金の瞳

じゃ、と足の下に音がした。
湿り土に積もり積もる
乾いた朽ち葉を踏み砕く音。

全霊を一点に集中し耳を澄ます。
入り来るのは虫の音。
梟の、木菟(みみずく)のほうと啼く声。
ざわと、風の残り葉を揺らす音にさえ
瞬時に感応し身を構える。

時はどれほど流れただろう。
体ひとつ充分に隠す大木の幹を背に
男はゆうるりと腰を据える。
ふぅ、と吐き出されたちいさな息は
まるで白い炎のように
ひとつゆらめいてその姿を闇中(やみなか)に散らす。

見上げれば木枯れた枝の間に間に
ぼうと朧の半の月。
無意識下に胸ポケットより煙草を一本口にくわえ
火種を探す己が手つきにふと我に返る。
役立たずの煙草を吐き捨て
ふぅ、と、また口元より白い吐息。


まぁな。覚悟は出来ているさ。
こちとらとて洒落にやらかした訳じゃあないが
あの領主の留守に館へ侵入したとあらば
ばれりゃあ賞金首。
当然の帰結だ。

この深い森を抜け
その先に流れる広い浅瀬を越えさえすれば。
昔々、砂金が採れると山脈を森を越え
山と人の押し寄せたという川。
その恩恵に預かり往時は俺の住む村落も
多少は栄えたと聞くが
今やその面影も、あるとするなら文字通り
豚も尾を巻き遁走する、貪欲領主の独り占めだ。
尤も当時のお陰でこの森には
今や怖るに足る生き物は存在しない。
そう、怖るるべきはただひとつ
人間様の抱え持つ銃。
全く有り難い話だぜ。

それにしても
三日三晩の寝ずの番には流石に少々飽きも来た。
この季節、火の点けられないのも骨身に堪える。
何があろうと明日こそは
この森を走破しないとな……。



はっ……と気付けば
それはもうそこに居た。
知らず睡魔に身を委ね堕ちゆきていたか
それすらも分からない。

己の鼻先三寸に、黒光りに濡れた鼻の冷気が
生き物の持つ体温のぬくもりが伝わり来る。

浴びた朧の月光を
毛並みにたてがみに白銀と輝かせ
その輪郭の、周囲の闇間にぼやりと浮かび
そうしてその真中には
煌々と光るふたつの金の瞳。
尊厳(そんごん)に幽寂に
ただ、佇む。


……嘘だろう?
熊と共に、根絶やしに狩り尽くされた筈だ。
じゃあこいつは何だ?
犬か? 追っ手の……?

肉食獣特有の強烈な匂いが鼻を突く。
ゆっくりと裂かれてゆく口より覗く
濡れた牙が黄身がかって煌めきを放つ。


……犬じゃねぇ。
じゃあ、こいつは“何”だ?


金縛りが様(さま)に体に自由がない。
口元に歪んだ笑みを運ぶのが精一杯。

巨躯の白狼はただ見据える、
その金の瞳に。
それより目線を逸らす事さえ叶わない。


……なんてぇ瞳、していやがる……。
合わぬ歯の根のかちかちと
その音の次第に遠くなり──。



雨滴の冷たさに再び意識の舞い戻れば
世界はいまだ暗幕のなか。
ただ降り出した雨の
梢に落葉に細いきらめきを与えるのみ。

食い入るように足跡を求めるが
視野にあるのはただ枯れ落葉ばかり。

あれは夢か。
疲弊しきった故の幻影か。
ではこの鼻先に残滓とぶらさがり消えぬ
腥(なまぐさ)さは何だ……?

そうして、あの瞳。
あれは……そう、
何も、望んでいない、瞳だ──。


驟雨はやがて勢いを増し、篠を突く。
あぁ、移動をせねば。
体が冷え切ってしまう。
ゆるり、立ち上がる。

ざぁ、と雨の音。
男の歩を出す、枯葉踏む音もかき消して。


その瞬間。

ぱん、と乾いた音響に
跳弾が雨の帳を引き裂いた。