それは私が小さな、無垢の世界─innocent world─の住人で
あった頃の出来事です。
当時の私は幸せでした。
一人っ子で、まわりに同じ年頃のお友達も居なかったけれど
館の人達は皆優しくて
可愛い小鳥、犬たちや猫たち、そしてなにより
父様、母様の溢れるような愛情につつまれて
何不自由なく育っていました。
「百合のように純白のリリス─lilywhite Lilith─
私のいちばんの宝物
あの美しい小鳥の囀りを 聴かせてやる事が叶うなら
私はどんな犠牲も 厭わない──」
こっそり忍び込んだ図書室で、父様のこの 走り書きをみつけた時も
その意味がよく わからない程
それほど私は 無心でいたのです。
避暑の別荘は深い森の近くにあり
森には りす、 草辺には うさぎたち
何もかもがお気に入りであったけれど
何より心躍るのは、ミティオール─Meteor─に会える事でした。
流星のような白い模様が額を走る美しいミティオールは
小柄で優しい瞳の雌馬
私はほんの幼い頃から──勿論その時は父様と共に
彼女の背に揺られ 夏の森をゆくのが大好きでした。
そうしてその日も、いつもと全く同じように
私はミティオールと一緒に、森の中へとわけ入ったのです。
何ひとつ変わったことなどありませんでした。
ただ 風のそよぎ、その薫り、輝く木もれ陽、そういったもの
森のなかの不思議─mystique─なものすべてに
私は少し魅入られた─hypnotised─のでしょう。
まるで導かれるように、私はミティオールを
まだ見ぬ場所へと 駆り立てました。
この先には 何があるのだろう
森には 何があるのだろう
私は少し 魅入られていたのでしょう。
そしてその時、私は歌声を聴いたのです。
瞬時にミティオールはひどく脅え 前足を大きく跳ね上げて
私をほうり出しました──勿論かつてない事です。
そうして私は気を失って─fade away─しまったのでしょう。
ゆうるりと意識が舞い戻ると
ぼんやりとした目の前に、小さな湖が広がっていました。
なんという美しい色
わずかにゆらぐ湖面は、ほんのすこしの蒼碧
その あおみどりの小さな波の ひとつひとつが
陽ざしを受けとめ 金色に輝いているのです。
それに見とれて──ふと気がつくと
私のすぐとなりには、少年が坐っていたのでした。
彼は──私と同じ年頃に見えました。
透きとおるような白い肌、金になびく髪、
どこまでも薄いグレイ─hazy grey─の瞳
それはまるで 肖像画から抜け出してきた天使のような
私は一瞬にそう思ったのですが
ただその瞳には、天使の像には決して見られない
何か──魔のような──ちいさな影がひそんでいるようにも思えたのです。
彼は私の驚く顔を見て、ほんの少し優しく微笑みました。
それからふわりと 風のように立ち上がると
透きとおるばかりのその声で 歌い始めたのです
ミティオールの背で耳にした その歌を──。
それはなんという旋律だったのでしょう。
たとえようもなく美しく、胸ふるわせるその調べは
ただ 単純なくりかえしで
それは辺りのすべてのものに、大気にさえもこだまして
体に心に沁み入るのです。
私は知らず知らずのうちに、自分も口ずさみ始めました。
すると少年は嬉しそうに 優しげな微笑みをかえしてくれたのです。
私達の歌声は、ハーモニーとなって流れだし
すべての世界に溶けだしていくようでした。
それからどのくらいの時が経ったのでしょう。
ふと気がつくと、太陽はすっかり西に傾いて
空は薄暮れ─twilight dusk─に赤く染まっています。
それから湖面に目をやって、私は一瞬ぞくりとしました。
何故ならそれはまるで──その瞬間少年が言ったのです。
「血の色」と──。
次に目を醒ました時、私は自分のベッドの中にいました。
ミティオールが私を乗せずに戻ったので、捜索に人がやられ
私は森の中で──ミティオールが私を投げ出した
まさにその場所に
倒れていたのだそうです。
私の耳は先天性で、たとえそれが つんざく雷鳴であったとしても
風の囁きにさえも聞こえはしないと
その後に知る事となったのですが
それよりもまず、これは話すべき事ではないと
考えるより先に 感じてしまい
父様 母様にさえも言わずにいました。
ただ あの少年の歌い声、その調べの美しさ
それは胸の奥底に深く刻まれて
忘れることなど できないのでした。
そうして私はその音たちに
もう二度と触れる事のできぬ自分を呪い
嘆く事を覚えたのです。
世の中に 言い知れぬかなしみがあることを
そうして初めて 知ったのです。
あれから50年が経とうとしています。
年月を経て尚その旋律は、心の中で輝きを増し
そうして今──私は感じているのです。
一生を独身で過ごし
あの別荘もまた 相続したのではあるけれど
あのあとすぐに父により 避暑地はミティオールと共に
別の地へと移されてしまっていたので
それよりもまず
何か不思議なものに ひきとめられているかのようで
あの森には あれから一度も
足を踏み入れずにいます。
でも──私は しばらくの後、行くでしょう。
その時、こんなに年月の経った今でも
少年は 昔のままにそこにいて
金色の髪を靡かせながら
あの 美しい調べの歌を
私に歌ってくれるでしょう。
するとその時私も あの頃のような小さな少女の姿になり
憧れ、高揚、焦燥、やすらぎ、慈しみ、かなしみ、嘆き──
そういういとおしいものたち すべてとともに
旋律そのものとなって 大気のなかに融けこむのでしょう。
あの少年は ただそのための
まさに 御使いなのでしょう。
私はあの旋律に 触れるためだけにこの世に生を受け
そして それへと戻ってゆく
それだけが確かなことなのです
今ようやく私には
そのことだけが わかるのです──。