日照雨(Sobae)・鬼

“ねぇ にいさま
 彌勒は蝶に生まれていたならと 春に成る度思ってしまう。
 そうすれば いつだって 思った時に
 にいさまの元に 飛んで行けるのだもの──。”
 

「それにしても生暖かい日ばかりが続くぜ。」
久遠を出て十日 冬枯れの森のなかの一本径
その先頭を歩いていた修羅が口を開く。
「まぁ 旅の身には有難い事だがな。」
嘲るようにそう言い乍らも 修羅は思う。
だが これは……まるで陰風のようだ
厭な気が 漂いやがる……。
その 途端。
「八雲兄様!」「八雲!」
木晩と如月の叫び声が交じり合う。
驚き振り向いた修羅の瞳前で 八雲は がくりと崩れ落ちる。
「な……ま……まえ……あっ……た……ま……た……す……」
途切れ途切れの消えゆく声と共に
朧にかすみゆく景色──。
「八雲!」
修羅は跪き 瞳を綴じてゆく八雲の頬に
手荒く 平手を打ちつける。
「おう!」
だがその甲斐もなく 白い頬が薄桃色に変わっていくばかりで
八雲はそのまま 意識を失う。
「何だっていうんだ……。
今の今まで 普段と何ら変わりは無かったじゃねぇか。」
木晩が跪いて 八雲の額にそっと手をやる。
「熱もない……。かえって冷たい位だよ……。」
「や……くも……。」
その精気の失せた声に 思わず修羅が振り返る。
如月は立ちすくんでいた
茫然と 虚ろに彷徨う瞳をゆらゆらさせて──。
“……今度はこっちの番か……。”
修羅は立ち上がり その両の手で如月の肩をしかと掴み
一度大きく がくりと揺らす。
「おう! しっかりしろ!」
はっ……と如月に正気が戻った その時──。
修羅の銀瞳に 一瞬の閃光が走り 右手が そぉと剣柄に掛かる
──チャ……。冷たく響く 鍔(つば)の持ち上がる音──。
その鋭い瞳光は 左手の森にじっとむけられていた。
動かない──修羅も 如月も 木晩も。
そうして随分の時が流れたと思われた頃
枯れた枝々の間にまに 男の姿が現れた。


男は腰に獣の毛皮を巻き付け
長い褐色の髪を 太い麻縄で無造作に結わえていた。
冬尚 陽焼けした浅黒いその顔には
まだそう深くではなかったが 誇り高い年輪の象徴である皺が
幾本も刻み込まれていた。
チャ……。 修羅の剣が鞘に収まる。
「有り難い。この地の者か。」
森から出た途端 多くの者に出逢った驚きに 男は声を失していた。
その間に修羅が 矢継ぎ早に話を続ける。
「見てのとおりの有様だ。
陽暮れまでに たどり着けそうな
場所があるなら教えてくれ。」
男は修羅の話し声に 我に返った様子で
四人の姿を──そのそれぞれの 腰に下がる剣を──眺め見つめる。
“何だ……?” その時修羅は思った
男の瞳が 倒れる八雲に向けられた時
その萌葱色の瞳の片方が 真高い冬の陽の光りを浴びて
燦(きら)りと蘇芳のいろに 煌めいて見えたのだ──。
「物騒な世の中になったと 思ってはいたが──」
少し掠れのある 厚みを含んだ豊かな声で男は言った。
「いきなり人斬りの手合いに出くわすとは な。」
そう言ったかと思うと 何事もなかったかのように
四人の横を通り過ぎ行こうとした。
「おう!」 修羅が呼び止める。
男は立ち止まり その銀の瞳をしかと見据えて言う。
「何やら理由ありのようだが どうにあれ
人斬りを御持て成しする趣味は持たん。」
その時──。
如月がゆっくりと 男の方へと歩み寄り
その真前に立ったかと思うと そっとその場に正座をし
その冷たく湿った土の上に 両の掌を肩の幅そのままに しかと据える。
「……如月姉様……。」
八雲の元に跪いたままの木晩の ちいさな驚きの声。
それから如月はその頭を 地に付かぬばかりにゆるりと下げる。
「森の方……。」
もとより如月の声は 女性のものとは思えぬ程に低いのだけれど
この時の 更に低く重いこと──。
「八雲の気が醒めるまで 身を隠し休める処が要るのです。」
流石に男の顔に 困惑の色が広がる。
「……顔を上げな お嬢さん。見目能(よ)い姿が台無しだぜ。」
だが如月は顔を上げない──その瞳に光り──そして更に低くに言う。
「人の生き血に穢れたこの身でも
そのように 思って下さるのであれば──」
「止めろ。」
地を這う修羅の声──チャ……という音と共に現る刃の光り
それらが如月の声を遮った かと思えば──
「修羅。」 ──刹那 せつな極まる声。
「抜刀すれば 私がお前を斬る。」
「な……」
灰青色の髪を地に垂らし 如月は微動だにしない。
「くそ……。」 チャ……。 剣の 鞘に収まる音。
「おいおい 今度は仲間割れか。」
「八雲兄様!」
男の声を遮ったのは 今度は木晩の叫び声。
四人の 八つの瞳が一斉に 横たわる八雲に集中する。
八雲の瞳は 半ば開かれ
美しい碧のいろが ちらちらと冬の陽の光りをうけて
その瞼から 見え隠れしていた。
「しゅ……す……を……き……ぎに……」 消え入る絶え絶えの声──。
「八雲!」「八雲兄様!」
だが八雲の瞳は 再び綴じられ 首ががくりと垂れ下がる。
その時──修羅は今度こそ 後手にではあるが 確かに見たと思った
男の瞳の片方が あの紅玉のように輝くのを──。
「……仕様がねぇな。」
静寂をやぶったのは 森の男の声だった。
「少し歩くぜ。さっさとその行き倒れを担いで連いて来な 小僧。」
「……有難う……!」
 ──絞り出したような 如月のひとこと──。


「こいつは……凄いな。」
雀色時に辿り着いた 修羅達の瞳前には
千の樹齢を優に越すであろう やどり木の幾本も絡わりついた
森厳そのものの 美事な あららぎの古木。
そうしてその根元には ぽかりと口を空いた おおきな空洞(うつほ)。
「この中だ。」
森の男に導かれ入ると 中は思いの外広く しかも暖かいのだった。
「先程小川で汲みおいた水を ここに置く。
この深奥(じんおう)の森のなか 熊達は春待ちの 眠りのなかだし
唯一つの問題は 群なす狼だが
焚火絶やさなければ まず大丈夫だ。
ここならお嬢さん方二人でも 一晩を持ちこたえられるな?」
その言葉に修羅は 訝し気に男を見遣る。
「俺の住処に辿り着くには 夜半まで歩き続けなければならんが
数日ここで落ち着いて 過ごすに足りる物が揃っている。」
木晩と如月が 急ぎこしらえた寝床の上に
八雲を丁寧に 降ろし寝かせた修羅は
如月の方を向いて 低い声で静かに言う。
「大丈夫か。」
「……あぁ。」 八雲ばかりをみつめて 如月は呟く。
それから修羅は木晩に歩み寄り その額にかかる髪をくしゃりと撫でる。
そうしてにやりと微笑んで言う。
「すぐに戻る。泣くんじゃねえぞ。」
「……馬鹿!」
その二人の横を するりと通り抜け如月は 森の男に向かって言う。
「森の方。心から礼を言います。」
男は誇り高い皺を刻み 微笑んで言う。
「仲々の迫力だったぜ お嬢さん。」


「……少し疲れた様子だな。」
夕暮れのなかを 足早に歩み乍ら男は言う。
「……あぁ見えて 奴は結構重いんだぜ……。」
「八雲……とか呼んでいたな。あのような容色で
剣が揮えるなどとは とても想像が及ばんが……。」
ふん……といつものように修羅は笑い それから言う。
「ともかくも礼を言う。……俺は 修羅だ。」
今度は森の男が ふん と笑う番。
「よもや 本名じゃあ あるまいな。」
ぎらり……と光る銀の瞳。
「そうさ。」
一言吐き捨てた修羅を 横に見て男は続ける。
「俺は餓鬼の頃 木の小枝で瞳に怪我をしてな。
以来 光の加減や何やらで その片方の瞳だけ
時に赤く光るようになった。
それを 村の者が皆で 面白がって
俺は 玉兎(ぎょくと)と呼ばれるようになった。」
「は……粋(すい)な連中じゃねぇか。」
そう言い乍ら 修羅は小径での 八雲を見つめ遣った時の
この男の瞳の 輝く様を思い出す──。
「それが俺の 生き様を変えてしまったのだから 洒落じゃあ済まん。」
男が静かにそう言った その頃には
陽は西に すっかりと姿を隠し
かわりに 葉一枚残す事ない樹木の枝々に 絡みつく霜露が
燦々と清(すが)しく輝いていた。
玉兎は歩を止め その場所で 実に手慣れた様子で松明を作り
それに火を灯し また歩み始める。
その火影のなかで修羅は 男の語り始めた話に
次第に 心奪われてゆく──。


「俺の生まれた国には
“金烏(きんう)・玉兎の口伝え”というものがあってな。
その両方を得た者は 天つ神 黄泉つ神
五百(いお)の神々全ての力を 合わせて尚手に入れる事が出来ぬという
常世の皇子にふさわしい 幸を掌中にすると言う。
それで皆にたきつけられて 馬鹿な俺は 旅に出たという訳さ──
その 金烏とやらを求めて な。」
は……と修羅は笑う。
「それで 居たのか? 八雲のような“金烏”とやらが。」
玉兎は微笑み乍ら ちいさく頭(かぶり)を振る。
「金色の髪をした奴が 全く居なかった訳じゃない。
だが どいつもこいつも 瞳に適うには至らなかった。
俺は 失意に喘ぎ乍ら 方々を経巡り歩き
そうして ある時 この地に来た。
そして とうとう見つけたのさ。」
男は修羅を見て微笑む。
「丁度 秋の盛りだった。
この森の 樫の木 椈の木 楢の木 木という木の
葉という葉 実という実 全てが黄金に輝き
世界一面を 金の色で満たしていた。 真に御嶽(うたき)の趣だった──。
……以来 俺は杣人として ここを住処に暮らしているのさ。」
「……で その幸とやらは 手中にできたか。」
珍しく 神妙な口ぶりで修羅は尋ねる。
「俺は そう思っているぜ。」
男の声の 誇りに満ちた 気高い響き──。
修羅はその胸に 温かいようなものと
同時に ちいさな痛みのようなものが 走り抜けてゆくのを感じた──。



「……何かの病いなのだろうか……」
八雲の傍らに 静かに坐り 如月の声は いつもに増して低く
空洞のなかに 重く 鳴響(とよ)む──。
「熱もないし 脈も正確でしっかりとしているんだよ。
病いとは とても思えない……。
せめて 仙薬でもあれば良いんだけれど……。」
集めた枯れ枝の焚火で 薬草を煎じ乍ら
その炎(ほむら)につつまれて 木晩は言う。
「では 魔か。」
驚いて 木晩は如月の方に振り返る。
すくり立ち上がった如月の その火影に揺らぐ 畏ろしいような姿。
「禍しい妖しが 八雲にとり憑いたというのなら
久遠には 破魔の弓があると聞く。
そうだ……奇巫(あやしきかんなぎ)も 久遠には居るはずだ……。
私が それらを連れて戻れば──。」
「如月姉様!」
思わず木晩は 声を荒げる。
一瞬にして如月の 瑠璃の瞳に現が蘇る。
「すまない……木晩……。」
木晩は 如月の瞳が潤んでいるのに気付く。
「だが八雲に もしもの事があれば それは全て私の所為だ──。
八雲はもう二度と再び 剣などは 手にしたくはなかったんだ。
まして 朱壬など──。 全ては 私の所為なんだ……。」
「如月姉様……。」
一度瞳を下に落とし それからにこりと微笑んで木晩は言う。
「八雲兄様と如月姉様の間に
どんな御事情があるのかは 知らないけれど
そんな如月姉様の 辛そうな御姿を
八雲兄様は 決して見たくはない筈だよ。
ほんの気休めにしか ならないかも知れないけれど
栄養と滋養のある薬湯を作ってみたの。
如月姉様 八雲兄様に 飲ませてあげて みて下さる?」
そう言って木晩は如月に 芳香漂う液体の
入ったちいさな容れ物を 手渡しにゆく。
手に取り それを暫く じっと見つめた後で
如月は 静かな声で言う。
「ありがとう 木晩……。 私はもう 大丈夫だ。」
そうして八雲の傍らに ゆっくりと腰を降ろし
金の髪豊かな頭を その膝の上にそっと乗せる。
そうしてその薫る液体を 少しだけ口に含み
八雲の 色淡い口唇に 自分のそれを 圧しあてる。
“飲んでくれ……八雲……。” こころのなかで 呟き乍ら──。
すると──こくり……と喉を 液のとおる音──。
如月と木晩は 喜びに顔を見合わせる。
そうして 幾度も 如月は くりかえす
ゆっくりと ゆうるりと 重ね合ったくちびるのなかで
薬湯が流れ行くのを いつくしむように──。
 


八雲は いまだ 夢幻(ゆめ)のなか──。

“綺麗な八雲 私の八雲
神の子に なる筈だったのに
私の八雲は 鬼になった──。”

“八雲 其方の母上は 乱心され
父上は 悲しみに村を 後にされてしまった。
修行の休暇にも 其方に 戻る居場所は なくなった──。”

“八雲 父君が 長き旅より戻られた。
次の休暇には 逢いに行くが良い。”

“八雲 これはお前の 異母妹にあたり 名を彌勒という。
私は 久遠を後にして あても無く方々を 彷徨い歩き
ある 海に囲まれた大きな国で ひとりの女性と知り合った。
その女(ひと)との間に 彌勒が生まれた。
不義の仲であったので 別れは仕方のないものだったが
ここに戻るつもりなど 毛頭ある筈もない事だった
だが ふとしたはずみに お前の事を彌勒に話すと
逢いたいと言うて 聞かぬので
こうして 連れて戻って来た。
だが それでも尚私は お前を見るのが辛い。
気のふれたお前の母親のみならず
彌勒が このように生まれついたことさえも
お前の所為だと 思えてしまうのが辛い。
強き剣士に育ったお前を 認めてやれぬ父の弱さを
存分に嘲るが良い──だが 彌勒のため
休暇の都度には 逢いに来てやってくれ。
その間 彌勒を 乳母(めのと)に預け 私は家を空けていよう。
何と罵られようと 私はもう二度と
お前の顔は 見たくないのだ──。”

“八雲 この度の詔により
其方が 神剣 朱壬の正式継承者である事が 認められた。
よって 継承の儀を無事 済ませた後は
朱壬と共に この久遠を護るに生涯を 捧げる事となる──
心するが良い。”

“ねぇ にいさま
彌勒は 蝶に 生まれたかったな……。”

“あれ あんな処に 人倒れが。”
“姫様 近付かれては なりませぬ。”
“あら……見て。あんなにおおきな揚羽の蝶が
あの人の回りを飛んでいる……何て綺麗な 瑠璃のいろ。
ねぇ あの人 大丈夫かしら。”
“疫(えやみ)やも知れませぬ。私が見てまいりましょう。”
“……どうだった?”
“病いではない様子……腰の 美事な剣からして
剣士のようでは ありますが 剣に血のりの痕もなく
斬られた様子も また 血溜まりもありませぬ。
ただ 何ゆえか 気を失しているようです。”
“……あんな処に 放っておいては いずれ獣の恰好の餌食。
そうだ ここに来る前に 朽ち果てた祠堂が あったでしょう。
あのなかに この御人を隠しておきましょう。
そうして 辺りに 獣達の嫌う薫香を 撒き散じておけば良い。
ねぇ 綺麗な蝶々さん あなたも それが良いでしょう?”
“全く 姫様においては 酔狂な御方──。”

“殺れ……殺せ……。”
“名は……。覚えておくぜ 朱壬の使い手よ。”

“八雲様 久遠によくぞ お帰りなさい。”

“愚かな真似をしたものだな 八雲よ。
だが いずれまた 其方の力を 必要とする時が来るであろう。
それまでの しばしの間 朱壬は私が 預かりおく事としよう。”

“私は……私はこの手で 仇を討ちたい……。”

未だ 八雲は 夢幻(ゆめうつつ)のなか──。
 


途中 幾度か狼の群れに てこずり乍らも
ようやく玉兎の住処である 丸太小屋に辿り着いた時には
男の 先に言ったように 夜半に手が届こうという刻だった。
流石の修羅にも疲れは隠せず 吐く白い息が 苦しそうに切れている。
「一度も休む事なく 良く耐えたな。
だが まだ荷造りが 残っているぜ。」
「わかっている。さっさと干肉やらを よこしやがれ。」
玉兎は ふん とちいさく微笑む。
「全く気性の荒い野郎だぜ。」
修羅は荷造りに手を動かし乍ら 銀の瞳で男を見遣る。
「怖くないのか。」
「何が。」 玉兎は 脇目を振れる事もしない。
「俺は餓鬼の頃から 血にまみれ
斬る事だけに楽しみを見い出してきた
名前に恥じねぇ 折り紙付きの人殺しだぜ。」
男の萌葱色の瞳が ちらりと修羅を見る。
「……俺は手前の大事な仲間の 命の恩人だからな。」
は……と修羅は嗤う。
「そんな人並みの 下らねぇ情け話が
この俺に通じるとでも 思っているのか?」
「通じないのか?」
事も無げに 男は言った──ふりむきさえもせず──。
ふん……修羅は 銀瞳をそらせて低く言う。
「甘い奴だぜ。」
それからまるで ひとりごちるように ぽつりと呟く。
「まぁ……如月に殺られるのは 御免だからな……。」
暖炉の炎の暖かさが修羅の 冷え疲れ 消耗した体を
癒すように つつんでゆく──。


「さぁ これで良いだろう。
夜が明けるまでには まだ間がある。少し休んでゆくがいい。」
そう言って どうと横になった玉兎に
修羅は坐りこんだままで 静かに尋ねる。
「何故 こうまでしてくれる。」
玉兎は 一瞬の間を置いて 微笑み答える。
「そりゃあ あんな綺麗なお嬢さんに
ああまでして 頼み込まれては な。
それに……。」
男は自らを嘲るように ふんと嗤う。
「俺は見たんだ……蝶の 舞い飛んでいるのを。」
修羅の銀瞳に 鋭い光り──。
「は……空(うつ)けた話だろう。こんな季節に ある訳のない事さ。
だが太古より 蝶は人の魂魄を運ぶ生き物と言うからな。
それで たとえ何かの見間違いであれ
これは何かの予兆かと 森を降りたと いう訳だ。」
玉兎はちらと 修羅を見遣る。
「その蝶というのが 不思議にも
あのお嬢さんの瞳そのままの 瑠璃いろをしていたのさ。」
修羅の心に 何かが重くのしかかる。
蝶……また蝶か……。瑠璃いろの……彌勒の瞳と同じいろの……。
「それに まだもうひとつ。」
男は立ち上がり 棚の中から ちいさな革の袋を取り出す。
その袋から 男の掌に落とされたのは
小指の先程の ごつごつした 水縹(みなはだ)いろの石。
「これは……翡翠の原石か。」
玉兎は くすりと微笑む。
「俺の国では琅王干(ろうかん)と言う。
俺が 馬鹿げた旅に出る時に お袋が持たせてくれたものだ。
……似ているだろう? 八雲とやらの 瞳のいろに。」
修羅は思わず ふ……と微笑む。
「成程な。」
「八雲とやら……病いでも なさそうだったが……。」
暫くして 玉兎は言う。
「あぁ……。ひとつ見当がある。」
玉兎の瞳が 修羅のそれに向けられる。
「憶測に過ぎんが……多分そうだ。
嫉妬していやがるのさ──とある剣の女神が な。」
くすりと修羅は笑う。
「色男も 辛いもんだぜ。」
それから修羅は 男に瞳を向けずに話し出す。
「八雲に初めて逢った時は 俺もそう思ったものさ。
ただの脆弱な 恰好能しと な。
だが俺は 未だかつて一人として お目にかかったためしがない。
負かすはおろか……奴に本気を出させるような相手にさえ な。」
その時 玉兎の片方の瞳に 一瞬の蘇芳のいろ──。
まただ……修羅は見逃さない。
だが 男はたいして興味も無いように言う。
「ほう……。 人は見かけによらぬものだな。
さあ 良い加減 休もうじゃねぇか。」
だが修羅は 重い荷物をその肩に掲げ すくりと立ち上がる。
「いや……。戻る。」
玉兎は 半身を起こして修羅を見遣る。
「……気掛かりで 休んでなどおれんか。」
修羅は 男の瞳を見つめる。気高く穏やかな 萌葱色の瞳を。
「色々 世話になった。」
玉兎は ゆっくりと立ち上がり 修羅の肩に どんと手を置く。
「もう逢う事もあるまい。あの迫力一杯のお嬢さんと
お前の 良い娘(こ)に宜しくな。」
「な……ありゃあ唯の 義妹だぜ!」
男は はは! と大声で笑い出す。
「小僧 赤くなってやがる。」
「貴様……殺されたいのか。」
玉兎は 修羅の大きな背中を どんと押す。
「さっさと行きぁがれ。あばよ。」
と……と前に つんのめりかけた修羅は
体勢を整えて ゆっくりと男に その銀瞳を向ける。
「あばよ。もう逢えねぇな。」 ──低い声。
玉兎は 穏やかに微笑む。
「さっさと行け。人殺しの照れ臭さ小僧。」──


月明かりの長夜を 急ぎ歩み乍ら 修羅は思う。
自分がその瞳のいろに 人生を左右されていながら
俺の この瞳のいろには 唯の一言も触れなかった。
──あんな男は 初めてだ──そう 八雲を除いては。
樹(いつき)に──森だけに囲まれた一生……か──。
 


「おう……遅くなった。」
「修羅!」 木晩と如月の 交じり合う声。
修羅の荒い息が 陽の煌めく朝焼けのなかに
白い霧のかたまりを いくつもいくつも つくりだす。
「お帰りなさい!」
そう言って 走り寄った木晩の頭に ぽんと手をやって
修羅は にやりと微笑んで その榛いろの瞳を見つめる。
「おう。」
木晩の えもいわれぬ 笑顔。
それから修羅は 八雲の傍らに 坐る如月の
元に歩み寄って 跪く。
「……大丈夫か。」
如月は 八雲に瞳を向けたまま こちらを見ない。
「……まだ このとおり 醒める気配すら無いんだ……。」
修羅は八雲に ちらと瞳をやる。
「八雲は大丈夫だ。必ず瞳醒めるさ。」
そう言って 修羅は重い荷物を どうと置く。
「あの男が言っていたぜ。
お前の捨て身の願いに 思わず手を貸す気になった とな。」
如月が 修羅の方を振り返る。
だが修羅は 如月を見ない。
「二人共 一睡もしていないのだろうが
もう少しの間 我慢して──」
その言葉の終わらぬ内に 修羅はその場に 崩れるように横になり
寝息をたてて 眠りだした──。


それから 二日の後の事
冬晴れの うららかな午(ひる)に 修羅の言葉の そのとおり
国守の神剣 朱壬に宿りし霊力の
久遠慕うあまりの 仕業より ゆうるりと解き放たれて
まるで 何事もなかったかのように
八雲は その瞳をひらきはじめた──。

「八雲……!」 如月の 喉の奥から 絞り出されたような声。
「八雲兄様……。良かったね 如月姉様!」
木晩の こぼれるような あの笑顔。
「……ようやくのお瞳醒めだな。」
そう言うと修羅は 木晩の腕(かいな)を ぐいと掴んで
空洞の外へと 連れ出してゆく。
「な……どうしたの。」
「野暮な奴だな。邪魔するんじゃねぇよ。」

そうして外に出た修羅は やどり木の絡わりつく古木に
片方の膝を曲げ その足で木を踏み付けるようにして
凭れかかり立ちながら 遠くを見つめて静かに言う。
「良くやったな。」
「修羅……。」
修羅は相変わらず 右横に立つ木晩の方を見ず
そのまま後ろ手に 木晩の肩を抱き寄せ
右耳あたりの 髪をいとおしげに 撫でつける。
うつむく木晩 その榛の瞳に潤む光り
ただ 滔々と 流れる 時──。
「あ……雨……。」
暫くのあと 木晩が呟く。
「本当だ……晴れているのにな。日照雨(そばえ)……ってやつだ。
神と魔が 争っていやがるんだな……。」
そう言ったかと思うと修羅は 木晩に触れていた手を すぅと引き
身を起こした その一瞬
木晩のちいさなくちびるに
ふれるかふれないかのような くちづけをして
空洞の ぽかりと空いた入り口へと向かう。
「入ろうぜ。」

中の如月は 安堵に満ちた たおやかな表情。
その横に 半身を起こす八雲の
たちのぼる気の 名状につくしがたい美しさ──。
「おう 如月に ちゃんと礼を言ったのか?
そりゃあ凄い 迫力だったんだぜ──。」
 


半月あまり 経ったあと
森の男は あららぎの古木に やって来た。
空洞のなかは もはや四人の面影もなく
真の空しさが 広がるばかり
そこにゆるりと 腰を降ろして
玉兎は思い起こす──昔々 姥の寝守り噺を──。


“なぁ 坊よ よくお聞き。
この世に 生あるものは皆 美しいが
なかでも とりわけ美しいのは 何だと思う。”
“さぁ……。偏照天の神さまかなぁ。”
“そりゃあ勿論 神様は どの神様も お美しいさ。
だが とこぎり美しいのは のう 坊よ。
それはな……鬼さ。”
“鬼? 鬼は 醜いのじゃないの?”
“それは 人が 畏怖のあまり
そう云い伝えているだけのこと。
鬼は まことに美しい──そうして その美しき姿で
いつも 悲しく泣いている。
己の身を呪って 泣いている。
鬼は のう 坊よ。
この世で一番 美しく
一等 哀しい 存在(もの)なのさ。
だから──のう 坊よ。
もしも 鬼に 出逢うたなれば
怖いと思うて 石など投げつけることなどせずに
かわりに 坊の菓子を 分けてやれ。
すれば 鬼の魂は 救われる
ほんの 一瞬では あるにせよ
深き哀しみから 放たれる──。”


「……繧繝彩色の 鬼……か。」
玉兎は 思わず ぽつりと呟く。
そうして 思う。
“それにしても
不思議な連中に 出逢ったもんだぜ……。
なぁ 小僧──。”