秋雨(Shuu-u)

 ……雨か……。


 魂が再び肉体に、あるべき場所に戻ったように、
我に返った八雲はこころの中でひとり呟く。
 小屋の屋根を雨は踊るように打ち付けて、
 それは篠突くものとなる──。


 勢いを増した雨の中、木立の中を数人の男の走り抜けてゆく足音が響く。
その内のひとりが突然懐に手をやったかと思うと立ち止まり、
踵を返す。残りの者達は振り返り一瞬躊躇するが、そのまま走り去る。
 立ち止まった男は瞳線を下に、来た道をゆっくりと戻り始める。
 捜し物はそこにあった。それに手を伸ばししゃがみこんだ瞬間、
 近付いてくるもうひとつの足音を男は聞く。

 瞬時にしゃがむ男に追い付いた男は、その髪から雨の雫を滴らせ、
肩で大きく息をしながら鞘より素早く剣を抜く。
 「贄の羊でも気取るつもりか。さっさと剣を抜きやがれ。」 低い声。
 しゃがむ男は悟ったように静かに言う。
 「……その前にそれを取らせてくれんか。」
 そうして男はそのちいさな革の袋に手を伸ばす。
 それからそれを逆さまにして一振りすると、ちいさな光りが煌めいて
 鮮やかな紅玉が、男の泥に汚れた掌にぽとりと落ちる。
 それをしかと握り締め、男はにやりと笑って言う。
 「銀瞳の修羅。さっさと殺るが良い。」
 「……それがために命を捨てるか。」
 修羅は柄を持つ手に力を込める。


 ばたりと乱雑に扉が開くと、瞬時に雨垂れの音が大きく耳を打つ。
 椅子に坐った八雲が振り向く。入って来た修羅はずぶぬれになり
 ぜいと肩で大きく息をしている。
 漆黒の髪から雫を滴らせながら、その息の下で修羅は銀の瞳を
 ぎらりと光らせ低く言う。
 「……如月は。」
 八雲はたとえようもない表情をして言う。
 「この村の薬師(くすし)と術師は名うての腕前。
 運が良いと長は言ったが……。その後の知らせをこうして待っているところだ。」
 髪から滴る雫をうざったそうに両手で払い、尚低い声で修羅は言う。
 「木晩は。」
 八雲は初めてその碧の瞳で修羅を見る。
 その表情は先程よりほんの少し和らいでいる。
 「腕の傷はかなり深い。だが幸い筋を掠めてはおらず、
 時が経てば完治する──その傷の痛みをおして、
 ずっと如月の手当に付き添っていてくれる。」
 修羅は小さな息をひとつ吐き出す。それから頭をぶるりと振り、
 椅子にどうと腰を降ろす。

 修羅は膝に片肘をつき、その大きな手で濡れた額を覆う。
 「……八雲。」 暫のあとの、低い声。
 八雲はふと我に返ったように、金の髪をほんの少し傾ける。
 「……他は逃がしたが、一人に追い付いた。」
 碧の瞳が静かに修羅を見る。
 「……外の楡の木に縛ってある。」
 碧の瞳に煌きが走る。
 「くそぅ!」
 修羅はずぶぬれの足でどんと激しく床を蹴りつける。

 碧の瞳で静かに修羅を見ていた八雲はかたりと立ち上がり、
何も言わずに扉の元へと歩み寄る。それから静かに扉を開けると、
途端に大きな雨垂れの音──その中に八雲は消えてゆく。


 篠突く雨は全ての世界に帳(とばり)を降ろし、楡の木の元の
人影さえも定かではない。八雲はその中をゆっくりと歩み、
木に後ろ手に縛られて頭(こうべ)を項垂れる男の前に立ち止まる。
 ずぶぬれの男がゆるりと頭をもたげると、その瞳にも光りが走る。
だがその男を見つめる碧の瞳の、雨の中にさえ冴え冴えと光る
この世のものとも思えぬ凄さ。
 男は寒さの故か一度ぶるりと身震いする。
 「……貴様が金の髪の八雲。正に噂に違わぬ。」
 雨音でかき消されるような声で男は言う。そしてにやりと笑う。
 「その光る髪の一束を持ち帰ればそれだけで、勇者の名が欲しいままよ。」
 降りしきる雨の中で、碧の瞳は尚もの凄い光りを放つ。
 「ならそう呼ばれるが良い。」 地を這うような声。
 「奈落の国でな。」
 八雲は肩に張り付いたように雫を垂らすその金の髪をちらと見て、
 そうして鞘より剣を抜く。その、雨の中の鋭い光り。
 「八雲兄様!」
 その剣を髪に向けたその瞬間、木晩の叫ぶ声がした。
 八雲の右手がぴたりと止まる。
 「如月姉様が今……意識を戻された……!」


 剣を一度ぶんと振り、雨飛沫を飛ばせて鞘に収め、
八雲は木晩の元にゆく。そうして木晩の頭に手をやり
二言三言話した後で、瞳を醒ました如月のいる部屋へと歩いてゆく。


 木晩が小屋の扉を開けると、がたりと椅子の音をたて、修羅が
振り向き立ち上がる。その修羅の、銀の瞳のぎらりと輝く光りに
気圧されしたように、木晩は少しうつむいてちいさな声で話し出す。
 「……如月姉様はたった今眠りから醒められたよ。術師様の話では、
 臓腑を斬った傷は浅くて、一月もすれば歩けるようになられるだろうって。
八雲兄様が今逢いに行かれたよ……。」
 修羅は一瞬瞳線を上にあげ、それからもういちど木晩を見る。
 「お前の傷は……酷く傷むか。」
 血色に染まった麻布をきつく巻き付けた左の腕に手をやって、木晩は
小さく頭を横に振る。
 「痛み止めの薬湯を飲んだから……。」
 修羅はひとつ小さく息を吐き、そして八雲の坐っていた椅子に
 瞳をやり低い声で言う。
 「あれに坐れ。」
 同じように頭を小さく横に振り、大きな木の実の瞳を潤ませながら、
木晩は声震わせて言う。
 「修羅御免なさい、私の所為だ。急な事で何もできなくて、
 如月姉様は私を庇って──」
 「もういい。」
 低い声で修羅が遮る。すると銀の瞳が見つめるその中で、
 木晩の榛色の瞳からおおきな涙が溢れ出る。
 修羅は遠くに視線をやる。
 「如月は助かる──お前もだ。なら、もう済んだ事だ。」
 それから静かに歩み寄り、ゆっくりと手を持ち上げて
 雨と泥に汚れた大きな親指で、木晩の頬に伝う涙を掬い取る。
 「泣くんじゃねぇよ……ガキだぜお前は。」
 それからその手を木晩の濡れた髪に沿って後ろに回し、
 その頭をぐいと引き寄せる。
 耳に直に伝わる修羅の胸の鼓動──温かい音、正確なリズム──。
 修羅はその手で木晩の濡れた髪を、掬うようにくしゃりとつかみ、
 それから顔を少し下に傾けると、木晩の柔らかな耳に
 修羅の雨に冷えたくちびるが微かに触れる。
 「全くお前はいつまでもガキだぜ──。」


 扉を静かに開けて八雲は部屋に入り、如月の枕元に腰を降ろす。
その碧の瞳の、慈しみに満ちた優しい光り。
 蒼白の色をした如月は、その虚ろな瑠璃の瞳をゆっくりと八雲に向け、
そうして優しく微笑んだ。
 「や……くも……」 風の囁きのような声。
 「話さなくて良い。」 静かな声。
 如月がゆっくりと寝具の中から手を差し延べると、八雲の白く大きな
手がそれを優しくつつむ。その一瞬如月が素早く瞬きをしたので八雲は
はっとその手を引く。
 「すまぬ。雨に濡れた。」
 「いや……」 消え入るように如月は言う。
 手を布で拭き、それをもう一度如月の手に重ねる。
 「つめたいか?」
 如月の瞳は静かに潤う。
 「……あたたかい。」

 如月の頬にかかる髪をもう一方の手で優しく払いながら
八雲は静かな声で言う。
 「私はあなたに辛い思いばかりをさせてしまうな……。」
 八雲の乱れた金の髪から雫が床に落ち続ける、一粒、
 またひとつぶ。

 「木晩は……。」 暫の後で如月が言う。
 「腕の傷は浅くはない……だが大丈夫だ。その痛みをこらえて
 ずっとあなたに付き添っていてくれた。
 ……自分の所為だと思っているのだ。」
 「それは……ちがう。」 如月が声を少し荒げる。
 八雲の優しい顔。
 「分かっている……さぁもう眠った方が良い……いや……」
 ふと思い付いたように八雲は如月の顔をみつめる。
 「修羅もあなたに逢いたいだろう。」
 如月は瑠璃の瞳を少し伏せてしばらく黙っていたが、
 それから微笑んでゆっくりと言う。
 「次に瞳醒めた時に……。」
 それからその瞳を八雲の方に向ける。
 「それまで……こうして……いてくれる……か……」
 八雲の碧の瞳のたとえようもない優しい光りにつつまれて、
 如月はゆっくりと瞳を閉じる──。


 部屋を静かに出た八雲はようやく気付く、雨はいつの間にか上がって
いたのだ。空がゆうるりと白み出し、靄が白い闇のように深くかかる中、
八雲は小屋に向かって歩き出す。左手の楡の木には瞳もくれず、
そうして小屋の扉を静かに開ける。
 「修羅。」 静かな声。
 「如月は今瞳を醒まし、二度目の薬湯を飲んだ処だ。しばらくすれば
また眠りにつくが、その前に逢いに行ってやってくれるだろうか。」
 修羅は遠くを見つめるような瞳をして立ち上がる。
 そうして何も言わずに小屋を出る。


 八雲は静かに小屋に入り、修羅の坐っていた椅子に腰を降ろす。
そして少し離れた所で、やはり椅子にうなだれて坐る木晩に穏やかな瞳を向ける。
 「傷は随分痛むだろう……一睡もできなかったのではないか?」
 木晩はうなだれていた頭を上げ、痛々しい瞳を八雲に向ける。
 「八雲兄様御免なさい。私の所為で如月姉様は……。
 私は何と言って謝ればいい……本当に御免なさい……。」
 木晩の木の実の瞳は潤んで大きく波を打つ。
 そんな木晩に八雲は微笑み、そうして柔らかな声で話し出す。
 「子供の頃から修行の中で、様々な毒を少しづつ摂り、
 それに慣らされた私の体には、それゆえ効く薬草も限られる。
 その内のひとつがこの辺りに生育する──木晩はそれを知っていて、
 探しに行ってくれたのだろう?」
 木晩は悲しみにくれた瞳に驚きの色を浮かべて八雲を見る。
 「それにまず気付いたのが如月……。剣の手入れに気を
 取られていた私は──それだけでなく」 八雲の瞳に煌きが走る。
 「あの者たちがその機会を狙っていた事にさえも気付かなかった。
 謝らなければならないのは私の方だ……。」
 八雲はもう一度木晩に碧の瞳を向ける。
 「優しい木晩、どうか泣かずにいつものように微笑んでおくれ。
 如月のために──」 
 すこしの間。
 「──修羅のために。」
 木晩の大きな榛いろの瞳からもうひとつの涙が溢れ、ようやく木晩は
ほんの少し微笑んだ。それから一度下を向き、今度こそいつものように
微笑んだ──。


 扉を開け、如月の横たわる姿を銀の瞳で一瞥した修羅は、ゆっくりと
如月の枕元に歩み寄り、そうしてどうと腰を降ろす。それから如月の
微笑んだ蒼白の顔を見て、修羅は瞳を落としぽつりと言う。
 「俺の手落ちだ。──気付かなかった。」 低い声。
 如月は瑠璃の瞳を微笑ませる。
 「……安心した。」
 銀の瞳がきょとんとする。
 「……何だと?」
 「きっとまた木晩を故郷へ帰すと言い出すと思っていた。」
 如月がくすりと笑う。
 「だが修羅の手落ちならそうは言えないな……。」
 ふん……修羅はその銀の瞳を逸らす。
 「修羅……。」
 瑠璃の瞳に影が落ちる。
 「すまない……一月も……無駄にして……。」
 修羅は口元に笑みを浮かべる。
 「休暇気分もたまにはいい。……この辺りにはいい薬草もあるようだしな。」
銀の瞳が穏やかに如月を見る。
 「ゆっくり静養して……早く良くなれ。」
 如月は静かに微笑む。修羅が立ち上がる。
 「さぁもう眠れ。……では行く。」
 「修羅。」 如月が言う。
 「ありがとう……。」
 修羅は後ろ手に扉を閉め部屋を出る。


 ばたりと勢いよく扉が開かれ修羅が入ってくる。その途端に
木晩が椅子から立ち上がる。
 「如月姉様は……もう休まれた?」
 「いや……。」
 「じゃあ一目お逢いして、お詫びとお礼を言って来る!」
 そう言って素早く修羅の横を擦り抜け小屋を出てゆく。
 「……何だあいつは。」
 そう言って修羅はくっと笑う。

 修羅は木晩の坐っていた椅子にどうと腰を降ろす。
 暫の沈黙──。
 「あの男……。」
 八雲の碧の瞳が静かに修羅を見る。
 「斬らずに捕らえた故があるのか。」
 修羅は八雲を見ない。
 「理由(わけ)などない。」 低い声。
 「八雲の好きにしてくれ。」

 八雲は何も言わずに立ち上がり、そうして静かに小屋を出る。
 残された修羅はひとり椅子に坐り、頭をうなだれて手を前で組む。
 銀の瞳は鈍い光りを発し、そうして吐き捨てるように呟く。
 「反吐が出るぜ……。」


 雨の一夜を楡の木に縛られ過ごした窶れた男の瞳の前に、
八雲はゆっくりと歩み寄る。
その気配を感じて男は頭をうなだれたままで言う。
 「待ちくたびれたぜ……さっさと殺れ。」
 それからゆっくりと頭をもたげると、
 その瞳にちいさな驚きの色が光る。
 ……別人かと思ったぜ……。
 思わず心の中で呟く。
 八雲は澄んだ瞳で男を見る。
 「その必要はもうない。」
 そう言うと八雲は鞘より素早く剣を抜き、
 次の一瞬で男の手を縛りつけていた縄を斬った。
 「勇者には縁がないと見える。どこへでも行くが良い。」
 男は悟ったようににやりと笑う。
 「情けをかけて嬲(なぶ)る事さえ楽しむか。囚われの身となった者に
待ち受ける道は全てひとつ。同じ金の髪の八雲に殺られたとあっては
まだしも、犬死にしては浄土の兄に言い訳が立たん。」
 八雲の瞳にほんのちいさな光りが走る。
 「血ぬられた剣の道を歩んだ者は浄土になど行けぬ。」
 男は一度八雲を見遣り、そうしてそれからくっと笑う。
 「無論俺はな。だが兄は……。兄は腕の良い医術師だった……
 それで抜擢されたのよ──」
 その瞳の、憎しみと憧れの織り混ざった凄絶ないろ──
 「──久遠攻略軍直属にな。」
 八雲はほんの少し瞳を細める。
 「冥王の使者八雲。殺らんのならこちらから行くぞ……。」
 男は腰の剣に、左の手を掛ける──。


 八雲は剣を一度小さくかかげ、まとわりつくような血のりを振り切る。
それからその金の髪の一束を、その剣でさくりと切り取り、静かに剣を
鞘に収める。そうして倒れる男に跪き、その胸の上に金の一束をふわり
と置く。その時男の握り締めた右の掌がだらりと開き、見事な色の紅玉が、
白む朝靄の淡い光りを浴びて、きらりと光を放ちながら
ゆっくりと地上に転げ落ちた。

 「八雲兄様……。」
 如月の元から戻った木晩が声をかけながら歩み寄る。
 倒れる血まみれの男を見、木晩はやるせない表情で話し出す。
 「この人は……剣を抜かなかった。
 厭な仕事だぜと吐き捨てるように言って去ったよ。」
 そうして八雲が手に取った紅玉を見る。
 「綺麗な色だね……。ねえさまがよく似たものを持っている。
 にいさまがお守りにと下さった、今もねえさまの宝物だよ……。」


 静かな瞳そのままに、八雲はその紅玉を死にゆく男の掌へと戻す。
 それから何も言わずに立ち上がり、そしてゆっくりと歩みだす──。