はぁ……と、肺の奥底から、絞り出される溜息さえも、豆電球の、ど んより暗いオレンジ色の光のなかに、熱の球の形を成して、身に落ちて 来そうな気がする。 たまらず寝返りをうち横臥となれば、じとりと湿った背中じゅうに、 へばりついた綿のパジャマが、肌からゆっくりと剥がれてゆく。 あぁ、早く眠らないと。明日は部活の朝練で、早いのだから。 枕元に開け放たれた硝子障子、庭と隔てるのは、青い網目の網戸一枚。 時折入る風は、それは風というよりも、重くて熱い湯気のよう。 かちゃ、と音がして、獣特有の匂いが、ふう、と鼻に漂う。 あぁ、Hだ。あの毛皮なのだもの、無理もない。大きな体躯を、縁側の下に 穴を掘り、そこに沈めて夏場をいつも、やり過ごす。あれは首輪とリード を繋ぐ金具の音だ。同じように寝返りをうったのだろう。しんと静まる 夜半(よわ)のなかに、よくよく耳をすませば、彼のはぁはぁと、体内の 熱を放射させる唯一の、方法をとる音が、闇より時折こちらに届く。 豆電球の、鈍く澱んだオレンジの、灯りさえもが圧迫に、耐え難さに 拍車をかける。真っ暗闇は苦手だけれど、背に腹は代えられぬと、立ち 上がれば足元の、布団の上に敷かれた寝茣蓙(ねござ)が、ぎゅ、と 妙な方向にねじれを生む。スイッチの紐を引けば、瞬時に訪れる、闇。 はぁ……。もう一度溜息をつく。今度は少し、違う種類の。 目をすぐに閉じる。閉じてしまえばこちらのもの。 ……甘かった。なんてことだ。 眠れぬ耳に、闇はなんと饒舌なのだろう。 Hの息遣いばかりではない、殆ど凪ぎの状態なのに、木の葉ずれの ような音がするのはどうしてだ。 あれは虫の音。そうして何より耳に障って響くのは、枕元の目覚まし 時計、その針の音。 暗闇に息づく音達は、その姿をますますに、増幅させて、その挙げ句、 脳にどんどんと、勝手な世界を創造させる、広大で、支離滅裂で、 色のない……そのなかに、引き込まれる、引き込まれる……! はっ、と目を見開けば一瞬に、それらの世界は霧散して、残るのはまた 種類の違う、ひやりと濁る汗を噴き滲ませた、重い、重い体躯ばかり。 眠りを欲する身をよそに、精神はぎらぎらと、まるで狂ったかのように、 一体何を望むのやら、これではどうにも持て余す。持て余しながらも もう一度、寝返りをうって腹ばいになり、枕に顎をあずけてすぐ前の、 狭い庭に顔を向ける。 ようようと闇に慣れ来る目に、まず飛び込むのは目の前のテラス。本来 は石灰色のそれが、闇のなかにも仄白く、浮き上がり見えるのは、月の 明かりの随分とある証拠か。 その奥に、左からツツジ、キンモクセイ、名前は知らないが背の低い木。 それから向こうに松、杉と続くのだけれど、ここからは視野の外。庭を裏の 家と隔てるのは、背は自分より、ほんの少しは高いかの、粗末な板塀。 Hがまだ仔犬の頃、出てゆかないようにと父親が、下の方だけ少しの隙間も、 やはり板で埋めてしまったのだけれども、上部は板と板に隙間が広く、それ より黒い、燻した銀にも似た色合いの、鈍い光が入り来る。 その、キンモクセイと、小木、板塀が三角を形作る、場所。ぽかりと 空いた、空間に。 なんだ、あれは? 黒い、もの。 暗い、のではない。ただの暗闇などではない。 黒い、なにかが。 動いた、気がする。 まさか。生き物ならば一番に、Hがすかさず反応し、こんな夜更けともなれば、 牽制に低く唸り、ついには小さく吠えもする。 そのHが鳴かない。何故? 自然、顎は枕を離れ、身を乗り出して、もう一度。 黒い、何かが、確かに、在る。 確かに、居る。 嘘だろう、嘘だろう? 乗り出した身の、前髪が、網戸に、しゃ、と、こすれれば、その一瞬。 その一瞬に、黒いものは姿を消した。 朝練より戻ったその足に、縁側に腰を下ろす。サンダル履きの、湿った 脚に、縁の下のHの気配。下を覗き見れば、もうへとへとなんですよと、 書いた顔を、それでも嬉しそうに耳を折り、ふわりとひとつ、ふたつと しっぽを振る。 「ねぇ、H。昨夜のあれは、何やったんやろうねぇ。」 縁側に座りその場所を、見遣ればそこは、普段と何らの変化もない。 夏の、射るかに厳しい日差しを受け止める、木の葉より漏れた陽光に、 まだらを成した、何の変哲もない、ただの空間、ただの、土の間。 立ち上がりそれを背に、地にしゃがみこんで、縁の下の、Hと今度は 正面からの顔合わせ。よくまぁ、こんなに掘ったものだ。飼い慣らされ、 懐柔させられて尚、しぶとく残る、強靱なる野性。 その野性に、暗闇にはぎらりと緑に光る、きらきらと濡れた黒い瞳に、 慣らされた優しさを交差させ、また耳を折り、こちらを見返す。 頭を、体をゆさゆさと撫でる。縁側の下、びっしりと艶を湛えて生え 揃う、毛はひんやりと、その奥の、生命は温かく、逞しく、それらは こちらの掌に、あらゆる意味に、やわらかい。 撫でられた顔をぐいと曲げ、手をHがぺろりと舐める。 熱い、舌。 「夕方になったら、散歩に行こうねぇ。」 “散歩”“行く”、これらの言葉への反応は瞬時に凄まじく、瞳に 喜悦の光ほとばしらせて、体躯はもう半身を縁の外。 「あ、ごめん、夕方、ゆうがた、ね。」 聞き分けの、極めて良い顔は一瞬にして、なんだ、と、次には照れ くささを露わに、そうしてしなやかにまた、しっぽを振る。 立ち上がり様、もう一度、振り返って、あの場所を見る。 何も、ない、なにも。 ……なんだか急に、眠気が襲って来た。 テラスから、部屋に入って網戸を閉めた。 |