前奏曲

私は、穴を掘る。
私は、地に、穴を掘る。




見渡す限りは黄砂と金砂
時に吹く風に、さらと、ざわと、流砂の鳴る、
それのみが世界中にある、
只ひとつの、音。

その者は、穴を掘る。
只、一心に、地に穴を掘る。

頭巾のついたマントのような
ローブのような、麻布を織った衣服が、
渇いた砂より身を守る。
照りつける、陽の熱射より身を守る。

その者は、穴を掘る。
鼻の頭より、ぽとり、汗が落ちれば
ほんの一瞬、色を変えた砂は
異質物の、入り込んだ細胞のごとく
あっという間に、元の色へと修復する。

ふう、と、一息ついて
屈めた腰を伸ばし
ふと、右肩越しに、遠くを見遣れば
そこには、蜃気楼。
なにとも、分からぬ、
ぼやりと、浮かぶ。

一間、それを、眺めては、
また、元のように、穴を掘る。
只、一心に、地に穴を掘る。





その者は、大樹のもとに、目を醒ます。
巨木たる事この上もなく、幹を一回りすれば
どこが始点であったのか、訳も分からなくなる程に。
あまりにも巨大な大樹の木陰は
生い繁る木葉ずれの音さえも、尋常になく
ざわざわと、蠢く生き物そのもののような。
鬱蒼の山たる緑は、光の殆どをも遮断して
燃え立つような朝焼けさえも、ものともせず
間を縫うようにして、ようやくのこと、届く木漏れ陽は
搾り取られた残滓のなかに、
一握りの矜恃と美しさを、含み持たせ
涎のように地に垂れて、極、薄い、灰色の斑と成す。


斑のひかりのなか、その者は、
顔に、頭に、切るかの冷気を感じる。
はぁ、と、吐けば息が白い。
塒はと見れば、深く密度の高い、
獣の毛皮へと変化(へんげ)を見せる。

半身起こせば
服装も、分厚い毛織物を、何枚も着込み羽織った形となって
寝具である、毛皮を捲れば、足下には、これもまた
防寒用の、獣の皮を縫われた、膝下までの靴。

いつもの事。
その者が、一向、気に掛ける様子のないのも、
だから、それは、当然の事。

風が吹けば、常緑の木の葉の音も、随分と渇いて響く。
景色は、巨大な樹木の、横へ横へと伸ばした枝葉に遮られ
幹下からは、到底望めぬ。

その者は、毛皮の上に座り込み、
長く伸びた、黒い髪に、後ろ手に
器用に、三つ編みを施して、
手首に巻き付けてある、色鮮やかな麻糸で結わえつける。

幹下の、塒となる、その横には、
銀色の、水差しが、ひとつ。
銀色の、空の器が、ひとつ。
銀色の、ちいさな空の皿が、ひとつ。
銀色の、大きな皿が、ひとつ。
木の実と、果物がひとつ、
獣の肉を焼いた、かなりの大きさの、一塊が盛られている。

水差しの取っ手に手を遣れば、ずしり、と、重い。
銀色の器に傾けると、透明の水が、とくとくと。
器を手に取り、それを顔前に掲げれば、
自分の顔が歪みを生じて、そこに映る。
緑色の瞳が、そこに在る。

くいと、渇いた喉を潤せば、また、注ぐ。
空腹に喘ぐように、
肉を手に取り、噛み切り、頬ばる。
食べた事のある味だ、旨い、と、思う。

果物に手を伸ばす。
かり、と、口にすれば、これは、おそらく初めての味。
酸味も、甘さも、ほどほどに、何より、
歯触りが大変に心地好い、と、思う。

立ち上がればやはり、ひどい冷気に
ぶる、と自然、身震いが襲う。
と、見逃したのか、寝具となった、毛皮のもとに、
靴と同じ獣の皮の、耳をも覆う帽子がある。
迷わず、手に取り、頭に被る。
歩み出す、一歩、五歩、十歩。
まだ、巨木の木陰より、出られもしない。
そこに、道具が置かれある。
ショベルのようなもの、鶴嘴のようなもの。
ずしりと重い、それらを手に取り、肩に担げて、歩を進める。

十五歩、十六歩、十七歩。
ようやく、世界が見えてくる。
眩い朝の、陽光のなかの、今日の、世界。
聞こえ来る、今日の、音。

仄白い。
見渡す限り、石灰色の岩肌。
目前に、急流。
石灰色のなかを、恐ろしいような青色の、
豊かな水量が岩肌を打ち据えて、ざん、ざんと、
裂く波濤に白い泡波を立たせゆく、
激流にさえ近いほどに。

やはり仄白い岩山が、川の右手の、比較的近くに聳える。
山頂を、白い霧に隠す。
目を細め見遣れば、点のように、
何やら動く、あぁ、あれは、あの巻き角の動物は、
前にも見た、怖れる事はない、そう、その者は、思う。


穴を掘る道具をそっと置きおいて、
その者は、水辺に近づく、ゆっくりと。
蒼天そのままに、取り込んだかの、青の色。
覗き込む緑の瞳に、鋭い煌めきを走らせて
ざん、と音立て、波打つ水に、
そっと、手指の先を浸たす。

一瞬にして指先は、桃色に色差して
ずきずきと、響く疼痛をもたらし来る。

ふ、と、一瞬、その顔に、微笑みが差す。
何故かは、わからない。


その者は、穴を掘る。
只、一心に、地に穴を掘る。

凍える風に、頬を、鼻の頭を赤く染め
両手を幾度となく、さすり、さすって
はぁ、と、白い息吹きかけながら、
穴を掘る。


鶴嘴のようなものを、振り下ろす手が、ふと止まる。
なにかが、顔を出している。
膝を折り、手を伸ばし、
周りの、固い岩土を払い除けると
淡い、紫の半透明の、それを
掌に、ころんと、ひとつ、転ばせる。
服にこすりつけ、汚れを取り除く。
親指と、人差し指に挟み持ち、太陽に翳し見る。
歯を覗かせる、優しい笑みに包まれた、顔に
淡い紫が、弱い陽光を通し、落ちくれば
輝き増す緑の瞳と混じり合って、何とも不思議な色合いに。



眺め見るうち、ふと、心に兆す。
そうして、右肩越しに、見遣れば
そこに浮かぶは、蜃気楼。
仄白い岩肌の、聳え立つ山と
魔のような青の川の、狭間に浮かぶ、
ぼんやりと、何ともわからぬ。

一間、それを見つめるが、
視線は次には、太陽の位置に。

太陽が頭上にある。
それに気付いたその者は、またゆっくりと、大樹の下に。
銀色の、ちいさな皿の上に
掘り起こした、淡い、半透明の紫の石を
ころん、と転がせば
皿の銀もまた、紫のいろに染められて。

銀色の、大きな皿には、果物が二つ、
木の実が数個と、ちいさな肉の、一塊。
先程と同じ味だ、場所が変わらなければ、肉も変わらぬ。
その者は、そう思う。

大樹にもたれ、身体を休める。
体躯の冷えが耐えられなくば、寝床の毛皮を身に纏い。

食物の、こなれを腹に感じ取り
銀色の、水差しより、また、一口。

そうして、また、同じ事の繰り返し。
その者は、穴を掘る。
只、一心に、地に穴を掘る。


うつろえば、陽の翳り。
眼に肌に感じれば、それが終わりを告げる刻。
手を止め、その場に跪き
そうして、地に、くちづける。

疲弊した体躯をひきずるように
大樹の下へと戻り来れば
銀の大きな皿に、果物がひとつ。
紫の石を、ちいさな皿に置いたから。
何度も同じ事を繰り返し来たので、
その者にも、それが解る。


満天の星空も、輝く月の満ち欠けも
その者が直接、目にする事はない。
大樹の葉叢に、護られでもするように
その者は睡りにつく。



世界は千変万化を繰り返す。
ざんと、波打ち据える海岸に。
木の葉の色づき綾な山中に。
枯れ木並立つ、吹雪舞う凍土に。
立つだけで眩暈の襲う、見渡す限り
灼熱の、土塊(つちくれ)のみの、荒涼の地に。

それがどんな風景であれ
畏怖をももたらす、天(あま)突く大樹は必ず其処に
それがどんな場所であれ
その者は、穴を掘る。
只、一心に、地に穴を掘る。


目醒めれば、
木の葉ずれのざわめきに、小鳥の啼声の織り混ざり、喧しい。
半身起こせば、身になんとも爽やかに
塒の毛皮も、衣服も、
軽やかな綿織物へと変化を見せる。

銀色の、小皿に置いた、紫の石はどこかに失せた。
これも、変わらぬ、いつもの事。
この出来事に、ぎざぎざと、罅刻んでその上に、
冷水を滴らせるような、心持ちがよぎるのも。


大樹の下より出でれば
辺りはどうやら、夏の訪れ待つ頃の、森のよう。
鳥の囀りが、引きも切らぬ。
木々が、色とりどりの花を付け、
吹く風は、三つ編みにした髪を揺らし
肌に大変に、心地好い。
そうして、その者の目に
中程の大きさの、漣ちいさく立てる泉が飛び入る。

汀に寄れば、水は濁りの露程もなく、
まずは、手の指先を、そうして次には足首までを
その、澄みわたる水に浸けみれば
冷水のもたらす肌への感触、えもいわれず。
身に付けるもの、全て剥ぎ取るように脱ぎ捨てて
その者は身をまかせる、清らかに美しい、泉のなかに。

三つ編みを解き、ぶるりと振れば
黒髪の、水に濡れて艶やかに、重みを増して垂れ下がる。


泉の浅瀬に、水に戯れ、水を弾く肌に身を浮かせる
その者の、一糸纏わぬ姿を見れば、
誰しもが、己(おの)が目を疑うだろう。
ヘルマプロディトス……両性具有……雌雄同体……。
そのどれもが、正確ではない。
未分化体、それのみが、正しい表現。
その者は、ヒトとして成体だが、唯一
まだ、男でも女でも、ない。



その者は、穴を掘る。
只、一心に、地に穴を掘る。

ふと、右肩越しに、見遣れば、
樹木の間に間に、蜃気楼。
なにとも、分からぬ、
ぼやりと、浮かぶ。

その者は、穴を掘る。
陽の翳りをみれば、
跪き、地に、くちづける。




見渡す限りは金砂と黄砂
聞こえ来るのは、流砂の、ざわと、さわと、
まるで生命を宿したような。
乾き切った熱砂のなかに
頭巾のついたマントのような
ローブのような、麻の衣服に身を守られて。

その者は、穴を掘る
只、一心に、地に穴を掘る。

ふと、砂地から覗いた、ある物に
気付き、膝を折り腕を伸ばして
手に取れば、丸みを帯びた、ちいさな容れ物のような
陶器の欠片、ほぼ半分ほどしか、原型を留めていない。

麻の服にこすりつけて、汚れを払い
顔近づけ見れば、その者の、
爪の長さほどの、横に細長い、穴が穿たれている。

緑の瞳に、一閃のきらめき。

横長の、穴に詰まり固まった、砂を手に爪に、
懸命に取り除き、仕上げにと、
それに口つけ、ふう、と、息を吹き入れれば、その途端
風と流砂の奏でるものより、他になにもない世界のなかに
音が流れ出た、これまで耳にした事もない、音。

緑の瞳が、見開かれ輝いた、殊更に大きく、美しく。

もう一度、今度は、ゆっくりと。
ひゅるうう。
妙なる、音色。
呼び覚ますような。
……何を?
もう一度、もう一度。
その者は繰り返す、飽きる事なく、
取り憑かれ、魅入られたように。

音が響く、砂の流れに、風の流れに。
律となり、うねりを生じて、
残響の、十重と二十重と織り重なって
風に、砂に、反響し、共鳴しては、谺と成す。

そのなかに、ひとり佇み、たゆたうように
もしくは、くるめとられたように。


陶器の欠片を、ようやくに
口より離せば、その者は、
ゆっくりと、振り返り、遠くを見遣る、右肩越しに。

そこにあるのは、蜃気楼、
いつもと同じ、先程見たと同じ。
ぼやりと浮かぶ、何やら分からぬ。
けれども、ずっと、心の隅に、
巣喰い、やまぬ。

じっと、見遣る。
風が吹く、砂が舞う。
太陽が、容赦もなくに、熱と光を射りつける。


只一度、蒼穹仰ぎ見たかと思うと、その者は、
音色生む、陶器の欠片を、右手に固く握り締め、
まだ高く、ぎらつき照りつける太陽のもと
跪き、熱き地にくちづける、長く、深く。

そうして、身を翻し、
蜃気楼の方に向け、一歩。

一歩、一歩、一歩。
砂に取られつつ、それでも確かな足取りに、
導かれるように、振り返る事もなく。

掘られた穴をあとに、
大樹を、あとに。


風が吹く、砂が舞う。
今や、その者の、残す足跡
跡形もなく、消し去って。



これぞ、まさに、始まりのとき。
すべての幕が、上がりゆく。