Mirror, mirror, on the wall. 鏡のなかの、あなたはだあれ? 照り付ける陽光を、苔色が飲み込んだ、 その、みなもが、ぬら、と、波打つ、 まるで、命宿すもののように。 それにしても、なんという熱さよ。 じっと底に、睡りに居らばこそ こうしてみなもに近づけば近づくほどに さて、夏ともなれば、いつもこんなものであったのか 忘我の彼方、目醒めたのは一体、何年ぶりのことであろう。 それにしても茹だるようだ、これではとても耐えられぬ。 ちりん、 廊下の風鈴が鳴った。 手入れの全く行き届かない、草茫々の、広い庭 その片隅にある、大きな鉄棒。 よく、ふたりで遊んだな。 どん。 まただ。 兄の部屋から、床を踏みつけるような、音。 二歳年上の兄が、 家族皆で囲む、夕食の団欒に、 突然怒鳴ったのは、一年前の、ちょうど今頃。 一瞬にして場は静まりかえり その後すぐに、いつものようににこやかに 母がその場を取り繕った。 「どうしてお兄ちゃん、急にあんなに怒鳴ったんだろう。」 心配と、怖れと、色んなものが混じり合い 食後に尋ねてみたけれど 食器洗いに精出しながら、母は振り返りもしない。 「そうねぇ、雅嗣も、高校生になったんだものねぇ。 男の子はね、その方がいいのよ。 悩んで、悩んで、そうやって、一人前の、 女性をきちんと養える、男性に育っていくものなのよ。」 母はいつもそうだ。 綺麗で、何事にも動じない。 短大生の、十九の時 特別講師として赴任して来た、十五も年上の父親に見初められ そうして卒業を待ってすぐに結婚、兄を産んだと、 いつも、誇らしげに語る。 授業参観、 母が来ると、皆が、わぁぁ、と、ざわめき立つ。 「律子のお母さんでしょ、ほんと、若くて綺麗だよねぇ。」 いつも、ちょっぴり、自慢だった。 そう、綺麗でお洒落で、茶道、華道の師範代、 今も毎日のように、カルチャー・スクールに通っては 自分を磨き続ける、自慢の母。 家で論文執筆の傍ら、諸大学で教鞭を取る、 その道の研究者として、名を成す、自慢の父。 そうして、小学校、中学校と、生徒会長を歴任し、 父の血を継ぎ、成績はただの一度もトップを譲らず、 陸上部だった母の血を継ぎ、スポーツも万能、 県内随一のトップ高に、余裕で合格した、自慢の兄。 でも、私は? 誰に似たんだろう、小麦色、なんて言えば聞こえもいい、 地黒の、肌。 凡庸な、顔立ち、凡庸な、成績。 確かに、短距離走は、学年でもトップクラスだし 幼少の頃から習っていた、ピアノもそこそこは弾ける、 図画も、何となく、子供の頃から得意だけれど。 それでも母はにこやかに言う。 「なんにも、気にする事なんてないのよ。 律ちゃんは、素直で、とっても可愛いもの。 女の子は、それでいいのよ。」 ほんの小さな頃から、そう、言われ続けて来た、 そうして兄も、物心ついた時からずっとそばに いつも一緒に遊んで、仲良くて、大好きで。 だから、何、疑う事もなく、今まで来たのだけれど。 どん。 まただ。 初めて怒鳴った、その頃から、 兄は自室に籠もりがちになった。 顔を見れば、相変わらず 優しい笑顔を見せてはくれるけれども それらはどこか、以前と違って、 何だかまるで、取り繕っているようで。 それどころじゃないのだろう、 全県より選りすぐられた精鋭の集結する、鷹津の一員ともなれば。 分かるけれど、分かるけれど。 ──兄ならそこでだって、悠々自適なんだと思っていた。 どん。 こちらにまで伝わって来る、 苛立ち、どうしようもない、思い、 痛々しい。 思わず外に出てみたけれど 何て暑さ、素肌を直接射る熱は、 熱さを通り越して、痛みをもたらす。 ゆくあてもない。 友達なら沢山居る、夏休みに入ってまだ三日目、 受験勉強を理由に訪問を断るような皆じゃないけれど、 自分が、今は、誰にも会いたいと思わない。 ふらふらと、熱に晒されながら歩いていると 通学路の横手にある、朽ち果てた神社に出た。 いつの間に、こんな処まで。 東地区の神社、西地区の自分達には 馴染み薄く、正式名称さえ知らない、 ただ、単に、「東の神社」と、 もしくは── 境内の、裏手となる、鬱蒼と生い茂るばかりの林のなかの 玉垣に近い、榊の大木の太枝に、ぶらり、輪とかけられて その先を、ぶちり、切り取られた形のまま 風が吹いても靡きもしない、今や枝と同じく、 苔さえ生した、荒縄のせいか、 「首くくりの神社」と。 鳥居だけは、堂々たる石造りだけれど、 くぐり、右手の社務所に人の気配もなく 雨戸のような木の扉は固く閉ざされたまま。 岩刳り貫いたかの、手水舎らしきものはあれども 枯れて一体、どの位の時が経ったのだろう、 今や枯葉の溜まるばかり。 目の前の、社宮に至っては、最早建っているのが不思議な程。 慣らす鈴の、縄さえ切れて、屋根の上まで草茫々に荒むがまま。 裏鳥居から入り、鳥居に抜けるのが 学校への近道と、何人かが通学路にしていたけれど 神社の方からクレームが来たのか それとも治安上の問題か 学校側から、夏休みを前に、正式に禁止令が出たんだっけ。 蝉時雨が、耳をつんざく。 社宮の左側は、手入れの全くゆきとどかない、 鬱蒼たる雑木林の山、山、山。 とても、神宿る場所とは思えない、ただ、気味の悪い。 裏手に向かい、随分急な登り坂になっていて その、坂の、一番下、底となる場所に、 沼のような、池があった。 あぁ、そう言えば。 あれは小学二年?三年だったか、 やはり同じく夏休み、男子生徒が言い出した、 首くくりの神社にあるのは亀之池、 そこには、金色の主が棲む、と。 その金色の主を見る事が出来たならば、 こころに願う事が、ひとつ叶えてもらえるのだ、と。 何人かで徒党を組んで、探検に繰り出したみたいだけど そう、当時の身には、こんな処でも立派な探検だった── 普通の色の草亀が、何匹も甲羅を渇かしているだけだと、 次第に噂も風のなか。 願い……願い。 私の願いって、一体、何だろう? こうして見ると、案外広い。 水が濁り濁って、苔色に、透明度が全くないから どの位の深さがあるのか、計り知れないけれど。 本当だ、あちこちに、亀が岩のうえ、甲羅干ししている。 一体何を餌にしているんだろう。 ……どちらにしても、金色の亀なんて、居る筈も。 ぬらぬらと、太陽の光を飲み込んで、 光を帯びた水面を、覗き込んで見ていれば、 まるでそれは鏡のように、自分の姿が、影と黒く。 Mirror, mirror, on the wall. あなたはだあれ? あなたは私。 じゃあ、私は── 私は、だあれ? その時。 みなもが、ゆらと、大きく揺らぎ、 濁り澱んだ苔水のなか ぬらり、金に輝く魚鱗が、 ほんの一瞬、姿を見せた、かと思うと 次にはもう、渦のなか。 ええ……? ず、と、後ずさる。 今のは、何? 太陽の、照り返し? ……そうだ、そうに違いない。 押し留めていた恐怖が一度に爆発したように 小走りに、その場を後にして、 そうして、裏鳥居を出た途端、 自転車に乗る、見慣れたジャージ姿の男子と出くわした。 「あれ、蒔野。こんなとこで、何してんの。」 「あ、ううん、別に、ちょっとね。 ……奈島君は、今日はサッカー?」 「おお、そうよ、聞いてくれ蒔野。 今日こそが、憎き三中との因縁の、そうして最後の対決だった訳よ。 ところが、延長戦を終えても、スコアレス・ドロー。 当然PK戦だと思うだろ? それを、両校の監督が止めやがった、遺恨を残すとか何とか。 有り得えねえだろ、有り得えねぇよ、どっちが遺恨残すんだよ。 ああああ〜〜、俺、今日で、部活卒業なのによ〜……。」 突如降りかかった、正に現実に、ホッとして、 思わず、くす、と、笑みを漏らす。 「そうかぁ、それはひどいよね。」 「だろ? くっそ、この思い、七尾でケリつけてやるしかねぇ。」 「え、菜島君、七尾高に行くの?」 「おうよ。七尾でサッカーやるんだ。」 七尾高校は、文武両道に極めて優れ 毎年かなりの数を国公立に輩出する反面、体育系部活の厳しい事で つとに有名な、いわゆる、二番手校。 「……そうなんだ。菜島君、出来るから、 てっきり、鷹津に行くんだと。」 「まぁた、お前んちの兄貴みたいに、頭抜けてる訳じゃなし。 それにな、七尾のサッカーは、公立じゃあ、結構いいとこ行くんだ、 監督が、いいみたいでな。だから俺は七尾に行く。 ……蒔野、お前は、どこ志望?」 「え、私? 私は……」 まだ、絞り込んでもいなかった、 自分の身の丈にあった、三つの高校、 その、どれでもいい、友達の、沢山行く方に行こう、 その程度にしか、考えていなかった。 帰りの道すがら、思う。 今まで、何かに懸命になった事もない。 何かを、特別に好きに、なった事も、ない。 しなくていい、と、そんなものは、なくていいと、 暗に、云われ続けて来た。 あれは暗示? あれは魔法? ならば、呪縛を解けばいい。 どうやって? 鷹津は無理、それは当然。 七尾だって、当然今は、高嶺の花。 でも、これから、死にものぐるいでやってみれば。 結果どうこうじゃない、やってみれば。 受験勉強なんて、と思っていたけれど。 七尾に行ったとして、行けたとして、 何がしたいのか、何がどう変わるのか、 それはまだ、藪の中だけれど。 いつまでも暑い、射すように、陽が痛い。 汗が噴き出し、服までぐっしょりと、肌にまとわりつく。 でも、辿り着いた家は、出た時と、 なんだか全く、違う建物のような気がした。 ぬらり、今や、西に傾いた、茜の陽光を浴び 苔色の、みなもが揺れる、生き物のように。 此は、菊理媛命(くくりひめのみこと)祀る宮、 我はその依代。 転じて、女性(にょしょう)の願い、聞き入れる者として 百を、二百の年月を、生き存えて来た。 時の移り変われば、願いも変化を見せるもの、 まこと、人とは面白き。 ともあれ、ともあれ、 善きように、善きように。 Mirror, mirror, on the wall. あなたはだあれ? あなたは私。 私は私。 他の、誰でもない。 そう、誰でもない。 ぱりん、と、こころの中に、音が弾けた。 |