ませてくれました。」 驚きに、一瞬顔が引きつった俺に、気がついているのかいないのか、 くすり、と、マスターが鼻を鳴らす。 「何でここが、と尋ねれば、それこそ驚くのはこっちやとばかり、 いや、今はここから40分ほどの、郊外に住んでいるんやけど、 馴染みの歯科開業医が、この、一駅向こうに越してしもうて、 30分は、何も口にするなと云うから、その間、散歩がてらに歩いたら、 なかなか風情のある喫茶店があったから、入ってみただけなんや、と。」 「当時の国公立、特に文系は、学費が、只に近いような安さでしたから、 そのせいもありましたんでしょう、旧帝大辺りとは違うて、 我々の通った大学には、なかなかに様々な事情持ちが 集まり来ていたものでしたが、そんな中においても彼は、特に 異彩を放つ人物として、我々同期の間でも、一目置かれる存在でした。 何でも京大数学科に、どうしても師事したい学者が居るのやけれど、 学力が間に合わん、かと云うて下にまだ三人も兄弟が居る、家は貧乏、 浪人等させてもらえる筈もない、それならこの大学にも、数学科は あるのやから、そこに進めばええものを、あの教授に学べなんだら、 教え乞うのも鬱陶しいと、何の興味もない学科にわざと入ったそうで。 ……余談となりますけれど、私は私で、高校時代、すぐ近くの店の出す 珈琲の旨さに虜となって、出来ればそれで生計を立てていきたいと、 思うた処で、口に出すのも憚られる、厳格な家に生まれ育った一人息子、 こちらもまた、只、親を安心させる為だけの、入学やったものですから、 そうして他にもそないな仲間は結構に居たものですから、徒党を組んで、 講義はいつもずる休み、天気の良い日には屋上で煙草をふかし、 空いた教室を雀荘代わりに使い放題、日雇いに小遣い稼いだらば、 映画館や美術館を巡って歩いては、その後は喧々諤々と、意見感想を 語り合うたりして、どうにか鬱憤を晴らしていたようなものでした。」 往事を思い出すのだろう、くすり、と、また、鼻を鳴らす。 「彼の博学と凝り性振りには、当時から、特出したものがありましたが、 面白い一面もまた、ありまして、何と云って、これが妙に甘党なんです。 喫茶店に入ると、我々が普通に珈琲を注文するのに、ひとり必ず、 クリーム・ソーダを頼みます。なんで、と問えば、子供の頃から、 綺麗な青緑色と、浮かんでいるアイスクリームが如何にも魅力的で、 けれども親には、添加物ばかりの贅沢品と、一向飲み食いさせては もらえなかったんやそうで、ただ一度、祖母に、内緒やでと食べさせて もらえた、その色合いと味が忘れられへんのんや、と、それはもう、 子供のような顔をして、嬉しそうに飲食しておりました。」 「その後、私は極一般的に保険会社に入社、彼は、これもまた、 大変に彼らしい選択やと思われましたが、なるたけ自由時間が欲しいと、 全く興味の欠片もない、社会科の高校教師に、養い口を求めました。」 一間、間が空いたから、ちらと、視線を上げたが、そこにあるのは、 やはり同じような、懐かしさと、何十年もの重みのある、微笑みばかり。 「最初に、クリーム・ソーダを運び持って行きました時に、 ようやく、夢、叶えたんやね、偉いもんや、と言われました。 仕事の関係で、居抜きで入手出来る抵当物件、偶然回って来たんや、 退職金、大方つぎ込んだよ、と言いますと、はは、と笑い、 それでも、偉いもんや、そう、言うて、クリーム・ソーダを一口吸うて、 やぁ、旨いわ、と、まるで学生時代と同んなじ様な、子供みたいな顔を するので、歯に悪うないのかと言えば、そうやね、と、言うばかりです。 そうや、と、思い出し、君かて、数学の本、何冊か、出版したやないの、 噂に聞いて、買うてはみたものの、私にはさっぱりやったけど、と 言いますと、あぁ、そうやね、と、素っ気ものうて、そんな事より、 ソーダの中に溶けて、雪のように落ちてゆく、アイスクリームの行方が 気になって仕様のないような有様やのが、あまりにも彼らしゅうて、 全然、変わっておれへんのが、大層、可笑しい思いがしました。」 「秋の日に、レジで精算を済ます際、今日で歯科治療終わったんや、と ぽつりと言うので、それやったら、是非とも私の淹れた珈琲を、一度 飲んで欲しかった、と言いましたら、珈琲音痴の自分が飲んでも、 珈琲が気の毒なだけや、また、クリーム・ソーダが美味しい頃に なったら来るわ、そう、言い残しておりましたんですが、約束通り、 つい先日、また、ふらりと、来てくれました、相変わらず、元気に して居りますよ。お互い、多少、白髪の増えた気はしますけれど。」 「……洋書、読んではりましたね。」 あぁ、なんでこんな腑抜た事しか言えない。 「はい。学生時代から、英語が読めな、世界が分からん、言いまして、 辞書片手に、自力で大変、勉強して居りました。」 まるで我に返ったように、マスターの視線が眼下のグラスに落ちる。 「あぁ、もう氷がすっかり溶けてしまいましたね、 申し訳ありません、淹れ直します。」 「え、いや、いいです。」 「いや、これは私の責任ですから。」 さっとグラス手に取り、くるりと背を向けカウンターに向かう。 ……言い出したら聞かないのは、この年代特有か。 「おまたせしました。」 淹れ直されたアイス・コーヒーは、最初に飲んだ、その時と同じ、 苦くて、渋くて、そうして甘い、えもいわれぬコクのなかに、 今度はもうひとつ、違う味をもたらした。 ……そうだ、自分自身、本当はちゃんと分かっていた。 兄貴や朋章に、俺があんなにいつも苛立ったのは、 あいつ等には、夢があった、これから全生涯をかけ、 足を地に着けながらじっくり育んでゆく価値のある、夢があった。 兄貴に至っては、一度、粉微塵にされたその夢を、 今度は違う方向から見出してさえいた。 ……俺には、何もなかった、ラグビーは、只の趣味、 年を取ればもう、出来もしない、やる気もない、今、楽しむだけの趣味。 二人の間に挟まれれば、否応成しに突き付けられる、 その、 虚無感と焦燥感、それがたまらなかった、 ……それだけだ。 “僕らと違うて”……そう、俺は、全然違う。 似ているようで、全然違う。 「ごちそうさま。」 いつものように、レジで支払いをと、パンツから財布を抜き出せば、 「いえ、今日は。合格のお祝いに。」 「え……ええんですか。」 「はい。」 「あ……ありがとうございます。ごちそうさまでした。」 「はい。」 重い扉を押し開け、外に出た途端、 湿気を存分に含んだ熱気が、待ってましたとばかりに全身を襲い来る。 むはぁ、たまんねぇな。 ……カフカの『城』……か。 読んでみるか、ペンギン・ブックスで。 受験勉強のお陰で、英文解釈にも随分力がついたしな。 使いようの、時間、4年分はあるんだ、 そうだ、それだけはかろうじて、自力で手に入れたんだもんな。 久々に、歩いてみるか。 家まで4駅分、今度はちゃあんと、辿り着いてみせる。 そこからようやく、スタート・ライン、俺対俺の、勝負の始まりだ。 だよな、無愛想な癖に喋り好きマスター、 偏屈スノッブ・クリーム・ソーダオヤジ。 妙ちくりんな縁でこうなったとしか思えない、 俺の、けったいな、先輩達。 |