ルシュア・ヴェルティナー は ひとりでそこに立っていた──
彼が泣きじゃくっていたにしても、たった8歳の男の子相手に
何を咎める事ができるだろう
ひもじさのあまり
通りかかる人のホットドッグに手を伸ばしたとしても
どうしてそれを責められよう
しかし彼は ただ立っていた
泣きもせず 行き交う人に目をやる事もしないで
ロンドンの薄暗い地下道─underground─に ただ立っていた
ルシュアは美しかった
さらり流れる髪はブロンドというよりはシルバーにちかく
ひきしまったくちびるは薄桃色
瞳は薄いグレイに沈んだ光りをおびていた
8歳の男の子のもつ 愛らしさいとおしさではない
彼は 美しかったのだ──
下院議員が偶然そこを通りかかった時
ルシュアは汚れた浮浪者に 相手にされていたのだが
汚い手で髪に触れられても 抱き上げられても
叫びもせず 泣きもせず
男の目を睨む事さえしていなかったという
下院議員はルシュアを ロンドン南東部にある孤児院に連れて行った
孤児院でも彼は無口だった
遊びもし それなりに勉強もしたが 喧嘩をする事は殆どなく
彼のグレイの瞳が輝く事は決して無いようだとシスターは言った
時おり本を読み オルガンに併せて聖歌をうたい
そうして孤児院の誰もがするように モダン・スクールに入学した
学校には風変わりな人間もいたが 中でも目立つ男がいた
幾度小言を言われても 決して切らぬ長いヘイゼルの髪をして
いつもひどく軽蔑したような目で 教師達を見ていた
シャーリー・ジルディが彼の名前
その机の上には ナイフで乱雑に切りつけられた文が記されていた
“俺の一本のギターですべてが変わる”
─All will be changed by my one guitar─
学校を出る日も間近な ある初夏の日の夕暮れ
忘れ物をしたルシュアが学校に舞い戻ると
教室の一室でシャーリーが机に腰掛け ギターを弾いていた
他には誰もいない
ドア越しにルシュアは思わず立ち止まる
するとそれを横目で見て
ギターを弾き続けながら シャーリーは言った
「よぉ。」
ルシュアは何も言わずシャーリーを見る
「お前……名前は?」
「Veltigner。」
「フォーネームだよ。」
「……Lousuah。」
「ルシュア……ルゥか。 俺はシャールだ。 本当はShirleyって云うんだぜ。
信じられるか? こんな女みたいな名前。
ったく遺言だか何だか知らんが 親父を恨むぜ。
酒に溺れたコンサートピアニストくずれをパブで雇ってくれた
その女将さんの名前なんだとよ。
男でも女でも通じる名前だとか言ってたらしいが
俺が生まれる前に死にやがって 文句も言えねぇ。
……シャールって呼んでくれよ。」
そう言って嘲るようにくっと笑い、彼はまたギターを弾く
それから突っ立っているルシュアを見て
ふっと微笑んでシャーリーは言う
「入って坐れよ。 ルゥ。」
シャーリーの隣に坐ろうと 机の上に手をかけたルシュアの
右手小指から手首にかけての ざっくりと深い傷痕が
シャーリーの目に留まる
「おい酷い傷痕だな。おとなしそうな面して 木からでも落ちたか?」
ルシュアのグレイの瞳が沈む
「あの棒を取ろうと思ったんだ──でも駄目だった。」
青く澄んだ瞳を少し大きくしてシャーリーはルシュアを見るが
それからまた何も言わずにギターを弾く
そしてしばらくの後 シャーリーが言う
「学校……出たらどうするんだ?」
ルシュアは答えなかった
その横顔をちらと見て シャーリーはくっと笑う
「は……クラスのマリオンやメグ達が
わぁきゃあ言ってやがったのは お前の事だったんだな。」
まるで激痛でも走ったかのようにルシュアが顔をしかめたので
シャーリーは驚いて今度こそ真顔で──ギターを弾くのも忘れて
ルシュアをみつめる
ルシュアは何も言わなかったが 表情が元に戻ったようだったので
シャーリーはもう一度 ギターを弾き始めた
「ちっ……ったく……」
フレットがまるで音痴だった
思い出したかのようにシャーリーが言う
「そうだ あさって練習するんだ。 観に来ないか?」
ルシュアがシャーリーを見る
「な! ルゥ。」
その日はウィークデイだっだが ルシュアはシャーリーに
連いてゆく事にした──授業なんてどうでも良かった
練習場所は狭苦しくて カビ臭い地下の一室
「よぉ! 今日は観客がひとりいるぜ!」
シャーリーが言うと仲間の一人が口笛を鳴らした
演奏が始まると薄汚い地下室は 音の坩堝─melting pot─と化した──
すっかり暗くなった帰り道 シャーリーが言う
「どうだった? 俺達の音は。」
ルシュアは黙っていた──そしてしばらくして言った
「もう随分前の事だけれど ピアノを弾いていた事がある。」
「ほんとか おい!」
大声を出してシャーリーは立ち止まる
「今でも……弾けるか?」
ルシュアが答えなかったので その顔をみつめるシャーリーの
青い瞳が沈んでいく
彼はもう一度歩き始めた するとルシュアがぽつりと言った
「シャール……昔僕の体には青い血─blue blooded*─が流れていたんだ。」
またシャーリーの歩が止まる
「でも今は パンと水だけでも生きてゆける。」
「……ピアノなら親父の形見のがあるぜ?」
しばらくしてシャーリーがそう言うと ルシュアはにこりと微笑んだ
モダン・スクールを出ると同時に 規則通り孤児院も出たルシュアは
約束するともなく シャーリーとの共同生活を始めた
様々な楽器や機材 最低限の生活の為に昼はあり
練習のために 夜はあった
キーボーディストがいたこともあり
ルシュアはメンバーには加わらなかった
ただ 曲を詩を提供した
その一刻を惜しむような生活に 彼等の頬から肉は落ちていったが
シャーリーの青い瞳はいつも輝き
そうして18歳になったルシュアは氷細工のように美しかった
ルシュアの創る曲や詩達は
シャーリーや仲間たちをいつも驚かせたが
その都度 シャーリーは確信を強めていく
ルゥは──こいつは恐ろしい才能だ──
だがそれは万人に受け入れられるものではなかった
その故か メンバーは何度も入れ替わった
ある時 仲間のコネクションで
パブハウスのステージを 週に一度受け持つ事になったが
彼等の音は 日々の疲れを癒し 酒を楽しもうとする客を
満足させるようなものでは 決してなかったので
1ヶ月を待たずにクビになった
練習場所を確保するのも 大きな問題のひとつだったが
日曜日は屋外で──つまり工場前の広場で──練習ができた
そこに少しづつ──ほんの少しづつ人が集まって来た
失業中の若者 奇妙な絵描き
そうした者達が 彼等の音を聴きにやって来た
そうして3年が経とうとしている時
ひとりの男が声をかけた
彼はインディ・マイナー・レーベルのディレクターだった
Cain's Forehead──彼等のバンド名──を
彼が初めて知ったのは
街をゆく 髪を白く染めた若者の言葉から
何度か日曜に足を運び 彼の心はとらえられる
彼等はレコーディングの道を見いだした
全ては始まりつつあった
カインズ・フォリードと 曲と詩を担当するルシュア・ヴェルティナー
彼等の名前は地を這って イングランド中に広まった
彼等の音や詩はかつてないもので 不思議な透明感に満ちていた
攻撃的で痛烈なシャーリーのギターと相まって
美しいと云えるものでは 決してないはずなのに
それは人の心に妖しく入り込むのだった
そうして2枚目のアルバムがリリースされる頃
カインズ・フォリードの名前は 世界にも漏れ始める
そのうしろにはいつも
銀髪のルシュア・ヴェルティナーの影が落ちていた
ルシュアの流れるような銀髪や──今ではとても長くのびていた──
沈んだグレイの瞳は
シェイクスピア悲劇の主役のように美しかったので
彼のまわりにはいつも 女性達が群がったが
彼はいつも好きに──楽しみも迷惑がりもせず──させていた
シャーリーは無作法にのばしたヘイゼルの髪と
青く澄んだ輝く瞳がとても魅力的な男性だった
彼は笑い 遊び 人生を楽しんでいたが
時折寂しそうな表情を見せる事があった
「ルゥ 居るか?」
ルシュアの部屋のドアをノックし シャーリーが入って来る
スコットランドの丘陵に建てられたホテルの一室
彼等はロードの最中だった
フレンチ窓を開け放して 外を眺めていたルシュアがこちらを向く
「やぁシャール。 今日は早いんだな。」
「あぁ……」
シャーリーはゆっくりと話し出す──
「ルゥ……お前には本当に驚かされっ放しだな。
今こうして 一部の人間だけにせよ 圧倒的な支持を得られたなんて
未だ 信じられないぐらいだぜ。」
ルシュアは何も言わない
「お前は……一種の天才だ」
静かにシャーリーは続ける
「お前にだって わかっているだろう?
もうお前には 俺達は必要じゃない筈だ。
カインズ・フォリードがお前の ほんの一部にすぎない事ぐらいは
俺にだって分かっているさ。」
静かにルシュアはシャーリーを見る
「何が言いたいんだ?」
「カインズ・フォリードは解散すべきだって事さ。」
ルシュアは表情を少しも変えない
シャーリーは寂しそうに微笑む
「お前って奴は 本当に不思議な奴だよ。
お前は 俺の夢を叶えてくれた。
元々自分のギターだけでするはずだったんだがな──
それだけで たくさんだ。
わかるだろう?
俺はもう 充分なんだ。」
もういちどルシュアがシャーリーをみつめ
カインズ・フォリードは解散した
その後発表したソロ・アルバムで
ルシュアは初めてキーボードを演奏した
そうして天才ルシュア・ヴェルティナーの名前は
“誰も彼のようにはなれない”という形容句を前に
世界のアンダーグラウンダーに浸透し
彼自身も次第にその世界に浸っていった
ありとあらゆる麻薬達は着実に彼の身体を蝕んでゆく
それでも彼は 1年に1度はアルバムを発表し
その都度その音は 透明感と凄惨さを増した
そうして27歳になったある冬の朝
ルシュアはとうとう ベッドから起きあがる事ができなくなった
瞳の影は濃く 虚ろになり
皮膚は澄きとおるように白く──その浮き出た血管のあちこちには
ケロイドのような 注射の跡──
髪は一段と色を失した
「ルゥ」
ルシュアの病室にシャーリーがやって来た
あれから4年も経つのに シャーリーは全く変わっていない
「何か食い物でも持ってくりゃ良かったんだが……
お前 何が好きだっけな……。」
「シャール」
「なんだ?」
「久しぶりだね。」
「そうだな……」
沈黙──
「シャールにも言ってなかったな……」
随分時が流れた後 ルシュアが口火を切る
「なんだ?」
少し微笑んでルシュアが静かに続ける
「顔を見て急に思い出したよ。 僕は……違うんだ。」
「何がだ?」
「僕はルゥじゃないんだ。」
シャーリーの瞳から 優しさが消え去り驚きの色に変わる
「ルシュア・ヴェルティナーなんて名前じゃないんだよ……。」
シャーリーはじっとルシュアを見つめている
「8歳の時 家を出た。 それまでは違う名前で呼ばれていた。
Cyrus Maximillian。それが僕の本当の名前だ。」
「マクシミリアンだと……?」
低い声でシャーリーは叫ぶ
「マクシミリアンって……あの……親父の持ってたレコードの……」
「指揮者 Richard Maximillian は父の名だ。」
ルシュアは消え入るような声で 無表情に話を続ける
「自分の名前がサイラスというのだと わかるようになった時
僕は既に ピアノの前に居たような気がするよ……。
フォース湾のほとりにある屋敷は大きかったが
小さな自分には 大きすぎる個室と食堂
それにピアノのレッスンルームが僕にとっては全ての世界だった。
母と呼べる人はいなかった。
父は──いつもブラウン管の中にいた。
その彼の手から あの棒を取る事に失敗したから
僕はいつもピアノに向かっていなければならなかった。
鞭を持った教授連中に 横から睨まれながら ね。
ピアノに向かっていない時はいつも──食事の時とか──
音楽が流れていたよ。
8歳になって その日がくるまでずっと
1日だってそうじゃない日はなかった。
尤もブラウン管どころか その手前の装飾ガラスで手を切って
代わりに音楽理論をたたきこまれた 2ヶ月は別だけれどね。」
ルシュアは一瞬間をおいた
「家を出たのに 特別な理由があった訳じゃない。
庭の茂みを抜けると 突然道路に出た。
そこを偶然通りかかった 長距離トラックに拾われたんだ。
おかしな男だったよ。
自分はここまでだからと云って ヨークで電車の切符まで買ってくれた。
“それでロンドン迄行ける。好きな所で降りな。”ってね。」
くすりとルシュアは微笑む。
「シスターに名前を訊かれたので
駅で見たポスターにあった名前をくっつけて言った。
それがルシュア・ヴェルティナーだったんだ……。」
驚きの色をどうしても隠す事ができずにシャーリーが言う
「だが……だが探しただろう? サー・マクシミリアンは……。」
無表情にルシュアは言う
「それから2ヶ月もしない内に
彼は公演先のドイツで交通事故に遭い命を落とした。
勿論僕がそれを知ったのは随分後の事だけれどね。
……僕が手に怪我をした時、彼は軽蔑しきった顔でこう言ったよ。
“音楽を美とも思わぬ者 それに感謝しない者は
人の心を持たぬ者だ”
マクシミリアンの家を出た者に 彼は何の未練もなかっただろう。」
くすりと皮肉にルシュアは笑う
「財産相続権も とっくになくなっている筈だよ。」
シャーリーは黙ってルシュアを見つめていた
「少し疲れた……シャール 今日はもう帰ってくれないか。」
そう言ってルシュアは瞳を閉じた
それからシャーリーは週に1度程 病室を訪れたが
ルシュアは やあ と微笑んだあとは
何も話さぬ事が多かった
時には 意識もないかのように
目は開けているのに 顔さえ見ない事もあった
時折 ひとりの女性が訪ねてくるのだが
彼女にも ルシュアはたいして関心を示さなかった
シャーリーは彼女を知っていた
彼女Rachel は カインズ・フォリード時代からのルシュアのファンで
奴のステディなんだと思っていた頃もあった
ある時 一緒に病室を出たシャーリーはレイチェルに言った
「あんたは……知っているのか?」
「何を?」
「……ルゥの親父さんの事さ……。」
レイチェルは寂しそうに微笑んだ
「ルシュアの事は 何もしらない……
ルシュアは なにも話さないのよ。」
シャーリーはひとつ小さな溜息をついた
「奴の髪……また白くなったな。」
「元からプラチナ・ブロンドというよりシルバーだったものね。」
「ガキの頃は本当にプラチナ・ブロンドだったんだろう……。」
それから3日後 彼は息をひきとった──
ルシュアの告別式は行われなかった
十字架も建てられなかった──それがいまわの際の言葉だったのだ
(業界誌がそれを賛美し また批判したのは言うまでもない)
ルシュアの遺体は荼毘に付され 遺骨はシャーリーが引き取った
キングズ・ロードにあるシャーリーのレコード・ショップ
その二階にある部屋の机の上に遺骨を置き
その横に 遺作となったアルバムを立てて
シャーリーは静かに話し出した
「俺はいつも ルゥは凄い奴だと思っていたが
同時にいつだって わからない奴だと思っていた。
初めて話した時から あいつには不思議なものを感じたが
……今ようやく それが何なのか わかったような気がするよ……。」
シャーリーは優しく微笑む
「ルゥが好きだったか?」
レイチェルはいつものように寂しく微笑む
「そうね……でも よくわからない。
ただ ルシュアのまわりに漂う空気のいろが……
私はただ それに魅入られていただけなのかも知れない。
ルシュアのそばに居たかったけれど
それを邪魔したくはなかった──超越的な─sur─美しさだったの。」
シャーリーは静かに微笑んで──そして言った
「ルゥのそれは 虚無の美しさだ……
希望も愛も 不安も憎悪も
いつだってルゥのなかには
──なにもなかったんだ。」