秋─旧校舎

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その校舎は、いつも、どこかしらに、
秋のいろを、趣きを感じさせた。



古びた、洋館仕立ての、塔を有した三階建て。
大木を右に左に冠し、昼なお鬱蒼と仄暗い
門より続く通路の果て
開放された、大理石の玄関に
一歩足を踏み入れれば、その途端
夏には、ひいやりと汗もひき
冬にはくるむように温かく
ただ、どの季節にも蔭は濃く。

木の床は、軋みながらも、こっこっと
堅固極まる靴底さえもを柔軟に受けとめて
段差のひくい階段の、これもまた
ゆるやかになだらかな
彫刻をほどこした大理石に飾られ囲まれた。


憧れは、ずっとちいさな、子供の頃から。
細い道を隔てて、建つ、小学校。
そこに通いながら、
その窓より日々眺め、
風に乗り聞こえ来る、ブラスバンドの音を耳に
いつか、必ずあの校舎にと
香野(こうの)はずっと、そう想い続けて、来た。


念願叶い、入学して、教室に入る。
あの、校舎ではない、隔てて建つ新校舎。


思えばその瞬間からあった、違和感。
何が違うのだろう、どうして相容れないのだろう。
何もかもが、良く、分からない。

馴染めない、ただ、馴染めない。
ここには、同種のもののみに興味を持ち
同じことしか話さない、同じような人の居るばかり。
そんな、生まれて初めての感覚への、対処の術を
香野は持てずに、その身を持て余した。


こころが閉じれば、身体も閉ざす。
一年、二年、三年次にはもう、担任が親を呼び出す程に。




文化祭、体育祭が終わりを告げれば
そうしてそれが三年の、それともなれば尚のこと
最終学年と、なってようやく主となれる
この古い校舎のなかの
行き交う生徒達の声は変わらずに
教室にも廊下にも、喧噪に賑やかにあれど
吹く、水気を無くした葉々を踊らせる秋風は
この先に待つ、別れの匂いをその中に
甘くも苦くも、含みもたらした。





旧校舎と、同じように軋みに鳴る木の、渡り廊下を
吹く風の、蝶結びのセーラー・リボンも揺らす冷やかさに
思わず身を竦め、ひとり、歩いていると
後ろから走り呼び止める、声がした。


「あぁ、やっと見つけた。
ねえ、香野。香野って、松前(まさき)君と、知り合いなの?」


松前? 一瞬、何のことか、分からない。

……ああ、と、思い出す。
一年の時、同じクラスだった。
入学してまもなくにはもう、
生徒会執行部に入り浸っていた筈。


「そう、その生徒会の松前君よ。
ほら、私の友達の裕子(ひろこ)の彼が、居るでしょう、執行部に。
でね……ほら、香野……ごめん、この頃、特に
学校、来ないでしょう。
それをね、なんでか、松前君がね、
どこかで、聞いたらしくてね。」




ああ、思い出す、思い出す。

入学の後、一ヶ月を待たずしての、オリエンテーション。
冬には雪山の、スキー場と賑わう場所に
今は新緑を間近と待つ
肌寒く見晴らしの良い山の中腹に、一泊二日。

夜にはお決まりの、きもだめし。
誰が決めたか、男女ふたりが
手に手を取るのが規則の、肝試し。

ひい、ふう、みいと順番待ちを数える。
香野の相手は、松前。



入学間もなく
松前が男友達相手に、音楽の話をするのを
香野は偶然耳にして
ああ、この人も、好きなんだと、同類なんだと思っていた。

それでも松前は普段
無口に無表情に、とっつきにくく
制服の、詰め襟までもを常にきちりと締め
眼鏡の奥に、潜む目線は鋭くて
特に女子には見向きもしない。

香野はと言えば、元々男子も女子もない
活発だけが取り柄のような女の子だったのだけれど
ただ一月ほどの合間に
その面影の、今や片鱗のみを片隅に
疎外と閉塞の狭間のなか
萎縮するばかりのなかに
閉じこめられ、閉じこもって
松前と話す機会など、持てる筈もなく。



順番が来て、規則のとおり
二人ともがそっと手を出せば
お互いの、指の先と先とを
ほんの少し、触れる程度に。

月明かりだけを頼りのなか
さわさわと、草の揺れるだけのなか
決められた道を歩く。


口火を切ったのは、多分、香野の方だったのだろう。


「あのバンド、良いよね。特に二枚目、ね。」
「ああ、二枚目な、ジャケもカッコ良いよな。」

「あれ、ベース変わったよな。やわらかい音になった。」
「フレットレスかも知れないね。多分フェンダーの。
 音楽に合っていて、いいよね。」

「あのアルバム、3曲目の中で、フランス組曲やってるでしょう。」
「そうそう。相変わらず、あいつ、バッハ、好きだよな。」

「こないだ脱退したバイオリニスト。どうしてるのかな。」
「あ、出たよ新譜。ラストのインストゥルメンタル、最高だよ。」


墨より暗い、山中の闇のなか。
お互いの、顔はおろか、姿さえもが闇のなか。
そのなかに交差する、
音楽を、語り出せば止め処のない
熱を含んだふたつの
高い声と、低い、声。



これを機に、友達になれる。
香野はそう思っていた。

それなのに
教室に戻ればこれまでと
松前は寸分の変化もなく。
あのひとときは、闇の夢のなかのことと
言わぬがばかりに。

そののちすぐに
松前は生徒会執行部室に入り浸り始め
授業中以外に、教室に居る姿を
見かけることさえなくなった。




香野には、好きな人が居た。
中学の、先輩にあたる
二学年上の、ひと。
いつも、旧校舎の入り口の横手
花壇と積まれた煉瓦に座り
同じ軽音楽部の連中と、楽しそうに話していた。

それを、新校舎の、窓から眺めるのが
香野にはただ、しあわせだった。

彼女の居る事は、ずっと前から知っていた。
この高校に、入る前から、知っていた。



入学当初より
中学から共に来た岡崎が、良く香野に声をかけた。

制服自由化の執り行われた五月の始め
その一日目より
岡崎は、ジーンズとラフなシャツのいでたちに現れた。

半ば幼馴染みの感覚に
岡崎とは気心が知れあって
話が合い、共にいるのは楽しくて
香野にはそれが、代え難い救いのひとつとなる。

クラスが分かれたので、専ら廊下で話をした。
誘われて、一緒に二人帰りもした。

香野がここを選んだから、二段階レベルを落としてまで
岡崎はこの高校に来た、と、そんな噂も確かにあった。
教師さえもが、廊下に話す二人を、冷やかしの的とした。
岡崎と香野は付き合っている、誰しもがそう思っただろう。


それでも実際に
はっきりと告白されれば
逃避の道もふさがれて
困惑のなか、堂々巡りの選択に
終止の、符を打つ覚悟を決め
好きな人が居る、どうしても想い切れない、と
夏休みを前に、岡崎に伝えた。



こんなふうに
傷つけ、傷つくのが香野にはたまらない。
何故、仲の良い友達同志ではいられないのだろう。




香野は目鼻立ちがはっきりと
そのくせどこか幼な気な面持ちに
それが故にか、それは香野にも判らない。

そうして自分のしている残酷さが
なにより香野には解らない。
だから、三度、四度と、同じ事を繰り返す。


その見返りに
二股をかけていると、
他校の男と付き合っていると、
繁華街で、派手な服に遊び回っていると、
尾鰭どころか、根も葉もない
噂ばかりが一人歩きをするなかに、
実際に、香野に告白をした後に
中途退学する人間までもが現れるとなれば
香野の足枷は重く、重くに
ますますその身を教室より遠のかせてゆく。





「でね、松前君がね。」

晩秋の、風、吹き抜ける
生徒達の、ざわめきに賑やかな、渡り廊下に。



何やってるんだ、あいつ。
このままだと卒業も危ういって事、分かってるのか。
だいたいあいつ、一年の時から、ふらふらして。
本当に、何やってるんだ、何やってるんだ、
と。

普段物静かな人間が
部室の机をどんと叩いて、低い声に
感情を抑えきれずにいる様に
傍にひとり居た、裕子の彼の方が
対応に窮し途方に暮れた、
と。


「ねぇ、香野、本当に、心当たり、ないの?」


全ての音が、消え去った、そのなかに
またひとつ、思い出す。

一年の、夏休み明けの頃
同じく生徒会執行部内に彼を持った
尹久子(いくこ)がそんな事を言っていた。

生徒会の松前君が香野の事、
「あいつの音楽に対する知識と耳は、もの凄い。
俺はあんな奴、初めて見た。」と
まるで自分の事のように
誇らしげに話していたそうだよ、
と。



それでも尚
何もないよと、
香野にはそれ以外に、返事の仕様もなく。






それからそうもたたない、時。
木枯しの、冬のおとづれ間近を告げる頃
こっこっと、自らの足音響く木の廊下
他には誰も居ぬ、その前方に
こちらに向かう、松前の姿を、香野は見た。


とく、と、胸に、おとがした。


お詫びを?お礼を?
そんなものでなくとも。
おはようと、それだけでいい、
一言を、ひとことを。


どんどんと、松前の姿が、おおきくなる。


すれ違う。


すぅと、頬に切れる、空気の、動き。



松前は、銀に縁取られた眼鏡のなかの瞳を
ただの一寸も動かさず
まばたきのひとつもせずに
真っ直ぐに続く、廊下の行く末だけをみつめ
口の端(は)を、きりと締め
毅然たる歩幅を、微塵も狂わせることなく
香野の存在を、一切をまるで空(くう)のように。


香野の、熱いまぶたが、閉じられる。






初春をむかえ
ぎりぎりの出席日数に、香野は卒業を許可されて
科目別の、成績だけはそこそこに
希望する大学への進学も決めた。

唯の一度もトップの座を揺るがさず
公立大学に現役合格を果たした岡崎は
その後も時折、駅などで姿を見かければ
「おう、久しぶり」と
香野に声をかけもして
その一瞬に見せる笑顔は
自信に満ちて輝いた。




その後の松前のことを、香野は、何も知らない。
噂も、聞かない。




十数年の年月が
あっという間に過ぎ去って
古くに過ぎる旧校舎が取り壊されると
卒業生通信に、香野の元にも、知らせが来た。


新しく建てられた校舎は
威風堂々の五階建てに
旧制高等女学校の名残を示すか
それとも続く道の、桜並木に合わせたか
薄桃色を基調の
丸みを帯びた女性らしいデザインに
どこか無理矢理に、練り込まれたかの
作為の春ばかりを連想させて。



あの、秋のいろの、香りのほのかの
静かに佇む古びた校舎の面影は、どこにもなく。
もう、思い出のなかにしか、それはなく。



松前とともに、あらゆるものと共に。





-end-



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