「あぁ、そこの子供、名前は何、云うんやったか。」
「あ、はい大旦(だん)さん。曹介(そうすけ)と云います。」
「あぁ、こないだ来た子ぉやな。返事もちゃんと、好う出来る。今日もこ
の暑いのに、一日、好う御苦労さんどした。けど、もうひとつ、頼まれて
やで。お陽ぃさんの、もうちょっと、蔭ってからの方がええ、この、中の
庭にな、水、打ってやってくれますか。なぁ、見とおみ、可哀想に、苔や
皆、からからに乾いて色まで白う抜けてしもうて。」
私(わたくし)が、越中の雪国より、この、京の帯問屋に丁稚奉公に上
がりましたのは、数えの十二の歳を迎えた、その直後に御座いました。何
もかも、斡旋屋の決めた事、伝手も御座いません、この帯問屋は、京に数
多ある中に、そう大店と云う程にもなく、雇用人は、さて、当時、丁稚も
全て合わせた処で、十人も、在りもしましたでしょうか。
京の町家は、鰻の寝床の異名の通り、奥へ奥へと、子供心には畏ろしい
ように細くに長く、その、おおよそ真ん中に御座いましょう、広さで申せ
ば八畳ばかり、ぽっかりと、中庭の、四方を廊下と、硝子の障子に囲まれ
て、まるで盆栽の鉢、それを大きく、大きくに引き延ばした、そう申せば、
一等、表現も合いましょう、緑豊かに、また、陽の光を存分に、四方に与
えるように、在るので御座います。
教えを請うて、井戸より汲んでは水を、柄杓に、しゃ、と一撒きすれば、
岩や土、木々の幹にもこびりついた、苔の、まるで魔法のように、瑞々し
い緑の色を取り戻し、かと思えば、じゃああ、と、蝉の急いで飛び立つ有
様など、そんな他愛もない事々が、未だ幼い私には、大層面白く、其れは
傍目にも、余程に楽しそうに映ったのに御座いましょう、そうして中の庭
の水遣りは私の役目、と、何時の間にやら、誰云うともなく、有り難くも、
定着したのに御座いました。
旦さんには、御一人、御嬢様が居らっしゃいました。反対に申せば、い
とはん御一人より、他に居らっしゃらなかったので御座います。私の、丁
稚に上がりました当時にさえ、私等よりも随分と御小さく思われますのに、
様々の御稽古事に日々を精進しておいでに御座いました。
時を経て、さぁ、これは旦さんには御内聞に願えれば幸いに存じます、
雁も落ちようかとの、際立つまでの別嬪さん、という訳には御座いません
けれども、それは品の御有りに、やはり御美しくとより、形容の仕様もな
いように御育ちになり、店(たな)の皆も、いとはんの御姿を、一目見た
と、それだけに、仕事にも精の出るもの、と、全く男共とは斯様単純な生
き物に御座います、故にでも御座いましょう、旦さんの、いとはんに対す
る、謂わば御愛情の御気持ちは察するに余り有り、有りはすれども、御友
人との御買い物一つ、店の付き添いの無ければままならぬ御姿は、ともす
れば、私の様な者にも、何処か痛々しいようなものを、感じぬ訳にはいか
ずに居たので御座います。
矢張り夏の、京の夏特有の、陽暮れて尚、茹だるように重い湿気に、身
を地面に押しつけられるような、日で御座いました。唯一旦さんの御許可
の、御有りであった、御芝居の御観賞を、御友人と共に済まされれば、そ
の帰路の御同行の、御役目を、私はその日、初めて命じられたのに御座い
ます。
がたん、ごとん、と、線路に軋み揺れ、電灯の、橙色に仄暗い、路面電
車に御友人と、三人共に乗り込んで、一足先に、御友人の、御降りになれ
ば、まだ家の最寄りには、何駅も残す処に、急にいとはんはことりと席を
御立ちになられたので御座います。
「ちょっとの夕涼み、かましまへんやろ、なぁ?」
まだ宵も入り、と云った頃合いでしたでしょうか。逆らう術も持たず、
私は只、いとはんの、半歩程に遅れた横を、歩いておりましたらば、白粉
の香りの、仄かに漂い、また、月の明かりの、存外に有ったので御座いま
しょう、いとはんの、それは綺麗に、片蝶結びに結ばれた、帯の、桔梗の
色と、裏地の薄紅の色の、それは当然に、はっきりと云う訳には参りませ
んけれども、一足、一足に、幽かに揺れ、月明かりの下(もと)に色の混
じり合う様には、二十歳にさえ幾らか残す御身にあれども、昼間御目にす
るのとは、随分に違う印象を、私にもたらしたのに御座います。
気の付けば、細い水路の横、これもまた細い、径を、二人、歩んでおり
ました。他に人気も無く、水の、さわと流れる音、蛙(かわず)や何やの、
声などの、二人の足音に交じり小さく響いておりました。
「曹介はんは、京のお人やあらへんさかい、ご存知もおへんやろうな。
ここな、昔は、罪人の、咎人の、舟に流す為に、それだけの為に、作られ
た水路やそうや。」
云われれば、確かに人の手に、川縁を、石に積んで作られたものと思わ
れました。細さも、一つ舟の、通り過ぎるだけに丁度良い巾のように思わ
れました。
「それでな、京の町を大騒ぎさせた、極悪人なんやの捕まって、舟送り
にされる、云うた時なんかには、ここの岸からな、そらあもう、石飛礫(つ
ぶて)、石飛礫の雨霰やったんやて。」
「それはな、あんまり危ないからて、こうやって、岸辺に、木ぃ、一列
に、隙間もあらへん位に、植えはったんやて。」
仰るように、水路に沿って、枝垂れ柳の連なって、その、枝垂れた緑の
葉先の、水面(みなも)に浸かり、月の下に銀と光る、流れを分けてはま
た元に、戻ってはまた分けておりました。
「……中にはな、自分の両の親共、殺さはった人も居やはったとか。」
ぽつりと、まるで呟くように、そう仰ったかと思うと、
「なぁ。人のすることて、えげつないなぁ。」
恐らくはその声色にでしょうか、私は只、ぎょっとして、不図、斜め前
を行くいとはんの、御顔を凝視してしまいました。けれども、幾ら月明か
りのあると云っても、このように柳の木々の鬱蒼と茂る細道に御座います、
その御表情は、まるで能面の様により、私には映らないので御座いました。
「なぁ、曹介はん。帯、お好きで居やはる?」
声音は、先程のものと、随分に違うように思え、私はようように、安堵の
心持ちを取り戻す事が出来ました。
「はい、好きです。日本の伝統美、世界に誇れる衣装であり、御品、芸術
品やと思うております。」
「そうやな、ほんまやな……。」
歩幅も変えずに、二人、歩いたままに御座いました。
「せやけどな、曹介はん。帯て、結んでこそやろ。その、結んで一等、
美しい状態、それをな、所有してる人間は、見られへんのんや……鏡越し
にしか、なぁ。見れるんは、解(ほど)いて、結び皺のついた、平べっと
うなった、それだけ。おおきに、うちを、今日一日、綺麗に飾ってくれて
……いつもな、そない思う、そない、思うたあとにな、なんや、悲しいな
る。」
今度は、私の持って居た、あらゆる言葉が、脳の中より一斉に何処かに
霧散してしまったかに思われました。そうして、虚となった脳蓋の奥底に、
残滓の様に、へばりつく、訳の分からぬ感覚に、自然、下に向いた視線の、
ほんの半歩前には、いとはんの、草履の、銀の薄紅に彩な鼻緒の色が、月
光の下、尾を引いて、次から次へと、只、それはもう、いつまで経っても、
届かない、私には何時までも届かない、先へ先へと、糸状の、色の流れの
みを残し、ゆくばかりに思われるのに御座いました。
いとはんの、手紙のみを机の上に、御姿を消されたのは、それより間も
ない、まだ秋の羽音も聞こえぬ頃の事に御座いました。この騒動の種も、
大旦さんと旦さんの、一切を無かった事に、との御訓示により、全てが封
印、以降、我々使用人には、噂の範疇により過ぎぬ出来事と、成りゆくば
かりだったのに御座います。
店に関しましては、暖簾分けを目前に控えた番頭はんの、継がれる事と
決定し、円く収まったと云えばそうであったのですけれども、矢張り灯の
消えた様な、何処か、もの寂しい心持ちは皆より拭う事もままならず、御
寮人(ごりょん)さんに至りましては、御身体の御調子を御崩しにもなら
れ、それもやむ無き事にあるかと思うばかりに御座いました。
それより二年の経った、やはり、茹だるように暑い夏に御座います。雪
国の、実家より郵便物の届きましたのに、何かと思えば、それは、遠い遠
い、異国、英吉利より実家に届いた、いとはんよりの、手紙なので御座い
ました。
観劇に隣り合わせた帝大生と好き合い、その御方の、倫敦大学留学に御
共、今は此方に不自由なく暮らして居る旨、そうして、これより老い行く
御両親への御配慮を、私ごときに請われている、其れは英吉利製なので御
座いましょう、分厚く、透かしの入った便箋数枚にぎっしりと、流麗な文
字に書かれた手紙を、幾度も読み返しておりますと、自然、あの、一夜を
思い、全ての線に繋がれば、どうにも、涙の滲む思いの、禁じ得ないのに
御座いました。
初めて此方に上がってより、一回りの年を続け来ました、中の庭への水
遣りを、陽も蔭る頃を見計らい、さてと見ますれば、槇の木の幹に、蝉の
抜け殻の、ひとつ、附いております。
『曹介さま。こちらの夏は雲厚く、常にどんよりと肌寒い程に、そうし
て日に幾度も、細い針のような雨の、降っては止み、止んでは降ってを繰
り返します。倫敦は大層な都会ですけれど、樹木の多い事には御所を構え
る京にも負けぬ程に、何やら物足りぬと思えば、こちらには、蝉の、居な
いのでございます。聞けば棲息には寒すぎるのである由。京に居りました
頃、私は蝉時雨がどうにも苦手にございました。その癖に、今となれば無
性に愛おしく思えるなど、本当に人とは、否(いえ)、私という人間は、
全くに、どうしようもないものにございます。』
狭き中の庭に殻を割り出でた蝉は、無限と広がる大空に、短く儚き自由
の時を、風を、羽根に、体躯に、満喫しているのであろうかと、私は、只、
暮れゆく夕の空を、見上げるばかりに御座いました。