「……どうした。眠れないのか。」
「……何でもない。ただ 退屈なだけさ……。」
焚火の創り出す赤い闇
その闇に光る二つの銀の瞳──。
「何だ。妙な処で遭うな。」
思わず如月はくすりと微笑む。
「修羅。今日もまた抜け出し組か?」
ふん……と修羅は笑う。
「……お前はまさかな。
ここはお前の生まれ故郷なのだから
名残の場所もあるだろう。」
如月の瑠璃の瞳がしずかに輝く。
「……修羅には何でも理解るんだな。
そのとおり 発つ前に
どうしても行っておきたい処がある。」
「……独りでか。」 ──低い声 そして射るような銀の瞳
この瞳だ──如月は思う
人のこころを 意のままに
海底(おぞこ)へさえも導いてゆく 魅眩のいろ──
だが如月は その瞳を
しかと見つめて しずかに言う
「そうだ。」
その堂とした瑠璃の瞳を睨むように見つめ
ふん……とちいさく修羅は笑う。
「暇潰しのあてが出来たかと思ったが
そういう事なら仕方はない……な。」
如月の瞳がふわりと和らぐ。
「……陽暮までには戻る。
他に用がある訳でもないのなら
修羅も少しは 木晩の元で手を貸してやれ。」
「そのうちな。如月ねえさま。」
如月は くすりと笑う。
「……厭な男だな。
修羅とは幾月と違わぬ生まれじゃないか。」
にやりと笑いながら 修羅はくるりと背を向ける。
「お前こそ早く戻れ。
この調子だと冷え込んできそうだぜ。」
そう言って歩き出した修羅の背に
如月はちいさな声で言葉を吐く。
「修羅。」
修羅の歩がぴたりと止まる。
「この間は……すまなかった……。」
修羅はこちらを向かない。
「は。俺はいつでも大歓迎だぜ。」
そうしてまた 何事もなかったかのように歩き出す。
小さくなってゆく修羅の背を
しばらく 見つめていた如月は
ほんのすこし寂し気に微笑んで 踵を返し
そうして ゆっくりと歩み出す──。
「──如月姉様? どうかしたの?」
心配そうにおおきな瞳をこちらに向けた木晩に
如月は微笑み答える。
「すまない……瞳醒(おこ)してしまったか?
思い返していたんだ──鎮守の杜の事を……。」
……それにしても久遠というのは
妙な雰囲気の漂う地だ──歩みながら修羅は思う。
戦いに荒れすさんで尚
どこか心魅かれるような
そのくせ 浮ついたところは微塵もない──。
ちょうど初春には さんざめく花を咲かせる桜の木が
その実その根を容赦なく
地中幅広く奥深くはびこらせているような
そんな強靱さと美しさ
そうして底知れぬ冷酷さを 併せ持つような
久遠はそんな感じの漂う処だ──。
あてもなく 歩き続けてゆくとその瞳前に
今尚緑濃くその葉を残す
檜の大木の陰に隠れるように
小さな神祠(かみのほこら)が現れた──。
「……丸薬づくりも 上手くいけば
明日には終える事が出来るだろう。
……そうすればまた 厭でも闘いの旅のはじまりだ。」
「そいつは有り難い。
それじゃあ明日は 今日如月の行っていたという
鎮守の杜とやらに出かけてみるか。」
「特に何もない処だぞ。
……季節が違えば それなりに美しいが……。」
修羅はその瞳を天に向けたまま
にやりと笑い そして低い声で言う。
「……春には花に 蝶も舞うか。」
その瞬間 八雲はすくりと上体を起こし
その碧の瞳は ぎらりと赤闇中に光を放つ──。
……これが彌勒の墓だったんだな……。
鎮守の杜のふもとにある
はじめの旅立ちの直前に
八雲が立ち寄り合掌した
ちいさな苔むす石塚の前に立ち 如月は思う。
その石塚の前には 萎れかけた白い小菊の花の束
これは──あの時──八雲が手向けたものか
それとも 御親族の方々か──
その時 如月はふと気付く。
そう言えば 八雲は何も話さない
自分の母上 彌勒の母上 そして父上の事 何ひとつ──。
しずかに如月は その御前に跪き
懐より幾つかの 香(かぐ)の木の実を取り出して
それを小菊の横に そっと置く
そうして こころの中で話し始める──。
夜摩天 忉利天 その遙か彼方の色究章天
彌勒よ あなたは神の中の神と共にそこに居て
今も八雲を見守っておられるだろう
私が今 あなたの御前に現れ
こうして話をすることを
あなたは許してくれるだろうか──。
遠い昔 この杜で
あなたの微笑と その深き想い
それを心奥底に刻みつけた この私が
心ならずも 八雲を再び
闘いの ただ中に導き出し
そうして いつか八雲を──愛し──
その上 それを踏みにじりさえした この私の話など
聞く耳は持たぬと言われようか
だが 彌勒──心あくまで澄みわたり
泡沫(うたかた)のように消え入ってしまった
優しさの権化の人
詫びなど笑止は 百も承知
だが──八雲の強さ──その炎に勝る強さの陰の
薄氷のようにあやうい脆さを 私は愚かにも
二人旅してはじめて知った──。
私では駄目だ──私では──。
どうか私の不甲斐なさを嗤い
言わずもがなを繰り返す私を嗤い
いとしい彌勒よ
どうか八雲を見守っていてくれ
今まで以上に 八雲を見守り続けてくれ──。
如月の閉じた瞳から 次々と涙が頬を伝い
それはぴたりと合わされた
ふたつの掌の上に ぽたりぽたりとこぼれ落ちる──。
「修羅……。」
八雲の静かな声が 赤闇の中に
地の底を這うように 響き亙る
「どこで何を見 何を聞いてきたのかは知らぬ。
だが 私達は──。」 少しの間。
「お前はその美しく光る瞳を持ち かの国に生を受け
私はこのいろの髪を持ち この地に生まれた。
私が五歳の時 母は気がふれ
彌勒は癒される事なくこの世を去った。
──人の運命を司るは 三人の女神
私達はその掌上に ただ弄ばれているにすぎぬ。
だが たとえ傀儡の身であろうとも
この世に生を受けた以上は
生きてゆくより方はない
縁(よすが)を想い 生てゆくしか術がない
──私は間違っているか。」
鋭い碧のいろの瞳を
じっと見据えていた 銀の瞳を
ふと緩ませ にやりと笑って修羅は言う。
「は……。はじめて聞いたぜ。
お前の声が 少しでも荒ぐのをな。」
「鎮守の杜……静かで美しい処だね。」
「……木晩は聞いた事があったかな……彌勒という子の事を……。」
「……若くして亡くなられたという
八雲兄様の妹君だね。
お母様の違うという……。」
「その彌勒と鎮守の杜で
私ははじめて遭ったんだ。
まだ私も ほんの童女だった頃の事だよ。」
「八雲兄様の妹君……
とっても綺麗な方だったんだろうね……。」
「精(しょう)を見たのかと思ったよ……森の精を──。」
ここは……確か丑寅の方角のはず
こんなところに神祠だと……?
纏わりつく 緑濃い葉々を手で払いのけ
修羅はその 朽ち落ちそうな木の格子扉に手をやる。
すると ぎぃと鈍い音をたて
それはゆるやかに開いていった。
背を屈め その小さな扉より身を入れ見遣ると
薄暗の中 白髪の老人が
独り 俯き坐っていた
その男が頭をもたげた瞬間
修羅の銀瞳はちいさく見開く
琥珀の……瞳か……。
その金の瞳は 左右にあらぬ方を向いていた。
盲(めしい)……か。
「旅の御方か。」
静寂の中 老人の声はじわりと響く。
……見えているのか?
修羅が思うと同時に老人は
そのあらぬ方を向く琥珀の瞳でにやりと微笑む。
「……金の瞳は人に非ず……。
この瞳には 人に見えるものは何ひとつ
見えはいたしませぬ。」
「あぁ……悪かったな。
禁忌の場所に入り込んでしまったか。」
老人は尚 静かに微笑む。
「確かに常人(とこびと)には。
だが そなた 剣持つ者よの。」
修羅はにやりと笑う。
「は……。染みついた生き人の血の匂い……か。」
「そして八雲様の旅の 御共の方でもあられる。」
銀の瞳に閃光が走る。
「何故 わかる。」
老人は あらぬ方を向く金の瞳を煌めかせ
そうして ゆるりと 静かに言った。
「ここは 救世(ぐぜ)の神剣 朱壬の神祠。
そして私は その守人。
朱壬の継承者たる八雲様の事
多少は知らねば つとまりますまい。」
修羅はその銀の瞳で老人を睨みつけ
それから あたりをぐるりと見渡す。
岩肌の迫る 息詰りそうな狭苦しさ
その真中に坐る 老人の後方に
小さな鋼鉄(まがね)の門が見えた。
「成る程。今は八雲の手の内だが
持つに値する者のない間は
その扉の内……という訳か。」
老人はゆるりと微笑む。
「こちらにお入りなされ 旅の御方。
全てをお話する事は
無論相成らぬが
八雲様と命(めい)を共にするを選んだ方であるなら
少しは知っておかれるのも 良ろしかろう。」
こいつは面白い事になった……そう思う心と
一刻も早く逃げ出したいような感情が 相まる中
何かに惹きつけられるように
修羅は老人の 斜め前あたりに腰を降ろした。
その気配を感じ取り
老人はゆうるりと話し出す──。
「この重き扉のむこうには
人一人がようやく坐れるだけの 岩穴があり
扉を閉めれば 音ひとつない
さながら無限地獄の 真の闇となる。
朱壬を継ぐ者は その証として
五日の間をこの中で 過ごすのです。」
「……まるで封禅の儀だな。」
「……二十歳にさえ数年を残す身で
この儀式に臨まれたのは
永い歴史の中でも類を見ないとの事──。
立派に成し遂げられたのは 無論の事ですが。」
修羅はにやりと笑う。
あいつの事だ これ位
何の苦もなくこなしただろう──だが
そんな若さで早
朱壬を手にする身となっていたとはな──。
老人は話を続ける。
「……迫る闇 全き静寂 飢え 孤独……。
その恐怖に人は
必ず幻覚を瞳のあたりにするという。
五日を闇中で過ごした者は
その瞳を潰さぬよう 瞳隠しをして
しばらくの間
そなたの今いる 正にその場所で時を過ごすが
その時 御相手をするのも
守人たる 私の役目──。」
「……八雲も幻を見たのか。」
老人は静かに言う。
「八雲様はこう言われた──
“天羽を見た” と。」
「アモウ……天羽とは蝶の事か。」
「あるいはその精……。
それから私に こう問はれた。
“人は転生できるのでしょうか”と。」
「死んだ者が違う姿に生まれ変わるという あれか。」
「私もはじめはそう思うた──輪廻転生の事だと。」
白髪の老人は話に少し間をおいた。
「だがすぐに気がついた──
八雲様の言われるは 生き人が姿を変え
別の場所に現れる その事だと。」
修羅はその銀の瞳を伏せ
そしてちいさく溜息をついた。
「……なるほど。」
「八雲様は それは美しい
金の髪をされておるとか。」
修羅はにやりと笑う。
「見えなくて残念だな。」
老人は 見えぬ琥珀の瞳を修羅に向け
あいかわらず ゆうるりと
微笑を浮かべて話を続ける。
「……金の髪は 人の髪。
だが それは時に 憑代となる──。」
修羅の銀の瞳にぎらりと光りが走る。
「何だ それは。」 ──低い声──
老人の あらぬ方を向く琥珀の瞳が不気味に光る。
「朱壬の剣は 久遠の宝剣 救世の神器。
そを継ぐと選ばれしは
つまりは 生ながらにして朱壬の
ひいては久遠の憑代となるという事──。」
「……八雲は人間ではないとでも言いたげだな。」
老人は静かに微笑む。
「そうは言ってはおりませぬ。
だが旅の御方 覚えておかれるが良い。
朱壬を持つ八雲様は ただの人にはあらぬ──。」
銀の瞳が険しく光り──そして地を這うような声。
「……確かにあれは とてつもなく強い。
真に闘神の生まれかわりのようにな。
だがその強さは
この久遠のためだけのものじゃねぇぜ。
朱壬にどんな力があるのかは知らねぇが
八雲は八雲だ──何を持とうが な。」
琥珀の瞳の老人は 笑みさえ浮かべ
臆する事なく話を続ける。
「八雲様は ここに御戻りになりましょう。
いつの日か 朱壬と共に 御独りで──。」
銀瞳を細め 修羅はすくりと立ち上がる。
「邪魔をしたな……あばよ。」
ぎぃと格子扉を開け
絡みつく葉を ばさりと手で払いのけて
修羅は 足早にその場を去る。
何が救世だ──何が神だ──!
葉を落とした樹木のなか
小さな切り株に 如月は腰を降ろす。
鎮守の杜の名は 伊達ではない
今は葉を落とし 威厳にも欠けるが
齢重ねる 欅の神木や
その横には 美しい神祠もある
だが童子達には そんな事はおかまいなし
私にとってもここは
恰好の 戯れの場所だった──。
兄上達に恵まれた私は
戯れの時もいつも一緒
とりわけ面白かったのは
神仙術師の真似事
力のない女の私にも
身軽さと小柄な体躯が幸いし
これなら対等に張り合えた。
勿論剣士は 皆の憧れ
その真似事もやり合ったが──
“如月も仲々やるな”──でもそれは 女にしてはの事。
男であれば──幾度 夢に見た事だろう──。
久遠は中立を護る ちいさな美しい村
だが その維持には それなりの兵力も要る。
久遠には女にも 剣士への道が開かれていた。
現に八雲の配下にも 腕の立つ女性の剣士がいて
八雲の傷の癒えるを待つ間
私は彼女に 剣の手ほどきを受けた。
だが 多くの兄弟の
一人娘として生まれた私に
そのような我儘が受け入れられるはずもなく──
だが大兄上だけは いつも私の味方だった
“お前は自分の生きたいように生きるがいい。”
そう言っていつも庇ってくれた。
その大兄上を 亜魏の奴は──。
唯一人の娘というだけの理由で
人一人ようやく入れる
隠れ場所に 押し入れられ
そうして私は 唯一人
命をとりとめる事となった
その隙間から見た 凄まじい戦いの景色
その中でも 脳裏に焼き付いて離れないのは
大兄上を 笑いながら
幾度も斬りつけた あの男の顔──。
“私はこの手で 仇を討ちたい……。”
立ちすくむ私に 慰めの言葉をかけてくれた八雲に対して
思わず呟いた 私の言葉は
正真の本心ではあったが──だが
こんな事になるとは 思ってもいなかった──。
この森で戯れていた
何の苦もないころでさえ
幾度思った事だろう。
男であれば──男に生まれていさえすれば──。
その童夢を
今また 思い返す事になろうとは──。
「今日は勝手をしてすまなかった。
明日は私も手伝おう。」
「本当!? 嬉しい! ……でもまた修羅は
きっと どこかに行っちゃうんだろうな。
八雲兄様も 一言 言って下されば良いのに。」
遠くを見つめるような瞳をして 如月は言う。
「八雲は言わないよ……。
誰の活き方にも 口出しはしないだろうが
とりわけ修羅には……何があろうとね……。」
如月は 木晩の方を向いて微笑む。
「瞳醒してすまなかった。もう眠ろう。」
「うん。おやすみ。如月姉様。
明日は 八雲兄様にも 素敵な日になるね!」
「……足手まといだと 迷惑がられるかもしれない。」
木晩は 驚いたように
そのおおきな瞳を 如月に向ける。
「何言っているの 如月姉様。
なぁんにもわかっていないんだね
如月姉様ってば!」
「じゃあおやすみ!」
そう言って 瞳を閉じた
木晩の愛らしい寝顔を眺めていると
如月のこころの中で あたたかな
何かがちいさな音をたててはじけた
そうだ……もし夢叶って 男に生まれていたなら
このいとしい時も 叶わぬ事。
何より 間違いなく私は
この すこやかな少女を 愛しただろう。
だが──これは修羅の不戦勝だ──。
つまりは 全て同じこと。
そうして 如月は 流れるように思い出す。
そうだ──大兄上は言っていた。
“娑婆苦はいつも 己の中”と──。
今度こそ 心の底より言う事ができる。
もう この久遠に
思い残す事はない──。
ばさりと寝具をはね除けて
修羅は 起きあがり 部屋の隅に置いてある
朱壬の元へと歩み寄る。
それを鞘よりするりと抜くと
部屋中に広がる 刃の光り
その刃の真中に 一文字に走る
妖しの朱のいろ──。
「……はじめて この朱を見た時は
全く度肝を抜かれたぜ。
それにしても 華奢な見かけに違わず
驚くばかりの 軽さだな。
この まるで女の剣のどこに
鉄(はがね)の刃をもこぼす
力が秘められているのだろうな。」
剣の放つ光を 眺めながら
八雲は思わず 微笑んで言う。
「噂とは かくもいいかげんなものなのだな。
“外国(とつくに)より 輝く髪 輝く瞳の女 現れし。
その掲げる剣(つるぎ) 朱(あか)き光りを放ち
その光の輝き亙る地を
久遠と命じ これを統べる。”
朱壬は元来 女の剣なのだ。
尤もこれも 伝説のひとつ。
真偽の程は さだかではないが──。
その朱のいろは いにしえより
唯の一度も 色褪せた事は ないという。」
ふん……と修羅は笑う。
「幾千 幾万の生き血を 吸い続けていりゃあ
色褪せる間も ないだろうさ──。
それにしても こいつが
女の剣だったとはな──。」
修羅は朱壬を
一度ぶんと 大きく振る。
「八雲。」
金の髪が さらりと波打つ。
「その 運命を司るという三人の……。
女神というからには
命こと絶える事なく永遠なのだろうが──」
銀の瞳が ぎらりと光る。
「手首くらいなら
斬り落とせるかも知れねぇじゃねぇか……。」
朱壬の光りを 見つめていた銀の瞳
その瞳線を 八雲の方に向け
そうして修羅は にやりと笑う。
「なぁ?」──。