あぁ。 なんだか、まるで、 まるでジョックの、育ち盛りだった頃のようだ。 ガラス越しに、遠慮会釈なく入り込み、床に光と濡らす長さの、 日の経つ毎に、背丈を伸ばしてゆく様に、 思わず、ふぅ、と、微笑みが落ちる。 ガラス戸を開け、ベランダに出れば 束になり、時に力をこめてそよぐ風は そのうちの一筋に、確かな冷たさをもたらし来て、 見上げれば、高く、高くの鱗雲、そのなかの、 少し西に傾いて、茜色に染まるのを待つ太陽の 光も熱も、明らかに、目にも肌にも、柔らかい。 視線を落とせば、猫の額程の庭、 ツツジや山茶花、その合間に、植えた覚えもない蔦が塀を這い、 やや黄色みを帯びる芝が、土を綺麗に覆い尽くす。 ……我が物顔に踏み荒らし、掘り起こす主は、もう居ない。 居なくなって、何年が経つだろう。 風に、もてあそばれるように、衣先を揺らす洗濯物を ぱちり、ぱちり、外して取り入れていると ふと耳に、ぽろんぽろんと、ピアノの音が、流れ来た。 おぼつかない、音色。 レコードではない、誰かが、練習している、音。 ……この辺りだと、二筋向こうの、お宅のお嬢さん? 秋風の心地好い季節、窓を開けて弾いているのだろうか、 こんなにも離れているのに、風が、音を、運び来る。 耳に馴染んだ、旋律。 あぁ、この、曲。なんて懐かしい。 ソナタ・アルバムの10番、モーツァルト、今も、口ずさめる。 習っていたのは幾つの時だっただろう。 あのお宅のお嬢さんも、ちいさな体に、おおきなメトード・ローズの サーモン・ピンクの楽譜を、さも大切そうに抱きかかえ、 お母さんに連れられて、嬉々と音楽教室に通っていたのが つい、昨日の事のように思うのに。 そのとき、ふいに、甦った、ものが、はらはらと目の前に、 そうして、すと……ん、と、胸の底に、落ちて来た。 「ごめんなさいね。来月から、半年程の間なのよ。」 ゴールデン・ウィーク過ぎに、発せられた、ピアノ教師のこの一言、 青天の霹靂、と云えば大袈裟に過ぎるけれど。 帰り道、どうする?と、一緒に通う幼馴染みと、話題はそればかり。 ピアノの先生にだって都合はある、家の建て替えなら仕方がない。 こちらももう、小学校最終学年、その位の分別はある。 半年……私は、休もうかなあ。 そうかぁ……私は、続けたいかなあ。 えぇ、だって、通える範囲に居る、他の先生って云ったら……。 そう、問題は其処だった。 どこまでも続くかに思える、不揃いの垣根の先に、ぽつんとある、 木製の門扉は、随分とこぢんまりと、当時の自分と同じ位の高さで、 空色に塗られたペンキは、一体どれだけの風雪に耐えたというのだろう、 あちらこちらがぼろりぼろりと剥げ落ちて、木そのものにさえ罅が入り なんだかまるで、逆剥けの大集合のよう、 いっそ、べりばりと剥がしてしまえば、どんなにすっきりするだろう。 おまけに、これがとどめとばかりに、右上の蝶番が外れていて、 いつも、ぶらん、と、右肩を落としたまま、半開きになっていた。 ぎぃ、と、押せば必ず、耳障りな音がする。 踏み入れれば、やはり背の低い垣根に左右を封じ込められて 家の主玄関へと誘うように敷き詰められた、石畳の道が、 延々と続くのだけれど、その、三分の一もゆかぬ間にある、 左側の垣根に、人ひとり入れるだけの幅に、ぽかり、開けた合間、 木戸ひとつもない、ただの、垣根を切り取られただけの、間。 自分たち“生徒”は、そこを、左折しなければならない、 決して、誰一人、真っ直ぐに、進む事は許されない。 左に折れれば、いきなり大きな空間に出る。 道路と隔てる不揃いな垣根、両端に、少しばかりの木々が立つ、その緑、 あちこちに落ち葉が散乱する、緑、黄緑、赤茶色、 それだけの、後は、土色のみの、閑散と何もない、広い、広い、庭。 ここに来て初めて分かる、家の外観。 平屋建ての、日本家屋に、洋館造りが同居したような、 そうして、どう見ても、築四十年、いや五十年は、優に超えるような。 そうしてやはり、同じよう、 ここに来て、初めて漏れ聞こえ来る、ピアノの音色。 あぁ、間違いではないんだ、と、それは、安堵のような、 いや、むしろ、緊張感の、より、増しますような、 妙な心地が、体のなかに、外に、ぐるぐると渦を巻く。 二間と広い、透明のガラス障子に遮られた、処。 予め、挨拶に伺った母から聞いていた通り、 まだちいさな体には結構大きな、丸い縁石に乗り、 ガラス障子を開け、腰を下ろして、靴を、軒下に遣る。 待合室として使用されている、そこは、南の庭に向け設えられた縁側で つるつる滑りそうに黒光りのする、木の床の上、 高さもまちまちな椅子が、庭に向け、五つばかり、置かれている。 座って左手に、閉め切られた、如何にも重そうな扉。 その奥が、レッスン室。 だから、順番に、左側から、生徒達が並んで座る。 自分は、三番目。 そお、と、腰を下ろす。 スプリングがぽこぽこしていて、何だか落ち着かないのは、 椅子のせいばかりではないのだろうけれど。 こんにちは。 こんにちは。 ……後が続かない。 ……おしゃべり、しないんだろうか。 左端の、少し大きな子など、鞄の中より楽譜を取り出し広げて、 何? おさらいしている?……待合室で? ……おしゃべりしないで? ……息が詰まる。 漏れ聞こえるピアノ演奏、もの凄く上手い、まるで発表会のよう。 この曲、ブラームスだ、聴いた事がある。 ……こんなのが弾けるように、私もいつか、なるのだろうかな。 ……それにしても、広い庭。 これだけあれば、思い切りドッジボール出来るだろうに、勿体ないな。 一時間程も待ち、待ちくたびれた頃、 ようやく通されたレッスン室、驚くのは、狭さより、その、暗さ。 天井から当然のようにぶら下がる、電灯の光は何故か消されたままに 奥から細々と、漏れ入る幾本もの光の筋が、 そこには立派な窓があるのだけれど、 きっと門扉と同じような、木製の雨戸が閉められているのだと伝え来る。 部屋の真中に鎮座する、堂々たる、漆黒のグランド・ピアノ。 その、鍵盤と、楽譜置き場、ただその二点にのみ、 蛍光灯のスタンドが、煌々たる光を、眩いばかりに降り注ぐ。 「じゃぁ、ハノンから。」 右手より響く、声はしわがれて、どこか震えているようで、 その姿に全く似つかわしいとしか、言い様がない。 “一人住まいの魔法使いのお婆さん、 金切り声で呪文を唱え、生徒を嚇すのだけが生き甲斐。“ まさか、本当にここまでとは思っていなかった。 低い、背。ぎすぎすに痩せた、体躯。 骨に張り付くような皮膚は、白を通り越して、青光りさえするような。 その肌と、対照的な、真っ黒の、けれども艶のない、市松人形のような髪、 灰色の、どぼんとした、服、どこにも、どこにも、色がない。 そうしてその、ぼさぼさの黒髪に縁取られた、真っ白の皺のなかに、 白濁しながらも、爛々と光り湛える、おおきな、おおきな、二つの、目。 ぽん……。 恐る恐る鍵盤に、指を落とせば、部屋中に、 フェルトにくるまれたハンマーの、ミュージック・ワイヤーを叩き出し、 紡ぎ出された音が反響する、まるで洞窟の中のよう、 何て綺麗、こんなピアノの音、聴いた事がない。 ほう、としたのも束の間。 違う! こう! ヒステリックに叫ぶしわがれた声、 訂正に、伸びる手、その、指の関節の、木の幹のようにごつごつとして、 触れる感触の、ぞっとする程に、冷ややかな。 違う! 四番の指! ……運指ひとつ、見逃さない。 違う! メゾフォルテに、そんな小さな音を出さない! 違う! ペダルを離すのが遅い! 違う! モデラートはそんなのろのろした速度じゃない! 違う! 違う! 違う!! 「ありがとうございました。先生、さようなら。」 真反対、正反対、好対照。 こんなにもあべこべの世界があるなんて。 六畳程もある、立派な玄関を入ってすぐの、広い、広い応接間。 端に置かれた、美事なグランド・ピアノさえもが色を失うような。 処狭しと置かれた家具調度品は、どれもこれもが舶来物。 海外に出張の度、ご主人が買い求められるのだとか。 大きなクリスタルの花瓶に活けられた、季節季節の生花が その上にも増して、美しく彩りを添えて あちらも、こちらも、色、色、色が嬉しそうに踊っている。 待ち時間は、ふかふかの、五人掛けの猫足ソファに座って友達と、 家具調度品には全くそぐわぬ、昨日見たTVアニメの話題に夢中。 「はい、そう、いいわね。」 興が乗れば、ピアノの旋律に合わせ、美しいアルトに歌う先生は、 音大の声楽科を出たとの噂の裏付けをするかのように、 いつも華やかなワンピースに身をくるみ、 ふくよかで、大柄で、笑みを絶やさず、若々しく、本当に綺麗で。 生徒が途切れれば、じゃあ少し休憩しましょうね、と、 出して下さる紅茶は、これも舶来のティー・カップに注がれる。 ……でも、とにかく、仕方がない。 半年間、長いけれど、それが終われば、戻れるんだから。 魔法使いのお婆さん、その呪文、“違う!”にも、 そろそろ慣れた夏休み、ピアノのレッスンどころじゃない、 待ちに待ったソフトボール大会、そちらの練習に毎日毎日大わらわ。 けれども週に一度のレッスン日は容赦もなくにやって来て、 ハノンもツェルニー40番も、バッハ・インベンションもソナタも 何もかも手つかずのまま、怒鳴られるのを覚悟にレッスンに赴いた。 何度も叱られながら、ハノンを終え、ツェルニーを、弾き始めれば、 その手を、ぱしん、と、平手に打ち据え、動きを止める。 「もういい、貴方、一体何しにここに来ているの。 あちらに行って、いいというまで練習しなさい。」 左手に、扉があるのは気づいていたけれど、その時初めて、開くと知った。 導き通された部屋は、まるでレッスン室と双子のよう。 先生が、ぱちん、と、天井の明かりのスイッチを入れても それは、オレンジ色の、豆電球より少しは明るい程度の光しか落とさない。 ぱたん。 何も言わずに、扉が閉められる。 双子のレッスン室と同じ、窓さえ閉め切られた、密室。 押し合うように、置かれあるのは、ただ、ピアノ、ピアノ、ピアノ。 古びたグランドピアノが二台、一台は同じように、真っ黒の、 そうしてもう一台は、木肌色に、装飾の入った、古いけれども美しい。 他には、両方の壁に添って、アップライトのピアノが、あちらとこちら。 計、四台の、ピアノ、そのどれもこれもが、ぱっくりと口を開け、 象牙色と、漆黒の、鍵盤を覗かせている。 そろり、内の、黒いグランド・ピアノの前に座り、楽譜を置く。 ぽん……指を落とせば、音が響く。 調律が狂っている訳ではないけれど、明らかに、古い、古めかしい、音。 その、音が、あちらの壁、こちらのピアノに反響し、 音を発した、自分自身をくるめ取りに襲って来る。 練習のひとつもしていない身に、何ひとつ、まともに弾ける訳もない。 たったひとり、仄暗い部屋のなか、おぼつかぬ手つき、 いつまでこの時間が続く、ここは一体、何? この、ピアノ達は、何? ピアノの墓場……? まさか、でも、そうとしか。 どうしよう、怖い、どうしよう、何も出来ない。 知らず知らずに、涙が溢れ出て、嗚咽が止まらない。 ようやくに救い出されたのは、どの位の時が経ってからだったのか。 「そんなに泣いて、みっともない。 練習もして来ない、自分の所為、分かるわね。」 レッスン室から、生徒が泣いて出て来るのを 目の当たりにしたのは一度や二度ではなかったけれど、 こういうからくりがあったのだとはと、身をもって知った。 ……怖い。 何だか尋常でない、恐怖が、底から、突き上げる気がした。 半袖が長袖に替わり、上着が要り用になった頃。 もう、ここに来るのもあと数回、そう思えば、気も随分と軽やかな。 それに今日は、そう、練習も、少なくともソナタは、ばっちりだから。 他の生徒が弾いているのを聴いて、大好きだった、この曲。 待合室に、長い陽が差し込んで、暖かい。 ふと気がついた、右側にある、あの木、金木犀だったんだ。 オレンジ色のちいさな花を沢山、つけているのがここからでも良く見える。 傍に寄れば、きっととても良い香りがするんだろうな。 「先生、こんにちは。」 ぽん……。 モーツァルト・ピアノソナタ、ケッフェルナンバー311、 アンダンテ・グランツィオーソ。 落ち着いて、ゆっくりと。 良し、我ながら、思い通り、綺麗に弾けた。 ……あれ? 声がしない。 無音のなかに、鍵盤の、最後に鳴らした“ラ”の音が、 未だ、宙に、残響するような。 どうしたんだろう? 恐る恐る、先生の顔を、伺い見れば 少しばかり頸を下に、真っ黒の、ぼさぼさの髪が、顔を覆い隠す姿、 それだけが、仄暗いなかに、浮かび上がるような、沈み込むような。 あの……、と その、一言が、出ない、まるで、出してはいけないような。 「モオツアルトには──」 無音の、残響の、それさえも消え去った、沈黙の、 その間は、一体どれくらい、あっただろう、 ようやくに発せられた声は、いつもにも増して、しわがれて、 いつもにも増して、震えているようで、 そうして、いつもにはない、何かが、そこに、在った。 「生きることの、喜びと、悲しみが 人生の、ありとあらゆる感情が、 モオツアルトの音楽のなかに、ある。」 何処か、憑かれたように、 けれども、何処か、物寂しげに、そう言ったかと思うと、 「次も頑張りなさい。」 と、声音はすっかり元通りに、 楽譜に赤鉛筆で、初めてちいさな丸を描いてくれた。 ふと我に返れば、洗濯物を持って、まだベランダに。 釣瓶落としとは良く云った、陽も、もう随分西に、 青と、サーモン・ピンク、そう、あのメトード・ローズの 楽譜の表紙、正にその色が、混じりあって、高い空に綾となし、 ピアノの音色は、もう、何処にも。 懐かしさに、本棚から、楽譜を抜き出し、開いて見る。 もう、ぼろぼろになった、ソナタアルバム1。 10番のページを開ける、11/7と、日付の上に、ちいさな、丸。 好きだったピアノは、才能もなく趣味どまり、 四年制大学史学科を卒業後、俗に言う適齢期の頃、普通に恋愛結婚、 三年目に、この中古住宅を購入、当時、既に流行遅れとなりつつあった シベリアン・ハスキーが、父親も分からぬ仔を産んだと、 知人の知人からの紹介で、やって来たジョックとの生活が始まる。 自分自身の子はなく、それだけに、愛情の深すぎた感覚は否めない、 老衰に、酷く苦しむ事もなく、多臓器不全で十五年の天寿を全うした、 それから数ヶ月も経った頃、何度も、手に持つコップや箸を、 ころり、と、落としてしまう事に気づく。 個人医から大学病院まで、神経内科におけるありとあらゆる検査の結果に 何処にも異常は見あたらず、漸う行き着いた心療内科にて、 ペットロス症候群に因る自律神経失調症状、治療不能との診断を受けた。 普段の生活には、大きな不便のある訳でもない、人にも殆ど悟られない、 当然、生命、生き死にには何らの影響もない。 ただ、手先に精緻を要する作業には支障が出る、つまりはもう、 あの時、憧れた、ブラームスのラプソディ、そう云った難曲は、 二度と再び、以前のようには、弾きこなせない。 それが辛くて、自ら封印した。 三歳の頃から慣れ親しんだ、アップライトのピアノの蓋の上に、 わざと、ものを置いたりもした。 魔法使いのお婆さん、などと。 全くに、呆れてものも云えない、子供とは正に無邪気に残酷な生き物。 きっと、今の自分と、そうは変わらぬ年齢だっただろう。 青春、朱夏、白秋、玄冬。 人生の、白い、秋に足を踏み込んだ、今、ようやくに あの時の、沈黙、その、時間が、胸に、しんと沁み入るよう、 断続的な痛みと、陽だまりのような優しさが交差して、 螺旋を描き、徐々に、徐々にと、沁み入るよう。 難易度だけを問えば、平易な、と、表現出来てしまうこの曲、 せめて、小学六年の、当時と、同じ位には弾けるだろうか。 それさえも、もう、無理だろうか。 どんな音を、歳月を経た今、自分の指は、奏でるだろう。 もう何年ぶりになる、それでも手が覚えている、この蓋の重さ、 開けた途端に懐かしい、木の、ピアノ独特の、松の木の香りがした。 |