「……そうですか……はい。
はい……それじゃ、失礼します。」
ちん……。
はい、わたくしは今、受話器を置きましたよと、
告げ口するかの、このこれ見よがしな音は何なんだ。
とん、と、それから逃れるように
すぐ横の階段に、そお、と足を乗せる。
「どうするの、夕飯。」
くそ……ほら見ろ、気付かれた。
「要る。食う。」
どん、どん、どん。
取っ手をぐいと引けば
何ひとつ代わり映えもせず
ほんっとうに何にも変わりゃあしないのに。
横にやたら長い、変形の角部屋。
窓ばっかり広い。
その下に、鎮座まします、木目調のオープン・ステレオ。
逢魔が時? 違う違う、大禍時だ。
青と茜の灰色の、入り交じったぼんやりの
死にかけの光のくせして生意気に
窓硝子を屈折透過して
部屋のなかのいろあいまでもを我がものか。
決まってる、こんな時、
これ以外にあるもんか。
ずら、と、少なく見積もっても
200枚程度は並んだレコード棚から、
目を瞑っていたって引き出せる。
すう、とジャケごと引っ張り出して
黒光りする塩化ビニールに
指紋のひとつもつけぬよう
取り扱うのも慣れたもの。
片手にプレイヤーの、蓋を開ける。
LPを、そっと、定位置に置く。
メインアンプのスイッチを入れる。
ぷん、と、ほんのちいさな、息吹の音を発して
真っ赤なランプが生命を宿す。
ぽん、と、プレイヤーのボタンを押せば
お皿がくるり、くるり、黒色の中に虹の帯。
アームにぐい、と、顔を近づけ
全神経を右手人差し指の腹に集中させる、熱くなるほどに。
はは、思い出すな……レオ。
何枚、バリっと、やられたっけ。
あいつ、馬鹿でかかったからな。
何度も何度も、ひどい怪我して戻ったけど
とうとう戻らず仕舞いだ……もう何年になる?
針を落とす。
そうして一気にヴォリュームレヴェルを、天まで。
ざ、じゃ、と、アナログ特有の、雑音が
身をちくちくと刺したかと思えばすぐに
部屋中が、世界中が、大爆音の渦のなか。
窓枠の振鳴も、安物のスピーカの箱鳴りも、
スピーカを置いたブロックから、伝わり来る振動に
安普請の二階建ての、床全体が震えるのだって、いつものことだ。
レオとおんなじ、元は真っ白だった
フェイクファーを敷き詰めた、リクライニング・チェアに
どん、と腰を据え
胸元のポケットからセブンスターと百円ライターを、ぬうと出す。
オレンジに揺れる炎は一瞬芽吹いて即死。
ふうう、と吐き出された煙は、ふわふわと、形を変えながら
天に登ってさようなら。
そうだ、皆さん、さようなら。
何言ってる、さようならされたのは俺だろうが。
くそ……くそ……くそ!
選りに選って、なんで今回なんだよ……!
段ボール紙で出来た、ジャケットに手を伸ばす。
イギリス盤って面白い、音は日本盤より遥かにいいのに
こういう処が雑なんだよな。
どっちも良いドイツ盤は高くて手が出ないしな。
薄暗がりの中がどうした、そんなもの、
何百回見たと思ってる、
いくら俺が馬鹿だって、脳裏に刷り込まれてなければ嘘だろ、
明かりなんか、このタバコと、あの、アンプの赤だけで充分だ。
青い青い空、緑の平原。
そのなかに犬が一匹、
その横に、地に落ちたグライダー。
ふたつの点のように。
魚眼レンズで見た、そのままのデザイン。
裏返せば犬の横顔のド・アップ。
そう、時間はきっと、今頃、日も蔭る夕刻だろう。
逆光のなかに表情が沈む。
テリア系の超大型、犬に詳しい友達に教えてもらった、
アイリッシュ・ウルフハウンドって犬種らしい。
「ウルフハウンドって、こいつ狼狩るの?」
その女友達は、我が意を得たって得意顔だ。
「うん、その為にね、つくられた犬種らしいよ。」
それで全てが腑に落ちた。
「へえ。」
「でしょ。」
微笑み合う。
いかん、いかん。
俺は今、虚しい空き家だが、
この友達には、ちゃんと彼が居るんだ。
なあ、おまえ。
森の王者たる狼を、追い追い求めて爪牙の死闘
それこそがおまえの生き甲斐だったのに
おまえの生きる意味だったのに
アイルランドにも、ヨーロッパにも
もう何処にも、
おまえの探す、狼は居ないんだよな。
なあ。
だから、そんな顔しているんだろ。
だから、この音は、こんなに沁みるんだよな。
くそ……くそ……。
いつ、どうやって、なんて、全く覚えがない。
高校も違えば、他の趣味も違う。
単車が好き。
ただそれだけで、集まった、仲間だ。
「おおい、見てくれよぉ。」
ずるずると、クソ重いCBR-400を引きずって、
いやむしろ、マシンに好い様に遊ばれているように
のろのろと近づいてくる。
「何だ、どうした。」
「チャリに抜かれるぅ〜。」
自転車にって、そりゃ哀し過ぎだろ。
「キャブレターじゃないのか?」
「だと思うけど。俺じゃあ歯が立たんもん。」
二輪には、親父が趣味と実益を兼ねて乗っていた。
ガキの頃から、エンジンオイルと、
その焦げる匂いに包まれて育った。
阿呆だ馬鹿だと教師連中に匙投げられた俺でも
だから、マシンの事ならちょっとは解る。
「ノッキングする?」
「する。しまくる。」
「じゃあやっぱりキャブかな。
ジェットニードルちょっといじったら、多分直ると思う。
明日までに、やっとくよ。」
「さんきゅ!今度バイト代入ったら、おごるから!」
三月初旬生まれの俺が最後の最後。
やっとこれで全員、免許無事取得。
その日の為に、授業サボりまくってバイトに勤しみ
夢にまで見たNSR-400をとうとう手中に。
さあ行こうぜ、ツーリング。
感覚を縛り取る凍えの風も
オンロード・バイクのタイヤには
一発命取りの凍結路も、もうそろそろおねむの時間だ。
上手くすりゃあ、桜の芽吹きだって見られるぜ。
峠攻めも、シグナルグランプリも、ウィリーごっこも
そりゃあ、何度だって、何だってやったけど
速度超過も見つかれば、一発免取り程度はいつもの事だけど
ただ俺達はもう、走るのが好きで、
本当に、馬鹿みたいに走るのが好きで。
冬眠を余儀なくされて、
身も心も爆発寸前、
春が来たなら、ツーリングに行く。
行かずにおられるか。
誰云うでもなく、日を決める事などするでなく。
「なあ、もういいだろ、行こうぜ。」
「どこ?」
「俺、ここ行きたい。」
「よっしゃ、決まり!」
高校卒業後、進路はそれぞれに分かれる。
大学進学する奴、家業を手伝う奴、就職する奴。
俺は、四輪・二輪双方の、整備士専門学校に入学した。
整備士になるならここ、と云われた、
日本が世界に誇る大企業傘下の、育成を兼ねた。
ただひとり、地元を離れて寮生活。
NSR-400に、カセットテープの山積んで、赴いた。
たった二年だ、二年経って、整備士資格を取得したら
こっちに戻って来て、どこかの整備工場で働く。
そうしたらいつだってまたツーリング、行こうぜ。
幾つ、何十になっても、皆で行こうぜ。
それに学生の間だって、春には休みもあるから、
いくらでも戻って来れる。
そう思っていた。
実際、専門学校一年の去年は、そうしただろ?
皆で、海見に、行ったじゃないか。
ひゃっほ〜うう、潮の香りがする!
馬鹿だな、海岸まで、後まだ何キロあると思ってるんだよ。
だってするぜ?
しねえよ!
するよ、なあ。
ああ、する、する。
おい、何だよ、その言い方はよ。
あはは、怒るな怒るな。
きゅきゅ……と、コーナーの度に、タイヤの鳴く音がする。
覆い囲むように乗るオンロードタイプは
それだけ振動が体中に伝わり来る。
ああ、体のなかに、腹の辺りに、
まるで何かの植物の、種が発芽するみたいだ。
発芽して、目に見えない、蔓がどんどん伸びて
皮膚突き破って天めがけてゆくようだ。
はは……はは!
俺は今、生きてる、ほんとうに、生きてる。
メインアンプの赤い光が、テールランプと同化する。
揺れる、テールランプが、今頃の時刻、尾を引くように。
夏の日の、陽炎のように。
突如降り出した驟雨が、フルフェイス・メットのゴーグルの上を
悲鳴をあげて波打ち流れる時のように。
滲み、滲んで、形を成さない。
今度は北の日本海。
おばさん、そう言っていたな。
今頃はもう、潮の香り、感じているんだろうか。
……くそ……くそ!
なんで置いて行くんだよ……!
春は嫌いだ。
ずっとそうだった。
三月生まれで、良い事なんて、
生まれてこの方、何ひとつなかった。
ガキの頃の一年の差、それがどれほどに強大な影響を与えるか
まぁ、経験してみれば分かる。
頭の方は、こいつは生来だ、仕方がないとしても
体躯の成育の差が、男のガキの、
有無を言わさぬ順序配列って奴に。
単車に乗るようになって、初めて覚えた、実感した、
春を待ちわびる、という感覚を。
それなのに。
ああ、分かっている、充分分かっている。
悪いのは俺だ、先週、戻れなかったんだから。
それまで散々愚痴ってもいたし。
何しろ整備学校の授業と来たら、
有名進学塾もかくあらんとばかりの詰め込み詰め込み、
追試追試の雨あられで
一年でほぼ半分が脱落した位だから。
でもな、今回帰郷が遅れたのは、
……そうじゃないんだよ……。
気がつけば、とっぷりと陽も落ちて
黒陰の中に、煌々と赤のランプが誇るように。
レコード針はとうに、元居た定位置に収まっている。
御飯が出来たよ、と、階下より響く、お袋の呼び声。
……本当は、親より誰より、
あいつらに、第一に報告したかったのに。
親父は何て云うだろう。
驚くだろうな。
一番驚いているのは、他ならぬ俺自身だもの。
幼稚園の頃から既にして落ちこぼれ決定組。
その俺が……三十倍の狭き門だぜ?
相手は日本、いや、世界に冠たる大企業だぜ?
耳?いや己の脳を疑った。
その次には教官の脳を。
お袋は……喜ぶのかな……それとも……。
あれから四年……いや五年か。
勤め出した途端に、時計が三倍も四倍も早く回る気がする。
大企業の歯車なんて、そんなもんなんだろうな。
しかも本社勤務、未だに敷地内の何処に何があるかも
把握し切れていない有様。
覚悟はしていた。
何もかも、自分で決めた事だ。
厭ならあの時、辞退する事だって充分出来た。
入社試験を受けた訳じゃあない、
傘下の専門学校から毎年数人選出される、
ただ、その内のひとりになっただけの事だ。
どれだけ迷ったか知れない。
俺は故郷に戻りたかった。
そのつもりでいた、それ以外の道など
脳の端にかすりさえもしなかった。
走り慣れた道、抜け道、近道、手に取るように
身体が覚えている、あの土地が好きだった。
音楽好きな友人も沢山居た。
いきつけのレコード店もあちこちにあった。
そうして何より
あいつらと共に人生、生きていきたかった。
ずっと、一緒に生きていきたかった。
でも後悔はしていない。
何度でも言う、自分が決めたんだ。
否めない、寂しさは当然にあった。
俺はすぐに結婚した、ほんとうにすぐに。
社内恋愛、ってやつだ。
趣味も嗜好もまるで違ったけれど
俺に欠けている、長所を山のように持っている、
過ぎたくらいの女性。
そうしてふたり、社宅に入る。
狭いし、どのみち、爆音を鳴らせもしない。
あの、くそでかいオーディオは未だに実家に置き去り。
代わりに、ミニコンポを買った。
レコードは、どんどん、CDに取り変わっていった。
どうしてだ。
絶対だ、絶対にだと、
あんなに絶妙なまでに計算し尽くしたのに。
人体の神秘か。それともやっぱり俺の阿呆さか。
四月生まれにする筈が、生まれた息子の誕生日は
俺よりひどい、三月下旬。
息子よ、馬鹿過ぎる父を許せ。
まがりなりにも、親なんてモノになった、
それを機に、NSR-400を手放した。
金ばかり食うし、もう、乗ってやる時間もない。
上司に安く譲ってもらった四輪が、今は移動手段。
そんな、桜も間近という、休日。
突然の電話。
もう何年、顔どころか、声も聞いていない。
「……今な、日本中、単車で一人、回ってる。」
「へえ。すごいな。」
「すごくはないけど……。」
「……で?」
「え……いや、別に……近くに来たから。」
「そうなのか?じゃあ今夜、泊まって行けよ。」
昔っから、こいつはしゃべらない。
本当に、しゃべらない。
全然、変わっていなかった。
五年の歳月の方が嘘のように。
晩飯を食って、明日も走るからと、
酒は缶ビール一本に留めて、
殆ど、何を話すこともなく、
それでも、そんな時間は、あっという間に過ぎて。
翌日、
「これ」
と、りんごをひとつ、置いて行った。
糞田舎のここの事
まだ朝靄に、周囲に、ぼやと膜を張りめぐらしたかの中に
単車にまたがり、走り去る背を見送れば
その時に、ふと、五年の月日が降りて来た気がした。
何故かは良く分からない。
赤い、りんご。
ひとつぽつんと残された。
こんなに真っ赤なりんごって、あるんだな。
「紅玉だね。ちいさくて、可愛らしい。」
奥さんが、そう言った。
赤。
前をゆく単車の、テールランプの。
毎日のように聴いていた、ステレオのメインアンプの。
あの日の。
りんごを手に取る。
単車に音楽?
はは、これは笑わずにおられないな。
あんまりベタ過ぎるだろう、俺。
「ちょっと出てくる。」
「夕ご飯までに帰ってね。」
「うん。」
クルマにエンジンをかける。
カセット収納場所となっている、ダッシュボードをがちゃがちゃと。
探し当て、カセットコンポに入れる。
あの日、聴いていた、あの、音。
アクセルを踏む。
あてなどない。
ただ、走る。
せめて、窓を開け放して。
ぬるむ風がびゅう、と狭苦しそうな音を立てて忍び入り
後部スピーカより流れる、静かに刻む音律と同化して
円いハンドルを握る体を、繭のようにつつみこむ。
……なぁ、おまえ。
おまえのその、じっと見つめる目の先に、
今は……今は、一体何が映っている……?
赤信号で停車。
りんごに手を伸ばす。
かり、と一口。
思いもよらぬ酸っぱさが口中に広がって
思わず全身を震わせるほど。
「なんだよ、これ。」
顔をしかめながら、次にはくす、と笑う。
流れる、流れていく、何もかもが。
信号が青になった。