畦道(あぜみち)を歩いているのに、足元にその感覚がない。視線を
下げると、白足袋のままに履物がない。それでこれは夢なのだと、誰かの
夢の中に居るのだと気がついた。
景色は奥に暗く、うすぼんやりと揺らぐ稲穂の緑を際立たせている。
一本に先の見えぬ道には他に人の気配もない。不思議にも恐ろしさや
寂しさの、心にひとひらの湧くこともなく、ただ歩を進めていると、
畦一面に呉藍(くれあい)の、色鮮やかな花の乱れる場所に出た。
「これそのように手折(たお)るなど。」
その場に膝折りしゃがみ込んで凝視すれば、朱の一筆を走らせたかの細い
花弁を可憐に思わばこそ、どこかしら不穏な心持ちを含み持ち来るのは
何故(なにゆえ)かと、一輪に手を伸ばした途端に声がした。
振り返れば農作業の帰路なのか、薄汚れた仕事着に身をつつむ、腰の
曲がった老婆がいつの間にやら傍(かたわ)らに立って居た。
「このように艶(あで)やかな着物をまとい姫君のようないでたちに、
この花のことは知らぬのか。」
「知らぬ。」
銅鈴をころりと鳴らしたような声に答える。答えながら自らの着物に目を
遣れば、成程、これは美事とより形容の仕様のない、真白き絹の、銀糸の
織りのその上に、目映いばかりの金糸にて、一手間一手間繍いあげられた、
菊の大輪の咲き誇ること、咲き誇ること。
「知らねばそれは仕様がない。 良くお聞き。 それにはいくつもの
呼び名があるが、ひとつをシビトバナと云う。 その一輪の花びらの美しき
赤を染めるのは、命絶えた人ひとりに流れる血。 さてこの意味が
分かろうか?」
「分からぬ。」
興味の糸を引かれ目は呉藍に、耳は老婆の声にと心を注ぎ確(しか)と
答える。
「嬢はそのようにお若い故に、分からずともそれは無理もない。 その
花は死んだ者の道標(しるべ)。 時に未だ現世(うつしよ)に、己
本来の往き処に迷う者に主(ぬし)の命の脈はもう、こちらの花に移り
ゆきたと知らしめて、そうして往くべき道を標してやる。 その為にこう
して美しく花を咲かせているのだから、それを手折るなど──」
しわがれた老婆の言葉の終まいを待たず、一文字に揃えられた黒髪より
覗く大きな黒い瞳にきらと帯びた光りは、理(ことわり)の真(まこと)
を得た喜悦がごとく、また一面には邪神に魅入られたがごとく。
「ではこの一輪に、人ひとりの命脈宿ると同義なるな。」
言うが早いか白い手が、真赤い一輪をぷつりと手折った。
その瞬間、風景は一変する。
景色は全てに紗をかけたように灰一色に、色がない。天は暗黒に、下へ
ゆけばゆくほどぼんやりと淡いものだから、遠くを眺めばまるで、世界が
墨絵の掛軸の、濃淡を描く滝のようにも思われる。
足元が厭に軽いと感じれば、美事な金糸の菊の繍いも、薄灰色より色の
ない、着物の裾を蹴るばかりに、足そのものが地についていない。ついて
いないと云うよりも、地は己の背丈の二倍ほども下にあり、宙に浮いて
いるとより他に表現の仕様もない。
音もない。森(しん)と響きのない音は、耳の奥に頭の芯に断続的な、
刺すかの痛みをもたらし来る。
ただひとつ、ちいさな手に握り持った、先程摘み取った一輪の、曼珠
沙華ばかりが皓々と、呉藍の赤を光らせている。
これが命の光りかと奇妙な感慨を抱きつつ、それをランタンのように
胸の前に掲げ持ち、ふわりふわりと移動をすれば、ようやくに慣れた目に
入るのは、ただの土くれの山々と見えていたものの本当の姿。
鎧に身を守る者はまだしも、多くは固編みの帷子(かたびら)のみに
身をつつみ、そのあちこちに突き刺さり折れた鏃(やじり)を、まるで
飾り物のようにぶらさげている。柄握り持つ刀はただ一度、敵の兜を打てば
簡単に折れ飛ぶようなか細さに、実際殆どが半折れに、役目を果たした
気配もない。
顔中にかかるざんばらの髪。見開かれた白目は血走り、瞳は濁る。色や
音と同じ様、匂いのないことには感謝するより他にない。
何の因果に古戦場の跡地になど。思いながらも、花の赤い輝きを頼りに
ふわりふわりと漂うより他に方もなく、そのうちに、いざなわれるかに
ひとりの元にたどり着いた。
それはまだ幼ささえ面立ちに残す少年であった。質素極まる帷子を幾本
もの矢に射抜かれていた。抜刀の一間(いっけん)さえ掴み損ねたか、
鞘に真新しい刀を残していた。
曼珠沙華を顔の近くに寄せ見ると、まずそこに飛び散りこびりついた
血飛沫の、茶を帯びた赤い色が息吹を取り戻し、それからまるで潮のひく
ように、或は潮の満ちるように、少年の姿形と、その後に自分のそれだけが
色を持ち浮かび上がった。そうしてその所作の終わると同時に、
足がようやくに地について、綴じられた少年の目がゆっくりと開き始める。
無理もない、ふと夜中に目覚め、今自分が何処に在るのか、また何時
(なんどき)なのか、全てが闇のなかにある、あの時のような目を、少年は
しばたたかせながらしきりに周囲に向けている。しかも横には如何にも
不釣合いな、見た事もないようなきらびやかな着物をまとった、透き通る
ばかりの白磁の肌に豊かな濡羽の黒髪を乗せる、愛らしさのなかに
妖艶さまでもを漂わせるような少女が、赤に光る花を一輪手に持ちこちらを
じいと眺めているのだ。
「あ……」
声を発せられる事さえもが驚きであった。
「なんや……おいは……まだ生きているんか……」
やはり幼さに高い声に、ようやくにひとりごちる。
「これはまた。 まるで生きていては困るような物言いだな。」
「あぁ。 困るんや……。」
すうと、日々繰り返される朝の目覚めの時のように無理のない動作に半身を
起こした少年の、両の掌を虚ろに見ていた瞳が、その静かに重い一言の
あとに、ようやくに少女の方に向けられる。
「なんやお姫様みたいな。 なんでこないな処に居(お)らはるの。」
「さぁ、自分にも分からない。」
能面のように表情ひとつ変えもしない少女とは裏腹に、少年は目を落とし、
頬にちいさな微笑を浮かべる。
「分からん事だらけや。 痛うもないし。 やっぱり死んだんやな。」
「何だ。 死ぬのも本意ではないとでも言いたげだな。」
それは一瞬に吹き上げた憤怒(ふんぬ)の形相であっただろうか。
それでもすぐに少年は、先程と同じ微笑みを取り戻す。
「なんや、綺麗なお姫様。 お前さまのような人にも、分からんことが
あるんやな。」
「そうだな。」
また一本の興味を引いた。
「分からぬ。 良ければ教えてくれないか。」
「ええよ。 なんや不思議なお姫様。 たいした話やないけどな。」
尚ちいさな微笑みのようなものを頬に乗せ、まるで手持ち無沙汰のように
指をくりくりと動かしながら、少年はつぶやくように話し出す。
「おいは貧乏な小作農の四男坊に生まれついた。 ととは物静かでよう
働いて、かかはもう、それは優しい人やった。
一番兄(にい)はこの土地を継ぐ人。 ととと同んなじ位の働き者(もん)。
二番兄は頭が良うて物知りで、いろんな事を教えてくれた。
三番兄はやんちゃで喧嘩が強うて、よう、おいを助けてくれた。
おいは三つ児の頃に胸を患うた。 熱に唸されながら、かかの咽び泣く
声が夢ん中の出来事みたいに聞こえてきた。
『あんな、霜降りる寒いなかに、なんべんもなんべんも、身ぃ切る冷たい
川ん中に……。 そんせいや、そんせいで、あん子は弱うに生まれて
しもて、今あんなにも苦しんで……。』
何の事やら、よう分からんかった。 ただ、苦しゅうて、苦しゅうて。
かかには泣いて欲しゅうはのうて。
お庄屋さんもええ人で、わざわざ見舞いに来てくれて、ひとりを助けりゃ
他にしめしがつかんからと、頭下げてくれはったと、だいぶと後に
一番兄に聞かされた。
ととの煎じてくれた薬草が効いたんか、おいは何とか命をつなぎ、
それから日に日に元気になった。 三番兄がよう、一緒に遊んでくれた。
野良仕事の手伝いの、仕方は一番兄がよう教えてくれた。 鍬も鋤も、
早う持ちとうて仕様がなかった。
しばらくして二番兄が、この子は頭のええ子やからと、お庄屋さんが
檀家となる、大きな寺に推薦状を書いてくれはって、そこに修行僧として、
住み込む為に家を出た。
それから三年ほどもして、今度は三番兄が、なぁになんとかなるわなと、
お庄屋さんの処から、都に戻る荷馬車に乗せてもろうて家を出た。
それでのうても世は戦乱に、年々取り立ての厳しゅうなるなかを、己の
分を減らし減らして、正月には必ず二人分の、餅をかかはこさえて待った。
一度だけ、家を出て三年目の正月明けに、二番兄が戻って来た。つる
つる頭に質素ながらもちゃあんと袈裟をまとうていた。 皆がにぎやかに、
笑うて笑うて、それからかかとおいが泣いた。声あげて泣いた。
『お前はずっとおいの元に居りゃあええ。 お前は野良仕事もよう精出す
よってに、おいも随分助かるしな。』
一番兄はにこやかにそう言った。 胸を患うた者に、雇い口なんぞある
筈もない。 おいはただもう感謝した。
ますますに取り立てが厳しゅうなって、お庄屋さんがお上の役人に、
どうぞこれ以上はと、土下座しはったと噂に聞いた。 粟稗(あわひえ)の
団子が粥になった。 食事の度にかかが詫びた。
二番兄や三番兄の、家を出た歳に自分もなった頃、村にお触れが立った。
おいはまともに字も読めんから、大人のひとの、口々にのぼる話を要約
して、そういう事かと頭に収めた。
それからずっと考えた。 ととも、かかも年を取る。 一番兄はあんなに
男丈夫やのに、もう二十歳をいくらも超えてまだ嫁の来手がない。
そいでおいは心を決めた。
使いの間を利用して、お庄屋さんに聞いてもろうた。 お庄屋さんは
不憫やと、ひとこと言うておいを抱き締めてくれた。 もらう金子を届けて
くれる、その約束もしてくれはった。
そうしておいは傭兵になった。
おいの配属された傭兵団の長は、まだえろう若かったけれども、聞けば
連戦錬磨の剣術の達人やそうで、皆を鼓舞する術にも長けて、皆から
慕われ尊敬されてはった。
ふるまわれた最後の食事の時、その団長がおいの隣にやって来た。
『坊主、歳は幾つだ。』
十二と正直に答えた。 近うに寄せられた顔には幾つもの傷痕があった。
『いいか。 戦いが始まればすぐに脇に身を隠せ。 それでも駄目なら
迷わず降伏しろ。』
耳打ちをするように小声でそう言うて、それから満面に不敵な笑みを
浮かべたと思うと、今度は皆にも聞こえるように、声音を大きゅうして
言うた。
『生きて戻れ。 そうしてまた稼げ。』
背中をどんと、平手で軽く打った。 皆がわっと鬨をあげた。
おいは、本望やと思うた。 幸せやと思うた。
……話は、これだけや。」
能面の少女の面持ちに、神妙な歪みが差した。
「この花を知っているか。」
指先に、くると回された呉藍の花に視線がゆく。
「あぁ。 彼岸花やろ。」
「謂(いは)れは知るか。」
もうひとつ、少年は微笑みを落とす。
「かかはいつも、畦に咲く彼岸花に掌を合わせていた。 なんでと訊ねたら、
死んだ人の往く彼岸にも、これと同んなじ花が咲いていて、ここで祈る
言葉をそのまんま伝えてくれるから、て。」
思わぬ処に少年はくすりと笑う。
「二番兄にそう言うたら、そんな事ないわと笑われたな。 人も動物も、
花も草も、死んだら終わり、後はない、て。」
「この花は、御前のものであったのかも知れないな。」
ぽつりと言葉を落とし、少女は白い腕を伸ばして赤い花を差し出す。
その時、夢を見ていた男が目を醒ました。
見慣れた天井の木目が突如目に飛び込んだ。次瞬ふうと男は息を漏らす。
じとりと綿の寝巻が肌にへばりついた、不快な感触と共に布団の上に
半身を起こす。
“情けのない……。”
自然、眉(まみえ)に力が入る。再度目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をし、
次には大きく見開いて、まるで意を決したかに横に置かれた時計を見る。
目覚めるに丁度良い頃合いであった。
掛け布団を丁寧に折りたたみ、立ち上がり寝汗に湿った寝巻を脱ぐ。
それで胸や腕の辺りをきつくこすりつけるように拭く。横にたたみ置かれた、
ぴんと糊の効いた、真白いシャツに手を通すと、しゅっと潔ぎの良い
音がした。それからこれもアイロンの能く効いた、黒いズボンを穿いて
身を整える。
その時あの呉藍の、花が肌よりじんわりと、左腹のあたりに浮き上がって
見えた気がした。沸き起こる感情と共に、そのあたりのシャツを、左の
手にぎゅっと絞める。
波に擦った模様の入る、古きに少し軋みをみせる硝子窓を開ける。かた、
と音が鳴った。虹に彩る朝陽の眩しさに思わず細めた瞳に、秋茜が一羽、
庭の背の高い松の緑を背に、光りのなかを飛ぶのが見えた。
朝に見るのは珍しい気がした。それと共に、その赤く細い体躯が、夢の
なかに見た曼珠沙華の花弁に重なる思いがした。
「国原は 煙(けぶり)立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ
うまし国そ 秋津島
大和の国は」
知らず、つぶやいていた。
厭な汗を妙(たえ)に涼やかな早朝の気に飛ばし、今度は音の鳴らぬ
ように硝子窓を閉めた。それから、横の平机に目を遣った。
整然と片づけられた机の、ほぼ真中に、文鎮に押さえられた淡紅色に
赤い紙切れがあった。
青銅の文鎮には、朱鷺(とき)の模様が彫られていた。帝國大学入学の
折り、記念にと父が与えてくれたものであった。
『もう少しましな物が欲しければ、好い成績に卒業する事だ。』
祝いの席の、父の言葉に家族全員が笑った。歳の離れた妹が、より楽し気に
きゃあきゃあと甲高い声に笑った。
ふと男は腑に落ちた気がした。あれは妹の、後生大事にいつも抱えている、
市松(いちま)人形であったのか。
尤も、着物の柄が違う。いちいち詳しくは覚えている訳もないが、
妹のものは紅に紫に、緑に紺に、大変に色とりどりに艶やかであった。
平机を前に、真中に敷かれてある座布団の上に正座した。一枚の桜の
木に造られた、机の上に浮かぶ美しい年輪の模様に初めて気が付いた。
つい昨日まで、ここを辞書に分厚い本に埋めつくし、その中に身を置き
論文を書くだけに朝な夕なを過ごして来たというのに。
あの日々もまた夢であったのか。
もう一度、男は淡紅色の紙に目を遣る。神棚を仏壇を、巡り巡って
此処に在る。
愛おしむかに机についた手を力点に立ち上がり、そびらを返したかと
思うと、畳を踏み据え廊下を隔てる襖の元へと歩み寄る。漆塗りの引手に
手を添え、一間を置いてそっと戸を引く。
一歩、黒光りのする廊下に出た途端、ほんのかすかな匂いが男の臭覚に
響いた。懐かしさを呼び起こすそれは、廊下の先の階下より漂いのぼり来る。
“あぁ。”
それは白米を炊く匂いであった。現(うつつ)が確と其処に在った。
男は後ろ手にすうと襖を閉める。そうしてそれに向かい歩を出した。