澱・purple haze

 これは……何だ。
足の先からゆっくりと 忍び寄り絡わりつく
ぼうと淡い薄紫の
この 霞みのような煙は何だ……。



 「修羅。」
手に持つ剣からぼたぼたと 赤い生き血を滴らせ
八雲は 尚闘いを止めようとせぬ男を視る。
「修羅!」
それでも尚耳貸さず 渾身に振り降ろされる一太刀。
ギン……。
その刃を 受け止めたのは
先(せん)まで対峙していたはずの 敵の男の剣ではなく
久遠の神剣と名も高い 八雲のそれ。
濡れた血のりにさえも隠せぬ 朱の一筆の 鮮やかな。
ぎら……。
夕刻迫る溥闇のなか 八雲を睨む 修羅の銀の瞳。
その瞳のなかを歩み寄り 息荒い肩に手を乗せる。
「どうした。」
闘いの直後にさえ 揺れも途切れもない静かな声。
「五月蠅え。」
八雲の声と手の両方を ざんと手荒く払い退け
修羅は倒れる男を足蹴にする。
斬り続けられ とうに事絶えている
それはただの 血色の塊。
それからぶんと剣を振ると 飛散る飛沫が八雲を襲う。
ただでさえ 返り血に斑に染まる白い顔
その横顔にふりかかる 血飛沫に八雲は退くどころか
その碧いろの瞳をさえ 瞬きさせることもない。
それを見たのか 修羅はふん……と がちゃりと剣を収めたかと思うと
背を向け独り 足早に歩き出す。
竦んだように言葉もなく ただ立つばかりの如月と木晩。
八雲の剣からはするすると 血の滑り滴り落ちるがまま。
修羅は振り返ることさえしない。
「早くしねぇと 今夜の塒(ねぐら)にさえありつけねぇぜ。」
木晩の瞳線に気付き ようやく優しく微笑む八雲。
「ともかく……皆 無事で良かった。修羅の言うとおり 先を急ごう。」
一振りのあと 鞘におさまる朱壬の剣。
その音の しゃりん……と木枯れた小径に響く。

歩き様如月は 剣を振るって襲って来た
今は倒れ死にゆく 男達の姿を見る。
それから……修羅の 足蹴にした男。
血に染まり瞳濁るまま それを綴じることさえ叶わぬ姿。

「修羅はどうしてしまったのだろう。」
歩みながら まるで独り言のような如月の。
「……何かあったのか? 私が気を失している間……。」
「何もない。」
即座の返答。
それから頭のなかを廻る回想……だが出(いず)る言葉は同じもの。
「何もない……。」
一方木晩は口閉ざすまま。二人に瞳を合わせもせず。
八雲がそっと 肩に手をやりその顔を
碧に潤う優しい瞳で 見つめても
一時口元を綻ばせるばかりで
輝く法しか知らずにいたかの 榛の瞳は微笑みを忘れ。
そうして 何も……何も言わない。




 幼き頃からの修練の賜物か それとも生来の性質か
ほんの少しの物音に 八雲は夢より現に覚醒する。
だがこの時は 瞳綴じたまま 精神をのみ集中し。
修羅の瞳が自分の顔を覗き込んでいる。
焚火の燃え切る風前の ぼやと灯るあかりを背に
静かさ湛える ふたつの銀の瞳。
瞬きの間の出来事か それとも悠久の流れが過ぎ行きたか
それから修羅は立ち上がり 独り静かに小屋を後に。
まだ朝鳴き鳥の声もない 月の闇がようやくに
鉛色に染まりかけたばかりの頃の事。

 「如月。」
音のない世界に 静かな八雲の声。
如月の扉を開ける素早さは まるで事を予期していたかのよう。
「暫くの間 木晩を頼む。」
「八雲。」
流れ続ける小滝のような 律動のない如月の声。
「もし修羅が そうしたいのなら
 私は彼が居なくても構わない。」
その言葉に八雲は視る。
碧のいろの奥底に まるで森羅すべてを見透かしたかの光りを放ち。
扉の外は真冬の凍てつき。
そのどちらにか如月も 動じを得ないで身震いする。
それを見た八雲の瞳は 瞬時にいつもの優しさを湛え。
「あの男には 借りがある。」
「……気をつけて。」
一言静かにそう言って 如月はゆっくりと扉を閉める。
褥(しとね)のなかで横になり 木晩は全身に迫る嗚咽と震えと戦い。
無理に綴じられた瞳からは それでもこらえきれない涙がひとすじ
それは鼻柱を頬を伝い 寝床に染み入る。
その 冷たさ。



 濃い藍青につつまれた 景色はやがて露草色にと変貌し
そのなかを 八雲は左に掲げた松明の 照らす足跡頼りに歩いてゆく。
その様は 手練の猟師も舌を巻くがごとく。
東の方が乳白と淡桃色の 流し墨絵のようになり
その頃ようやく泉の畔に 腰を降ろした修羅を見つける。

 「まるで番犬だな。」
言葉を発すると 口元から白い霧。
「それも毛並みも鼻も とびきりの上質の。」
「修羅。」
相変わらず 八雲の声は寂静の声。
「何に苛立っている。」
「……これはいい。」
くっと修羅は笑う。
それから立ち上がりざまに 小石を泉に放り投げると
泉の上の薄氷は しゃん……と音を立て
割れた罅のなかからは むくむくと水が浮き 湧き上がる。
「お前にも分からぬ事はあるんだな。」

 修羅はゆっくりと八雲に近付く。その顔を睨みつけながら。
そして瞳線だけを修羅に向け 微動だにせず立つ八雲を軸に一回り
それからその碧の瞳をじっとみつめ にやと嗤ってただ一言。
「お前は化け物だぜ。」

 八雲の瞳がその途端 恐ろしい色に変容し
それこそまるでこの世ならぬ 妖しの物でも見たかのよう。
「今……何と言った。」
声さえ微かに震えているのを隠せもできない。
修羅は初めて 瞳線を背むける。
その姿を見て居ながら 全く同じ調子でもう一度。
「聞こえなかったか? お前は化け物だと言ったんだ。」
そしてまた見据える。銀の瞳で 同じように。

 「は!」
空はようやく満面の白桜色。
朝鳴き鳥もあちこちで その美しい声を 競うがごとくに囀り出す。
だが二人の瞳に入るのは 相手の姿 ただひとつ
耳に入るは 自分の声と相手の声。
この世界のなかに ただ それだけ。
「流石のお前にも こいつは堪えると見える。」
修羅は嘲ることを止めない。
「だが そうでなければ何だと云う。
 聞けば……そう 久遠の 妙な剣技であやうく俺を
 負かしそうになったあの 女剣士も言っていたぜ。
 お前は餓鬼の時からそうだったとな。
 普通なら 真剣の重さを扱うに ようやく慣れるといった頃には
 もう周りには さしたる敵さえ居なかったとな。
 そう言えば 今のお前に至っては
 その本領を現すことを 避けているかにさえ見える。
 まるで封印が解かれるのを 畏れてでもいるようにな。」
話しながらも修羅は嗤う。
何がおかしいのか自分にも分からぬふうに。
「おまけにその 紗羅の羽衣のような金の髪に その容姿。
 八雲はまるで 剣を持つ為にこの世に生を受けた
 天が久遠に与え賜うた 剣の神のようだ とな。」
修羅の瞳が天を仰ぐ。
「神……魔……物の怪……鬼……。
 何であるかは知らねぇが どうにせよ 人でない事に違いはねぇ。
 ……化け物さ。」

 八雲は何も言わずに 首だけを背け 傾ける。

その碧の いろ。
何ひとつ映さなくなった その瞳の
奥底にたゆとうのは 怒りも 嘆きもない
何もない……ただの 哀しみ。
そしてその こころのなかには
溢れてこない……湧き出てこない。
ただのちいさな泉さえ 罅が入れば水の浮いてくるというのに。
なにひとつ。

 尚 修羅はからみつく。
それはまるで 捨てられ行く処を無くし 気のふれた犬のよう。
修羅は八雲の顔前に回りこむ。
「殴れよ。それとも久遠では 喧嘩のやり方は教わらなかったか?」
そうしてにやりと笑って言う。
「なら 斬れ。」
その言葉の終わらぬ間に 八雲の拳が修羅の鳩尾に入りこむ。
ぐお……。
修羅は態勢を崩し片膝をつく。その口唇から溢れる濁り血。
「……やるじゃねぇか……。」
「……あらゆる武術は一通り教え込まれた。」
「……つくづく虫の好かねぇ処だぜ……。」

 「修羅。」
八雲はもう 修羅の方を向く事がない。
「もう どうする事も叶わぬのだな。」
それは 行き場のない言葉。 ただ虚空に迷うだけ。
修羅は にやと笑う。 それから口元の血をぐいと拭い
それと同時に立ち上がったかと思うと
八雲の肩に手をのばし掴み そうして振り向いたその頬を
拭った血の べとりとついた拳で力任せに殴りつける。
石火の疾さ。
どう と飛ばされ 倒れ込む八雲。
その みるみる腫れあがり 鼻穴に口元に 血の滲む顔の真上に
仁王立ちになり 見下ろす修羅は 尚嘲りの微笑みを浮かべ。
「すまねぇな。 貴(あて)なる貌(かお)が台無しだ。
 だが一拳には一拳。 これが喧嘩の礼儀というものさ。」
瞳を背ける八雲。
「あばよ。もう逢うこともねぇ。」
修羅は背を向ける。
「……木晩はどうする……。」
絶え絶えの一言に 一瞬の間。
「……どうとでも……。邪魔なら故郷に送り返せばいいさ。」
聞き慣れた 修羅の低い声。
耳に響く 修羅の立ち去ってゆく足音。
ちいさく ちいさくなってゆく 枯葉踏む音。
そうして 静寂……いや……鳥たちの囀り……賑やかな。



 いつまでも 八雲はそこに横たわることを止めようとしない。
空は早 銀箔の光りの半球。
それを仰ぎ見る瞳から 液体の流れ出たのは
その眩しさの所為に相違ない。
そう……あの言葉など 幾度聞いたか数えも切れない。
“あんな餓鬼に 何故こんな事が出来るんだ。
 おまけにあの髪……見ただろう?
 剣に夢中になる程に それ自体まるで命宿した生き物のように
 ゆらゆら光放って揺れ動くと来る。
 その不気味な事たるや……。
 ありゃあ常人じゃねぇ。 化け物だぜ。”

 冬の陽の暖かさに 泉の薄氷は ゆるやかに溶け始め
氷の罅割れる度に ちいさな音を立てているような気がした。
横たわる八雲にも 陽の光りは平等に降り濯ぎ
冷え切った体躯の 温める手助けをした。
そう……ここはもう 久遠を離れ 南の彼方。
だが何故 自分はここにいる?
そして……私は一体 何物なのだ……。




 「遅いな。」
藁葺の粗末な小屋に 隙間風は絶え間無い。
ぱちぱち音を立てる焚火を前に 如月はふと言葉を漏らす。
その横に 俯き膝を立てた恰好で じっと坐っている木晩。
その炎に照らされた横顔を 如月はちらと見て微笑み。
「案じなくてもいい。八雲は必ず 修羅を連れ戻すよ。」
榛の綿毛のようなふわふわの 髪がちいさく横に揺れる。
その揺れが だんだんに大きく強くなる。
「木晩?」
如月の 不思議な灰青いろの髪がさらり流れる。
「……戻らない。」
木晩はようやく顔を上げる。 耐えかねて溢れる涙。
「如月姉様。修羅はもう戻らないよ。」

 一度溢れ出した涙は とめどがない。
如月は震える木晩を抱きしめる。 水鳥が大きな手羽根で覆うように。
「何故……そう思う?」
「……あの時……八雲兄様が瞳醒められた時……」
嗚咽の間に間に 話す木晩の声の 時に強く時に弱くなる。
「修羅は私にくちづけをしてくれたの……。
 良くやったな って誉めてくれて……。
 その時に気付くべきだったんだよ。」
如月には訳がわからない。
「それで……修羅に何か 変わった風があったのか?」
「何も……。だから気付かなかった。
 何でなのかは分からない。修羅がどうしちゃったのかも分からない。
 でももう……きっともう……戻って来ないよ……。」
言葉が終わると同時に 涙もようやく乾いた木晩はそのまま
ただじっと足を手で組んで 炎の前に坐っている。
木晩に回していた腕を 静かに放ち坐る如月に
出来ることは なにもない。
何故 こうも私のこころは
貧しく卑しいのだろうと 責めるばかり。




 修羅はただ 歩いていた。
もう行くあてもない。 ただ 足の向く方に歩むばかり。
その足の ほんの少しのふらつきは 鳩尾から伝わる鈍い痛みの故。
“あの馬鹿野郎……この期に及んでまだ手加減か……。”
そうして もうひとつ。
いつの頃からだろう 足元に絡みつく紫煙の
見えもしないその感触が
日に日に少しづつ しかし確実に強くなり
ゆっくりと 足首に 膨脛に太腿に纏いつき。
今では首より下 全てをそれに 覆い尽くされた恰好。
体躯は重く 息の苦しい感じがした。
ただ妙なのは それが僅かの 心地良さをも齎(もたら)した事。

 冬枯れの森の瞳前 突然さほど大きくもない湖が現れた。
修羅の気をひいたのは その湖そのものではなく
その真中に浮かぶ ちいさな孤島。
そしてそこには 石の建物。
美しい薄香色の だが朽ち果てそうに古び汚れた。
どこかに 渡る橋でもあるのだろう。
修羅は湖の畔に沿い 巡り始める。
一周を終えた頃には 陽の光りも茜色に染まり出したが
どこにもそれらしきものを見いだせはせず。
それよりも……静かに波打つこの水の 迫り来るこの冷気にさえ
凍る気配のひとつもないとは。
訝しく思いながらも修羅は手に 水を掬い喉を潤そうとして
驚き思わずそれを吐き出す。
これは……まさかそんな筈が……。
修羅はもう一度湖を巡り始めた。今度は一心に湖面を見つめながら。
そうしてある場所。その縁に腰を降ろした。
そして待った。

 空が刻々と黒幕を引き 東の空に山吹色の三日月の懸かる頃
それは起こり始めた。
にやり……。口元を綻ばせて修羅は立ち上がる。
湖面の水位が下がってゆく。 ゆっくりと 少しづつ……。
そしてとうとう 銀の瞳前に 水に濡れた石畳の径が現れた。
一つ歩を出すと 足首にまで浸る水の 思わず身震いする冷たさ。
だがそれも 全く気にならない。
月照らす 漣光る湖面の真中を 修羅は歩いてゆく。
まるで何かに 魅入られたように。




 どれだけの時が流れたのか 全くわからない。
「お休みかの?」
何処から現れたのか 襤褸(ぼろ)を纏うた乞食僧が
八雲に声をかけた。
「……そんな処です。」
その声の虚ろさに 気を惹かれたのか乞食僧は
八雲の元に近付き寄り その顔を覗き込む。
……盲なのか……。 ぼんやりと 八雲はただ そう思う。
反して その見えぬ瞳を見開く乞食僧。
「こは珍しい。主(ぬし) 鬼仏同宮の性(しょう)を
 お持ち。」
八雲は微笑む。相変わらずぼんやりと。
「僧の方。世辞は無用。私のなかに仏などありはしません。」
乞食僧は 仰向けたままの八雲の傍らに 腰を降ろし出す。
「では主 己を鬼だと。」
「ええ 多分。」
乞食僧は笑った。ひゃひゃと。抜けた歯から漏れるような不気味な声。
「鬼か。それは面白い。
 鬼なら 儂を喰ろうてくれ。
 のう 頼むから。 助けると思うて喰ろうてくれ。」
何をも映さず ただ天を仰いでいた碧の瞳がゆうるりと
現に舞い戻り 降りてきた。
その瞳で 乞食僧をみつけた。 じっと。
だが そのこころはまだ 藪の中。

 乞食僧はにやりと笑い立ち上がる。 弱い足腰を庇うように。
「主のその性 互いに拮抗し合う事尋常ならず。
 持て余した処で 当たり前よ。
 だがどう足掻き 諍(あらご)うたところで 所詮
 生まれ落ちた運命(さだめ)から 逃れる事など 出来はせぬ。」
八雲は半身を起こす。
「儂は主に 喰ろうてもらえぬが運命。」
ひょろひょろと 襤褸引きずりながら去りゆく乞食僧。
ひゃひゃと 不気味な笑い声残し。


 それから暫く ようやく八雲は立ち上がる。
陽は真上より少し西に傾いて 泉の薄氷は跡形もない。
そして歩き出す。 ちいさく波打つ銀の色を背に。




 長い湖面の径の果てには
近くで見れば その朽ち果て様もあらわな石の建物。
その横には 立ち枯れたかのように葉を落とす 榊の大木。
扉さえ 石物とは珍しい。
その扉に全身を預け 開けるを試みると
ごご……と重苦しい音とともに 内から蝋燭の淡い灯かりが漏れ始め。
一歩 足を踏み入れると 濡れた足に尚 染み入る石の感触。
体躯を苞むは これが建物のなかかと疑う程の 石の冷気。
また見渡せば見る程に 奇妙なのは 窓のなく
代わりに 天井にひろがる ぎやまんの
まるで手を伸ばせばそのままに 天が手に取れるように星の輝く。


「これは……お客人とは珍しい。」
天窓に我を忘れていた修羅は 男の声に思わず
いつもの癖で 柄に手をやる。
男はそれに気付きもせぬのか ゆっくりと
微笑みを浮かべたまま 修羅の元に歩み寄る。
傍で見る男の 蝋燭の灯かりに揺れる 榛の髪 その瞳。
思わず湧きあがる 言い知れぬ感覚。
「私は紫微(しび)。ここで仏師の真似事を。」
三十路を終えようとする頃の男にしては 妙なまでの声の落ち着き。

 「あぁ……悪かった。人の棲家とは考えなかった。
  すぐに発つ。」
紫微は静かに微笑む。
「畔にたどり着く前に 径は潮に沈んでしまいますよ。」
ひとつ 間をおく修羅。
「不思議な処もあるものだな。海などどこにもありはしないのに。」
紫微はあいかわらず穏やかな顔。
「彼方に断崖の あるにはあるが
 その海水が地下水脈となり この湖に流れ込んでいるなどと
 潮の満ち引きを 瞳前で目撃でもしない事には
 たとえ塩辛い水を舐めたところで 信じる事は難いでしょう。」
そうして修羅の方を視る。
「ここへの径 良くお分かりになりましたね。」
ふん と修羅は笑う。そうして見上げる。星の満天を。
「どちらにしても 妙な処だ。」
「……素晴らしい天窓でしょう?
 満月の時にはちょうどその 月の通り道となり
 それ故ここは 観月堂伽藍(みづきどうがらん)と呼ばれています。」
途端 紫微の声の色合いの 少し異なるものとなる。
「水に囲まれた孤島。 それは古来より 異形の物の棲む処。
 この世とは境隔つ 異界とみなされて。
 そういう処でこそ私は 自分の思う仏像を
 彫れるのではないかと思ったのです。」
そうしてまた あの穏やかな声。
「旅の途中のようですが いつもは何を生業と。」
一瞬 逸らす銀の瞳。
「……俺は 何も生み出さない。
 潰すばかりだ。」
紫微は まるで初めて腰の剣に気付いたかのよう。
「あぁ。剣士なのですね。」
ふん……。
「剣士なら 故郷や人を護りもしよう。
 だが俺は いまだかつて
 一度たりともそんな為に 剣を揮ったためしがない。
 ただ 気の向いた時 気にいらぬ奴を斬り殺す。
 それだけさ。」
にやり……修羅は嗤う。
「驚いたか? あんたなどの 想像も及ばぬ世界だろう。」
「そうでもないですよ。」
紫微は言う。 相変わらず穏やかな微笑みを浮かべ。


 「私の生い立ちになど 興味のありもしないでしょうが
  父母の顔も知らず 物心ついた時には
  盗賊の輩に養われ。
  その盗賊にも いつしか捨てられ それからは
  少年の頃より 村から村 国から国へと渡り歩き
  小賢しい奸策に人を惑わし 時には脅し
  金子を巻き上げ 食物を奪い
  それも叶わぬ時には 迷う事なく命を取り。
  それでも尚 ひもじい時には
  人の死肉漁るのを 厭う余裕さえなかったことも。」
修羅の表情の たちまちに強張っていくというのに
紫微の調子は 全く変わる事がない。
「そう言えば 名前もまだ 伺いも。」
「俺か……俺は 修羅だ。」
紫微は微笑む。 これも修羅の意に反して。
「修羅……阿修羅。 帝釈天を敵(かたき)の荒ぶる神より
 迦楼羅や緊那羅などと共に
 仏護る八部衆のひとりとなった方。」
「……唯の喧嘩好きの 魔物じゃねぇのか……。」
修羅は呟く。譫言(うわごと)のように。
「少し前に私の 彫り上げたばかりの像があります。
 見てみますか?」


 それは修羅の想像を遙かに絶し。
背丈は人のそれと同じ位 三面六臂の樟の木の その像の
生き生きと 伸びる六本の腕のしなやかさ
その指先に こめた望みの 何を思うもさることながら
少年とも 少女ともつかぬその 面差しの
憂いを含み 悲哀にあふれ
切なく ただ一心に 何かを願うかのまなざしに
やはり漂うは 邪な 非道に満ちた
それは極めて人間の 根源に即した 悩みのなかの。
もうただ 美しいより外に 言い表す術もなく。
「……これが……阿修羅か……。」
「そうです。修羅。」
変わらぬ紫微の 微笑み。
「貴方より少し 力強さに欠けはしますが。」
修羅は その場に立ちつくす。
時計は 砂を落とすを忘れ
何もかもが 忘我の内。


 こん……こん……。
ふと修羅が我に返ると 伽藍の奥の方より響く音。
そちらに向かうと 蝋燭の灯り眩いなか 黙々と
紫微の 桧の木に鑿(のみ)を当てている。
「……何を彫っている。」
「菩薩像です。」
振り向きもせず 紫微は言う。
「菩薩……とは何だ。」
鑿の音が止まり 紫微がゆっくりと顔をもたげる。
「修行をつみ 勤行に明け暮れ
 そうしてようやく 仏様となる御方。」
修羅は見る。彫り上がるには あと幾年瀬の
時を要するのかは 及びもつかぬが
それでも尚 いまこのままでさえ その面差しの
慈愛に満ちた いとおしいばかりの美しいこと。


 その時。
ひら……と修羅の後ろを 少女が駆け抜けた。
驚き振り返る修羅。 微笑む紫微。
「驚かせてしまいましたね。
 あれは私の娘で 安曇(あずみ)といいます。」
安曇は まだほんの童女。
石柱の陰に体躯を隠し ちらちらと怖々こちらを覗き見るばかり。
「無礼はどうか許して下さい。
 訳あって心閉ざし 昼も夜もない生活を
 おくるがままに させずを得ないので。」
だが修羅の驚きは 全く違った処にある。
あのいろ。 あの石柱から覗く 幼い顔にふわりと垂れる
波打つ髪の あの灰青のいろ。

 「紫微 と言ったな。」
声が震える。 それに気付いて紫微の貌にも少しの変化。
「久遠を知っているか。」
「……北の 伝説多いかの地。 噂に違わず美しい処です。尤も……。」
紫微は思わず微笑むのを止め その榛の瞳を落とす。
「知っていますか。あの村の剣士の強さ。」
「あぁ。」
浮かぶ 浮かぶ八雲の姿。
「……あの村では 剣士の鍛錬の為 旅人を捕らえ剣を仕込み
 それを生きた標的として 剣士と戦わせるのです。」
「……何だと……。」
「中立を護るため。美しい我が村を守るため。」
紫微の言葉が全身を射抜く。
それを……八雲が知らぬ訳がない。
斬れと命じられれば 否応など。
あの八雲が……その生活に耐えてきたのか……。


 「久遠がどうかしましたか?」
紫微の声に 修羅はようやく我に帰る。
「あぁ すまない。 あの安曇という子供
 その久遠の生まれかと思ってな。」
紫微の瞳が円くなる。 そうして穏やかに言う。
「何故? 安曇は亜魏で生まれた子ですよ。」

 修羅はもう 口も利けず。ただ唾を飲み込むばかり。
「あの子の髪 不思議な色でしょう。
 亜魏には面白い遺伝があり
 亜魏の女から生まれた女性は 濃淡の差こそあれ
 あのような不思議な 灰青色の髪になるのです。
 亜魏は 海(わだつみ)に囲まれた その恵みに栄える国。
 その微(しるし)としてその色が 女性に宿るのだと言われています。」
「男には……出ないのか。」
「それがまた不思議な事。
 例えば亜魏の男性と 違う地の女性との間に授かった
 赤子がたとえ女の子でも その髪に
 この色が出ることはないといいます。」
修羅は思い出す。 木晩と同じいろをしていた義姉の髪。
「……だが余所の地にも 亜魏の女の血が混ざらずとも
 こんな色の髪の人間は いるかも知れないな。」
紫微は修羅を視る。 この寒さに……良くない汗。
「人の智の及ぶなど たかが知れたものですから。
 ただ方々を経巡った 私の知る限りでは
 男女問わず 唯一人として。」
眩がした。 吐き気まで催して。
……知っているのか……如月も……八雲も。


 「何故 亜魏を出た。」
話題を変えるつもりだった。だた口をついた言葉はこれ。
頭のなかの何かがそれを 許さないでいるかのよう。
紫微は微笑む。微笑みのなかに ちらり覗く僅かの哀しみ。
そうして話す。誰もが知らなかった事。


 「亜魏は先程も言ったように 豊かな 恵まれた処。
  人々は皆寛容で 生活は笑いに富み
  私は生まれて初めてそこに 居心地の良さを感じ
  漁を学び 住み着く決意をするに至りました。
  尤もそこで知り合った 安曇の母なる女性の影響も
  小さくはなかったかも知れません。
  でも ある日。」

紫微の 遠い日を思い出す瞳に 一片の曇り。
「海の遙か彼方に 我々のあずかり知らぬ人達の住む大陸があり
 ある時彼等が大挙して 亜魏に乗り込んだのです。
 彼等の言葉で “理想郷(アガルタ)”とか
 “聖域(アジール)”などと亜魏を呼び
 我々もその生活も 彼等なりに大切に扱ってはいたのです。
 それでも 双方の文化には 当然大きな違いがあり
 それは徐々に軋轢となり
 とうとう亜魏は 彼等を元の国へと追い返し。
 それからです……亜魏の変貌は。
 次には彼等が武力に頼り 攻め入って来などはしないと
 亜魏ばかりでなく この大陸の国村全てを
 統率するに乗り出さないと 一体誰に言い切れる。
 だから自分達が力をつけ 護ろうとしたのです。
 亜魏ばかりでなく 全てを守ろうとして
 そのあまり とめどがつかなくなってしまった。」

紫微の 榛の瞳に 尚暗い影。
「……安曇の瞳前で私の妻は 彼等のひとりに陵辱を。
 妻は数日の後 独りひっそりと自害しました。
 だがそれも 彼等にとっては 慈愛の表現のひとつ。
 妻を埋め 祈る事しか 私に出来る事は 何もなく。
 それから心を閉じた娘を連れ あてもなく彷徨い
 ふと 荒れ果てたこの地を見付け こころのままに
 こうしているという訳です。」


 「すまない。」
長い間のあと そう言うのが精一杯。
「いいえ。 私も人に聞いてもらえて
 胸のつかえが 取れた思いです。」
ふと仰ぐと天窓から 降り注ぐ星達が姿を消し始め
暗黒がゆっくりと 澄む蒼い色にと変わり始めていた。
「早いもの。もうすぐ干潮の時間です。どうしますか。」


 「邪魔をしたな。」
「いいえ。ただ。」
修羅は視る。見れば見る程そっくりな榛いろの瞳。
「もしまた自決などといった惑わしに 囚われる事があれば
 その時はいつでも 遠慮をせずに。」
「自刃……俺がか?」
紫微は ただ微笑む。
「貴方の阿修羅像は いつでも待っていますから。」
そうして修羅は 初めて気付く。
あの紫煙の 体中に絡み付く 薄紫の霞の
いつの間にかすっかりと 消え去っている事に。
修羅が振り返ると 急いで石柱の陰に隠れ行く安曇。
だがこの時 初めて修羅を見て 安曇はほんの少し微笑んで見せた。
「綺麗な瞳。 お星様のよう。」
その言葉に 修羅は思う。
……彌勒もきっと あのような少女だったのだろうな……。


 湖面の径に足を踏み入れると
身を切るような冷たさは 相変わらず。
だが修羅は歩いてゆく。 白霧につつまれたその径を
確かな足取りで 一度も振り返ることなく。




 扉の静かに開く音。
立ち上がり 振り返り見る木晩の瞳が
みるみるうちに 影を落とす。
「八雲兄様 それ……修羅がしたの……?」
思わず八雲は 木晩を抱き寄せる。
「すまない……木晩。 本当にすまない……。」
俯き瞳を逸らす如月。 脣(くちびる)を噛み締めて。
「……八雲兄様……。 こんな事を言うのは間違っていると分かっているの。
 でももし……もし修羅が戻って来たら
 修羅のこと 何もかも許して下さる?」
榛の瞳みつめ 八雲は まだ腫れひかぬ貌でちいさく微笑む。
そうして頷く。 ゆっくりと ただ一度。