世の中は、手の付けられないしらじらしさに満ちている。例えば、いま立っている高層ビルから、果てしなく続きそうな突き抜ける蒼天の白々しさ。どんな時でも、胸の内とは裏腹だ。極めつけは、結婚の決まった友人を祝う、底抜けに明るい笑顔。 恵は両手を広げて胸をはり、すうっと大きく息を吸い込んだ。 「I am king of the world!」 一世を風靡した恋愛映画の名ゼリフだが、そんなふうに、思い切り叫んでみたい日だってある。 二十階にある、結婚紹介サービス支店の会議室。大きなガラス張りの窓は、強風対策のため二層構造になっている。この窓から臨むスクランブル交差点や、区画ごとににょきりとひしめき合うビルの群像が、恵は密かにお気に入りだった。ごみごみとした人の頭は、遥か下に豆粒のようだ。窓枠で切り取られた冷たいコンクリートジャングルの景色を、右手でぐしゃりとつかみ取る。こんな爽快な気分も、めったに味わえまい。つい昨日の友人の披露宴のことすら、どうでもいいような気さえしてくる。「おめでとう、お幸せに」の、心にもない空文句を、一体何度繰り返しただろうか。なるべく筋肉が震えないように口角を上げ、引きつった頬に神経を張り巡らせる。そのまま細心の注意を払い、一定の位置で保つのがコツ。我ながらよくできた名演技だと思うのだが、幸せで満たされた当人達は盲目で、陳腐な小細工すらも見抜けやしない。 「少々、お待ちください」 と、柔らかな物腰で開けられたドアの後ろでは、 「なに馬鹿なことやってんのよ! ほら、新規のお客様のお取次ぎ!」 眉をひそめた千夏先輩の押し殺した声と、来客を告げるインタホンが鳴っていた。「は〜い」とやる気のない声を返しても、お客様の前に一歩出れば、業務用の笑顔に柔和な口調。「いらっしゃいませ、佐藤様。本日はお忙しい中、ようこそお越し下さいました」と、手続きのための資料を手にして、ブース席へと案内する。二ヶ月ほど前には離散している友人達に、念願の中堅クラスの楽器メーカーへ、就職内定が決まったと報告したばかりだ。だけど実際は、これが恵の仕事なのだ。 会員規約と、結婚紹介システムの説明。加えて、一連の手続きには結構な時間がかかる。規定の処理が完了し、担当となった顧客をエレベーターまで送った後、ドアが閉まったのを確認してからようやく、張り付いた営業用の顔を解くことができるのだ。 首筋をバキバキ鳴らしながらデスクに戻った恵に、はす向かいに座っている千夏が苦笑した。 「なんで、あんたみたいな人種が――よりにもよって、こんな仕事選んだのよ」 「え、そりゃ先輩。なんたって……」 「人の不幸は蜜の味?」 そう思ってアルバイト入社したわけではないのだが、今では見事に、そんな気分へと摩り替わっている。 「そうですよ。みんなみんな、失敗すればいいんです!」 断言した日には、とあるテレビCMを思い出す。 【売れ残りちゃうで。お姉ちゃんはお取り置きもの。おとりおきもの】 何のセリフだったかは怪しいが、どこにでもある姉弟の日常を切り取った、食品メーカーのCMだったと思う。お取り置きものには、目が覚めるように一本取られた。 『負け組もむかつくけど、おひとりさまって何ですか? 余計なお世話だっていうんです』 と、ジョッキを片手に先輩に息巻いたこともあった。 冷めたスープ、伸びたラーメン、黴の生えた食パン。独り者の代名詞は数限りなくあるけれど、どこかのメディアが“負け組”の代用につくって、採用したかしなかったのか……。大口で語り合った友人も、一人消えまた一人消え、手元に届くのは売れ残り女への残酷な招待状や、子供の付録つきの転居届け。いま目の前には、昨日まで当たり前のようにあった姿がもういない。まさに歌の通り、ソーダー水越しに見える透明な景色が好き、なんてふうに、現実は風通しよく綺麗にはいかないのだ。気を抜けば持て余しそうな、ぽかんとした虚ろな感覚を、どう処理すればいいのだろうか。 「そういえば、誰かが言ってたんですよ。【人がいなくなったら悲しいというけれど、感情という具体的なものは後から付いてくるもので、昨日まで当たり前のように横にいた人がいないという、その事実にただ愕然とするのだ】って」 「そういうのを、取り残されたっていうのよ」 千夏は間を置いて考えることもせず、容赦なく言ってのけた。 「そんな、みもふたもない」 恵も、気持ちではちゃんと分かっている。でも、好きで取り残されたわけではないし、自分だってそれなりに、抗いながらも結局のところ努力してきたとは思うのだ。『お見合い』という、苦しい形でしかないけれど。 慣れないピンヒールに、その日のためにわざわざ買った、上品に化けるための新品のスーツ。世辞にも自分の等身大(がら)でない服の整った折り目が、袖を通す度に悲しく伸びた。渇き切ったマニキュアの小瓶に水を足し、爪に薄く伸ばしてみる。残量をしっかりと確認してから、不格好な手付きで口紅(ルージュ)を引く。履き慣れないよそ行きの靴に足が痛いのは当然で、踵(ヒール)の勾配の上で、ストッキングが豪快に滑る。もちろん歩き方も、どこか不器用な千鳥足。化粧も面の皮一枚厚くなった感覚に、塗りすぎではないかと小首を傾げる。瞳を大きく見せようと、ビューラーで一緒に挟んだ瞼も、いつかは鈍く痛かった。化粧の練習に鏡台に向かうが、下手くそなのは百も承知のことで、日頃よりやり付けていないのだから、至極当然の話なのだ。どれを着ようかと衣装ケースをほじくり返し、二週間ほど前からは押入れの前に、コーディネートを考えた服が所狭しと吊られていく。でも、その度にどこかで心が叫ぶのだ。外目だけ偽っても――こんなのは、私じゃないと。 「思うんですよ。そもそも、お見合いっていう習慣に無理があるんじゃないですか? 書面で知らない人をチェックして……答えは簡単に、イエス、ノー。手続なんて、まるで就職面接の書類選考じゃないですか。とにかく、思うんですね。日本って、結婚斡旋所がはびこりすぎてます!」 機械的に返送されてくる釣り書 の気分は、さしずめ不採用判の押されていない履歴書もどきだ。 「う〜ん、ま、それを言ってしまったらね。なにしろ、何も知らない初対面の人間同士を同じ机に向かわせて、強引に会話をさせて引き合わせようというんだから」 電話のプッシュホンを押そうとしていた、千夏の指がふと止まる。 「でも、私はこう思うことにしてるわけ。私達は、助けを求める人に夢を売ってるだけ。貰えるものさえ貰ったら、夢の続きなんて知ったことじゃないわ。それってつまるところ、宝くじと同じじゃない?」 うまいこと言うなあなんて思っているうちに、千夏の電話は、相手先の客と繋がっているようだった。やっぱり、ここも息苦しい。空気が、少しも足りていない。 (早く、あそこに帰らなくちゃ。私の部屋の、あの場所に――) 恵には、誰にも言えない一人だけの秘密があった。 * * * 職場から電車を乗り継いで、南へと下ること一時間とわずかばかり。電車から降りると、薄手のスプリングコートの上からも花冷えの夜が染みた。自転車のブレーキをかけながら下る保育園沿いの坂は、家への近道に最適だ。保育園はお寺の付属学園で、本堂の近くには釣鐘があり、校庭の隅には白と桃色の木蓮の木が植えられていた。厚ぼったい薄紅の花弁が、甘い香で春を呼んでいる。角を左手に折れて自転車を走らせると、古しくゆかしき邸宅のような、木造の門構えを擁した寺が見えてくる。入り口に、備え付けられた板(ボード)に掛かった書は住職のお手書きで、止めの末尾に華押がしっかりと押されている。【一日一善】と、太く力強い払いで書かれたこの書を、恵は眺めることが、かつては好きだった。 自転車を脇にしっかりと抱えて、歩道に面した門から階段をあがる。狭い玄関口に止めて、車道を挟んだ斜め向かいに建つ、二つ下の妹夫婦の家を見やった。車道に面した郊外の新興住宅街は、昼夜を問わず比較的閑静だ。起伏の激しい田舎ぶりもあるのだろうが、同じ様式をした小振りの一個建が、道ひとつに肩を並べ、規則的に納まっている。整理されすぎた都市計画というのは、どうもむずかゆ痒く感じてしまう。妹の家から漏れる明かりと子供のはしゃぐ声で、どうやら旦那は、帰宅済みのようだと推察する。恵はドアノブに手をかけながら、電車の中で打っていた携帯メールの本文を送った。直後に―― ピロピロピロ 開いたままの携帯に、受信を知らせるランプが光り、愛想のない着信音が澄んだ外気を貫いた。 【件名:ガンバレ、私! 本文:そのうち、いいこともあるさ。また明日!】 「なぁにやってるんだろう、私」 携帯を無造作に閉じ、自嘲めいてくつくつと笑う。 携帯がまだ、そんなに普及していなかった頃。肩に背負ったランドセルから、卒業したての遠い昔。教育ドラマを見ては、小馬鹿にして笑い飛ばしていたような気がする。確か、学校でいじめに合っていた女の子が、明日の「私」を励まそうと、自分宛の手紙を書いて毎日ポストに投函していた、そんな内容だった。締め文句は飾り気のない、『では、また明日。笑顔の私に、会えますように』。今の自分はブラウン管越しで耐えていた、・・あの・娘とまるでお仲間のような気すらする。 (ほんとに、なにやってるんだろう……私) ともすると、折れてしまいそうな気持ちを奮い立たせ、「ただいまあ」と声を張り上げる。とにかく、一秒でも早く空気が吸いたい。そうしなければ自分はきっと、呼吸困難で死んでしまう。二階へと駆け上がる派手な足音に混ざり、エプロン姿の母親が呼び止める声を聞いたような気がした。が、今は一刻も早く、あの場所へ行きたいのだ。 飛び込んだ自室の電気をつけ、恵はそのままパソコンの電源を入れた。ネットに繋げ、保存しているホームページへと接続(アクセス)する。 サイト名:【素子(もとこ)のつぶやき】 そこは自分が製作した、小さいけれど自分だけの箱庭だった。サイトは珍しくもなくかわり映えもしない形式で、自分の趣味についての写真展示とブログ の二層に分かれている。趣味というよりは、N音大のピアノ科時代に、こっそりと写していた学内博物館の展示物の写真を、独自の見解付きで掲載しているだけだ。十九世紀に作られた八十五鍵のエラールに、ピアノの詩人・ショパンが愛用したプレイエル。ピアノが誕生した、十七世紀末の五十四鍵型の復元品。いずれも、ピアノ専攻の者には垂涎ものの名器が並んでいるフロアから、失敬したものばかりだ。 だが、恵の居場所はそこにはなかった。 『お姉ちゃんどうして? 本当にもったいないことするんだから。なんで、舞台に立とうと思わなかったの?』 何気ない一言だったのだろうが、恵には険をもって見事に突き刺さった。三十路を過ぎた夕飯の席で、子供を連れて食卓を囲みに来た妹は、平然と言ってのけたのだ。 立ちたくなかった――そんなはずが、あるわけはない。照明(ライト)に照らされ多くの観客の目を集め、そして唸るような拍手喝采。想像するだけでも快感に肌が粟立つし、脚光は誰もが一度は夢を見る。だけど、たとえ音大を巣立ち留学して来ようとも、上には上が余りあった。 (私の世界が狭かったせいだなんて、言われてしまえばおしまいね) 結果が全ての世界では、華やかな舞台で活躍できるのはほんの一握り。多くは楽器メーカーに営業や仲買人(バイヤー)として就職するか、それともなかなか空席のない、学校の音楽教諭の席をひたすら待つかだ。ピアノ教室の看板を揚げてみたところで、都合よく生徒なんてつきやしない。全てに背を向けられてしまった恵は、今ではピアノを開けることすら辛かった。蓋にうっすらと積もった埃りを拭い、ピアノ本体の曲線美を指でそっとなぞってみる。努力だけではどうにもならない、私には才能がなかったのだと――必死で言い聞かせてきたというのに。 (私の居場所は、ここじゃないわ) 恵はブログを開けた。 やっと、息が吸える。 恵は大きく深呼吸をし、胸一杯に空気を取り込んだ。ブログに綴られた【恵】は、留学先で知り合った、同業の楽団に所属する素敵な旦那と、可愛い子供に彩られていた。派手ではないがピアノ教室を堅実に営み、舞台ではひっそりと活躍するピアニストだった。ピアノ教室ではいつでも生徒の笑い声が溢れ、旦那のチェロ独奏(カデンツァ) の成功談に、子供と一緒に車で出かけたピクニック。旦那と開いた、ミニコンサートでのセッションの模様。そこに書き込まれた記録は、時には何でもない家族の日常であったり、また時には精力的な舞台活動や練習風景であったり。願望の全てが脚色され、捏造されては並んでいた。 毎日の偽りの記録に対して、書き込まれていくサイト来訪者の反応は、心地よく響く日もあれば無反応の日もある。時には、批判や皮肉めいた口調の書き込みもあるが、現実で応対している自分よりも、よほど両足で踏ん張っているという、確かな実感がもてた。その全てが恵を酔わせ、寄せられた相談のメールに、知ったかぶりで説教じみた返信をしたこともある。目前の小さな小さな世界には、いつだって望んだ自分が生きていて、実際に動いて回っている。両手を広げこんな私を、どんな時でも黙って受け止めてくれる。誰とでも繋がることのできる、この不思議な空間だけで、恵は自由に息を吸うことができた。 今日もいつもの調子で、ブログの返事をチェックする。一段、また一段と下がって書き込みをみていく先で、ふと指が止まった。 (なんだろう…これ) クリックひとつで、気軽に開いてみる。 【××年 ×月×日 ハンドル:れいじ 本文:いつも拝見しています。いい小説ですね。】 口元を押さえ、思わず目を見張る。 見たこともないような字体(フォント)で、簡潔に書き込まれていた。不安定に波うちまるで手書きのような、少なくとも、パソコンの設定には存在しない字体。だが、そんな些末なことよりも何よりも――私の嘘を、見破った人がいる。 (誰なんだろう) 擬態を匂わせる失言をした記憶もさしあたりなかったが、手の込んだその文字に、視線は釘付けだった。くるりと思考を巡らしながら、恵は身震いをした。別に「ばれた」という事実に、焦ったわけではない。初めて目にした不気味な字体に、戦慄が走ったわけでもない。しかし震える身体を、抱きしめるようにして両の手で擦った。書き込みをもう一度確かめると、胸の奥が、まるで灯がともったように温かい。押さえてみると、両の頬も熱を帯びて暖かかった。 (そうだ、これは興味だ) 看破したその人に湧き上がる、純粋な興味だ。少なくとも、ここにはいない本当の「私」という気配を、敏感に察知してくれた人がいる。 無意識に、恵の口をついて一言が出る。 「会ってみたいな……」、と。 * * * その春は萌黄の梢に、早い桜が過ぎていた。早すぎる新緑は、瑞々しいのか不安なのか、自分のことすらも計りかねる。 れいじは、話せば話してみるほど味が滲みる人で、知り合うまで、そんなに日数はかからなかった。沈黙は華とはよく言うが、黙っていればあちらから、相変わらずの癖のある字体でメールを何通も寄こして来た。が、暦の上の祝日が明けた週のはじめ。今当面の問題は、そこにはなく―― 「やっぱり、まずかったでしょうか?」 恵は先輩二人を前にして、大衆食堂の片隅で首を捻っていた。大抵の昼休みは、オフィスからそう離れていない噴水のある公園で過ごすのだが、今日は奢ってもらった、一杯三百五十円の月見うどんをすすっている。清潔感のある、小奇麗なスーツを着た接客担当の集団は、どうみたって場違いだった。 確かに、係長相手に啖呵を切った失態は認めるが、やはり納得のいかないこともある。事の発端は、担当の女性会員の出会い申し込みを通した、先方の男性の返答にあったのだが。 「だってですね、一人娘という理由だけで断られたみたいなんですよ。最初から、そちらの両親の介護をしなくてはいけない、そんな煩わしい危険(リスク)は避けたいって。その上で、面倒を看る必要があるのなら、どうせならもっとお金持ちのお嬢さんがいいです、ってぬかしたんですよ!」 釣書のコピーをびりびりに引き裂いて、トイレでひとしきり地団駄を踏んでやりたかったところを、どうにかしてこら堪えたところだった。その件を係長に報告したら、「一人娘だろう? 仕方ないな。断りの理由を知らせてくるだけましじゃないか」と、いとも簡単にまとめたのだ。 「この少子化時代に、どの面下げて、何ぬかすんでしょうか。男だって今や長男だらけだし、そっちに両親がいるように、女にだって両親がいるんですよ」 あたかも、それが常識といった係長の言い草も気には食わないが、追求しだしたら、出会い紹介の会議自体、あんなにいい加減な代物はないとも思う。保管している会員釣書(プロフィール)と写真をデスクの上にずらりと並べ、「この辺りを、くっ付けといたらいいんじゃないか」とか、「いや、この辺りで相応だろう」とか、そんな基準の不明な会話が、毎朝頭の上を公然と横行しているのだ。 「で、『そんな考え方している男は嫌いです』って、係長に威勢のいい啖呵切ったわけね。若いなぁ」 「ま、私の経験上よくある話ではあるけどね。私も一人娘で……見合いに関しては、そりゃあ色々ありましたから。男も女も、とにかく自分の理想を押し付けあうから、たまったもんじゃないわよ。この業界」 紗江(さえ)が茶化したのとは対称的に、千夏の語調は朴訥で平静そのものだった。千夏の場合、偏見への耐性がついていて、馬耳東風でやり過ごす技がついている。かといえど、暖簾に腕押しで茶を濁さないあたり、業界に染まって長いというよりは、もはや天性の域に達していた。これで、恵より一つ年嵩なだけなのだから、年齢に鯖でも読んでいない限り、いっそ詐欺ではないかと思ったりもする。 「一般論として、昔からよく言うじゃない。男は女に、容姿だのロマンだのを求める夢想主義者(ロマンチスト)。女は男に、金あっての生活を求める現実主義者(リアリスト)。結婚は【人生の墓場】だの、【最も危険な契約】だのって、形容した人だっているくらいだしね。この際、大学の全入時代を飛び越えて、世界に男女が一人ずつでも突き付けられない限り、おめでたい頭には理解不能なんじゃないの? 選択肢がなくなったら、否が応にでも目が覚めるわよ」 地球滅亡の危機にひん瀕してしまえば、懸想だの有頂天に胸を躍らせている騒ぎでは、なくなっているとも思うのだが。 「地球上に残された、希望の二人ですか? 新生時代のアダムとイヴ? やめて下さいよ。あざとい映画じゃあるまいし」 「男と女がひと所に残されて、他に誰もいなかったらさ。子孫繁栄は有史、動物的本能だからね。生物学上は、人間にだって該当するはずよ」 「うわ、千夏……わかってたけど、あんたって本当に虚無主義者(ニヒリスト)」 「本当になんであんたみたいな子が、この業界に入ったのかしら。この業界に浸れなければ、結婚に対する偶像が壊れるだけよ。あんたはいいわよね。妹がいて」 家でやり場のない時間を積み重ねていた時、アルバイトでも入社を選んだのには理由があった……はずなのだが。今では動機の境界すらもあやふやで、思い出すのは持て余していた時間に、やたらとろくでもない思考をしていたことだけだ。 「……いえ、そんなこともない…です、よ。下にまで、突き上げられたら最悪です」 上と下では上が先に売れるのは、一般に言って自明の理。その法則を捻じ曲げて、下が先に売れてしまった場合はどうしたらいいのだろうか。上が売れるまで付き合って、下もお取り置き物で余裕をかましていたら、それはそれで大変なことになるような気もする。クラクションがひっきりなしに鳴り続け、我が家はたちまち、交通渋滞を起こしてしまうだろう。だけど恵は、妹に子供ができたばかりの当初の行動を思い返してみる。妹が、子連れで頻繁に転がり込んできた暁には、自分の取る行動といったら、理由を適当にでっち上げて外出するか、二階の自室に引きこもるかだった。張り付いた笑顔でわきあいあいと、冷や汗を隠しながら家族団らんなんて、よほど神経の図太い鉄面皮になれなければ、とても耐えられたものではなかった。 人生なんてうまい具合に、追い越し車線が引いてあると今でも思う。 「で、そのネットで知り合ったっていう彼氏はどうなのよ? 何やってる人なわけ?」 「へっ?」 準備していなかった唐突な質問に、不覚にも恵は、すっとんきょうに上ずった声をあげた。予測はしていなかったが、正面に構えた興味津々といった紗江の瞳は、図らずともれいじのことを聞いている。 「だから、彼氏じゃないです」 しかし、この強調をすることだけは忘れまい。 「たぶん本業はプログラマーで、副業がフリーのエッセイ書きと自然写真家……かな?」 「……なに、その疑問形?」 「やけに多芸ね。私は読んでないんだけど、シドニィ・シェルダンの【真夜中は別の顔】ってあったわよね。新手かなにか?」 「千夏先輩まで……俗な。まさか。あ、でも今日から、手品師(マジシャン)も追加するらしいですよ。ちなみに繰り返しますが、彼氏じゃありません。ただのメル友です」 二人で、にやにやとほくそ笑んでいる先輩陣に気付かずに、恵は淡々と続けたが、 「でも、パソコンのメールじゃリアルタイムで会話できないし、昨日から二人でチャットを始めてって、あ〜っ!」 歪んで壁にかかった時計の指針は、もうすぐ十二時と半分を指そうとしている。恵は歯磨きセットの入った鞄を引っつかみ、「用事があるので、お先に失礼します」と、慌てて立ち上がった。「定時には、ちゃんと仕事に戻るのよ」という注意を背に受けたが、「ごちそうさまでした」と言うのもそこそこに、走りにくいヒールを引っ掛けて駆け出していた。 いつも昼食をとる噴水公園で、午後十二時半。 【れいじ:月曜日の、午後十二時半。レディース・アンド・ジェントルメン! 種も仕掛 けもございません。毎週、手品をお届けします。昼食をとっている、噴水の前のベンチに 座っていて。空から手紙を届けるから】 昨夜のチャット では、こう話していた。 本業がプログラマーだというのは、決して本人に尋ねたわけではない。恵の勝手な推察だが、判断したのは、送信されてくるメールの送信元が非表示になっていたので、不思議に思ったことが発端だった。聞いた時、れいじはこう言っていた。 【わが社の開発したシールドソフトの試験(ベータ)版を、僕のパソコンにインストールしているか ら表示されないだけだよ】 何だか全然分かっていないのだが、こういう時に機械音痴は便利だと、恵は自信をもって思う。複雑で難解な仕掛けができるのは、全て専門家の領域であると、単純で疑う発想がないのだから。 れいじは、噛めば噛むほど味が出るするめみたいに、実に多才な人だ。むしろ多才というよりは多面性を披露する、近い言葉があるならば、多面体のような人だった。何より特筆すべきことがあるならば、小ネタではあるが、雑学の知識が目を見張るほど半端ではない。彼から仕入れた直近の知識は、東北民芸の技、「こけし」についてだ。耳にするまでは、幼いあどけなさを残す童女の顔が多かったけれど、どこか憐憫を漂わせる奥の深い木彫り民芸、くらいの視点でしか気に留めもしなかった。しかし、その正当な由来は「子消し」かもしれないと、れいじは話した。その昔、貧しい家屋では子供の口減らしのために、恵み子を売ったことが、その発祥とされるかもしれないのだと。真偽は確かめていないけれど、姥捨て山が罷り通った時代もあるのだから、起こり得ても、不思議ではないような気もするのだ。時おり垣間見せる彼の皮肉屋(シニカル)な発言も、自称フリーの随筆(エッセイ)書きと名乗るには、充分な説得力をもっていた。 時には自然写真家を名乗るが、フレームというレンズ越しに、広がる風景を収める快感を雄弁に語る姿は、仕事を越えて、もはや誇りすら感じさせる。花の歳時記の知識も豊富だったし、写した植物の毒性や効能まで把握しているものだから、疑う材料もとりわけてない。飲み込みにくいが豊かな内面を想像し、彼の輪郭を考えることが、恵のひとつの楽しみになってきていた。 目的地の公園は、目抜き通りからさほど離れていない角を、右手に少し折れた所にある。地の利では待ち合わせに使われそうだが、遊具なんて愛嬌もない、噴水だけの粗末な公園だった。人目のない気楽さと、噴水の水音からお気に入りに決めたのだから、うら淋しい景観なんてこの際はどうでもよい。低木の裏手に建つ映画館は、単館上映を専門に取り扱うため、客層もマニアに近い人達の出入りが目立つ。 噴水の湧き出す時間は一定で、きっかりと三十分間隔だ。お決まりのベンチに座り袖をめくると、腕時計は噴出の時刻まで秒読みの段階に入っていた。草の芽の息吹の香りが辺りを彩り、鼻腔をくすぐっては通り抜けていく。早春の柔らかな日差しに照らされ、水面の波紋はいくらかおとなしく、淡い光を優しく反射していた。澄んだ水の色に、タイル底の縞模様まで浮かび上がっている。 ジャスト十二時半の時刻を、教会の半鐘が、往来の雑踏へ静粛に告げた。 恵は澄み切った青空を仰ぎ、高らかに宣告された、正体不明の【空からの手紙】を待ってみた。今にもれいじの、「レディース・アンド・ジェントルメン」と声高なセリフが飛んできて、飄々とした姿でひょっこりと、植え込みの陰から姿でも現すのではないだろうか。恵は眩い日差しに手を翳し、目を細めてこらした。 「あれって……」 恵は、前に両の手を差し伸べる。何かが空を横切って、こちらに飛んでくるような気配を察知したからだ。空の蒼に白のコントラストが映え、直線を描きながら、すうっと紙飛行機が舞い降りてきた。 (空からの手紙? そんな、こんな……馬鹿なことがあるなんて。一体、どうやって飛ばしたっていうのよ) きっと近くに潜んで、こちらの仰天する反応を見ては、人が悪く楽しんでいるに違いない。そうしたら、どんな手段を使ったのか問い詰めてやろうと、公園の外周沿いに辺りを一巡りしてみたが、そんな姿はどこにもなかった。 (聞いてもきっと、こう言うのよ。「種も仕掛けもありません。それが手品の醍醐味です」って) 案の定、開いた紙飛行機は上からみても下からみても、結わえた糸のような貧相なからくりも見当たらず、種も仕掛けもないただの紙。伸ばした折りじわの中央には、堂々と、メールに書かれていたあの筆跡で、アルファベットの小文字―a―が一文字、素っ気なく記されているだけだった。 * * * 十三通目の紙飛行機が手元に届く頃、季節はじめじめと、湿度が最高潮に移ろいでいた。欧州では復活祭の催行月というだけでなく、Juneという月名がローマ神話の結婚を司る女神“Juno”(ギリシア神話では女神ヘラ)にあやかり、女神の月に結婚すれば、きっと祝福を受けるに違いない――というわけで、六月の花嫁(ジューン・ブライド)が好まれるらしい。だけど日本の梅雨は好対照で、全くもっていただけない。くる日もくる日もじとじとと、足元の悪さも絶好調。招待されて、うっかりと着物で来ようものなら、後には染み抜きが手ぐすねを引いて待っている。それではまるで、湿っぽい雨を呼ぶ女だ。 (欧州だって、うまく神聖な伝承に託けてるけど、単に、年間雨量が一番少ないだけなんじゃないの?) 恵みの水を全身に浴び、木々の葉が濃く、つや艶めいていくことだけは認めよう。在庫一掃(クリアランス)セールの戦利品を詰めた紙袋を下げ、傘で弾む雨音を聞きながら、恵は帰宅の道を急いでいた。今日も受け取った空からの手紙には、依然としてアルファベットや記号が一文字ずつで、何のことやら分からない。日によっては「.」や「/」と書かれている時もあり、暗号か謎かけの悪ふざけなのかと思ったりもする。一枚ずつ丁寧に伸ばしては、自室の引き出しに積み重ねて仕舞まっていく。れいじに尋ねても、【さて、なんでしょう?】と軽くかわされたところで、毎日深夜一時から始めるチャットは終了になるのだ。 「ただいまあ」と、我が家のドアを引いてみれば、 「おばちゃん、お帰り〜! あそんで、あそんで」 と、林檎のような朱いほっぺで、とてとてと頼りなく走ってくる男の子がいる。またいるのか、と軽い頭痛を覚えるが素早く気を取り直して、 「ようし明くん、一緒に言ってごらん。ま〜けっぐみっ。ま〜けっぐみっ」 弾力のある柔らかな頬を横に引っ張り、上下に軽く揺らしてみた。 「ちょっと、お姉ちゃん。変なこと教えないでよっ」 背後には、仁王立ちになった妹の利佳子が、険しい形相で立ちはだかっている。小(ちい)ねえちゃんと呼べと教育したはずなのに、しょせん子供は子供ということだろうか。「また来たの?」と言えば、「皆で食べた方が断然、ご飯って美味しいよね。もうちょっとしたら、旦那も来るから」と返すに決まっているので、そんな野暮なことは聞いてやらない。母親に付いて、スーパーへ買い物に行っているのも知っているし、最もらしい理由をつけてはいるが、食費を浮かせるため、毎度押し掛けて来ているだけだろうに。 廊下では大きな箱が通行の邪魔をしていて、壁際にずらそうと屈んでみれば、恵宛の荷物になっていた。差出人の名前が恵を直撃し、伸ばしかけた手が一瞬にしてひるんだ。 「ご飯の前に開けてくれる? お母さん、お礼状書かなくちゃいけないから」 湯豆腐のだしの香りが立ち込めた居間(ダイニング)から、おたまを手にした母親が、ひょいと首だけ突き出している。 (開けたくないなあ。断言していいけど、絶対にろくなことがない。百害あって一利なし) 差出人の名前は、上川園子。父親が仲人を頼んだ、得意先の茶の湯の先生に当たるのだが、恵にとっては鬼門以外の何者でもない。気合を入れて一息に箱を開ければ、中には袖口にビーズをあしらえた純白のTシャツと、和紙で包まれた一通の手紙が入っていた。 目を通した手紙に眉が引きつるのを必死で堪え、母親に聞かせるように大声で朗読する。 「えっと、つまり……要約すると。『あんたのセンスなんて大したことないんだから、あたしに任せときゃいいのよ。可愛い系なんて、その体型じゃますます膨張して無様なだけだし、似合うはずもないんだから、簡素(シンプル)に大人しくしてりゃいいの。下にライトブルーかモスグリーンのスカートを合わせて、来月中頃のお見合いに、つべこべ言わず出てきなさい』、以上です」 「ああ、そう。分かったわ」 今の会話で通じてしまう母親の理解力も素晴らしいが、何よりも恵は、この仲人が嫌いだった。自分のお眼鏡にかなわなければまともに世話をする気もなく、売却するとなれば、自分好みに加工(カスタマイズ)しなければ気に食わない。依頼者(=手持ちの原石)を研いで陳列棚(ショーケース)に飾ることが趣味で、光沢が出なければ素材の悪い陳腐な駄石として、さっさと廃棄したがるのだから。 「私、この人嫌いなのよね。だって……人を商品としてしか見てないし、自分の体面(メンツ)と成功報酬を、懐にがっぽり入れることしか考えてない人だもん。ねえ、こんな人に頼んでまで、私を嫁がせたいわけ?」 台所(キッチン)の冷蔵庫に移動し、専用のトロピカルジュースの栓を開けながら、恵は母親に尋ねた。 「……だってお母さん、その人くらいしか頼めるところないし。やっぱりね、親としては安心させて欲しいのよ。お父さんもお母さんも、いつまでも一緒にはいてあげられないんだから」 「お姉ちゃん、ひょっとしてまだ根に持ってるの? 世の中早い者勝ちで、貞淑なんて今時はやらないんだから仕方ないって。そんなに結婚が嫌なら、何で出会い紹介の仕事なんてしてるわけ?」 実家から受けている金銭援助の恩からか、いらないところで利佳子の助け舟が入る。前者には思い当たる節もあるが、今となってはどうでもいいことだった。「見合いをする」と返答したどこかの大学の准教授が、仕事に忙殺されているからと、見合いの期日を散々に引き延ばしたあげく、ひょんなことから出席した同窓会で、意気投合した女と交際開始。めでたく彼女を獲得でき、不要になった見合いの取り下げを、いけしゃあしゃあと仲人に知らせてきたのだ。 (ま、そんなのは過去のことだし) 恵の記憶からも抹消されかけて、とある日の出来事という残像くらいでしかない。出会い紹介の仕事を選んだ理由、それは――。 「ああ、もう、私って絶対に名前負けしてる。全然めぐまれない、“恵”ちゃん!」 力一杯に叫んでみても、煮立った湯気の香りは魅力的で、腹の虫が盛大に鳴いたりするものだから締まりはしない。夕飯の献立に後ろ髪は引かれるが、今はとても、家族の食卓を楽しむ気分になれそうもなかった。自室へと階段を上りかけると、背中にかけられた「ご飯は?」という声に、意地で「ダイエット中」と即答してしまう。街も家も、私の吸える酸素が足りない。食欲よりも今はただ、私を待っていてくれる、あの空気が思い切り吸いたい。ただ、それだけだった。 部屋に戻れば雑然とした机の上で、片方では【素子(もとこ)のつぶやき】、もう片方ではれいじとのチャットと、変わることのない並行運営を日課にしていた。まず始めに【素子(もとこ)のつぶやき】の返信をし、今日のブログの更新をする。本日のお題は、いつまでもはしゃぎ声のうるさかった「わが家の湯豆腐事情」についてで、文字で描かれた理想の自分に、ひとしきり息をつく。気持ちがささくれている日は尚更に、心地の良さでほろ酔い気分になる。そして改めたところで、深夜一時のチャットの息継ぎを迎えるのだ。 時計の針はとうに一時を回り、ディスプレイではれいじとの会話が始まっていた。 【もとこ:でね、そんなの持ってないし、スカートまで買わなくちゃいけなくなったのよ。服くらい、自分が好きなの着て行っちゃいけないの? そりゃ利佳子に言わせりゃ、「自分で相手探してくる甲斐性のない、お姉ちゃんが悪い」で始末されるんだろうけど、そこまで肩を張って人を探さなきゃいけないわけ? 奥手なのが悪いって裁断されたら、どうしようもない話だけど。上川さんって二言目には、「努力してもらわないと」と、「感謝してもらわないと」、よ】 【れいじ:いや、なんというか……仲人さんっていっても人によるんだろうけど、そこまでしゃしゃり出る話は聞いたことないけどなあ】 見合いというのは不思議な周期(サイクル)に取り憑かれているのか、良縁であろうと悪縁であろうと、話が舞い込む時は折り重なるくせに、ないとなれば一年でも二年でもぴたりと音沙汰がなくなったりする。そんな不安定な日常に、ぽつりぽつりとくる知人からの招待状や結婚報告。極めつけは、写真付きの出産報告に胸がちくりと痛もうと、平穏に過ごせているのは、ネットの先にいる顔の見えないこの友人という、安息を手に入れていたからかもしれない。 たとえ第三者が聞いたら鬱陶しい愚痴であろうとも、聞いてもらえる第二者がいるというのは心強い。一緒になって馬鹿騒ぎしていた友人ですら、三々五々に散ってしまえばそれまでだ。結婚を果たし子供ができれば殊更で、自分の牙城固めに忙しい。メールで意見を求めても「遅くなってごめん」と簡潔で、一月遅れの返事がきたり。何の相談をしたのだか、手元には、送信の履歴すら残ってやしない。 【れいじ:でも、結婚はしたいんだろ? 少なくとも、興味はある…違うかな? そうでもなければ、出会い紹介の仕事なんて、好き好んで選んだりはしないと思うんだけど】 書き込まれた質問に、しばし指が止まる。確かに、理由はあるのだ――。 【もとこ:う〜ん、なんていうか。一人で生きて、一人で死んでいくのは寂しいかなあって】 誰にも見向きもされず相談もできず、万事において独りで決断を下し、何よりもやり切るだけの自信がない。一層、「大丈夫、私は一人で生きてけるから!」と、撥ね付けるだけの強かさがあればと、願わずにはいられないのだが。 返事がない。思案しているのだろうか。やけに大きな音をたて、時計の針が規則的に秒を進めていく。秒針が、一回りはしただろうか。相当の間を置いた後、れいじの書き込みが入った。 【れいじ:人間は生まれて死ぬまで、結局のところは独りだと僕は思う。肉親ですらそうなのに、他人なんて、耳を傾けるふりをしたとしても何もしてくれやしないさ。いや、肉親だからこそ、何もしないことだってある。やっぱり、人は世界に独りきりだ】 彼はその場限りで、今を愛し是とする人間を、自分の友人を含めて刹那主義と称した。言葉を区切って、また続いた。 【れいじ:そこを心配してくれるなんて、いい親御さんじゃないか。少なくとも、僕には味わうことのできなかった経験だ】 (あれ…なんか私、まずい方向に話もっていっちゃったのかしら?) 軽い愚痴から始めたつもりだったというのに、生い立ちめいた想定外の返事が返ってくる。今まで、感じたことのなかった焦りが生じてきて、とりあえず、話を逸らさなければいけないのだろうかと冷や汗が流れる。 さしあたって、写真の話にでも切り替えるよう試みることにした。 (彼もきっと、好きなことなら気楽に話してくれるわよね) 【撮影した対象物が、即時に手持ちのカメラに投影されるなんて、それは邪道な享楽の極みだ】と、以前、豪語していたことを思い出す。 (王道派というより、それって時代の逆行?) つまるところはデジカメ嫌いの、伝統のフィルムこだわり派なのだろうか。 彼の撮る対象は高山植物や観賞植物、野の花だけには止まらず、大気汚染にも耐える街路樹にまで及んでいたと記憶している。彼の話によれば、一番多くフレームに収める花は夾竹桃で、最近収めたものも、夾竹桃の八重の紅蕾と、雨に濡れた葉の光沢だと言っていた。 【もとこ:ねえ、私から話振っといて勝手だとは思うんだけど……写真の話でもしてよ。この前、撮影したって言ってた夾竹桃って、どんな花なの? 街路樹なんかで、よく見かけるなあってくらいしか意識してなかったんだけど】 【れいじ:え、なに? 興味ある?】 【もとこ:興味というか。そんなに虜になるほど、素敵な花なのかなあって。単なる、知的好奇心?】 【れいじ:聞きたい?】 興味があるから尋ねているのだが、瞬間、失敗した……と、れいじの口調で感じた。言い回しがまわりくどく、反応を窺って楽しんでいるようにも思えるが、やけにこちらをじ焦らしている。こういう時の彼は子供のように、十中八九、間違いなく・・語るのだ。 【れいじ:夾竹桃はね……】 (そら、きた) 恵はこの際居直って、ずんと腹を括ろうと、椅子に深く腰を掛け直した。体重をかけられた背もたれが、きいと反って高くきしむ。 【れいじ:夾竹桃は葉が竹のように細くて、花が桃の花に似ていることから、この名前になったんだ。原産はインドで、開花時期は六月から十月と非常に長寿だろう? 夏の間中咲き誇るんだ。中国を経由して伝来したのは徳川時代だけど、徳川夢声 は昭和歌史の中で、「きょうちく桃 一枝折れて 咲きゐたり」と、そのたくましさを賞賛しているように僕は思うんだ。最多の品種は桃色の八重だが、白の品種もあって、可憐な白は不思議と一重のものが多い。だけどその容姿とは相反し、毒性はきつく馬殺しの木だのと、原産国では呼ばれていたんだけどね】 予想は的中し、彼の話は朗弁で止まることを知らない。ここまで語れば、蘊蓄のお披露目を通り越し、染まってしまえば返って心地のよいものだ。 【れいじ:夾竹桃は民間療法では打撲への効能もあるが、反面、心臓発作や下痢、痙攣を引き起こす大変危険なものでもある。あ、高浜虚子 もこんな歌も詠んでいるんだ。「病人に 夾竹桃の 赤きこと」って。被爆した長崎市で、疲弊した大地に一番早くに咲いたのが夾竹桃ってことから、詠んだといわれているみたいだけどね。どんな悪辣な条件でも生きようとする赤い姿は、病院のベッドから見る病人には、毒々しいってことなんだろうか】 【もとこ:さあ、憎まれっ子世にはばかるってこと? ねえ。なんで、夾竹桃がそんなに好きなの?】 と、とりあえず無難な質問を差し込んでみる。 【れいじ:え? あ。うん、そうだね……えっ、と】 なんだか照れ隠しをするような、読み取りにくい反応が返ってきたが、 【れいじ:真夏の暑気に頭(こうべ)をあげて…空を強く、仰ぐからかな】 もっと、いわくがあるのかと期待してみたのだが、存外に明快な答えだ。 【もとこ:ふうん。なんだかよく分からないけど、いつか私にも、その夾竹桃の写真を見せてよ】 恵の言葉に、ふつりと彼の会話が止まった。曖昧な時間は言い澱んでいるようにも、考えあぐねているようにも感じるが、居心地の悪い時間をやり過ごすしかない。すると、 【れいじ:僕は写真家だけど、現像はしないよ。たとえ、嘘をつかない植物でも。フレームの中に世界を絞って、手の中に景色を収めるのは好きだ。ぴんと張り詰めた心地良い緊張に包まれて、うんと世界を手繰り寄せては、僕だけのものにできるような気さえする。だけど一度現像してしまえば、そこには真実が映し出されてしまうんだ。だから、人は絶対に撮りたくない。レンズに気付かなくても醜いけれど、レンズに気付くと更に醜悪だ。たちまち嘘の顔でも平気で向けてくる。そうやって土足で踏み入って、フレームの中まで無神経に穢していくんだ】 【れいじ:僕は……きっと、人はもうたくさんなんだ】 しんとした、底冷えの沈黙が訪れる。二人で実際に顔を突き合わせていれば、永劫に続くのではないかと思わせるような、深い深い沈黙に思えた。推察できることは、ただひとつ。 (この人は、きっと何かあったんだ) 気の利いた言葉など、彼はきっと必要としてはいまい。優しい言葉など、求めてはいないのだ。しかし、適当な言葉が見つからない。 (でも……それだったら、私は…) 【もとこ:私のブログを、いい小説だって言ったよね? 私も皆に嘘をついている。あなたの嫌いな、醜くて仕方のない人間よ】 それは、取り繕いようのない事実だ。 なけなしの勇気を振り絞ってみたのだが、音のない空間に再びの沈黙が挟まれた。長い、長い時間、彼の書き込みはない。この種の時間は拷問で、「そうだ」だとか、「お前なんて嫌いだ」だとか、無情に突き放されたらどうしようと。時間を持て余すと、ろくな思考をしない癖はいまだに健在で、抜け切っていないことを自覚する。 【れいじ:うん。僕も君も、嘘をつく汚い人間だね。でも、嘘がなければきっと息もできなくて死んでしまうと思うんだ。3。そう、3だよ。3は、僕達の酸素なんだ。嘘がなければ真実も成り立ち得ないし、またその逆も然りだと思わないかい? たった、3だけの真実があれば……僕はそれでいいと思う。人ってきっと、3と7の配分で構成され動かされている、地球上で最も厄介な生き物なんだよ】 まるで、不文律 のような書きようだった。恵は、一度目は書き込まれていく文字を目で追い、二回目は文章を探るように潜ってみた。しばらく書き込まれた文字を、食い入るように反復すると、【3と7】の組み合わせが鍵(キーワード)のように、頭の中で螺旋を描いて廻り出す。 れいじは会話から落ちたらしく、そこで退室の表示が現れた。気が付けば、部屋の中はスタンドの弱々しい明かりだけに照らされて、ディスプレイの光源の方が眩しいくらいだった。落ちた後も消えずに残る彼の文字は、まるで自分に宛てた置手紙のように感じた。 引き出しの中から手紙を取り出して、床にぺたりと座り込む。 (またこれが何か、聞き出すの忘れちゃったな…) 手紙を十三枚、毛足の短い絨毯の上へ横一列に揃えてみれば、溜まったアルファベットもそれに続いて、横一列に綺麗に並んだ。彼の宣言では、完成までに後七枚。その時までに答は出るのだろうかと、恵は折りじわの付いた正方形の白い紙を眺めていた。 * * * 首が据わり、産まれて一年は経ったと記憶している子供を連れて、美知が帰郷したのはちょうどそんな矢先だった。彼女のスタンドプレイは学生時代からの日常茶飯事で、突然の電話で呼び出されたとしても、今更驚きもしないのだが。しかし紙オムツの山によろめきながら、バギーに赤ん坊を積んだ所帯じみた登場ともなれば、事態はまた別だ。一日遅れで帰郷する旦那と、駅の中央口のコンコースで待ち合わせているらしいが、たとえ、それまでの時間潰しに付き合わせられているだけだとしても、美知の気まぐれは、今に始まったわけでもない。 「マタニティの服は卒業したけど、体型がもとに戻らないんだ」 というぼやきを、右から左へと聞き流しながら、 (なんで、親元に帰って来てるっていうのに、子供を預けて来ないかな……) とは思ってみる。 オープンカフェのテラスから車道を挟んだ所では、懐の暖かい休日のOLを狙った高級ショッピング館が、新しく開店したばかりのようだ。入り口には、著名なデザイナーから寄贈された流水時計が設置され、玄関口(ホール)には紫水晶(アメジスト)のオブジェを構え、吹き抜けのアトリウムからはエレベーターが昇っていく。アウトレット専門店だけでなく、品質勝負の有名レストランに、人気ブランド店が目白押しになっていて、これからのランドマークになることはまず請け合いだろう。そのやり口の露骨さに、パラソルの下で、知らず知らずため息がこぼれた。 恵はもうひとつ、ため息を豪快につきたくなる物体が置いてあるテーブル脇へと、目を移してみた。何かにつけて、火がついたように泣き出す時限爆弾を抱えては、おちおちと連れ立って遊べたものではない。子供を嬉しそうに見せてくる、無意識の残酷さも罪つくりだとは思うのだが、当人には全くといっていいほどその自覚はないのだ。確かに、西瓜を入れたようにぱんぱんに膨れ上がっていたお腹はすっきりしているのだが、元通りのスレンダーな腰周りに括れと、そう都合よくはいっていなかった。体型を戻すための引き締め体操は、医者の指導の下に行っているらしいのだが、食べたいものを欲望のままに食していては、あまり効果も発揮されないだろう。 二人で貪っている本日のチーズケーキは濃厚で、確かにパティシエの技が光る絶品だ。たおやかな時間は舌鼓を打ちながら、二人で通った学生時代のケーキバイキングを彷彿させ、まるで昔に遡ったような錯覚すら感じる。が、脇に寄せられているバギーの中から覗く子供の小さな手が、ちらちらと視界に入っては、神経を現実へとかき乱していた。 美知は音大時代からの友人で、恵とは違うヴァイオリン専攻の学生だった。知り合ったのは、学生コンクールの参加に向けた合宿でだが、留学先の入寮日が一緒だったこともあり、卒業してから今もなお、なし崩しに連絡を取り続けている。 「で、最近、仲買人(バイヤー)の仕事の方はどうなのよ。この前、スタインウェイ製のピアノの目利きに、研修に行ったって言ってたでしょ? 今はアメリカに吸収合併されているけれど、もとはドイツ資本だもんね。で、どうよ、本場は? ヴェーゼンドルファの模倣を始めてるって噂も、聞きかじったりしたけど?」 オーストリア製のヴェーゼンドルファでは、低音部を更に九鍵増やすことで、低音域を重厚にする構造上の工夫が施されているものもある。 「うん。製作工程から工場で見せてもらったんだ。美知のヴァイオリンのような手作りじゃないから、職人の銘(ラヴェル)は刻まれないんだけどね。音源調節のための調律での調弦のとか、樫の材木や象牙のこだわりだとか、色々勉強にはなったわよ」 また、口からでまかせの偽りばかり。嘘から出た真にでもなれば願ったりなのだが、恵の胸は深く抉れてずくりと痛んだ。 「よかったじゃない、私と違って。せっかく、プラハまで行って留学したんだし。演奏じゃなくても、知識がそうやって活かせるなんて、羨ましい限りだわ」 清水の舞台から飛び降りたつもりで購入した、彼女愛用のストラディヴァリウスは、今では調弦もなされず、単なるコレクションに成り下がってしまったという。「湿度対策はしてたんだけどね」と、紅茶をすすりながら呟く美知の顔は平然としていて、語り口調もすっかり、過去形となってしまっていた。しかし、戸棚の中で至宝に黴を生えさせるなど、職人の名器に対しては失礼だと、反省はしていると言う。有りのままの告白を続ける美知の顔を、とても正面から受け止めることはできそうもない。どうしようもなく、後ろめたい――私には、真実など何ひとつないのだから。 「私なんて毎日この子のオムツ換えたり、ミルク温めたり。とにかく手が焼けて仕方がないったら。単調だけど忙しすぎて、自分の時間なんてあったもんじゃないもの」 子供ができると、生気が抜き取られて、艶もなくすっかり枯れてしまう。そんなふうにぼやきながらも、マシュマロのように柔らかく清らかな赤ん坊の掌を、目の前でぷにぷにと握って見せた。学生の頃は、たとえ講義に遅刻したとしても、完璧な化粧やヒールの靴、ファッション雑誌で流行のチェックに余念がなかった彼女が。それが今ではすっぴんに、神経質に切り揃えられた丸い爪と、人は変わってしまうものだ。そして、子供を抱き上げては膝に乗せ、頬ずりしながら宇宙語のような赤ちゃん言葉であやす姿は、すっかり慈愛に満ちた母の顔に落ち着いていた。 月日が経つのは、早いものだ。 いま目の前にいる子供を最初に見たのは、膨れ上がった美知のお腹を、びちびちと音をたてて、元気に蹴り飛ばしていた頃だった。臨月で早産が危ぶまれ、入退院を繰り返したというにも関わらず、映画を見たいと付き合わされた日は、つい昨日のことのように思える。ジャンルがまたアニメときたもので、周囲の目線が、スクリーンよりは妊婦の腹に集中していたような気がするのだが。観賞中に陣痛や破水でも起きればどうしようと、前日から万一の場合に備えて、観賞客への平謝りの練習や、迷惑料の払い戻しの心配をしていたことをよく覚えている。【力ませていけない十か条】の聞き取り調査を母親から行っては、手帳に細かくメモ書きをして、充分に復唱してから映画館へと出陣した。腹を据えて意気込んだ割には、当の本人といえば階段は上るわ、重たい荷物を下げて小走りをするわ。とんだ取り越し苦労だったことを思い知らされ、帰ってからの疲れは、メガトン級に倍増した。 (ま、臨月の癖に……平気で飛行機に乗ってお腹を気圧に晒すわ、新幹線で長距離移動をするわ。何も考えてなかったみだいだし、いいけどね) 恵にはこの大雑把さが、時には腹立たしくも眩しく感じるのだ。権謀術数を、蜘蛛の糸のように張り巡らしたところで、八方塞がりになるのがおちだというのは、美知の持論だ。『世の中適当に抜いた方が、絶対うまくいくんだから』と、自信に満ちた面立ちで、いつも顔を輝かせている。出産祝いのリクエストを尋ねることすら愚問なようで、子供の玩具のガラガラといったメルヘンよりも、粉ミルクやオムツの宅急便を要求してきた、変り種でもある。 「最近はどう? それで、彼氏はできた?」 という美知の質問に、彼女の旦那とのなりそめを思い出していた。 遙々と北海道から釣書だけを頼りに、本州本土へと空を越えてやって来た父子。襟元を正して鎮座する二人に、美知の母親は台所で、二枚の写真を今一度見せたという。三姉妹のうち、長女は無事に売却済みだったらしく、残すところは真ん中と末――末は、美知になるのだが。よもや、トランプのばば抜きじゃあるまいし、『で、どちらになさいます?』はないと思う。そんな最中に、テニススクールから帰宅したウェアのままで、『別にいいけど』と、ふたつ返事で首肯した、美知の大概さにもほどがあると思うのだが。当人に言わせれば、見合いを重ねるのが面倒だったし、不愉快な思いもしたくなかったからだと言うが。頼み込んで平身低頭でいくよりは、望まれていく方が、大きな顔ができて気楽であると。しかし生涯を左右する問題だというのに、もう少し真剣に熟考してみても、罰が当たることはないだろう。だが、その天衣無縫の大胆さが、なんとはなしに羨ましい。 「彼氏……彼氏ねえ。うん、一応いるんだけど」 「へえ、どんな人? ちゃんと、小まめに連絡はとってるの?」 「うん。夜には毎日、連絡してるわ。写真家の卵みたいで、いつも風景の写真を撮るために、日本全国を飛び回ってるらしくて。今度は山百合とかの、高山植物の写真を見せてくれるんだって」 無論、口から出まかせなのだが、気が付けばれいじの掴みどころのない画像を、頭の中で懸命に描いている。彼の写真など、一枚も見たことなどはないのに。山頂から見下ろす下界の空気や、五色(ごしき)に移ろう湖水の青など、彼のチャットでの話に溺れていた。 「へえ、写真家さんかあ。見合いで知り合ったの? 今度、私にもメールで送ってよ」 「……うん、そのうちね」 曖昧な生返事が、奥歯にものを挟まらせたように心地悪い。だけど実際のところ、人に見せることができるどころか、恵自身、れいじの写真を一枚も持ってはいないのだ。 見合いというものは、成功もあればそれ以上に失敗もある。どんなに厳しく打たれたとしても、砂粒の中からダイヤモンドを見つけるかの如く。目を皿のように見開いて、その中からたった一人を掴めばいいのだからとは、それが困難を極めるというのによく言ったものだ。結局のところ、付き合う人は一人に特定せず、失敗してからの繋ぎを持て余すような、無駄な時間を極力避けるように、並行して味見をすることが多い。早い話が裏では、二又以上をかけて進める人が多いのだ。 美知は上川の一件を聞いて、 「まあ、うちの旦那も色々あったみたいだしね」 と、横のオムツの具合を確認しながら悠然と判断を下した。十とひとつ年上の旦那は、今だからこそ喉元過ぎればで、経験として他人に語れる過去もあるのだと、美知はしみじみと頷いた。 「それって……披露宴破談?」 顛末を軽く聞いた恵の第一声が、テラスの会話に混ざり合う。成田離婚ならぬ、新婚旅行破談に入籍破談という噂は数あれど、そこに至るまでの破談は初耳だ。 (えっと……婚約破棄とかじゃなくて、破談なのよね) 車道の騒音に隠れて周囲に聞こえやしないが、しいっと、美知が指を口にあてた。 「お父さん、旦那のお嫁さん探しには……それは苦労されたみたいでね。生方(いきかた)知れずにも近い、数少ない遠縁をしらみ潰しに回ったり。定年退職になっても上司のツテを辿っては、菓子折りを持って頭を下げに、夜行列車で足を運んだりして」 中学生の息子―旦那―を残して死んだ、母親の遺言だから尚更だったと美知は言う。病床につき母親は確かに、『息子のことを頼みます』と、父親の手を握りしめ、弱々しい声で涙を溜めて言ったそうだ。仕事帰りに簡単クッキングの雑誌を購入しては、慣れない料理や弁当などで奮闘し、そして休日には掃除や洗濯と、以降、男手ひとつで奔走してきたのだろう。 ようやく取り付けた相手のお嬢様は、曾祖父を農水省の議士に持つという、名士の家柄だったらしい。本人自身も、国立大を出た後に大手企業に勤務するという、輝かしい経歴の持ち主のようだが。 「なんでまた、そんないいところのお嬢さんと破談に?」 うまく運べば逆玉で、苦労が実り、棚から牡丹餅となるはずだろう。だというのにも関わらず、破談になったことがにわかには信じ難い。 「それがね。旦那の血筋の裏を取るために、興信所 に調査依頼をしたらしいのよ」 (……興信所…か) その言葉からは悪名が漂い、恵は思い当たる節に、顔を渋くしかめずにはいられなかった。興信所は理路整然とした理屈は抜きで、とにかく嫌いなのだ。 「それでね、お父さんが……怒ってしまって。自分の筋だけならいざ知らず、死んだ奥さんの方まで調査して、そんな死人の墓を暴くような真似をって。奥さんが亡くなって以来、自分の前で初めて涙を目に光らせたって、旦那が言ってたわ」 ようやく漕ぎ着けた縁談でも、一寸の虫にも五分の魂ではないが、譲れない矜恃がある。拳を振るってそう言った旦那の瞳は、ないことにめずらしく、険を帯びていたと美知は言った。挙式から披露宴の準備まで話は詰まっていたのだが、その話を知った時、全てを白紙に撤回したらしい。 「披露宴も、先方が母親と勝手にコーディネートや予算を組んでたらしくて。了解は、神父さんに会って話をする当日になって、事後に取ってきたんだって。会場は最上級の大ホールを抑えて、来賓にはしっかりと自社の社長さんを呼んでるし。他にも錚々たる顔ぶれの親族が、軒並み揃ってたらしいわ。方や、うちの旦那は一介の公務員でしょ? しかも片親になっちゃってるし、招待客といってもちょっとした同僚や友人。均衡なんてとれやしないって。そんなところで、興信所の話を聞いたりしたらなおさら、ね」 相手は、こんな赤っ恥の仕打ちは世間のいい笑い者だと、烈火のごとく怒り心頭で怒鳴り込んできたらしい。が、旦那本人がひとりで対応し、頑として家の敷居を跨がせなかったのだと美知は言う。 「ね、だから……一重に見合いって言っても、色んな苦労があるわけよ」 と、美知は腕を大業に組んでうんうんと被りを振ってみせるのだが、なぜか、彼女にだけはあまり言われたくないような気もした。 ふいに美知の携帯が鳴る。ベル音に驚いて泣き出した子供を「ほい」と手渡されたが、扱いを知らない恵にとっては、要指定危険物だ。困惑しながら、救いを求めて聞き耳をたてると、携帯の相手はどうやら旦那らしい。北の住人だけあって西の地理には相当不案内らしく、何度も聞き直して、確認をとっているようだ。 「だから、さっさと地下に入りなさいって言ってるじゃない」 しびれを切らした美知の声に、だんだんと厳しさが増してくる。その横で子供を抱えた恵は硬直し、身じろぎひとつできなかった。 (息をしたら、また泣いたりしないでしょうね……) 妹の、利佳子の子供を抱かされたことはあるが、その時は、母親の監視下であやし方の指導をされていた。どうでもいいが、腕の中の柔らかい物体を、早く受け取って欲しい。 方向音痴にとっては複雑に入り組んだ地上の迷路よりも、指示や案内板が用意された、駅下に伸びる地下道の方が親切だ。同じ方向音痴の同胞として、【地下の女歴】を長くやっている恵は、行きと帰りの道が別物に見えてしまう。その苦労が、手に取るように分かってしまうところが悲しいのだが。 やがてテラスに現れた美知の旦那は、少しばかり頭頂の髪が薄く後退が始まっている、下腹の膨れた小柄な人だった。素敵なえくぼと笑いじわを目元に浮かべ、「どうも」と歯切れが悪く、照れたようにやって来る。よほど焦ったのか、スーツを脱いだ下のシャツには、汗がべっとりと滲んでいた。この絵に描いたような、人の良い柔和な面立ちをした人が、そんな苦労に見舞われてきたなど。人は見かけによらないものだと、恵は改めて噛み締めていた。 * * * 『交際受理のお返事がきたから先方に連絡したんですけど、一向にお返事がこないんです。付き合う気がないなら、最初から拒否すればいいんだし、やっぱり中止しようと思うなら一報入れるべきだし、放置なんて受けておいて失礼じゃないですか?』 『はい、お怒りはごもっともです。すみません。こちらからも先方さんに、注意はさせていただいたのですが』 受話器を取った電話口で、相手の顔も見えないというのに、頭を何度も下げ倒す。 『注意なんて、甘いこと言ってていいんですか? こっちは、会費払って入会しているんですよ!』 太陽とアスファルトに溜まった滞熱で、煽られた会員の怒りも爆発し、季節は全身から吹き出す汗が止まらない、八月も半ばになっていた。お客の怒りは最もだが、命令なんてできはせず、社則の範囲から厳重注意がつつ一杯なのだ。係長に苦情(クレーム)の数々を通したところで、全ての会員の行動を操作することなど至難の業だ。見合いの申し込みに対し、イエス、ノーの返事がなされれば上々で、期日内に返事がされず、無視された申し込みは、機械的な「お見送り」扱いになる場合(ケース)が多い。 れいじからの最後の手紙を、明日に控えた昼下がり。恵の問題は、客の苦情対応に追われるよりももっと深刻で、今、目の前にあるのは間違いなく危機だった。Mホテルの十二階にある喫茶室の窓際からは、雲のかからない晴れた日であれば、ビル群の町並みに沿った深い色の港湾が一望できる。しかし、今、目の前で険しい視線で睨み付けているのは、あの上川園子だ。呼び出されること十分弱。景色を楽しむ余裕は微塵もなく、縮こまって身動きもできず、視線を泳がせたいがそうもいかない。スカートの上で拳を握り締め、射抜かれる厳しい鬼のような形相に、じっと耐えていた。 (昨夜、あれだけ言っておいて、まだ言い足りないなんて……) 仕事からの帰宅後一番に、母親から取り次がれた電話は最悪だった。 『すみません。仕事で連絡が遅くなりまして』 『あなたねえ。あの縁談を断るなんて、自分の立場をどう思ってるのよ? 感謝されこそすれ断るなんて、私の努力をどう考えているわけ?』 一番聞きたくない声で延々と説教が続き、あげくの果てが、呼び出されて今日という運びになるわけだが。仲人はげん験を担ぐ人が多く、見合いが成立したホテルの喫茶店を、また違う組み合わせに転用することが多い。が、ここは花形ホテルより奥まった裏手にある、お呼び出し専用のMホテルだ。 (しかも、あの時と全く同じ席なんて……ついてない) 上川との引き合わせのために、父親の得意先が同伴した日のことを思い出していた。あの日は父親も母親も同席し、今まさに座っている窓際で顔合わせをしたのだ。頭の上から爪先まで、ひとしきり品定めをした上川は、確信めいて大上段に言い放った。 『まあ、これじゃあ、もててこなかったでしょうね』 失礼にもほどがあると思ったのだが、上川は平然と続けた。 『いいですか、お父さん、お母さん。女は見合いの席に、男の方には来ていただくのだという、謙虚な気持ちで迎えることが必要なのです。長男さんでも来てくだされば有難く、次男さんなど、今のご時勢では皆様が飛び付かれる、大変高価な貴重品です。そして、努力と感謝の気持ちを忘れてはいけません。こちらから何もせずに、お話だけを受けてもらえるなんて虫の良い話はあり得ないのです』 父親の得意先に対する体面もあるが、上川が得々と続ける演説に唖然とする。恵を始め、父親も母親も口を挟める者はなく、その横で得意先の奥様が、うんうんとあいづち相槌を打ってはいたのだが。 『で、お父さん、お母さん。付加価値(オプション)に何をつけられますか? 家をそちらで用意されるとか、土地の名義をお嬢様に変更なさるとか。いいですか。男の方は、女の肩書きなど求めておられません。ああ、お嬢様は音大の院を出て留学されているんですね。これは釣書から、削除してしまいましょう。むしろ高学歴や資格などは、無用の長物にしかなりませんので。それでですね、ここはお相手様を資産攻めでいかれますか?』 『はあ。はい、そうですね。消してしまってください。家もこちらで、用意させていただきます』 (誰が、そんな金を持ってるんだ!) 無理なことを安請け合いする父親に、母親と一緒に冷や汗を流し、空いた口が塞がらなかったことを覚えている。 「あなたねえ。私が今日、わざわざ出てきてあげた意味、分かってる? 私、大先生に『あんな良い話を断るなんて、なんて高慢ちきなお嬢さんを紹介してくれたの』って言われたのよ。まったく、立つ瀬がなかったわよ。あなた、私の立場をどう心得てるわけ?」 上川の前に置かれたアイスティーの氷が溶け、からりとはぜる音がした。この後に執り行われる見合いのついでに、文句をひとしきり言い切って、時間を消費しようとしているようにしか思えないのだが。 「はい。遠路からの足のお運び、有難うございます。そちらのご事情も露知らず、この度はご迷惑をおかけしましてすみませんでした」 できるだけ視線を合わせないようにして、恵は深く頭を下げた。 上川が不満を並べ立てているのは、純白のTシャツを送り付けてきた、あの見合いの結果についてだ。紹介された先方は、お茶付き合いの大先生が、家族ぐるみで世話をしているという家庭の次男だったらしい。やけに上川が、「何としても話をまとめたいんです」とか、「今回は、私も頑張らなくちゃいけないんです」とか、母親に力説していた理由を知ったのは、後になってのことだったが。 (でも、仲人さん同士で勝手に盛り上がられても、当人同士の馬が合わなければどうしようもないじゃない。だって、お互い価値観や尺度があるんだもん) どんな一部上場の大手企業に勤務していようが、昇進の途中だろうが、生理的な問題や感性が合わないものは合わないのだ。豪華な肩書きに、問答無用で群がるという女性の話も小耳に挟んだことはあるが、少なくとも恵には無理だった。だから一度目の引き合わせで、断ろうと思って上川に電話したのだ。 『え、そんなこと言わずに、もう二三度会ってみなさいよ。会わないことには、人が分からないんだから』 と、押し切られる形で二度目になる二日前、再び上川から電話が入った。 『先方さんのお母様は、あなたが定職に就いていないことだけを気にされているわ。家柄とかは大丈夫。でね、大先生からの連絡なんだけど、明後日は○○屋の××というお茶菓子を手土産に持っていくようにと』 『え、……あの…』 『お茶の世界で日持ちのする、有名なお茶菓子なの。百貨店で買えるし、先方のお母様も大好きな老舗のお菓子だから、絶対に大丈夫。後一押しで、気に入ってもらえるわ。いいわね、分かったわね。確かに伝えたわよ!』 仲人の間で恵が断るという想定は、全くなされていなかったようだ。だが会えば会うほどに、上川が言う通り、人となりが分かってくる。ただそれが悪い方に傾いてしまい、自分とは反りが合わないという事実だけが、浮き彫りにされてしまったのだ。 「あなたねえ、一体自分を何様だと思ってるわけ?」 上川が足を組み、鷹揚な態度で聞いてくる。 「何様って……どういう意味ですか?」 「鏡は毎日、見ているんでしょう? あなた、自分の顔を見てもてるとでも思ってるの?大した顔でもなければ、体型は悪いし。スタイル容姿とセンスがだめなら、それらしく私の言うことをもっと聞きなさいよ」 上川の高めのよく通る声が、周囲の談笑の声に響いている。皆、他人の話など聞いていないだろうが、真横を通るウェイトレスの不躾な視線を感じた時、誰もが耳を欹てて、こちらを鵜の目鷹の目で窺っているような気すらした。 頭の芯が熱く感じるのとは裏腹に、体温が全て下に落ちていくようで、握り締めた指先が冷たい。 「いいこと、人間努力が必要なのよ。瞼だって二重じゃないし、目は写真で受けた印象より小さいし、これじゃ詐欺じゃない。そうだ。スタイルが悪いなら、せめて整形しなさいな。美容整形に行って、目のプチ整形をするの。二重にしてもらって、せめて目だけでもぱっちりさせれば、少しは見れた顔になるわよ」 恵は、自分の耳を疑った。この人は、一体何を言っているのだろうか。よく、分からない。なによりも、 (どうして、ここまで言われなくちゃいけないの?) 退席して走り去ってしまいたい衝動に駆られるが、足が震えてとても立てそうにない。ここで「そこまでして、お世話していだたかなくて結構です!」と、怒鳴り返したりしたら、どうなってしまうのだろうか。そう思った瞬間、父親の背中が脳裏にちらつき、震える体をうまく抑えることができない。もう、怒りで震えているのか、衝撃に神経が過敏に反応しているだけなのか、それすらも判別できなくなっている。 上川の声や周囲の雑音がだんだんと遠くなり、視界が暗くなっていくような気がした。 ――きいいんと、金属音に似た耳鳴りがする。 「整形は何も悪いことじゃないのよ。自分の人生の開運を金で買うと思えば、安いものでしょう。そしたらあなただって、せめて活き活きと輝いて見えるわ」 「……すみません」 蚊が鳴くような細い声で、ようやく振り絞れたのはこの一言だった。後は喉に引っかかってしまって、うまく音にならない。 「まったく、音大を出て留学までさせてもらったというのに、著名なピアニストにもなれないなんて…本当に情けないったら。ご両親の好意を、平気で無碍にするような娘(こ)だし、常識がないだけなのかもしれないわね」 言い返してやりたい。でも上川の傲岸不遜な顔を見たら、蛇に睨まれた蛙のように、何も言い返せなくなってしまう。 (人の気も知らないくせに、分かったような口を利かないで!) 上位から見下ろす上川の態度に、恐怖を覚えたからだろうか。いや、恵は見てしまったのだ。酷薄な笑みを浮かべて佇んだ自分の影を、上川の後ろに見たような気がした。その影は、下等な生き物を前にしたかのように蔑み、こちらを冷淡にへいげい睥睨している。そして、唇が象ったような気がした。嘘ばかりついて偽りに彩られたお前に、何の反論が許されるのか、と。 「あなたみたいに自分で自分を何とかする甲斐性もない人間が、何をどう考えたら他人の世話を焼く仕事をしよう、なんて思えるのかしら? 出会い紹介の仕事なんて、自分がどうにかできてからやりなさいな」 一層大声で泣けたら楽だろうに、息を継ぐことも困難で、自分の呼吸の音が浅く速く脈打っている。室内は弱めのエアコン調整で暑かったはずなのに、今は肌がざらつくほどに、ひどく寒くて気分が悪い。顔は熱く火照っているはずなのに、触れてみればひんやりと冷たくて、不快さが増しただけだった。 ――息ができない。とにかく、ここから逃げ出さなければ。 時間が押してきた上川が、伝票を手に取り、ようやく店を出ようと言い出した。自分の勘定を済まそうとするが、力の入らない指先では、財布からうまく小銭を取り出すことも苦しい。どうやって、席から歩いてきたのかすら覚えていないが、祝日も相まって、出口の椅子には待ち客の長い列ができていた。 腕の時計を確認した上川の捨てゼリフは、公衆の面前で冷酷に吐かれた。 「いいこと。次にこんな良い縁談を断るようなら、もう世話なんてできないって、ちゃんとご両親に言っておくのよ」 「……はい。本日は貴重なお時間を割いていただき、真にありがとうございました」 と深々と頭を垂れ、言葉を発したつもりだが、実際には口を開こうとしただけで、乾き切った唇が小刻みに震えている。きっと、こんな挨拶もできない娘なんて、と軽蔑されているに違いないが、両眼にはめたコンタクトの輪郭から徐々に、内側へと熱く滲んでいく視界が揺れた。 (はやく、はやく、ここから逃げなければ) 上川がエレベーターに乗った後で、恵は慌てて駆け出し、近くにあったトイレへと飛び込んだ。幸いにも、人はいない。しがみ付くようにして水道の蛇口を捻り、水を最大に出して、洗面台へと顔を突き出した。 「おええぇ」 胃の中の異物が流れる水に混ざり、胃酸の独特の臭気が室内に漂う。恵はストッキングが汚れることもいと厭わず、膝を折って床についた。気持ちの悪さが荒れ狂い、一向に治まろうとはしない。 (私が一体、何をしたというの?) 恵は再度、洗面台へと顔を突き出した。先刻よりは幾分薄れてはいるが、競り上がる胃液を力任せに水流へとぶちまける。 『すみません、先生のお顔を汚してしまうなんて。先方様にも十重に、こちらが詫びていたことをお伝えください。まさかあんな、分をわきまえない娘を紹介してしまうなんて私の失態です。これだから、世間を知らない子というのは。ええ、次はちゃんとした娘さんを紹介させていただきますので、今後もどうぞご贔屓に』 上川はきっと、これに匹敵するくらいの言葉を並べ、相手の仲人に取り繕いをしたのだろうか。 (人並みに、嫌なものは嫌だと言っただけじゃない。それが、どうしてあんなことまで言われなくちゃいけないの?) いま一度洗面台を覗き込むが、冷や汗が滴るだけで、飲み物を入れただけの胃には、もう吐くものが何もなかった。玉となって滴った液体は、汗だろうか……それとも頬に伝った涙なのだろうか。後ろを通る、人影がふたつ。鏡に映った怪訝そうな顔と、恵の視線がぶつかるが、二人はまずいものでも見たかのように、足早に奥へと消えて行った。 ――どうしてここまでして、紹介してもらわなくてはいけないのだろう。どうして、ここまでして。 「私、いったい何をしているの?」 ――ここまでして、結婚したいのだろうか。しなくてはいけないのだろうか。結婚したかった理由すら、今となっては、もう分からない。ただ、 「ここまで言われて、辞める度胸すらもてないなんて」 鏡に映った自分の顔は、コンタクトが完全にずれて目はひどく充血し、涙で流れたマスカラが、目元を黒くクマどっている。 (ひどい顔。私、何もかもがぐちゃぐちゃね……) ――こんな私は、みじめですか。 * * * れいじからの二十通目の手紙が届いた日、階下の柱時計が深夜零時の時刻を告げていた。テレビの天気予報が、連日の熱帯夜を騒ぎ立てる気温に、酷使された効きの悪いエアコンが悲鳴を上げている。西向きの部屋は西日の熱を吸収して、夜半になっても部屋の温度が下がりにくい。なのに恵の部屋は、昨日から妙にしんと底冷えがしているように感じる。 週のはじめの月曜日、今日の仕事は休んでしまった。朝一番の電話で千夏に頼み込み、埋め合わせをする約束で、非番のところを無理に出勤はしてもらったが、恵は今日の行動をあまり思い出せないでいた。とても人前に出られた状態ではなかったが、コーヒーを一杯飲んでから、昼過ぎに重い頭と足を引きずり、噴水公園へ出向いたことだけは覚えている。一晩中泣きはらした両目は真っ赤に充血し、熱をもった腫れぼったい瞼が、垂れ下がっては視界を塞いでいた。頭は重いのを飛び越えて、こめかみの奥がずんと痛む。目や喉の腫れが、身体の中に少しずつ広がってきたためなのだろうか。手や足が付け根から分裂してしまったみたいで、宙づりにでもされたかのように、どうにも調子が悪かった。 役に立ったのは、店頭に置いてある鏡に映った自分の顔を見て、顔浮きしていると思いながらも買っておいたサングラスだった。クールに似合う装いも、掛けて決めて行く洒落た場所も考え付かないまま、気が付いたらカウンターで精算を済ませていたのだが。まさか、人目に晒すことのできない自分の顔を、隠すことに使用するなんて、購入した時には頭を掠めもしなかった。噴水公園のベンチに座り、風に流れる夏草の萎びた緑の様を見ただけでも、昨日の出来事が鮮やかに蘇ってくる。通り行く人の会話を耳に、約束の時間までをぼんやりと過ごしているだけだというのに、何度、目頭が熱くなり視界が緩んできたのだろうか。サングラスを掛けた外の景色は、いつも以上にくぐもっている。レンズを通してセピアに染まった空を、白い紙飛行機が直線に横切っては、足元にゆっくりと舞い落ちた。 (昨夜はあそこで、ずっと泣いていたんだっけ……) ドア近くの壁際に背中をもたせかけ、膝を抱えたまま、恵はずっと俯いていた。こういう時には何もしないことが、一番悪循環であることは分かっている。ベッドの上の布団は乱れたままで、今朝から直しもしていない。動かなければいけない。動かなければくだらない思考をし、また涙が溢れてくるのだから。けれど全身がだるくて、指一本すらも思うように動かすことができなかった。ドアの下の僅かな隙間から、微かに小芋の煮付けの香りがする。母親が、夕飯を持って部屋の前まで来たように感じたが、ノックもできず、遠慮がちに入り口近くへ置いて下りて行ったようだ。足元に放った携帯が明滅し、バイブの振動で横に滑って行く。担当客への対応は二十四時間体制なので、こちらが休みを取っていようとなかろうと、時間を問わずに掛かってくる。とりあえずメールを開いてみたが、現在進行形の交際についての相談事が大半で、今はまともに取り合う気にすらなれない。適当な助言(アドヴァイス)も思いつかず携帯を閉じ、また足元へと転がした。今は、何も見たくはない。 昨日も今日も、【素子(もとこ)のつぶやき】のブログ更新は停止している。更新したくても、自分を幸せにできるだけの力を持つ言葉が、微塵も頭に浮かんでこないのだ。時刻は、深夜一時に近づこうとしていた。 (そうだ、謝らないといけない……) 昨夜はれいじとのチャットを、すっぽかしてしまった。 ノートパソコンを机から下ろし、プラグへとコードを伸ばして電源を入れた。昨日は上川と別れて家に帰り着き、その足で二階に上ってはうつ伏せになったまま、布団を頭から引っ被った。ティッシュの箱を枕元に引き寄せ、嗚咽を堪えるのに必死で、気が付けば夜の二時を回っていた。声を上げて泣いてはいけない。声を上げてしまったら緊張の糸がふつりと切れ、ひとたび堰を切った涙を止めることができないことは、自分が充分すぎるほどに分かっている。何より、この部屋の外にいる両親に気取られるのが怖かったのだ。 揃った二十の手紙はやはりアルファベットの羅列で、何を意味するのか、ついに答を出すことはできなかった。パソコンの電源を入れた後で、重ねた手紙を虚ろに並べていると、時刻は一時を過ぎ、チャットの部屋はれいじの入室を知らせてきた。 【れいじ:昨日は、大変だったみたいだね】 昨夜の不参加を尋ねてくるに違いないと気構え、幾つか理由をでっち上げてみてはいたのだが。 【もとこ:……なんのこと?】 彼の書き込みは、何か妙な気がする。 【れいじ:あんなにひどく泣いていたのに、手紙は受け取ってくれたんだね】 恵は指を止め、重い目を見開いた。 (見られていた? まさか、そんなはずはないわ。でも、それじゃどうして?) 黙っていても、頭の中では疑問符が果てしなく飛び続けるだけだ。顎に指をあて、恵はしばらく考えていたがキーボードに指を滑らせた。 【もとこ:まるで、見てきたようなことを言うのね】 【れいじ:……僕はずっと、君を見てきたよ】 (うそ…) 【れいじ:嘘じゃないよ】 (うそ、嘘よ) 私は人に嘘をつき、人は私に嘘を強い、彼は私に嘘をつく。嘘がまた新たな嘘を生み出し、さらなる嘘を呼び寄せる引力が働く。まるで終わりのない、底なしの闇へと落ち続ける螺旋階段だ。ひとつボタンを掛け違えただけで、踏み外した身体は深遠の暗がりへと、いともたやすく堕ちて行ってしまう。 「ウソ、ウソ、ウソ! 私の顔も知らない癖に。私のことなんて、何も分かってない癖に。あなたなんて、ちょっとネットで知り合っただけの赤の他人じゃない!」 恵はしゃがれた声を絞り出すように、ディスプレイに向かって叫んでいた。彼の書き込みが、そこでぴたりと止まった。分かっている。こんなのはみっともない、ただの八つ当たりだと。どこに抜いていいか、出口を完全に失った悶々とした感情を、都合よく目の前にいる彼へと、ぶち当てているだけなのだと。 (でも、もう嘘は嫌よ) 床に両手をつき、息が切れた恵の肩は、大きく上下に揺れていた。 ひどいことを言った。もう、自分に話しかけてくれなくても仕方のないような、暴言を吐いてしまったのだ。息を潜めて恵はじっと、ディスプレイ越しの気配を読み取ろうと努めた。 【れいじ:僕はきっと、君が思っているよりもずっと……君のことを知っているよ。もしかしたら、それこそ君以上にね】 彼の書き込みに、かき消えるように細く呟いた、恵の声は頼りなく震えていた。 「ねえ、教えて……。もう、嘘は嫌なの。私はずっと、サイトで嘘を豪華に並べ立てて、自分に酔って喜んでいたわ。醜い、本当に汚い…どうしようもない、しょうもない人間なのよ。でも、もう嘘は沢山なの」 サイト名を【素子(もとこ)のつぶやき】にしたのは、せめて自分がこの架空の世界でだけでも、素顔の自分でいたかったからだ。取り残された現実では背伸びをし、人に嘘の自分を語り、後には引けなくなった自分の尻拭いに追われて、結局は自ずと首を絞めることになる。だから、ネットという夢の世界でだけは有りのままでと願ったはずが、どこで踏み違えてしまったのだろう。気が付けば【素顔の素子】とは違う、化粧を塗りたてた厚塗りの【素子】ができあがり、理想の自分になり切って大袈裟に演じる様は、まるで舞台女優だった。 「私って、身勝手なのよ。ネットの中では、嘘をつくことに快感すら覚えていたっていうのに、現実ではいまさら嫌だなんて。傲慢だわ。卑怯なのよ。自分で自分が、嫌になる」 【れいじ:人は誰しも、少なくとも身勝手だよ。身勝手で傲慢だからこそ、この独善的な世界でも、どうにか息をすることができるんだ】 幼少の砌には、『人に嘘をついてはいけません。本当のことを話しましょう』と、大人達は穢れのない、教科書のような指針をこぞって、大層なことのように口にした。小学校では授業の時間に復唱させられ、否が応にも耳についてしこまれる。それが今では、紙面の上からあれも消し、これも消し、詐称をしましょうと誘導される。 (大した人生でもないけれど、そんなに私のやってきたことは、人に言えないようなものなの?) 他人の手によって自分の歩んだ道程が、次から次へと消されていく。都合よく、書き換えられていく。消しゴムで消していくかのように、お手軽でいとも簡単に、塗り替えられてしまう。 無いものねだりで、見せ掛けに【有る】と書くよりは、実際に有るものを【無い】と書く方が、現実には、まだましだと言う。――それでも。 「私なんて、最初から嘘ばかりだし。今になって、やってきたことが書き換えられたくらいで、怒る資格すらないのかもしれないわね」 彼は、何も語らない。じっと、注意深く耳を傾けているのか、沈黙を守ったままだ。 「私なんてもう、本当のことを言ってもらえるような人間じゃないのかもしれないけれど、私を知ってるなんて、そんな白々しい嘘はつかないで欲しいの。お願いよ」 困ったように不安定な間をとって、だが、書き込まれた文字は、 【れいじ:そうだね。こんな話は、信じてもらえる方が可笑しいのかもしれないね。だけど僕は、本当に君を・・見てきたんだ】 【れいじ:僕の名前は、藤本礼二。君はあの日、事務所に揚がった看板を確認してから、しばらくの間、入り口を行ったり来たりしていた。僕はガラス越しにそれを見ていたけれど、声をかけれなかったんだ。親もいなかったし、また、殴り込みか投石の類かと思ったんでね。根本的に、臆病なんだよ。だから僕は顔を上げるのが怖くて、机に俯いたまま仕事をしているフリをしていた。けれど一向に、君は立ち退く気配がなくて……。僕はおそるおそる、ガラス越しの君へと視線を移して、そして見てしまったんだ】 いつのことを、何のことを言っているのか、皆目、見当もつかない。だけど、彼は続けた。 【れいじ:まるで僕と君との間には、薄氷の壁が高く聳えていて、氷ごしに向き合っているみたいだった。君は僕の顔をひたすら見ていたけれど、まるで表情がなかったことを覚えている? 客以外でやって来る大抵の人は、僕の顔をきりきりと、刺し殺しそうな勢いで睨み付けてくる。けれど、君は違ったんだ。君の瞳は空虚(からっぽ)で、その瞳には何の感情も揺れていなかった。ガラス玉のような瞳に、僕の怯えた情けない顔だけが映し出されていた。目が合った一瞬で、君は走り去ってしまったけどね。僕は、僕を見て何も言わずに、ただそこにいた君の立ち居姿を、忘れることはできなかったんだよ】 「どういうこと?」 恵には、思い当たる節がなかった。 【れいじ:ううん、君はきっと覚えていないだろうね。けれど、それでいいんだ。君はさっき、自分は嘘ばかりだって言った。けれど、覚えているかい? 以前、僕は真実と嘘の比率は3:7でいいと思うって言ったことを】 「ええ」 【れいじ:僕は、君が嘘ばかりの人間だとは思わない。君が嘘でできていると言うのなら、僕だって嘘の塊なんだよ。ブログの君は確かに嘘かもしれないけれど、サイトの中に生きている君だって、決して嘘ばかりじゃないだろう。ブログにしても僕から見れば、細く伸ばせば切れてしまいそうなほど、繊細で機微のある私小説だ。それに、何よりも換えがたい3の真実が、ちゃんと存在しているじゃないか】 (……どこに? 私のどこに、真実があるというの?) 恵は冷静に、彼の言葉の続きを待った。 【れいじ:ピアノだよ。損得感情でも、なんでもない。それこそ無条件の、君がピアノをどうしようもなく好きで、大切に思っているという気持ちは、誰かに押し付けられた紛い物じゃない。君だけの手作りの真実。そうだろう? 木戸恵さん】 (どうして、私の名前を知っているのだろう) 彼は私を知っていると、疑いが確信へと転じていくのを感じる。出会いはどこかの事務所で、というようなことを彼は言っていたが、やはりどこかで会っているのだ。往来でのすれ違いなのか、雑踏での話し声で聞きかじったのか、この人ごみだらけの街中では、確認しようもないことだが。 だがその不思議を乗り越えて、胸の奥が温かい。今ようやくこの足で、見失っていたはじまりの日へと、経ち帰ることができるのだ。 (そう、私はピアノが好き。舞台の第一線で活躍できなくても、どんなに人が妬ましくて、人の後ろで隠れるようになっていても、好きなものは好き。それは、どうしようもないわ) 「…ええ……ええ、ええ! そうだわ。私は、大好きよ」 幼い頃、習いたてだったピアノの弾き始めを思い出す。ひとつ鍵盤に触れてみれば、たちまち音が歌いだす不思議。白と黒の鍵盤の配列は美しく、勉学を深めるほどに、楽譜ほど無駄がひとつも無く、合理的な書体はないと思った。凝縮された記号の全てからは、ちゃんと意味が生まれ落ち、そこはたちまち、作曲家の絶対的な意思が詰まった宝箱になるのだ。 今なら窓を開けて外に向かい、両手を広げて大きく胸に空気を取り込む。そして大声で恥じることなく、「好きだ」と叫べそうな気すらする。 【れいじ:僕も、ひとつ教えて欲しいな。僕は君なら、楽器コーナーの店員や、輸入版の楽譜の卸しとか、そういった分野をやるのかと思っていた。どうして全然関係のない、出会い紹介の仕事なんて選んだんだい?】 恵は一瞬、言葉に詰まった。その理由は、誰知らず。千夏にも、利佳子にも聞かれて、いつもすかして終了させていたことだ。けれど、その理由は――いつか、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。ずっと声に出して言える日を、密かに切望していたのかもしれない。 「それは…それは、ね。……おこぼれが欲しかったの。きっと人並みに、お恵みが欲しかったんだわ」 それは帰宅途中にいつも見ていた、お寺の住職の書(しょ)がはじまりだった。外出の帰りには必ず通る道で、あの書はいつも力強く、背中を押しては勇気付けた。【一日一善】は、仏道の教えだ。だから他人の世話を焼き、一日に一人、その人を愛してくれるお相手を誠心誠意探してあげれば、きっと自分にも運気が巡ってくる。 「人の縁が尊ばれる世界に出入りすれば、いつしか私にだって、良縁が降って湧いてくるかもしれないって、安直だったかもしれないわね」 今なら初心を、明確に思い出せる。最初は本当に、人の喜ぶ顔が見たかった。けれど、一週間して二週間が経ち、本当は人の世話を焼いて、喜ぶ顔が見たかったわけでも、感謝の言葉が欲しかったわけでもないことに気付いてしまった。それは徐々に、ただ物珍しくて面白いという興味に摩り替わった。次は成功する出会いを見て、いつか自分も同列に並べるのではないかという期待に胸を膨らませた。けれど【縁】という文字は、適当で最も利便性が高く、そしてとびきりたちの悪い言葉だ。見合いにしろ就職の面接にしろ、失敗したら全て、「今回は、ご縁がありませんでした」で、片付けられてしまうのだから。最後には、【お出会い申し込み書】を先方に通しながら、腹の内ではみんな失敗すればいいとすら、あってはならない人の不幸を願っていた。 (そういえば千夏先輩は、夢を売ればそれでいいって言ってたっけ) 「人が出会いに失敗する姿を見て、心のどこかで喜んでいる。ああ、これでこの人も私と同じ失敗面なんだって。それでも心のどこかでは、誰かに幸せを与えてもらいたいの。本当に、私ってどうしようもないわね。弱い癖に業突く張りだし、情けないったらありゃしないわ」 こんなことを考えながら、勤務していると客にでも知られれば、解雇なんて生温いものではすまず、会社の信用問題について損害賠償の請求でもされそうだ。 【れいじ:……人はみんな、等しく弱い生き物だよ。だから、僕はなりたかったんだ】 「何に? 写真家に?」 少し間を挟んで、彼は書き込んだ。 【れいじ:枝葉が折れると滴る樹液は、羽を休めに止まった虫も殺し、きっと彼らには嫌われているだろう。そんな者に、誰も近づきたがらない。だけど、八月のうだるような暑気に項垂れることもなく、大空に向かって頭を上げる。他の植物が疲れ果てる、苦しい季節にこそ竦むことなく、堂々と天道の元で胸を張れるんだ。そんな強い夾竹桃に、僕もなってみたかったんだ……】 恵は言葉が見つからない。彼の言おうとしていることが理解できるなんて、おこがましいにもほどがある。彼の言うことは、たまにとても哲学的かと思えば、たまにとても叙情的で情感に溢れているのだ。なんだか言尻の端々から、風のそよぐ音が聞こえてきそうだ。きっと彼は、私なんかよりもずっと業が深いのだろう。 そんな彼が、どうしてなのかと思う。 「ねえ、どうして……私なんかに話しかけてくれたの?」 星の数ほどいるネット世界の住人の中で、どうして私にだけ白羽の矢が立ったのか。いずれは、尋ねてみようと思っていたことなのだが、 【れいじ:僕の手紙の答は分かった?】 やはり、答えは返されなかった。床には横一線に、先ほど綺麗に並べた二十通の手紙が置いてある。 「いいえ」 アルファベットを順繰りに目で追いながら、恵は返事を返した。 【れいじ:それじゃ、ヒントをあげよう。その頭につくのは、http://wwwだ】 (え…?) それは、既に答だった。しかし、意外だった。暗号文か何かという固定概念もあったので、あまりにも大胆な直球ぶりに、見事に意表を突かれた形式だ。頭に付け足してみれば、見事にサイトのアドレス(URL)ができあがる。 「それって……つまり」 【れいじ:そこに行けば、きっと何かの答が分かるよ。君は以前、僕に会いたいって言ってくれたよね? 今でもそれは、変わらない?】 「ええ」 【れいじ:知らない方がいいことだって、世の中には満ちているし、知ってしまったら、絶望しか残らないことだってある。僕は嘘つきだから。それでも、もし君が僕に会いたいと思ってくれているなら、行ってみて。住所は××××―――】 彼の言葉はふつりと切れ、翌日も、またその次の日も、いくらチャットを開こうと、再び彼が現れることはなかった。礼二は完全に、恵の前から姿を消してしまったのだ。後になって気付いたことだが、彼との最後のチャットで、恵はキーボードを打たず、ずっと・・・話していたのだ。だが、礼二は逐一、恵の全てに対して返事を返してきた。 (なぜ? どうやって、ディスプレイ越しに私の声が聞こえたの?) 彼は、自分のことを手品師(マジシャン)とも言っていたが、そんな与太話では説明がまるでつかない。 ただ会話が途切れる前に、窓を開けていなかったにも関わらず、風が吹き込んできたような気がした。もちろん錯覚なのだろうが、風に運ばれて、声が聞こえたような気がしたのだ。 「――なぜ、君に会いに来たかって? そんなことは決まっているよ。君の姿は、僕に……」 * * * ちょうど、一週間ほどが経過した非番の日。礼二が言った住所のメモを頼りに、ふらふらと歩いて町に来てみた。徒歩でおよそ半時もかからない、意外にも近い場所なのだが、この土着の古い木造家屋の並びには、なんとなく記憶がある。旧城下町という保全のためか、木戸があったり庭を囲む生垣があったりで、雑然とした中にも歴史の匂いが残っていた。山茶花の垣根を越えると、銭湯の煙突から、もくもくと煙が立ち昇っているのが見える。とうに、釜に火が入っているのだろう。時刻は三時を回ったところだ。 例のサイトには、礼二と話した翌日にさっそく接続(アクセス)してみた。まず目に飛び込んできたものは、前面に書かれた謝罪文と、更新の時間が止まり動かない日付だった。 【すみません。僕は嘘つきです。僕は皆様のおっしゃる通り、写真家でもエッセイ書きでもありません。皆様を騙すような真似をして、申し訳ありませんでした。心より、お詫び申し上げます。 礼二】 消去されずに残っていた掲示板には、謀ったことへの罵りや、誹謗、中傷の数々が、それは見られたものではない俗語(スラング)を交えて、延々と書き連ねられていた。中には、【家を返せ】とか、【父さんを返して】だとか、【この疫病神】などと、サイトの内容に関係のないことまで書かれていたが。そこまで利用者の恨みを買うような運営を行ったのかと思い、残されたファイルを検討してみたが、とてもそうとは思えなかった。 確かに、写真家と名乗るわりには写真の掲載は一枚もないし、随筆家と語るわりには、これもまた、それらしきものは書かれていない。しかし、現像物のかわりに言葉の技を巧みに操り、でき得る限りの趣向を凝らした表現で、いま目の前にあるかのような風景の描写が、繊細になされていた。朝陽を受けて、草の葉先から転がり落ちる白露の玉についてや、傾きかけた日差しを浴びた、頭を垂れる刈入れ時の、黄金色の稲穂など。【実るほど 頭を垂るる 稲穂かな】を比喩したものは、実に多彩な写実描写だった。 嘘つきと、非難してしまえばそれまでなのかもしれないが、 (あんな暴言で責め立てるほどに嫌なんだったら、見なかったらいいだけじゃない) と、恵は思う。 そんなことを考えながら辿り着いた目的地は、銭湯を折れてしばらく進んだ所だが、恵は思わず自分の目をさす擦ってみた。 (ここよね? いえ……いくらなんでも。というより、これがアパート?) どこから見ても、観光客の足が遠のいて、傾きかけてしまった離島の民宿のように見える。四方がコンクリートの壁で囲まれて【小野荘】とはあがっているが、外側にはインタホンらしきものもなく、どうやって来訪を中の住人に知らせればいいものか。恵は気を取り直して、とにかく家屋づたいに一周してみることにした。「ごめんください、おじゃまします」と、軽く会釈をして足を中へと踏み入れる。 木造の平屋だが板張りの側面は湿っぽく、所によっては、床底から上ってきた白蟻が食べたような痕跡まである。修繕とかそういった作業は、全くといっていいほど、行われた形跡がない。左手に進んで角を折れた先は、除草もされていない、草の根は伸び放題の、砂埃の舞う荒れた庭だった。夏の暑気に焼かれて弱っているだろうに、踝(くるぶし)以上の背丈まで放置されている雑草というのも、ある意味で壮観ではある。 そんな夏の庭の中で、奥の塀の前に一本の木が植わっていた。疲弊した夏草の中でひとり、厳しい太陽の下、紅い八重の花を見事にもたげる夾竹桃だ。死んだように静まり返った庭の中で、その区画だけが切り離されたように、鮮やかな出で立ちで息づいている。恵は紅い魔力に吸い寄せられるように、一歩、また一歩と、色づく力に引き寄せられて行った。 「誰だ!」 庭でふらふらしている見知らぬ人影を、怪しく思ったのだろうか。ガラス窓ががらりと勢いよく開けられ、中から黒皮のジャンパーとヘッドホンをつけた男が顔を出した。 「あの……私」 「女?」 男は最初ぎょっとした、まるで珍獣を見るような目で眺めてきたが、やがてヘッドホンを外した。 「お〜い、おやっさん! 客みたいだぜ。しかも、飛び切り珍しい上客だ!」 と、大声で右奥の部屋に向かって叫んだ。やがて、一番奥の窓が開く。上下ともにジャージ姿で、無精ひげを垂らした、中肉中背のもう壮年といった男の人が、頭をぼりぼりとか掻きむし毟りながら顔を出した。 「客って、また荷物じゃないのか? いつもドアノブの横のブザーを押せって言ってるのに、いつまで経っても覚えやがらん。また庭先からひょこひょこと。昨今の新人というのは、まったく躾がなっちゃいない」 そう言って仏頂面を見せた男は、どうやら管理人らしい。またこの管理人も恵を見て、先刻の皮ジャンの男と同様の顔を見せた。だが、頭の上から爪先まで通り一遍を見てから、 「ああ、ウチは女性の入居者はだめだよ。ただでさえ最近は、物取りだの殺人だのって物騒で仕方ないってのに。厄介事の持ち込みはごめんだよ。防犯警備システム(セキュリティ)もないウチで、万が一でも何かあって、訴えられたりしたらいい迷惑だからね」 と、冷たく言い放った。 「あの私、違います。人を訪ねて来たんです。藤本礼二さんっていう方、ここにいらっしゃいませんか?」 「藤本礼二? 藤本…ふじもと」 管理人はしばらく、首を捻って本気で考えているようだった。が、同様に首を傾げて傍観していた皮ジャンの男が、横から弾かれたように口を挟む。 「あ、藤本って本郷のことじゃねえのか? ほら、冬からいなくなった……」 管理人は何かを思い出したように、「ああ、本郷さんね」と、得心がいったように言った。そして、続けた。 「礼二君は、もういないよ。いなくなって、今年でちょうど一夏だ」 管理人の言葉に、恵は言葉が見つからない。 「え、そんなはずありません。だって、彼からここに来ればわかるって。だって、ついこの間まで連絡を取り合って――」 言葉につまり、口だけがぱくぱくと開閉する。何がどうなっているのか分からずに、炎天下で焼かれて、頭がますます朦朧としてくるのを感じた。 「信じられないなら、自分の目で確かめてみるといい」と、管理人に入室を許されて、勧められるままに正面玄関へと回ってみた。口の中は、すっかりと乾き切っている。入り口から通されれば中は薄暗く、玄関口には古新聞や古雑誌、ダンボールを畳んだものなどが、気の赴くままに放置してあるといった風情だ。左手にある下駄箱の名札から察するに、入居者は三名といったところだろうか。上に据え付けられた板(ボード)には、入退室の表示板をカギ螺子に掛けるようになっており、板の数からして今この家にいる住人は、管理人を含め、先刻姿を見せた男だけのようだ。四人目の下駄箱の名札は、取り外されたままだった。管理人にスリッパを勧められたが、積もった埃や湿度で、深緑のボア地がすっかり変色してしまっている。足を通すには勇気を要したが、奥につながる廊下を見て、渋々と履くことを決心した。 廊下を進めば、鴬張りでもないというのに床板がきしきしと鳴り、板の隙間からは、所々に錆びた赤褐色の釘が突き出している。綿ぼこりが隅にあるのは当然で、中央にもこんもりと舞い寄っていた。共同トイレと共同洗面所が管理人室の前にあるだけで、浴場はなく、近くにある銭湯通いをするようだ。断熱のために先々代が施したという綿壁も、一向に改修した様子はなく、もろもろと剥がれて下壁が露出し、剥がれた箇所から染みを外へと押し広げている。まるで安アパートというよりは、前時代の男子学生寮のような印象を受けた。 共同洗面所の向かいにある管理人室へ、恵は連れられておそるおそる足を踏み入れた。首を巡らして辺りを窺うと、案の定、飲みかけのマグカップだの、カップメンの食べ残した容器だのが、そこらじゅうに散乱している。 「あんた、礼二君のいい人か何かは知らんけど、これ、さっさと引き取ってよ。まったく、いつまでも放っておいて、こっちはいい迷惑だ」 そう言って管理人が、脱ぎ捨てた衣類の下から掘り起こしてきたものは、一台の黒いノートパソコンだった。 「え、でも私、本郷礼二なんて人は知りませんし、私が探しているのは藤本礼二さんで……」 「だから、礼二君だろ? 藤本は母方の旧姓で、本名は本郷礼二だよ。まあ、あんな仕事をしていると、さぞ日常は過ごしにくいだろうな。人前じゃ藤本ってのも、納得がいくってもんだ。どうでもいいけど、知り合いならこれ、さっさと引き取ってよ。処分するのもと思って取っておいたのはいいけど、いつまで経っても、誰も取りに来やしない。事務所は閉めて転居先は不明だし、電話も繋がらないときたら、後はもう捨てるだけになっちまうよ」 「あの、事務所っていったい?」 「え、何? 知らずにここに来たの?」 管理人は心底意外そうな顔をし、次に不審げな顔を向けて恵の顔をまじまじと見つめた。 「わからんねえ。知らないってのに、なんでこんな、全うそうなお嬢さんと知り合ったのか。あ、いやいや、余計なことを言って失礼」 事態が飲み込めず、すっかりいしゅく萎縮してしまった恵に気付いてか、管理人は軽く詫びる。 「本郷英輔調査事務所って看板をあげてる、興信所だよ。まあ今は、興信所っていう名前からくる印象も悪いせいで、調査事務所って名乗ることが多くなっているがね。やってることは昔と変わらずだけど、これも時代ってもんだ。人の秘密を暴く仕事だし、人から好かれるはずもあるまいって。今は純粋に、昔で言う所の興信所じゃ食べていけないからね。無理な調査がたたっちまって、また店じまい。一家流転の旅だろうかね」 管理人の話によると、調査は家の血筋調査に止まらず、家族の浮気や不倫の現場証拠を押さえるところにまでも至っていたという。暴き出された家族は離散、裁判のもつれと、悲惨な末路も多くもたらしたという話が流れていた。 「毎日無言の電話が掛かってきたりとか、『死ね』と書かれたFAXが、一日に何通も送られてくるなんてのは可愛いもんで、もう皆はすっかり慣れてたって話さ。ただ、投石でガラスが割られたり、暴力団らしき人間や闇金風体の人間までもが、怒鳴り込みに動き始めたってことだから、移動は利口な選択だと思うけれど」 礼二は深夜や早朝に、所かまわず掛かってくる親の呼び出しを、何よりも嫌っていたという。まるでこちらの一日を監視しているかのように、いつでも、どこでも、遠慮はなしにだ。調査対象の素行の現場を押さえるためには、時間を問わず、ホテルの前だろうとマンションの前だろうと、一晩中でも張り付いていなければならない。しかし、電話が掛かってくるとカメラを首から提げ、沈鬱な面持ちで項垂れて、アパートの玄関口にしんと座っていたという。その背中が傾いて頼りなく、小さく見えたと言うのだ。礼二が、もし本当にあの礼二だというのならば、彼はどんな気持ちだったのだろうかと恵は思う。 (拠り所だったカメラのフレームまでもが、ヒトの見たくもない本性で、汚されていってしまったのね) だからこそ、彼に言わせてしまったのだろうか。 『人は絶対に撮りたくない。レンズに気付かなくても醜いけれど、レンズに気付くと更に醜悪だ。たちまち嘘の顔でも平気で向けてくる。そうやって土足で踏み入って、フレームの中まで無神経に穢していくんだ』、と。 「あの、彼の荷物はこれしかないんですか?」 と、恵が尋ねる。管理人は、一言だけを返した。 「それしか、何も残さなかったんだよ」、と。 管理人の許可を取り、恵は空室となった四号部屋の前までやって来た。案内されてあがった礼二の部屋は、六畳一間くらいの畳の張られた、簡素なつくりの部屋だ。敷いてある畳は、めくってもう、何年も天日干しなどしていないのだろう。部屋には湿気た黴の、鼻にまとわりつく一癖ある臭いが充満している。中はがらんとしていて、簡易流し台とガスコンロがひとつ。それに仕切りの襖があるだけで、寝転んだりしたら、折り畳み式の机くらいしか、置ける空間は残されないだろう。物を置けるスペースはまるでないが、正面にある大きな引き窓がやけに印象的だった。 下半分はすり硝子になっているために、中から外は見えないのだが、上半分の透明なガラスからは、ちょうど隣接している庭と空を見上げることができる。だが、上のガラスは大きくひび割れ、その上からはガムテープがバツ印に貼られていた。補修して目張りした痕が不恰好で、注意深く指でなぞってみると、ガムテープとの隙間からは、外の熱気が流れ込んできている。 「ああ、これ。誰かが断りもなく、庭に上がり込んだみたいでね。ほら、ちょうどそのあたりから、石を投げられたり空気銃(エアガン)を撃ち込まれたりしたみたいでな。あんな気弱な子が、よりにもよって興信所の跡継ぎだなんて、まったくもって皮肉なもんだ」 管理人の説明を聞きながらしげしげと観察していると、割れ目の横から粗末な庭の様子が見えた。コンクリート塀の手前では、荒れた庭草の中に立つ、夾竹桃の紅い花が風に吹かれて揺れていた。 管理人の言っていた、本郷英輔調査事務所は恵もよく知っていた。桜の花が七分咲きしていた、一年前の春のことだ。家の近所は入学式で、心躍るシーズンの真っ盛りというのに、自分は見事な肩透かしをくらっていたため、あの時のことはよく覚えている。校庭に踊る小学生の元気な声すら、恨めしく思えたものだ。 ここを尋ねてきた時に、この町を知っているような既視感に襲われたのは、やはり間違いではなかった。 (そう。あの時、目があったあれが……あなただったの) 興信所など、生涯に一度、門を叩くか叩かないかといった程度の場所だった。結局、入る勇気もなくて右往左往していたところ、中央に座っていた従業員風の人と視線がぶつかり、一目散に逃げてしまったことは覚えている。これもまた、見合い関係での問題(トラブル)から、訪問するはめになっていたはずだ。先方の母親から、仲人を介して届いたお断りの手紙には、釣書の書面からは把握しようもない事実を理由として、連綿と書き連ねてあった。だから、興信所の存在を初めて知ったのだ。先方は、釣書に書いた血筋の裏付けを取ると同時に、恵の大学での実績調査を、本郷事務所に「特鑑」で依頼したという噂を小耳に挟んだ。国内コンクールの平均成績は振るわず、音大での成績も中の上と、これもまた、良くもなく悪くもないという寸足らず。全てにおいて中途半端な人間は、結婚生活においても中途で投げ出す危惧があると、そういった理由で断られていた。断られたこと自体を、取沙汰すつもりなんてなかったが、知らない所で全く知らない人間が、自分の皮を外から一枚、また一枚と引きは剥がしては裸にしていく。そんなふうに、いとも容易く蹂躙することを本業とする仕事が、どういったものなのかを知りたくて、事務所の窓ガラスに張り付き、中の様子を眺めてみたのだ。 横に立った管理人は恵の眼差しを追って、庭の右手を見やった。 「ああ、あれ、夾竹桃かね。あれは、せめてもの潤いにって先代が植えたものでな。世話が面倒だし、花を愛でる趣味もない。邪魔だし一層のこと、引き抜いちまおうとしたんだが……それだったら自分が世話をするからって、礼二君が必死になって止めたなあ」 この部屋の窓ごしに、庭に忘れられた赤い花を眺め、たった一人で礼二は何を思っていたのだろうか。ガラスに指をそっと添え、恵は足早に過ぎていった夏に思いを馳せてみる。窓枠で区切られた世界から縁側に腰掛けて、しなびた草の中に根付く八重の蕾の立ち姿を、夏の間中、飽かず眺めている。そして水を撒き根元に肥料をやっては、カシャカシャとシャッターを切る音を、庭に響かせていたのだろうか。 管理人は思い出すように、顎から伸びた無精ひげを触った。 「人の顔を見ては、いつも何かに怯えていたよ。可哀想だとは思うけれど、ウチもこれじゃ、いつまでも置いておくわけにもいかんしなあ。かといって、住人同士で騒動を起こしたわけでもない……本当に、礼儀正しい子ときたもんだ。となると、退去勧告もなかなか言い出し辛いもんでな。いい具合にいなくなってくれたのはいいが、今度は後の商売あがったりさ。遺体は今も見つからんし、世間が一時蒸発だの何だのと、大袈裟に騒ぎ立ててくれたおかげで、いまだに【いわくつきの部屋】になんか、入居の希望は一向に来んね」 ダウンの装備にピッケルを積んだリュックを背負って、カメラを首から提げた礼二を管理人が最後に見たのは、去年の冬のことだったという。年の瀬の挨拶をしに管理人室を訪れてから、「よいお年を」と、ふらりと出かけて行ったらしい。冬山を写真に収めてくるという話だったが、雪山登山の経験があるなど、聞いたこともなかったと管理人は言った。 その時、アンプに繋いだベースギターの音が、隣の部屋から突き抜けて、ビイインと激しく薄壁を揺らした。先ほど庭で見かけた、皮ジャケットの男の部屋らしい。 「また、消音器(サイレンサー)も使わんと。あれほど気をつけろと、一体何回言わせたら…」 「あの!」 部屋を出て行こうとする管理人の背中に、慌てて恵は声をかけて尋ねた。 「後でお支払いしますから、電気を使わせていただいていいですか?」 そう言って、胸に抱えたパソコンを強く抱きしめる。管理人はしばらく怪訝な表情を浮かべていたが、「まあ、いいわ。まだ電気は、通ってるはずだしな」と一言で片付け、それよりも隣の部屋へと足を急がせた。 壁に耳をあてると、何やら揉めているような声がしていたが、やがて隣の部屋でがなりたてていたベースの音が止み、バタンとドアの閉まる音が聞こえた。廊下の足音がふたつ遠ざかり、隣室の皮ジャケットの男は、どこかに外出するようだ。 しんとした部屋に、恵はパソコンを抱いたまま立っていた。とりあえず畳に座って電源を入れてみると、がががと奇妙な壊れかけの音をたて、非常に危なかしいが、どうにか起動したようだ。中には二つのフォルダ があり、それぞれにファイルが保存されていた。片方のフォルダは容量がかなり大きく、「DREAM」とつけられたタイトルに惹かれ、恵は先に開いてみることにした。 整理されて仕舞われているのは、沢山の画像データだった。デジカメで撮った数々の写真を、手頃なサイズに加工したものだ。 (なんだ、撮っているじゃないの) 撮影場所と日付を確認しながら、順繰りにファイルを捲っていった。利尻富士の登山道の粗い砂利や、大台ケ原の立ち枯れの古木といった観光名所のものもあれば、ニッコウキスゲ、プラタナスの木、ユキノシタ、ドクダミ、まさに様々な植物の顔……そして、夾竹桃。 「やっぱり、あなたは嘘ばっかり。自分は嘘つきだなんて、私に言っておいて。ここには確かに、あなたの大好きな写真という真実が、眠っているじゃない」 多くの他人に詐欺師だと中傷を受けた、彼の写真家であった側面が、確かな真実の形として残されているではないか、と。ただ【人がもう嫌なんだ】と宣言した通り、人物についての写真は、一枚たりとも見当たらなかった。後半に並べられているファイルは、捲っても捲っても、出てくる姿は夾竹桃のものばかりだ。最後の日付は八月で、年号こそは違うが、ちょうど恵との会話が途切れた日になっている。それ以降の記録はない。 恵は、踏み躙られて汚された礼二のサイトを思い出していた。風景の写実描写をしたその一語ゝゝが、フレームの中の映像を愛で、そのどれもが活き活きと輝いていたというのに。みんな、気付かなかったのだ。 (あなたのサイトにも、3の真実を見つけたわ。私には分かった。私だから、分かってしまったのかしらね) 礼二の描写には確かに、写実の風景を愛してやまない、3の真実に溢れていた。 (ただみんな、あなたの仕事批判に終始して、汲み取れるだけの自分に、誰ひとりとしてなれなかったのね。私も含め、みんな身勝手だから) だから、見開いた目が曇ってしまっていたのだ。それでは万の言葉を尽くして表現しようとも、礼二の言葉は、まるで街角で行き交う通行人のように、傍らをするりとすり抜けてしまうだろうと恵は思う。ついに彼の言葉は、指の間から無残にも零れ落ちてしまった。 (あなたはついに、現実だけじゃなくネットの中でまでも、自分の居場所を見失ってしまったんだわ) 差し伸べられた手はひとつもなく、ひたすら謝罪文だけを残して、サイトから彼は消えてしまった。 次のフォルダには「MYSELF」とタイトルがつけられ、中には二つの文書ファイルが収められていた。容量の小さい方を先に選び、一つ目を開いてみると、そこにはチャットで行われた、恵との会話の全てが詰まっていた。最後の日付は一週間ばかり前で、恵とのやり取りが不通になった日だ。最後の行にはあの日の、【知らない方がいいことだって、世の中には満ちている…】と言っていた文章で、時をひっそりと止めたままになっている。 (そうか。あなたは、ここから私を見てくれていたのね) 電源も入らないはずのパソコンが、独りでに動いては語っていた。その事実は、手品でも何でもなかったわけだが、不気味などとは感じたりはしない。礼二の意思がパソコンという媒体を通して、自分のために飛んで来てくれていたのだ。そう思うと興奮し、何故か心が温まってくる。誰かに気に留めてもらえた経験など、数えるほどしかないのだから。 二つ目のファイルは文書の割に容量が重く、開いてみると長文が記されていた。 【それは潮風の中でも、砂ボコリとお日様のあたたかな匂いがする、とても明るい元気な少年でした】で始まる文章は、はじめ、小学校の頃から習慣で付けている日記なのかと思った。しかし、 【もう何度目かの転校になるけれど、だけど僕はどこに行っても誰の中にも入っていけず、ますます内気になっていきました。どうしてなのでしょう。その子は活動的で、いつもみんなの中心にいます。なのにいつだって、みんなの輪の外でうつむいている、僕なんかに声をかけてきました。小麦色の肌をした少年で、白い僕とはとても対称的です。だけど僕は、彼とその友達とに距離があって、僕の劣等感はつのるばかりで……。それなのにその子は、いつも僕に手を振り、僕に声をかけてきました。だけど僕は、その好意への応え方を、さみしいことに知らないのです】 【僕は、魚だけが美味しいと思えるこの田舎の町で、本当に好きな友達ができました。また転校をすることが決まった時、先生に連れられてみんなにあいさつをしても、誰もさみしそうな顔をしてくれませんでした。それもそのはずです。僕は誰ともはしゃいだり遊んだり、みんなと過ごしたことはなかったのだから。だけど独りで学校を出ようとしたときも、その子は追いかけてきてくれました。「どうして、黙って行ってしまうんだい!」と、僕の背中に一言。お日様のような笑顔で手渡してくれたのは、使い込まれたバットでした】 父親の仕事の関係上、どこに行っても人の怨みや尾鰭のついた噂に、追い立てられていたのかもしれない。陰湿な嫌がらせや陰の目線から、逃げるように土地を流転していたのだろうか。特定の友達をつくることもできずに、ますます内気にでもなっていったのだろうか。それは自分の姿を主人公に見立てた、独白(モノローグ)的な物語だった。 【僕はその子に、手紙を出したいんです。向こうからくれるでしょうか。こんな僕でも、くれるのを待っていてもいいんでしょうか。でも、僕には住所がわかりません。転校続きで、君の荷物を失くしてしまったのです】 その後も特定の、ことさら「君」について描かれ続けていた。あんなに人が嫌だと強調していたのに、まるで物語の中では握った手が暖かく、ひたすらに人肌の温もりを求めて足掻いているように思える。物語はやがて写真家の見習いになった主人公(=礼二)が、写真の先生について球場に行った時、ドラフト指名を受けたばかりの高校生の少年と、偶然の再会を果たす。そして写真家として独立した主人公が、フレームの中に彼を収めるまでの自己愛的(ナルシスティック)な私小説だった。これが礼二にとっての、理想の自画像だったのだろうか。夢物語だと一笑に伏されそうなこの文書にも、その中には不変の真実が隠されていて、いつだってそれは自分を支え続けるのだ。 微笑ましく読んでいたのだが、しばらくの間余白があいたその下では、不穏な文章に一変していた。 【ここのところ、毎晩のように同じ夢を見ます。昨日もその前も見た夢は、大人しい自分を殺す夢です。何度ナイフで刺したかわからないのに、そいつは――涙目でじっと僕を見ていました。どこに、置いてきてしまったのでしょう。どこに、忘れてきてしまったのでしょう。僕は彼を、探しに行かないといけないのです】 そして最後に書かれた文章は、誰にあてたものか不明だが、懺悔そのものだった。 【僕は意気地のない嘘つきです。「IF(もし)」なんていうのは、情けのない仮定形です。体のいい、逃げ口上なのです。写真家になりたいと思いながら、周囲には写真家だと嘘をつく。そして、今日は随筆家だと嘘をつく。だけど今日も本当の僕は、親の仕事を手伝っています。嫌なら嫌だと言えばいいのに、僕は今日も言えません。きっと明日も今日と同じ、また言えないのです。こんな今日ならば、今日も明日も僕にとっては同じです。嫌ならば、一層ここから飛び出せばいい。ブルーシートの上で雨ざらしになってでも、自分というものを貫けばいいのです。でも、結局のところそれができない。僕はただの、根性なしなのです】 恵にはこの文書が、礼二の悲痛な叫びにしか見えなかった。ようやく、あんなにも会いたかった礼二の片鱗に、手を伸ばせば届く距離まで近づけた気がする。懺悔の下には、彼が残した夾竹桃の歌が一句、ぽつりと置き去りにされて詠まれていた。 耳の奥ではいつの日にか、礼二が話していた言葉がこだました。 『きっと彼らには嫌われているだろう。そんな者に、誰も近づきたがらない。だけど、八月のうだるような暑気に項垂れることもなく、大空に向かって頭を上げる。他の植物が疲れ果てる、苦しい季節にこそ竦むことなく、堂々と天道の元で胸を張れるんだ。そんな強い夾竹桃に、僕もなってみたかったんだ……』と、幾度となく繰り返して。 (馬鹿ね。あなたは人に嫌われただけ、誰かを思いやれる強さを持っていたというのに) 恵の拳は、膝の上でかたかたと震えていた。瞳を固く閉ざし、深呼吸を深くついてから、礼二の輪郭を想像してぼんやりと描いてみる。彼は、きっと気付けなかっただけなのだ。 (……少なくとも、私はいつだってあなたに救われていたわ) すり硝子が曇らせて、目隠しをした庭の景色を眺めやる。座っている位置からは見えないが、あの赤い影が揺れる辺りに植わっているのだろうか。 (あなたは、もうなっていたのよ) 今にも礼二がこの部屋に現れそうな、彼の息遣いを部屋のかしこからも感じる。だから、恵は口に出して言ってみた。礼二は、死んだりはしてはいない。他の誰もが発見できていないだけで、今もどこかにいるはずなのだ。だからあんなにも真剣に、自分に話しかけにきてくれたのだ。この声は、礼二に届いているだろうかと恵は思う。 「あなたはもう充分に、あの赤い花になっていたのよ」、と。 * * * 持ち帰った礼二のパソコンは、あの日恵が訪ねて行くのを、じっと耐えて待っていたかのようだ。まるで自分を見てくれと、待ち焦がれた時を過ごし、力尽きたように今はもう電源が入らない。コンセントに繋いで一度は不安定に起動したのだが、恵がファイルを保存するのを計ったかのように事切れて、その後はついに、息を吹き返すことはなかった。まるで礼二が手の内からすり抜け、巣立って行ってしまったかのように感じた。今はただ、動かないパソコンが机の上で、静かな眠りを貪っている。 目が覚めてベッドから抜け出し、机の横に建てつけられた小窓を思い切り開け放つ。身を乗り出してみれば、外は東の空が白みかけ、半月の薄明かりが名残惜しそうに残っていた。遥かに波打つ山の稜線が、だんだんと朝陽に濃く縁取られていく様が、きらめいて見える。生まれたての新鮮な空気を、すうっと胸に取り入れた。今日の空は雲ひとつない快晴で、唾液で湿した指に受ける、風向きの感度も良好だ。クローゼットに収納していた、黒と白の格子柄のスーツへと、恵は張り切って袖を通した。こんな日こそ旅立ちの朝にはふさわ相応しく、鞄に礼二からの手紙を詰めて、オフィスへと足を急がせる。早朝の鳥の声が爽やかだとはいえど、九月に入ってもまだまだ気温は高くて、下にはVネックの半袖を入れているのだが、額からは汗の玉が吹き出してくる。スーツの上着を脱いで自転車の前籠に放り込み、駅に向かって自転車をこぎだした。 朝も八時の前だと、オフィスのあるフロアは早い清掃員とすれ違うくらいで、閑散とした空気に包まれている。入り口に到着しても、夜勤組からの申し送りがちらほらと行われているだけで、職員の出入りはまだ少なかった。 「おはようございます。お疲れさまでした」 と、帰宅準備を始めている先輩陣との挨拶を軽く交わし、恵は会議室の扉をあけた。旅立ちの場所はとうに決めていて、鞄から二十の手紙を取り出しては一枚ゝゝ、もう一度丁寧に指の先で皺を伸ばしていく。そしてこれもまた一枚ずつ、手で細かく破る作業に取り掛かるのだ。たった、一枚を残しては。 破いた切れ端を中央に集めうず高く積んでみると、十九枚の数量はかなりの嵩となっていた。残した一枚には筆ペンで、あの言葉を入れることを忘れはしない。通常なら部長が陣取る椅子に座ってみると、それは大層心地よく、だけど紙に滑らせる筆には、細心の注意を払って書き連ねた。 書き終わった最後の一枚を、ふうっと息で乾かし、礼二が毎週届けてくれた紙飛行機を、真似して折ってみる。 恵は椅子を引いて立ち上がり、紙切れの山を両手に抱えて、ガラス張りの窓際に移動した。二十階からの眺めは抜群で、引き窓を左右へと力一杯に横手へあける。スクランブル交差点を通過していく人の頭や、区画ごとににょきりとひしめき合うビルの群像が、朝の空気に聳え立つ。 強風が部屋の中へと吹き込み、机の上に並べられていた書類や写真が、派手に舞い上がっては、床へと雑に散らばっていった。 (ふふ。係長に知られたら大目玉ね) でもそんな叱責は適当に受け流し、聞いているふりをしながら謝って、取り揃えればすむだけの話だ。 恵は両手に抱えた紙の山を、窓の外へと思い切り放り出した。強風に煽られた軽い紙は、くるくると舞いながら、あるものは下へ、またあるものは更に上昇気流に乗って、回転しながら吹き飛ばされていく。恵は乱れる髪を片手で押さえながら、まるでコンクリートジャングルに降る紙ふぶきだと思った。 「I am king of the world!」 早い春、まだ礼二と出会う前に、この場所で両手を広げて叫んでみたセリフを、今また同じ姿勢をとって大声で叫ぶ。そして、指で写真のフレームの形をつくっては目の前で止め、世界を小さく凝縮し、四方の形に切り取ってみた。礼二の好きだった、緊張が支配する張りのある空間。そして、世界をぐっと自分の元に手繰り寄せ、切り取った景色をあの日のように、右手でぐしゃりと握ってみせた。 (あなたと出会ったのは、まだ早い春のこと) 机の上に寝かした紙飛行機を手に取り、恵は再び窓際へと近寄っていく。壊さないように丸めた手で、上からそっと包み込んでみた。 (あなたと共有したのは、たったの半年。いいえ、半年にも満たない短い短い時間だった) 紙飛行機を頬にあて、静かに瞳を閉じ、「それでも」と呟いてみる。 瞳を開けて、蒼天を力強く見据える。そして――両手を紙飛行機に沿え、すうっと円弧を描くように、軽く外へと飛ばした。 紙に書いた文書は、礼二が詠んだあの歌だ。 【夾竹桃 八重に紅く 立ちゐたり 我ひとりとて 天(あめ)を仰ぎし】 (訳:庭に赤い夾竹桃が、忘れられたようにぽつりと立っている。たとえ、他の者に嫌われようとも頭を垂れることもなく、暑い最中にたった独りでも天を仰いでいる。ああ、なんてたくましきことだろう) 「ねえ、教えてよ。それでも、あなたと私は……友達だった?」 紙飛行機の尾が白い線を青空に引き、雑踏の中へゆっくりと吸い込まれていく。ビルの谷間に隠れて見えなくなってしまうまで、恵はいつまでも、去り行く礼二の影を眺めていた。 <了> <後書き> ここしばらくは書かなかったのですが、久しぶりに後書きを書いております。この長さで、その必要もないのかなあと思いながら、でも…まあ、ちょっと。初めはもっと短い話の予定だったのですが、いつもの長編のなっていく悪癖が。今回は、私の作品にしたら、まあ、珍しくリアルと思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか? 今までは現実を描くにしても、あまり毒々しさを出さないようなものを目指してきたつもりなのですが、たまには毛色の違った話にもチャレンジしてみようかなと思いまして。やってみたはいいけれど、難しかった。アクションがあまりないだけに、下手をすればただの長文。起承転結が…また難しい。 この話は皆さんの身近にあり、誰もが手の届く距離にある題材ではないでしょうか? 誤解されなきように、後書きを書かせていただいているようなものですが、この作品は見合い、結婚、男性、出会い紹介批判をするためのものではありません。偏った視覚からの作品に見えるかもしれませんが、決して批判・悲観を煽る、そのために書いたものではないのです。本作品では、「見合い」とは非常に苦く、辛い、不愉快なもののように取り扱っておりますが、もちろんこれは氷山の一角にすぎません。同じ「見合い」でも、このように険しい道のりを歩み、傷ついてボロボロになっても乗り越えられた方、途中で結婚とは違う自分の生き方を見出された方、うまく話がまとまってトントン拍子に幸せを掴まれた方、本当に多種多様にいらっしゃると思います。あくまで多角的視点で、こんなふうに苦労して、やっと幸せを手にする方もいるんだなあ、くらいな気分で「見合い」というものを遠望し、多少でもその輪郭を理解していただけたら幸いです。皆さんの身近で結婚され、幸せな家庭をもち微笑まれている方も、その幸せの食卓に辿り着くまでどのような道のりを歩まれたのか、それは決して外側から見透かせるものではありませんし、苦労も幸せも、ご当人様達だけの手作りのものなのです。また、結婚や見合い…そういった、現実(リアル)な部分にだけ囚われず、本作の恵とれいじの心のやりとりなどで、何かを感じ取って頂けたら幸いに思います。れいじがなぜ、恵に惹かれて話しかけたのか等、そういったことを読者様それぞれに考えていただけたらなあ。作者としてはもちろん意図して書いているのですが、やはりそこは皆様に感じ取っていただくことこそ、読むことの醍醐味と思っておりますので、あえて沈黙を守ります! 最後になりましたが本作を書くにあたり、実態を知るべく取材協力をしていただきました、特にS様、H様、有難うございました。音大やピアノに関して、助言くださったH先生、有難うございました。中でも特に本作品を「形にする」ということで、個人的(プライベート)な胸の内まで、嫌がらずに聞かせて下さったS様。本当に有難うございます。この作品を読んで、この身近な辛酸に直面してらっしゃる方等が、明日もう一度挑戦(トライ)してみようかなと、思っていただけますようという願いをこめて。 |