ねぇ、あのね、
あなたは誰?
私、探しているものがあるの──。
紙芝居屋台のおじさんが、さぁ物語のはじまりはじまりと、最初の扉絵
を持ち上げるように、長い睫毛に閉ざされた、瞼がゆっくり、ゆっくりと
開かれれば、碧に青の織り交ざった、濁りのない瞳に容赦なく襲い、束と
飛びかかる光の眩しさに、思わずしかめた顔の上、今開かれたばかりの瞼
をしばたたかせ、そうして、ようやく、馴染んで来る、瞳に映るものの、
あれもこれもが、どうした訳か、どうした訳か。
ん……ん。
発しようと思って出たものではない、漏れ出たその声に瞬時反応し、側
の椅子に座る女性は、正に襲いかかるようにベッドに体躯を覆い被せ、そ
うして自分の顔を、覗き込む、えもいわれぬ表情の中の、明るい二つの茶
色の瞳の両方が、みるみるうちに、波と潤み、おお、と、声とも嗚咽とも
区別出来ぬ、音を発する口を自らの手でふさいだかと思えばその指に、止
め処なく溢れ出す涙を拭い拭い、そうしてその、涙に濡れた指先を、自分
の頬に、そっと、けれども、指それ自体には熱くなる程に力を込めて、当
てがえば、小刻みに震えを隠せぬ指先の腹で、そぉと撫でる、 確かめるよ
うに、間違いはないのだと、自らに言い聞かせるように、 破裂してしまい
そうなありとあらゆる感情を、熱い指先一点に掻き集めるように、そぉ
と、そぉ、と。
おお、クリス、クリスティナ……!
発せられた、喉の奥底に、沸き上がる感情に蓋をするかに潰されて、声
にもならぬような。
……なに……?
……あなたは……誰?
ここは……どこ?
クリス?……だって、クリスティナは…………。
何も、分からない。まるで知らない世界の何処かに、一瞬にして飛ばさ
れてしまったよう。だって、今の今まで、ほんの、ついさっきまで、私は
あそこに……あそこに……。
……ええ?……どうしたの、あんなに、安心していたのに、あんなに、
ふうわりとやわらかだったのに、あんなに、あんなにしあわせだったの
に……こぼれてゆく、どうしよう、指先から、目から、口から、髪の先か
ら、どんどん、どんどんこぼれて、こぼれ落ちて、なくなってしまう、なく
なってしまう。
知らず、溢れ、こめかみへと伝い、髪を濡らす涙に構いもせず、目の前
にありさえしないものを、掬い上げようと藻掻くような妙な仕草は、掛け
られたシーツを、暑苦しいと、邪魔者扱いしているようにでも映ったのだ
ろう、あぁ、何をするの、あんなに熱があったのに、まだ、毛布を取って
は駄目よ、今、モンクマン先生を呼んで来るからね、すぐよ、すぐに戻る
から、起きては駄目よ、そのままに、そのままにね、と、まるで自分自身
に言い聞かせるように早口に、胸元までかけられた毛布を首元までたぐり
上げ、そうして何処かまるで苦しいように、口で、肩で息をして、重そう
な木製のドアを開ければ、きぃ、と蝶つがいの悲鳴のような音がして、ば
たりと締まったドアの外、とんとんとんと、小走りの足音、次にはまたド
アの、今度は随分遠くに、開閉の音がようやくに耳に届き、そうして、あ
たりはぱちぱちと、ちいさな暖炉の中、オレンジ色に火の爆ぜる、ただそ
れだけの世界となった。
頭をベッドに埋めたまま、見渡す限り、何も、何一つ覚えのない、部
屋。一体ここは何処、どうして私はここに居るの? それに対する不安よ
り、恐ろしさより、つい先程までの心地好さが、一瞬にして消え失せた、
それへの悲しみが先に立つ。
ふと見ると、ベッドサイドに置かれたちいさなテーブルの、今は灯され
ぬランプの横、底にほんの少しの水を残す吸い口と共に、コップのような
分厚い円柱のガラスの小瓶に、ペイル・バイオレット・レッドに鮮やか
な、プリム・ローズが一輪、透明の綺麗な水に差されて、その春色を、部
屋に豊かに伝え踊る。
ああ、そう、私の大好きな。でも、ほんとうに好きな色は、これじゃな
い。そう、私の、好きな、プリム・ローズの色は……。
その、一瞬に、ぞっとした。
ええ?……何……いろ……だった?
なに……私、どうしたの?
私……私……わたしは……誰?
ぎし……体の下で、ベッドが軋む。あぁ、どうして、ただ、首を横に振
るのが精一杯、首下までかけられた、毛布から腕を出す事さえも、まる
で、強烈なバネにでも捉えられているかのように拒まれて、それだけで、
ぜいぜいと、胸が苦しく息が切れる。あ……あぁ、と、あまりの事に、声
を上げれば、なんという事、出来損ないの鴉でも、きっとこんな声では鳴
きもしない。
青に碧の織り交ざる、瞳をいいというだけ濡らせて瞼を腫らせ、ひぃ
ひぃと、掠れた喉を鳴らすのも無理はない、そう言わんばかりに、モンク
マンと呼ばれる、やはり見た覚えもない、口髭も豊かな壮年の男性の、親
愛と安堵、そうしてまるで獲物狙う矢のような鋭さの、混じり合った笑み
を浮かべては、伸ばした大きな手を額にあてがって、しばらくの後、低く
豊かな声色に、先程の、鋭き矢だけを消し去って、 クリスティナ、 クリ
ス、熱はもうすっかり下がった、顔色も大分にいいね、長い間、随分、
随分苦しんだね、どんなにか、辛かっただろうけれども、もう泣かなくて
いい、何も心配しなくていいんだよ、君はね、猩紅熱という病気にかかっ
たんだ、何、君のように、ちいさな子供には、とても良くある病気なん
だけれどね、ただ、君の熱はとても高く、とても長くに続いたから、どん
なにか苦しかっただろうね、でも、立派に耐えたね、病気の奴は、尻尾を
巻いて逃げていったよ、もう、怖がる事は何もない、偉いね、良く頑張っ
た、偉いよ、クリスティナ、食いしん坊のクリス、ぜひすぐにでもご褒美
のご馳走をと、言いたいところなんだけれどね、あぁ、これは謝らなくて
はならないね、君はもう、ずっと、そう、もう、一週間にもなるんだよ、
きっと君には、昨日の事のように感じられるだろうけれどね、一週間もの
間、水以外、何も喉を通していない、何も食べていないのだから、いきな
り君の好物の、ダマンドたっぷりのアップル・パイって訳にはちょっと、
いかないんだよ、それと、君の口には合わない、ちょっぴり苦い、飲み薬
も我慢してもらわなければね、本当に、申し訳ないんだけれどね、と、
ゆっくり、言い聞かせるように、けれども、矢継ぎ早に。
……おじさん……あなたは……あなたはだれ?
泣いて、泣いて、出来損ないの鴉のようなしわがれ声に、ようやくの
事、言葉を成す。
モンクマンの薄灰色の瞳に浮かぶ満面の微笑は、一瞬の突風を受けたか
に散じ、細められたそれは、まるで魔を垣間見たかに挑戦的な光を放つ、
けれども、それもまた、一瞬のこと、次にはまた微笑んで、ただ、先程の
ものとは違う、全く違う、被せられた、お面の微笑み。
一本の、長くて、男の人にしては、随分白さが際立つ指が目の前に、
さぁ、クリスティナ、これは何本かな?……いっぽん。三本の指が目の前
に、じゃあクリス、これは?……さんぼん。両方の手に七本の指、さぁ、
これはちょっと難しいかな?……ななほん。その手で頭を撫でる、金髪
の、巻き毛の頭。そうだね、そうだね、良くできた、偉いねクリスティ
ナ、じゃあ、最後の質問だ、答えはとっても簡単だよ、さぁクリス、君の
フル・ネームは何だっけ?
……分からない。わからないの……。ねぇ、おじさん……おじさんは、
だれ? ここは、どこ……? あの、女の人は? ……わたしの名前……
クリスティナ?……違う……違う……私は、わたしは、一体だれなの……?
出来損ないの、鴉のしわがれ声の、その上に、先にゆけばゆく程に、震
える声音を下げて、最後はまるで、尖る針が、きん、とひとつ、光を発し
て、そうして全てが暗黒の、無に帰すような。
その無を破る、女性特有の、鶏を絞め殺すかの金切りの叫び声、部屋中
に轟かせ、モンクマンと呼ばれる男性を押し退け、怒濤のように自分の肩
を、まるで歯車をがっちりと嵌め込むように強く掴んでは、ここでは声
を、まるで呪文を唱えるように、ぐっと低くトーンを落とし、けれども震
えは押さえも出来ず、クリス、クリスティナ、何を言っているの、私よ、
ソーニャよ、あなたのお母さんでしょう、分かっているくせに、分かって
いるでしょう、“ごっこ”はもうやめなさい、と、そうして次には、やはり
金切りの絞殺声に、クリス、クリス、クリスティナ・マクロゥリン、私の
娘、私のたったひとりの、と、そんなにしては、藁人形じゃなくても、首
がもげて転がって行く、それほどに揺さぶり、揺さぶって、制止に入るモ
ンクマンと呼ばれる男性に対してさえ、憎々しげに大声で、あらん限りの
暴言を吐き、ひとつに綺麗にまとめ、結い上げられた筈の、亜麻色の髪、
振り乱し、振り乱して、とうとうざんばらに、流れる涙、その髪と同じよ
うに、振り回されて水玉と飛び、自分の、がくんがくんと揺らされる、顔
にも、ぽつぽつと当たる、その、なまぬるい感触が、更に恐怖に輪を掛け
て、あぁ、あぁ、と、こちらからの、救いを求める、しわがれ声も次第に
高く、高くなり、それも手伝ってか、漸う、力任せの制止に応じれば、次
には床に泣き崩れ、 おお、おお、と、嗚咽に大きく揺れる、痩せた、丘の
ような背中を、傍らに膝をついて、大きな白い手にさすり、さすりなが
ら、低く、岩のように重い、けれども、親身のこもった声に、落ち着くん
だ、ソーニャ、あれだけの高熱が続き、ようやく目覚めたばかりだ、こん
な幼い子の場合には、さして珍しくない症状なんだよ、だから落ち着い
て、いいね、今、君が落ち着かなかれば、余計にクリスを混乱させるだけ
なんだよ、分かるね、ソーニャ、ダリルが戻れば、私から二人にきちんと
説明しよう、だから、いいね、今は、落ち着いて、落ち着いて……と、そ
れは、一体どれだけ、いつまで続く、魔に取り憑かれ、支配されたとしか
言い様のない、正に狂騒、それが、ようやくに、静かに、静かに、終わり
を告げ、嗚咽の残響は、ちいさな部屋の中、しんしんと降る、降り続け
る、絶え間なく降り続ける、朝には何もかもを、白の中に埋め尽くす雪の
ように、重く、重く、それは、ぱちり、ぱちりと、炎の爆ぜる音さえも
を、封じ込めるほどに。
自分の名前はクリスティナ・マクロゥリン。猩紅熱の高熱にうなされ、
意識不明の間に、4歳の誕生日を迎えた。ケルト系で煉瓦職人の父、ダリ
ルと、同じくケルトの血を継ぐ母、ソーニャ、その夫妻の一人娘。ここは
3歳の誕生日のお祝いに与えられた、自分の部屋、自分だけのお城。まだ
ベッドから起き上がる事も出来ない自分に、地にしっかりと根を張る大木
のように、そこから差し込む木漏れ陽のように、ひとつひとつ、ゆっくり
と噛み締めるように、ソーニャは 様々な、“クリス・マクロゥリン”にまつ
わる、関わる説明を語りかけ、そうして、手間を惜しまずに作り、運び持
ち来る、温かいスープはとても美味しく身に沁みて温かく、こうしてクリ
スティナの快復はどんどんと、日に日に、目に見えるように。
ベッドから起き上がれるようになる、家の中を、処狭しと縦横無尽にう
ろつけるようになる、そうしてとうとう、ソーニャに連れられ、家の外へ
と足を踏み出せば、まだ冷気の勝る外気は一瞬、きんと頬を突き刺すけれ
ども、それでもやはり爽やかに清らかに、そうしてすぐ目につくのは、あ
の色のプリム・ローズ、咲き誇る、まるで玄関のドアを守るかのように。
縦長の、細い窓から覗き見えるのは、大きな樫の木ばかりだったのだけ
れど、実際、肌に風受け、門をくぐり、道路へと踏み出し歩けば、なんて
心地の好い、狭い、舗装の道の片方には、アイ川の澄んだ流れ、さわさわ
とゆるやかに、その上を、鴨や灰色雁、そういった水鳥達がのんびり連れ
添い泳ぎ、またその川縁には、まだ、冬枯れの残る、黄緑色の目立つ草達
のなかに、ラッパスイセン、スノウ・ドロップ、スゥイート・ヴァイオレッ
ト、そうしたちいさな花たちが、今を待ちかねたと花弁を広げているもの
だから、白、黄色、青紫に薄赤色、なんて、なんて可愛らしい。そうして
反対側に、軒を連ねる家々は、どれも、薄茶色の古い煉瓦の、時代がかっ
た、まるで御伽噺に出てくる、妖精の棲まう家のような。
ねぇ、素晴らしいでしょう、ここが、あなたの、生まれ、これまで育っ
て来た場所、ウェスト・ミッドランズ、コッツウォルズのロゥアー・ス
ローター村よ、と、そう言われれば、確かに、何もない処だけれど、人が
こんなに少ないけれど、少し、怖いくらいに静かだけれど、でも、行き交
う人は皆、親しげに声をかけ、まぁ、ソーニャ、クリスティナはもうすっ
かりいいの? あれは誰? ミルフォードのおばさんよ、タルト作りの名
人なの、おお、クリスティナ、もう元気になったか、何より何より、あれ
は? あらまぁ、ウェントウィッスルのおじいちゃんたら、また、一服し
て、あんなにきつく止められているのに、と、くす、と、笑い、あぁ、な
んだか本当にのどか、とても、とっても。
モンクマン医師の勧めもあり、念の為にと、その後オクスフォードにあ
る総合病院にて、脳波や問診の検査を受けた、けれども予想通り、何処に
も異常は見当たらず、ただ、問診の折り、知らぬ筈の童話の主人公の名前
が言えたり、知らぬ筈の犬種名が言えたりしたのだけれども、日頃は外で
遊ぶのが好きなクリスティナの事、親の知らぬ間に誰かに教わるのもまま
ある事と、不問に帰され、一般的な高熱に因る、一過性の記憶喪失との診
断を受けた。
ソーニャの愛情深く、熱心で丁寧で、そうして何より辛抱強い看護の
下、クリスティナは、ほぼ、半年も経たない内に、 記憶喪失を起こした事
の方が嘘のように、 以前と何ら変わらぬ、クリスティナ・マクロゥリンに
戻り、ダリルと三人、囲む食卓には、これもまた以前と同じよう、常に笑
みが絶えず、ごちそうさま、と言った途端に、今日は牛乳配達のマイクの
おじさんを手伝うの、と、元気に外へと飛び出してゆく、その、ちいさく
愛らしい姿を見守る、四つの、慈しみに満ちた瞳に、浮かぶ、安堵と幸せ
の、そうして、やはり拭い去れない、嵐の前兆の雨粒の、いつ、今日、い
や、正に今、落ちて来ても何の不思議もない、という、一抹の不安の色、
そのなかに響く、信じていいんだな、戻って来てくれた、俺達のクリス
ティナ、……ソーニャ……感謝するよ……、と、ぽつんと、低い声音、そ
れこそ、罅割れる地を潤す、慈雨のひとつぶのよう。
ねぇ、お父さんが、この間、買ってくれた絵本にね、書いてあったの、
悪い魔法使いが、王子様を蛙に変えてしまうんだって。でもね、お母さ
ん、前に、教えてくれたよね、蛙って、冬には土の中で眠ってしまうんだ
よね? だったら、冬が来る前に、何がなんでもお姫様と、お話しなく
ちゃ、って、必死だったんだろうね、だって、冬は、とっても長いもの、
そんなに長い間、ずっとずっと眠っていたら、その間に、自分が王子様
だって事、きっと忘れちゃうよ? ほら、私みたいに!
そんな冗談をさえ言い、笑い合える頃には、念には念をとの、三度目
の、オクスフォード総合病院での検診にも、無事異常なしとの結果を受
け、クリスティナは何の問題もなく、地元のプライマリー・スクールに入
学した。
けれども、母、ソーニャにも言えない、何故、と言ってさしたる理由も
浮かばない、言ってはいけない気がする、ただ、それだけなのだけれど、
今となってさえ、これだけはどうしようもない、目覚めの時、窓を開けて
いなくても、枕元まで聞こえ来る、あれは何の鳥の声、ちゅんちゅんと可
愛らしくも喧しい、そんな声のなか、ぼうやりと瞼を開く度、いつも、何
か、またひとつ、大切な、大切なものを、こぼれ落としてしまうような、
漠然とした、けれども、確かに存在する、不安、悲しみ、そういった感情
の、沸き上がるのだけは、しかし、それもまた、日の過ぎゆく内、そう、
学校に上がった今となれば、昼日中の楽しさに押され、どんどんと、そ
の、想いも、ちいさくなるばかりであったのだけれど。
陽光を存分に浴び、見る間に枝を伸ばす街路樹のように、 両親の溢れん
ばかりの愛情と庇護の下、 すくすくとクリスティナは育つ、このように、
小さな村の事、村人の、ほぼ全員に知れ渡ったのは間違いない、あの幼少
時の出来事を、最早誰もが忘れ去るか、もしくは過去の出来事と、封じて
しまえる程に、きゃあきゃあと大声で笑っては、次にはくすくすと忍び笑
い、そうしているかと思えば泣き、泣いたと思えばもう笑って、その年頃
の、大抵の女の子と、何処にも全く違いのない。
そうして総合病院での検診も、5度目を数えると共に、専門医より卒業
の、嬉しい宣告を頂戴、クリスティナは、こちらも地元の、コンプリヘン
シヴ・スクールへと進学する歳を迎えた。
そうして、あの、名状しがたい、目覚めの刻の、あの感覚、それすら
も、日の経つ毎に、クリスティナ・マクロゥリンとしての生活を、存分に
満喫すればする程に、薄れ、ぼやけて、今となればもう、まるで残滓の欠
片のように、ふとした折り、それが、どういう折りなのかは分からない、
何らの、関連性もつかめない、ただ、一月に一度が、三月に一度になり、
最早、掌の雪ひとひらと消えゆきて、全くの空虚と化してしまうのも、時
間の問題のようにも。
無口で職人気質の父、ダリルは、普段は温厚で根も優しく、それはソー
ニャにもクリスティナに対しても変わりなく、ただ、都会を、便利な最新
機器というものを、それはケルトの血がそうさせるのだとソーニャは微笑
んで言うけれど、ひどく嫌悪し、電話でさえ、例の出来事があってようや
く、自宅に回線を引いたという有様、家族旅行と云えば、コーンウォール
や、カーディフと云った、ケルトにまつわる処に出かけるばかりであった
から、コンプリヘンシヴ・スクール3年生の恒例行事、秋の一日、ロンド
ンは自然史博物館、及び、隣接するヴィクトリア&アルバート美術館への
任意郊外学習見学を、他の生徒達同様、クリスティナも心待ちにしてい
た。
3時間に及ばんとする、賑やかな貸し切りバスの旅の果て、窓の外に広
がるのは、なんて喧噪、こんなにも、人や車の横行する、そうして、大き
な建物ばかりの、処狭しと隣接する、ただ、延々と続く、街路樹の並木、
その枝振りと、緑の濃さだけは、地元と変わらないけれど、あぁそれで
も、ロンドンよ、ロンドンだ、すっげぇな、……全くこれだから田舎もん
は嫌だぜ、俺なんてもう、ロンドンなんざ3回目だぜ? なぁに言って
る、お前の家なんか俺より田舎のアッパー・スローターの癖して、と、
わぁきゃあと、期待に胸一杯に、押し出されるように、バスのステップを
下り、コンクリートの地に足をつけた瞬間……何?……この、感覚……吸
い付くような、吸い込まれるような……そうして目の前の、ダブル・デッ
カーの、名物ロンドン・タクシーの、処狭しと走り抜ける大通り、クロム
ウェル・ロード?……目を遣れば、背筋の、ぞぉと、今度は宙に、吊され
浮かんでしまうような。
はい、自然史博物館に先に行きたい人は、ログドマン先生が、ヴィクト
リア&アルバート美術館の方へは、私、リンウッドが引率します、きちん
と整列して、その、号令に、男子の殆どはログドマン先生の方に、そうし
て女子の殆どが、リンウッド先生の元に、クリスティナも例に漏れず。
ヴィクトリア&アルバート美術館の中、展示されている、美しい衣装、
装飾品の数々を、改装された建物の美しさを満喫し、土産物コーナーに並
ぶ美しい品々を、さぁどれをお母さんに、お父さんにと、友人達と過ごす
時間を堪能して、そうして次に足を運ぶ、自然史博物館、どうして分かっ
たんだろう、その、入り口の、向かって右側に、バンの、その、品△法
風船を咥えたセント・バーナードの絵が描いてある、移動式ソフトクリー
ム屋台がある、事。
先生、リンウッド先生、ここ、ロンドンの、どの辺りですか? そう
ね、中央から少し南西部にあたるわね、……最寄りの駅はどこですか?
え、地下鉄のサウス・ケンジントンになるわね、……この、近くに、エ
ジャトンって名前の……場所か何か……ありますか? ……さぁ、知らな
いわね、どうしたの、クリス、この近くに親戚でも居るのかな? いえ、
何でもないです、すみません、ありがとう、先生。
エジャトン……? 自分でも分からない、どうしてそんな名前が頭に浮
かんだんだろう……。
その後訪れた自然史博物館は、恐竜、化石の宝庫、全く、男子ってばこ
んなものばっかり好きなんだから、子供よね、と、甲高い声に、やはり、
きゃぁきゃぁと、本当ね、と、クリスティナも笑いながら返す、本当に、
皆と居るのが楽しい、こんなにも。だから……だから。
無事に帰宅、夕食の席にも、にこやかに、如何に楽しかったかを、そう
してダリルには名剣エクスカリバーを模した置物を、ソーニャには美しい
ウィリアム・モリスの絵の施されたシルクのハンカチーフをお土産にと手
渡し、けれども、ロンドンより、やっぱり私はここが好きよ、だって、車
が多すぎる、と、二人にお休みのキスをして、そうしてとんとんと、二階
の、自分の部屋へと続く、階段をリズミカルに上ってゆく。
取り繕っている、その、自分の姿が自分で見える、まるで幽体離脱して
いるように。
休もう、やっぱり、疲れている、そりゃあそう、往復約六時間のバスの
旅、集合は朝6時だったんだもの、それに初めてのロンドン、初めての、
大都会……、あぁ、お母さん、もう、ちゃんと、温水ヒーターのスイッチ
を入れてくれている、そう、頑固者のダリルもとうとう折れて、この家
も、3年前、全室温水ヒーター暖房を施工した、ただ、居間にだけは、ま
だ、薪くべる暖炉を残してはいるけれど、この部屋のそれは、もう、父の
手によって、煉瓦に埋め尽くされ……そう、あの時の、出来事を塗り込め
てしまうように……ただ、形骸を残すのみ。
……暖かい、そう、もう、何も考えず、このまま、ベッドに潜り込も
う、暖かい、こんなにあたたかいのだもの。
もう、鳥の囀りでは目覚められない、目覚まし時計の助けが要る、そ
の、りりりりと、頭蓋骨に響く音に目覚めれば、エジャトン・ガーデン
ズ、他の何もない、ただ、この言葉のみ、悲しみも、不安も、何もない、
ぽつんと、この言葉がひとつ、ぽかりとただ一輪咲く、池の上の蓮の花の
ように。
学校の図書室で、ロンドンの地図を調べてみれば、確かに存在する、あ
の、自然史博物館と、ヴィクトリア&アルバート美術館のある場所の前の
大通り、クロムウェル・ロードを隔て、ヴィクトリア&アルバート美術館
寄りの方向、すぐの、処に。
エジャトン・ガーデンズ。
この……薄い、半円形の芝の間。
わたしは、ここを、知っている。
何が出来るだろう、13歳のクリスティナは考える、せめて私が男であっ
たなら、クラスのロジャーも、ケニィも、あの、泣いてばっかりだった
リックだって、友達同士でロンドンに、夏休み、冒険旅行に出たと、自慢
気に語っていた、もし、私が男であったなら、都会嫌いの父だって、仕方
がないなと許したかも知れない、けれども、けれども。
もう二度と、そう、クリスティナは思っていた、忘れようとしても忘れ
らない、あの、母の、狂ったような、そうして、その夜、まだ、陽の翳り
の、幕を下ろしてそうも経たぬ頃、もう、寝静まったと思ったのだろう、
きいと、いつもの、叫びの声を上げぬよう、そっと、そっとドアを開け、
ベッドに眠る私の側に跪き、そうして、軽く、頬に手をやり、そのまま、
声さえあげずに、ベッドのシーツに顔を埋め、大きな肩を、ひくひくと、
まるで末期の痙攣のように揺らし、いつまでも、いつまでも、忍び泣いて
居た、父。
もう二度と、母に、父にあんな思いは。
それでも断ちがたい、その地への想い、何があるのか、何が待っている
のか、自分自身まるで分かりもしないのに。
取り憑かれたように、図書室に行っては調べる、ここからチェルトナム
までバス、そこからスゥインドン経由パディントン行きの電車で約3時
間、パディントンからは地下鉄のサークル・ライン、ディストリクト・ラ
イン、どちらでも、乗り換え無しに、サウス・ケンジントンに到着する。
お金の方も何とかなる、祖父母の遊びに来る度に、お小遣いにと手渡さ
れた、それが、ベッドの上にぶちまけ数えれば、いつの間にか、もう170
ポンドになる、これだけあれば。
そうしてクリスティナは決心する、ある、木枯らしが色づく枯葉を舞わ
せる、晩秋の週末の一日、 愛するダリルとソーニャ、私のお父さんとお母
さん、門限の7時までには必ず戻ります、愛を込めて、貴方たちのクリス
ティナ、それだけを書いたメモを自室の机の上に、朝まだ暗き、濃い霞の
なか、そぉと、玄関を開ければ、自分の吐く息が、白く、丸く形取り、そ
うして、あっという間に、太陽の訪れを待つ、群青色の闇の霞のなかに同
化して、そうして一歩、足を出せば、かさ、と、朽ち葉の、踏み砕かれる
音が、澄んだ空気のなかに響き渡って、彼方と消えた。
やぁ、クリスティナ、どうしたのこんな朝早くから、始発のバスの運転
手、ロビーおじさんが尋ねる、うん、今日ね、ケイト達と一緒にチェルト
ナムで映画、観るんだけど、その前に、ちょっとひとりで、教会に行こう
と思って、そうかい、それは感心だね、と、用意した嘘を並べれば、容赦
もなくに罪悪感が、二重、三重と、ダッフルコートの上にのしかかる、そ
れでも、決して、決して、と、つよく、拳を、握りしめて。
車窓はバスとは比べものにならない程の速度に、向かう方角より、ぼん
やりと、パープル・グレイが、ネイビー・ブルーへと変化し、次にはそこ
に、靄のかかった、パール・レッドが織り重なり、窓ガラスを通す、光の
屈折がそれらの舞台に輪を掛けて、外に広がる、延々と広がる、緑の大地
を染め上げる、その光景の、溜息の出そうな美しさに、時間の経つのも忘
れそうになりながらも、一方に、ふと脳裏によぎる、私はもっと美しい風
景を知っている、その想い、どこから湧き出すのか、自分にも分からな
い、ただ、窓を拭いては眺め、眺めては、思う。
パディントンの喧噪はすさまじく、地下鉄はどちらか、人波に押し流さ
れ、それでも周到に下調べをしたお陰、そう迷いもせず、ばくばくと、破
裂しそうな心臓を抱えながらも、落ち着いた足取りで、いや、少なくと
も、そう、見せかけようと、一生懸命に。
サークル・ラインのサウス・ケンジントン駅には天蓋がなく、下車した
途端、晩秋の朝の冷気と共に、うすぼんやりとした、朝陽のひかりが舞い
降りて来るのだけれど、それよりも、この、一歩踏み出した、感覚、あ
の、バスのステップを下りた時と、全く、同じような。
続く階段、上り、改札を出て、左に折れると、今、乗って来た、地下鉄
を真下に見下ろせる、古ぼけ、黒く汚れた煉瓦の塀、連綿と続く、大木の
並木道、僅かに湾曲する、この道を、車もそうは通らない、ちぃちぃと、
鳥の囀りの他は、ここが都会中の都会、大ロンドンとは思えぬほどに静か
な、人の、時々に横行する、道なりにゆけばそれで良い、下調べをした、
それよりも、どうして、と言われても分からない、足が、舗装されたコン
クリートの、味気ない道に吸い付いて、まるで自分を誘導してくれるよ
う。
そうして、少女の足にも、5〜6分も歩けば、真っ黒に、何度も何度も
ペンキを塗り重ねられた、槍のように先の尖った、今のクリスティナより
少しだけ背の低い鉄柵が、まるで、まるいパンの端っこを切り取ったよう
な、薄い半円の、晩秋とも思えぬ、手入れの先々にまで行き届いた、緑濃
い芝に、落ちた枯葉の赤茶や黄色が、そこかしこに斑を生んで、 それらが
風の吹く度に、かさかさと音を立てては色の舞う、そうして古びた真鍮
の、2人掛けのベンチが2つ並べ置かれ、それを覆うように大木の枝葉揺
らぐ、小さくも、大きくもない、間、それを囲む、場所に出た。
あぁ……。
ここだ、ここに、まだ凍えの風の吹きすさぶ二月の半ば、 春のおとずれを
知らせるように、 真っ白の、プリム・ローズが咲く。朝露に湿った、ぎん
と凍る柵を握りしめ、そう思った瞬間、身が硬直し、怖ろしいように、全
てが、クリスティナの内に、舞い降りて、降りて来ては積もり続ける、音
をも消滅させる雪のように、バスタブにたゆとう、暖かく湯気を上げる湯
のように。
どの位の時間、そうしていただろう、我に返り、そうして、その、舞い
降りて来たものに誘われるかに、機械人形のように首を曲げ、右側に目を
遣れば、そこには、懐かしい、堂々とした、ジョージ王朝時代の、赤煉瓦
色の五階建てのフラットが、アーチ型に、7軒、連なって、それらは皆、
昔には、中産階級のあるいは上流階級の人達の住処であったそうなのだけ
れど、今となれば、その内4軒が、中期滞在型、ミニ・キッチン付きフ
ラット型ホテルと改装されて営業している。
そう、私は、その内のひとつ、右から数えても、左から数えても4軒
目、チャールストン・ロッジという名前のプチ・ホテル、その、雇われ管
理人として、半地下に住居を構える、夫婦の子供だった。
父、フランシスは、本当は大学に残り、自然進化に関する研究を続けた
かったのだという、けれども、母、シンディとの間に、私が生まれてし
まったので、生活の為に大学を辞め、けれども、徒歩2分で、研究材料の
山、自然史博物館に足を運べる、ここの管理人の仕事に、飛びついたのだ
という、そんな父も、私の事は大層に可愛がって、自然史博物館にも、肩
車をして、よく連れて行ってくれた、ねぇ、パパ、ソフトクリーム買っ
て、あぁ、お前はよく、お腹をこわすから、またママに叱られるよ、それ
に、館内では食べられないだろ? じゃあ、帰りに、そうだね、じゃあ、
パパが館内で、調べ物をしている間、おとなしく、良い子で居られたら、
買ってあげようね、でも、ママには内緒だよ、わかった、ね、約束よ、
チョコ・バーも付けてね? あぁ、でも半分はパパのものだよ、わぁパパ
大好き、パパ大好き。
半地下の家は、思う程には暗くもなく、思うほどには狭くもない、裏庭
には、芝の間に間に季節の小花が咲く、けれども、ホテル管理人の仕事に
休日はなく、宿泊客は、まるで自分の使用人相手のように、四六時中容赦
なく用事を言いつけ、父の研究は思うにはかどらず、母は私を含めた家族
の世話との両方で、いつも疲れていたから、すぐに怒ったのも、無理はな
い、だから、ママの事だって本当は好きだった。
薄い半円形の芝の間は、その7軒共有の所有物で、4軒の管理人、及
び、居住者、宿泊者全てに、もしくはそれだけに、鍵が与えられ、自由な
出入りが許可される、だから、管理人には、月分けに、その芝間の手入れ
が課せられており、二月の、手先も凍る、鼻の先が、トナカイじゃなくて
も真っ赤に染まる、寒い寒い、太陽もいつものように、分厚い雲のうしろ
に隠れていつまでも拗ねているような、そんな日に、父の、芝間の手入れ
の仕事についてゆけば、そこはまるで、いつもと別の場所のよう、真っ白
の花が、柵の奥、半円形を形どる、その全てを覆うように咲き誇り、その
場所、その世界のみを白に染めている。
パパ、これは何の花? これはプリム・ローズだよ、真っ白でとても綺
麗ね、そうだね、プリム・ローズには色んな色のものがあって、アイヴォ
リー・イエローのものは結構見かけるけれど、ここまで白いのは珍しい、
僕もこの花は本当に好きだ、あぁ、摘んではいけない、折角咲いたばかり
なのに、可哀想だよ、でも、綺麗に花瓶に差せば、きっとお客さんも喜ぶ
よ、あぁ、そうだね、じゃあ、僕がこの、枝切り鋏で切るよ、一本、お前
にもあげようね。
大学の、研究室に顔を出せば、仔が産まれたからと、こんな都会に一
人っ子、周囲は大人ばかり、遊び相手も居なくて、これでは情操教育に
も、と、ある時、父が、灰色の、ふわふわの仔猫を連れて帰った、まぁ、
本当に可愛いこと、でも、お客様の中には猫嫌い、猫アレルギーの方もい
らっしゃるかも、と、そう言いながらも、生きたふわふわ毛玉のような、
仔猫を愛おしそうに抱きかかえ、私に優しく微笑んで、良かったね、なん
て可愛い、名前は何に? アシュリー、アシュリーがいい、そう、ちゃん
と、世話をするのよ、方法はパパに教えてもらって、ママは、とっても忙
しいから、うん、まかせて、まかせて、ママ。
足先尾先、そして腹と額の一部だけが白い、灰色のアシュリーは、ノル
ウェージャン・フォレスト・キャットという長毛種で、すくすく育ち、
あっという間に私の膝からはみ出す位に大きくなって、チャールストン・
ロッジの名物猫となり、客足を伸ばす役割まで果たし、普段は玄関を入っ
た、すぐそこの、フロアに置かれたテーブルに、でんと腰を据えるのを好
んでいたけれど、寝るときはいつも一緒だった、尤も、私が寝入ってし
まったその後には、裏庭から、きっと何処かに行ってしまうのだけれど。
私の、4歳の誕生日、用意されたケーキの蝋燭を、どうしてだろう、ア
シュリーが、急に怖がりパニックに陥って、玄関から飛び出して、そうし
て、一番行ってはいけない方向、クロムウェル・ロードに向かい、ものす
ごい勢いで走り去ってしまった、だから、私は、私は……。
ふと気づくと、寒さにか、それとも、こぼれ落ちたもの、全てが元に
戻った、その、言い知れぬ重さへの畏怖にか、クリスティナは震えてい
た、そうして、知らぬ内、涙が頬を伝い、伝っては、ぽたぽたと、母の編
んでくれた、オフホワイトのマフラーに雫を落とし、それらは、編み目の
内へと染み込んでゆく、しんしんと。
どれだけの時間、ここに立ちん坊になっていたのだろう、足が重い、そ
れとも、それはそのせいではないのかも知れない、私は、見ない方がいい
のかも知れない、そう、思いながらも、やはり抗えず、近づけば、半地下
より、光の漏れる、あぁ、なんて懐かしい、あの窓の、すぐ下にソファが
あって、私はいつも……すると、朝の大仕事のひとつ、ゴミ出しに精を出
す、ママの姿が現れて、10年の歳月は、それは、人を多少は変化させもす
るけれども、一目に分かる、ああ、ママだ、ママだ、そう、思うより先
に、止め処ないそれは滂沱と成し、もう、どのように繕うことも。
まぁ、貴女、どうしたの、そんなに泣いて、道に迷ったのかしらね、こ
の辺りはちょっと、入り組んでいるから、いいえ、いいえ、そう、言おう
とするのに、どうしても、言葉にならない、ただ、嗚咽が迫り、喉を、胸
を、圧して邪魔をするばかり、ただ、首をちいさく横に振れば、まぁ、何
があったか知らないけれど、こんなに頬も鼻も真っ赤になって、身体も冷
え切っているのじゃないの? 良かったら、暖まってゆきなさい、あった
かい、ココアとビスケット位なら、出せるわよ、私は、少し、忙しいか
ら、そんなに相手はしてあげられないけれど。
懐かしい、なんて懐かしい、この居間、このソファ、スプリングの、
ちょっと堅めの、そうして、そうして、ママの煎れてくれる、ホット・コ
コア、あぁ、この味だ、ミルクたっぷりの、甘くて、とろんと深みのあ
る、熱々で、とても美味しい……そうして、ふと、サイドテーブルを見れ
ば、そこには、以前には存在しなかった、銀色に縁取られた額縁、その、
下方に、名前の彫られている、その、なかに、3歳の、私が微笑んでい
た。
すっかり身体も心も暖まり、もうこれ以上はと、席を立ち、外に出て挨
拶をとドアに近づけば、5歳位の男の子と、今、起きましたと暴露するよ
うに、ぼさぼさと、髪掻き乱しながら、居間に入ろうとする背の高い男性
と、鉢合わせの形となった。
やぁ、お客さんだったのかな、これは失礼、いえ、私、そうじゃなく
て……あぁ、パパだ、また、ヘイゼルの髪に、灰色が増えた、パパ……。
あぁ、フランシス、その子はね、少し休ませてあげているだけなの、早
くジョリィと一緒に顔を洗ってね、そう、シンディに促され、パパは私の
事など、まるで興味も無さ気に、はいはい、と、さぁ、ジョリィ、洗顔だ
よ、そうしたら、美味しいホット・ココアを……あぁ、今日は僕が煎れる
からね、そうすると、頬を栗鼠のように膨らませて、甲高い声に、え
え〜、パパのは苦いんだよ、ぼく、ママのがいいなぁ〜、と、不満を訴え
るジョリィに、まぁ、そう無理言わずに、お利口さんだろ、ジョリィは、
さぁ、洗面所に行こう、と。
お邪魔しました、と、嗚咽の収まりを待って頭を下げれば、相変わら
ず、こちらがまるで、幽霊のように、存在の、あってもなくても、どちら
でも良いもののように、あ、はい、いえ、どうも、と、同じように、少し
ばかり頭を下げ、その、頭を上げた時、私の顔をただ一瞬、その、銀灰色
の瞳に、怖ろしいような閃光を宿し見つめ、けれどもすぐその後にはその
目線を和らげて、あの、失礼ですけれども、どこかでお会いしましたか
ね? いえ、……いえ、と、涙声にようやくそう答えれば、はは、と、一
瞬、照れるように、そうして、どこか寂しそうに微笑んで、そうですよ
ね、貴女のような年頃の方と、知り合う場所にも行かないですし……申し
訳ない、何だか、雰囲気が……そう、雰囲気ですね、とても似ていたもの
で……、そう、言葉尻を下げると、また、頭をぼさぼさと掻きながら、
ジョリィの手を引き、洗面所へと、姿を消す。
居間のドアを開ければ、ばたばたと、10年前と何の変わりもなく、あく
せく働くシンディに、ありがとうございました、とっても暖まりました、
もう、行きます、と、声をかけると、そう? ゆっくりしていいのよ、で
も、貴女、コックニー(ロンドンっ子)じゃないのね、あまり、ご両親を
心配させては駄目よ、そう、言って、一度、しっかりと抱き締めた、まる
で、母親が、我が子に、そう、するように。
弟が、生まれていたなんて。
想像も、しなかった。
寂しいような、でも、少し、ホッとしたような。
……ねぇ、私、
ねぇ、メリンダ。
Egerton Gardens, SW3、芝の間の、鉄柵に掛かるプレートに、そう、
書かれてある、エガートン・ガーデンズ? 違うよ、エジャトン、エジャ
トン・ガーデンズ、ちょっと変わった発音だけれど、覚えておおき、自分
の家の住所でもあるからね、……10年前のものと、取り替えられたのだろ
うか、汚れも錆も噴かず、ちっとも変わらないように見えるプレート、そ
れに、もう一度目を遣り、しばらく、しばらく、何もない、誰もいない、
プリム・ローズはまだその蕾も堅く眠ったままの、芝の間を見つめ、そう
して、静かに、踵を返して、クリスティナは、その場を後にする、足音も
立てずに。
チェルトナムからのバスを降り、家までは徒歩2分、ふぅ、と、見上げ
て息をつけば、まだ夕刻、午後5時を回ったばかりだと言うのにとっぷり
と陽も暮れた中に、やはり吐く息は白く丸く、空には満天の星空と、言い
たい処だけれどもいつものように、どんより曇って、星の瞬きもぼわりと
笠を被ったように、そんな日暮れた道を歩む内、すぐに、窓より、温かい
オレンジ色の明かりの漏れる、我が家が見えて来れば、心底の安堵と、こ
れから起こるであろう事への、覚悟の気持ちが交差する。
ほぼ、開け放しの、木の門を、音もなく通過し、玄関を開けた、その途
端に、想像だにしなかった、そこにソーニャが仁王立ちになり、ぱしん、
と、頬に平手、これまで一度たりとも、手を上げられた事などない、それ
に、目を丸くする間もなく、次にはぎゅう、と、抱き締められる、力強
く、息の苦しい程に。
そうして、無言のまま、背中を押され、居間のソファに座る、ダリルの
元に。
……この一月あまり、何やらいつもにも増して、心落ち着かない風情
だったと、ソーニャから聞かされたが、その、足の、地に着かない思い
は、今日で、終わるのか? こちらを、向きもせず、低い、促すような、
抑揚の少ない、声に。
あぁ、本当に、何もかも、何もかも、吐き出せたら、伝えられたら、そ
うすれば、どんなに、そう、思う、けれども、ただ、はい、お父さん、
と、ちいさな、けれども落ち着き、確かな声に。
……ならば、いい、声音が変わる、そして小さく、まるで悲しいよう
に、微笑んで。
時の経つのは早い、クリスももう、13歳になるんだな、俺が13の頃に
は、どんなにお袋や、親父をやきもきさせたか、はは、今思えば本当に、
笑えて来る、全くな……あぁ、腹が減っているだろう、夕飯にはまだ少し
時間がある、そう言って、キッチンの方に目を遣れば、玄関を、開けた時
から気づいていた、この香り、ソーニャが、にこりともせず、何時間もの
手間暇を、惜しまずには焼き上がらない、ダマンドたっぷりのアップル・
パイを切り分け、皿に乗せて運んで来た。
ばちり、暖炉の薪が大きな音を立てて割れ、火の粉がはらはらと爆ぜ
踊って、打たれた頬の熱さに拍車をかけ、暖かく、ただもう、温かく、何
度も泣いて、腫れた瞼を閉じれば、長い睫毛より押し出された涙が、一
筋、その、熱い頬を慰めるかに、すうと、尾を引き、そうして、姿を消し
た。
たっぷり張られたバスの湯に、心ゆくまでゆったりと身を浸らせて、疲
れを汗と共に流し去り、パジャマに着替え、暖かい、温水ヒーターの能く
効いた自室に戻り来て、サイドテーブルの、ランプにだけ、あかりを灯し
て、そお、とクリスティナはベッドに、仰向けに横たわる。
ふと、気がつけば、そこにいた。
なんという、心地好さ。
足許には、濃い緑の芝のなか、
花という花、色という色、
それらが、ぼわと、浮かんでは消え、
消えては浮かびを、くりかえす。
風の、そよぎは、金の髪をほのかに揺らし
白い肌を、やわらかに撫でてゆく。
着ているのは、これはシルク?
真っ白の、ふわりとまとう、ワンピース、
どこにも、どこにも、縫い目がない。
暑くもない、寒くもない、
こんなにも、身体が軽い、ふと見れば
地が、足許より、ほんの少し、下に。
あぁ、浮かんでいるんだ、浮いている、
ふわり、ふわりと浮いている。
音のない、ようでいて、
鳥のさえずりが、聞こえくるような。
木の葉ずれの、さわ、と、谺したような。
天は、それほど高くもなく、
あわい銀色に覆われて、
きらびやかでもなく、また沈んでもおらず、
地と繋がる端は霞のむこうに隠されて、遠く、とおく。
この上もない安堵感、
この時が永遠に続けばいい、そう思いながら
ふわりふわりと、浮遊して
現れては消え、また生じては泡となす、
さまざまな花々のうつろいを、ただ、楽しんでいると、
ふと気がつけば、少女が、そこにいた。
同い年くらいの、黒髪に、
淡い、淡い、銀灰色の瞳の、なんて綺麗な。
ねぇ、あのね。
声にはならない、直接、脳に響き来る。
あのね、わたし、花を探しているの。
真っ白の、プリム・ローズの、一輪を。
どうして?
それがなければ、行けないの、
ほら、あの小川を渡れないの、
そう言う、声が聞こえてきたの。
アシュリーは、もう、あっちに行ってしまったのに。
あなたはだれ?
わたしはメリンダ、メリンダ・ハズラム、あなたは?
わたしはクリスティナ、クリスティナ・マクロゥリン。
そう、よろしくね、
うん、わたしも、よろしくね。
それにしても、何のこと、
小川など、どこにも、ありはしないのに。
けれども、ないと困るのだろう、
ふわり、ふわりと、さまよえば、
あぁ、見つけた、こんな処に、
この一輪だけ、はっきり見える、
こんなにもはっきりと、
消えもせず、ぼうやりともせず、
真っ白な、プリム・ローズの一輪、
それだけが、はっきり見える。
メリンダ、あったよ、ほらあそこ。
どこ?
ほら、ここに、
そう言って、ぷつりと手折った、その瞬間。
ぐらり、と、世界が、揺らめいた。
何、どうしたの、なにが起こったの?
あぁ、クリスティナ・マクロゥリン、何て事、
なに、今のは、誰の声?
まるで、天から響いたような。
そうしてまた気がつけば
摘んだ筈の、真っ白のプリム・ローズの一輪は
手渡した、その覚えもないのに、
メリンダの、ちいさな丸い、手に握られて。
何、なに、頭のなかが、ぐらぐらと。
おまけに、急に耳のなか、響きだした、小川のせせらぎ、
目を遣れば、随分向こう、きらと輝きゆるやかに、
端より端へと、流れゆき、世界を二つに分かつ、清流までが現れて。
あぁ、何という事、何という事、
メリンダ・ハズラムの手折るべき一輪、
貴女がその手に掛けたから、
彼女の魂が貴女のなかに、
貴女のそれが、彼女のなかに。
希には確かに起こるのだけれど、
こんな事が。
さぁ、メリンダ・ハズラム、まだ間に合う、
急いで、急いでお往き、
後の全ては私に任せ。
さぁ、クリスティナ・マクロゥリンに別れの挨拶を。
さようなら、さようなら。
どうして、私は、いけないの?
貴女には、まだ、徴しが無い、
小川を渡れる、徴しとなる、
貴女だけの、花が無い、
貴女の花はまだここに、
花開いては、いないから。
こぼれ落ちた全てを、ひとつの欠片も残すことなく掬い上げ、今、身の
内に、こうして感じる、感じられる、その、想い、何物にも代え難く、瞼
を、そぉと閉じれば、 やはりまた、眦より、すう、と、ひとすじの涙、あ
の時、目覚めた、その、暖かいベッドのなかに。
メリンダ、メリンダ、いつも、一緒に、
メリンダ、メリンダ、いつも、わたしのなかに。
誰にも知られず、ひっそりと、でも、確かに、
生きている。