月の琴・lunar tune

「おう……」
紅に橙に色を染めた葉たちは 落葉の時を待ちながら
なお深く織り重なって 濃闇を創り出す
その木立は果てのない 迷宮がごとくに続いたが
それは突然終焉を告げ 鮮らかな日没の陽光が
その銀の瞳を貫いた
思わず細めた瞳で見上げると
高い──高い天にかかるは 幾重にもまとわりつくような霞雲
それが落日の陽を纏(まと)い 螺鈿のごとくに様々に
その彩りを変え 光りを織り
真珠光のように淡く 天一面を煌き染めあげる
「わぁ……なんて綺麗……」
思わず歩を止め 木晩が呟く
「これを八雲と云うんだね……本当に八雲兄様そのもののよう……」
修羅の銀瞳にちいさな光りが宿る
そうしていつものように くっとちいさく笑って言う
「おう あれは色男だからな」
八重二十重に光を纏う霞雲を見上げ
魅入られた瞳で木晩は言う
「如月姉様達 どんな旅をなさっているかな……」
その銀に光る瞳をちらと木晩に向け
そうして修羅は吐き捨てるように言う
「これだからな……全くねんねの守りには飽き飽きだぜ……」
「何だって!」
木の実のおおきな輝く瞳で 木晩は修羅を睨みつける
もういちど修羅はくっと笑う──いつものように
そうして想いを馳せる──この天に続く遠い地に──
 


「これは……酷い……」
朽ち果て荒れ果てた門の前で 歩を止めた八雲は思わず呟く
横の如月は蒼白の顔色
その艶をさえ失いかけた瑠璃の瞳で 何も言わずに八雲を見遣るが
そんな如月に いつものように八雲は
優しく だが心落ち着かぬ様子で微笑んで
そうしてその門を 静かに押し開き歩を踏み入れる
綺羅と煌く ひとつに束ねられた金の髪
それがそよぐ風になびいたその瞬間
静かな男の声がした
「待たれよ」

男は門の内に一人静かに立っていた
さながら殿上人の雅ないでたちも その遜色を失うがまま
だがその瞳は静かに堂々と澄む
男はその瞳で二人を見遣り そうして静かに言の葉を続ける
「剣持つ血をまとう方達が この村に何用か」
八雲は歩を止め その腕を上げ如月の行く手も遮る
そうして男を見遣る──その碧の瞳の静かないろ──
そうしてゆっくりと言葉を告げる
「連れの者の傷の手当と 今宵一夜の寝所をお願い出来ぬかと」
男はゆるりと如月に瞳を向ける
「古い太刀傷を悪くされたか……いたわしい事……だが」
男の瞳に鋭い光りが煌く
「剣揮う旅の方達 御覧になるが良い」
瞳前に広がるは──それは久遠の比ではない
瞳覆うばかりの 凄まじい零落の様
「ここは楽士の集う村 ただ琴と笛の音だけの響く村
剣士などもとより ただひとりとしておるはずもない
そこにあやつめらは 剣を振りかざし襲いかかった
血を噴き出し 肉を斬り絶ち──剣はただ 破壊のみを生み
全てを滅びの道へと導くばかり
傷つかれた御身には お気の毒だが
それも言わば 剣に頼る御身の業の故
この村にお入りいただく訳には まいりませぬ」

荒れすさぶばかりの村を やるせない瞳で見つめていた八雲は
その瞳を地に落とし そうしてしずかに瞳を閉じる
暫くの沈黙──ただ吹く風が金の髪を揺るがせてゆく
俯き 傷の痛みに耐えていた如月が
思わず瞳を上げ 八雲に言葉を発しようとした その時
八雲はゆうるりと如月の方を向き
そうしてその腰の剣を 鞘ごとするりと抜き取った
男の瞳にひとすじの煌く光り──
そうして自らの剣をも抜き取り 八雲は静かな声で話し出す
「それでも尚お頼みするより 私には法がない
この身を二本の剣と共に 一夜こちらにお預けしよう
それより他に私に 出来得る事は何もない」
如月は思わず八雲を見遣る
だが即座に言葉を失う──その瞳の 何といういろ──

八雲はずしりと重い二本の剣を男に手渡す
男はまず剣を見つめ そうしてそれから八雲を見遣る
そしてその変わらぬ堂々とした顔つきを ほんの少し微笑ませ
暫くの後に言う
「この見事な剣と御身 確かに一夜お預かりした
では 私に連いて来ていただこう」
その瞬間碧の瞳が がらりと違ういろの光りを放つ
「では連れの者の身 必ず保証くださるか」
男は 堂とした態度をひるませもせず
微笑みさえ浮かべながら静かに言う
「生き残る医術師数少なく 充分なお手当は叶わぬかも知れぬが
今宵一夜の寝所はしかと約束した──御安心なさるが良い」
そして続けて言う
「では そなたはこちらに」


八雲を後ろに従え 歩み乍ら男は思う
今一瞬の瞳は正に 闘いに手を染めた者の光り
だが 忌まわしき剣に身を委ね生きるこの男の瞳の
何と無欲無心で 寂静な事──美しい事よ──


八雲が導き通されたのは
今にも朽ち果てんとする だが趣あくまで深い
ちいさな殿のなか
その真中に鎮座するは
初老の 雅を纏いし もの静かな男
だがその瞳光は まるで人を射るかのごとくに鋭く輝く
「この村の長である」
八雲を導いた男は一言そう言って
深く一礼の後 退座した
八雲は深く長い一礼をして そのまま膝を落とし
それからようやく頭を上げる
するとその時 その長の鋭い瞳に
恐ろしいような光りが煌き走る
だが次には穏やかな 低い声でゆうるりと話し出す
「こは麗しき 宝玉の色を併せ持つ男──名は何と言う」
「……八雲」 その瞳には一筋の畏れもない
「八雲と──まことその姿に似つかわしい名よの──
して どちらに向かわれる」
「久遠に戻る途中にございます」
「久遠……と……」
長の瞳に今一度──それはまるで修羅の瞳のようだと八雲は思う──
鋭い閃光がぎらりと走る
「ではそなたが久遠の地の 見事な光る髪を持つという
神より剣に生きよと命ぜられし
宝剣 朱壬の継承者なるか」
八雲は浅く一礼し そのまま瞳を少し細める
静寂 長い──そしてそのあとの 穏やかな声
「のう 剣の申し子 八雲よ」
八雲の ひとつに束ねられた金の髪が
ほんの少し綺羅とゆらめく
「私は不思議でならなかった──
この平穏で無防備な楽士の村が攻め入られたのは
我が宝琴 妤徨五絃月琴(よこうごげんのげっきん)に
あやつらが目をつけた故
だがそのようなものを何故
剣揮う血みどろの戦いの亡者共が 欲しがるのだろうとな──
だがその靄が今 そなたを瞳前にし
晴れてゆく思いがする──」
八雲は思わず頭を上げる──その瞳の 煌き──
「妤徨の月琴は この地のものでありましたか」
意を得たように長は微笑み
そうして悲しみに満ちた瞳で 話を続ける
「その名手と謳われた弾き手と共に
今は天上のものだがな──
妤徨でないのは無念の限り──だが のう八雲
琴の音の風雅 たしなむ御心が
そなたには おありだろう」


月の琴の音は 幽玄の響き あはれの調べ
その彩なす音につつまれながら 長は思う
まこと世にこのような 面妖事があろうとは──
人の生き血を浴びて生きるを宿命とされ
その生き人と思えぬ技量と冷徹の故
闘神の御子とさえ畏れられる男
その男にあの──愛してやまぬ妤徨月琴の
弾き手と違(たが)うことなきauraを見るとは──



小さく荒んだ だが清らかな小屋
八雲が歩を踏み入れると
床に休んでいた如月が 上体を起こす
「そのままで良い──気分は少しは良いか?」──いつもの優しい声
「八雲……すまない 本当に……すまない
酷い仕打ちを されたのではないか?」
すがるような──
八雲は思う──こんな如月の瞳を見るのは初めてだ──
瑠璃の瞳を震わせ如月は言う
八雲はゆっくりと跪き その手を如月の頬にやり
そうしていつもと同じように 優しい瞳でみつめて言う
「何も……ただ 美しい琴の音を 聴かせて下さった」
なお動揺おさまらぬ如月の瞳の前で
八雲は束ねていた麻紐をするりとほどく
放たれた金の髪は 蝋燭の明かりをうけて光りを放ち
それは小屋中に煌きを撒き散らす
「今宵は何も気にせず ゆっくりと休むがいい
剣は約束のとおり まだ手の内にもどらぬ故
万一のため 私は一夜この窓の元に
座りあなたを 見守ろう」


小さな窓の外は ただ闇ばかり
月のかけらもない 闇ばかり
そう──あれも今宵と同じような
臥待の月の夜だった
八雲は遠い日の頃を思い出す──


声の変わりもまだ済ませぬ頃の事
自らの剣で 初めて人の命を絶った
その腕さばきの見事さに 皆は感嘆と称賛を惜しまない
だが 心奥底の疼きは大きく
そのつきあげる思いは耐え難い
思わずひとり宿舎を抜け出し 夜の闇を彷徨った
月の無い夜は ただ真の闇
だがその恐怖より
迫り来る自らの 心の底の闇への恐怖が先に立つ
その時──どこからか琴の音が闇の中を漂いめぐる
それに気付いた時には既に 何かに導かれるかのように
その調べの元へと 足を向けていた

ようやく天には下弦の月
その月明かりに照らされ見ゆるは
ぼやり淡い銀のいろの 長い髪をひとつに束ねた
殿上人の御付きを思わせるような 年若い青年
その腰には見事な螺鈿細工の月琴
男は八雲をちらりと見遣るも 琴弾く手を止めもせず
ただ一言こう言った
「何と美しい金の髪なのに」
畏る畏る横に腰を下ろすと
その琴の音の 何と胸に染み入る事──
男は微笑んでやわらかに言う
「どうやらあなたは この琴に気に入られた様子
今宵は特に 美しく鳴る──」

男のつまびく琴の響きは 心の奥底にまで深く染み入り
そこに巣食う闇さえも 祓いのけてくれるかのよう
だが何よりも
この世には自らの知らぬ 美しい世界がある
その真を知った事 そのひとつに触れ得た事に
ただ心穏やかに安らいで
そうして次には哀しくなった
だがその琴の音忘れ難く
時の許す限り 月の明かりの元に響く
銀髪の男の琴の音に つつまれにゆく日が続いていた──

ある時男は 琴つまびき乍ら
やわらかな声でこう言った
「あなたはまるで 遠い地の
この世の至宝の琴のよう
その地で私はただ一度
その調べに触れる事ができたのだけれど
典雅なことは雲上のごとく
魔のように妖しいあの響きは
あれはまこと 幽玄とあはれの極み
その名を 妤徨五絃月琴と言う
徨(さまよ)う  妤(うつくしい)ひと──
あなたは剣持つ誇り高い男だけれど
それでも あなたそのもののようだろう?」

それから幾月の時が流れたか
男は琴つまびく指を初めて止め 静かに話し出す
「あなたにこの琴の音を
聴いてもらうのも 今宵が限り
私は 妤徨の音が忘れられない
だから師に許しを乞い かの地で修業を積む決意をした
あなたと暫くの別れをするにあたって
ひとつ願いたい事がある
なにゆえか あなたはひどく疎んでいるが
その金の髪は 風に靡くを欲している
次にはきっと 美しく光る髪をゆらめかせ
久遠の誇る剣士となられたあなたと
逢えますように」


忌まわしいこの色の髪
何故それを拒まなかったのか 今もよくわからない
そうして少しずつ伸びてゆく髪を 驚いた事に
何より喜んだのは 誰あろう彌勒だった
髪は時と共に長く──風に靡くようにもなったが
だが銀髪の男は戻らない
それから数知れぬ程の命を斬り
自身も幾度となく傷付けたが
だがあの琴の音を聴く事は
もはや二度と叶わなかった
私は長に 訊ねるべきであっただろうか
名琴妤徨と命を共にした
その神より才を与えられし弾き手とは
銀の髪輝く 異邦の人であったかと──


深い睡りのそのあとで 如月はふと瞳を醒ます
窓の元には八雲の影
声をかけようとして ふと言の葉を飲み込む
あれは──今姿を消さんとする下弦の月のいたずらか
八雲の瞳に潤む光りの玉響が きらり煌き見えたのは──
 
暁闇のころ
眠れぬ一夜を過ごした修羅の瞳に
ぎらりと光りが走りゆく
地に足つける庸の者が いくら手を高く掲げたところで
あの天の高みの雲の光りに
その指先さえ触れられるはずもない
それを真に名のとおり
幾重にも手中にして あの男は生を受けたという訳か──


真の闇のなかにただ
その銀の瞳を光らせて
──そうして心のなかで
修羅はちいさく──低く呟く
「お前は馬鹿だぜ……なぁ 八雲」