“またあの夢か……。”
如月は思う。
子供の頃に 幾度となく現れた
そののち年月とともに忘れ去り 久しくあったあの夢の
この一月余りに いったい何度訪れることだろう──。
「修羅は何だか風切羽をもがれた 渡り鳥のようだね。」
八雲の傷の 手当に手を動かしながら
呟くように木晩が言う。
言いながらも その脳裏に浮かぶのは
今や 遙けき昔に 感じる景色。
高い空 光の乱反射のような 薄い雲
冬立木(ときわぎ)の 葉叢(はむら)をとおす
小春日和の 木洩れ陽のなか
安楽椅子に 腰掛けるねえさまの 膝には綺麗ないろの毛織物。
「修羅さんと ともに行くのですね。」
「……ごめんなさい……。」
寂し気に でも優しく微笑まれて ねえさまは言う。
「木晩が 謝ることはありません。
修羅さんはあの方の 大切な忘れ形見。
ただ あの希なる銀の瞳
あのひかりが引きずる 影法師
その暗黒は あなたをさえも
いだき込むことに なるかも知れない。
あの人の闇は それ程深い。」
「……何故? なぜそんなふうに お思いになるの?」
吹く秋の風に 木の葉ずれのおと。
長い髪をなびかせ ねえさまは 瞳を下に呟かれる。
「……あの方がそうだったから……
……そうして 多分私も……。」
「……私は修羅の 邪魔になるばかりなのかな。」
「それは私にも わからないけれど
たとえそうだとしても あなたは
旅を 止めなどしないでしょう。
それなら どうか その瞳 その肌で
是非 亜魏の国を見 空気を感じ
そうして戻り 伝えて下さい……修羅さんとともに 私に。」
「……必ず。 約束するよ 愛しいねえさま。」
「この一月余りの間 修羅にも色々あったのだろう。」
相も変わらぬ 八雲の静かに やわらかく響く声に
現にもどりながらも 木晩は思う。
戻り来た 修羅の瞳は とおくを 見ている
私の知らない 遠いところを──。
「何だ。こんな処で寒くはないのか。」
丸屋(まろや)に ほど近い 常緑の大樹のもと
坐る八雲の 微風うけて ゆらゆらゆれる金の髪は
木洩れ陽のひとつひとつを 吸い込むよう。
「春の気配を運ぶ風の 蔀閉じた室(むろ)よりは
よほど心地が よいのだけれど
これ以上の遠くには 木晩が許しを与えてくれない。」
さもあらんと くっと笑って大樹を見上げ
修羅は呟く。 いつものような 低い声。
「こいつは……あららぎの木だな。」
「傷はどうだ。」
「上々……。 木晩のお陰だ。」
樹の太い幹にもたれ立ち 遠くをみつめて修羅は言う。
「奴は……名を名乗ったか。」
「いや……。」
「では俺の 旧知であるとは語ったか。」
「……あぁ。」
ぎらり光る銀の瞳。 声は更に低くなる。
「……手強かったか。」
「それを聞いて何になる。」
「答えろ。今奴と俺が闘ったとして どちらに勝機がある。」
碧の瞳の 静かなことには 一輪の変化もない。
「……あの男は経験に富み しなやかで 確かな技術に優れていた。」
蠢く感情の 力の限りに 修羅はその左拳を
幹の木肌に 打ち付ける。
「八雲。」
しばしの 後の 静かな声。
「……下腹に力が入るようになれば その手で一拳 俺を殴れ。」
初めて八雲は 修羅を見やる。
「一拳には一拳……ではなかったのか。」
血のにじむ 拳を瞳にしかと見せ そうして修羅は にやりと笑う。
「それまでに せいぜい顎を鍛えておくさ。」
背をそむけた途端 修羅は 思い出したかのように言う。
「……そう言えば お前に そっくりなものを見たぜ。」
「湖に囲まれた 妙な処に仏師がいて
そいつが 手がけていた像だ……未完成だが お前に似ていた。
……菩薩像だと言っていたな。」
「まさか。」
放たれた一言は 氷の如く
同時に伏す碧の瞳と顔(かんばせ) 隠し流れる金の髪。
“……なに?”
驚き 振り向く修羅に 一層襲う 奇妙な戦慄。
美しく 傷ついたひかりの かたまりを
そこに置き去り 歩み行きつつ 修羅は思う。
“こいつも……そうだというのか……?
なら何故 今までわからなかったんだ……。”
八雲の傷の 良くなることは 日に明らかに
幾日が そのようにして過ぎた。
ある時 終日を嵐が襲う。
「雷鳴だ……春のおとづれだね。」
木晩が言うと 同時に微笑む 八雲と如月。
「厳霊(いかつち)だ。」
呟く修羅の 低い声──。
ある日のこと。
「隊商が来るぜ。 村人の言うとおり
はずれの 廃屋に潜んでいれば
まず こともなく 過ぎるだろうが
俺は 大通りの 向こうの林に
恰好の小川を見つけたので ことのついでに
魚の二 三匹も 捕らえてくることにする。」
大量の 魚を肩に 戻った修羅の
耳に村人達の あちこちに囁く声。
“かわいそうに まだ十にもなっていないよ──”
“馬鹿なことをしたもんだ 用心棒の 剣を盗ろうとするなんて──”
“あの娘さんは? あぁ あの子の姉さんなのかい──”
“どうなるんだろう あの子達──”
ばたり 滑り戸を引くと なかには如月 ただひとり。
どさり 放り投げられた 魚の山を見て
如月は静かに 微笑する。
「ありがとう。 本当に修羅は 魚採りの名人だな。」
「八雲と木晩はどうした。」
……その一瞬に 如月は 感じ取る。
戻り来てからの 修羅はまるで 臥龍が如く。
それがとうとう 目覚めたか。
「つい先程 二人揃って 薬草を 採りにでかけた。」
虚をみつめる 銀の瞳に 如月は 語りかけるように言う。
「修羅。何があったのかは知らないが
戻って来てくれたことに 礼を言う。」
丸屋のなかは 蔀かかる 小暗い世界。
にやり……笑いながら修羅は 壁を背に立つ如月のもとに
躙り寄った かと思うと 片腕を壁に
まぢかに迫る 瑠璃の瞳を
光る銀瞳で じっと見据えて 低いひとこと。
「唇が欲しいのなら そう言えばいい。」
「失せろ。」
如月の声音は 地を這う如く。
だが体躯は そよとも動かず ほんの微かに 瞳を細めたのみ。
「銀瞳の化け物が。」
は……。 修羅は腕降ろし 踵を返す。
「まさに 阿吽……というやつだ。」
吐き捨てられる 低い声。
「良い夫婦になれるぜ。」
ぱたり……戸の閉まる 静かな音。
その響きに 感応し 知らず溢れる 水雫を 如月は
まこと 恥じ入るかに 手に 拭う──。
その夜如月は またあの夢のなか。
そして 同じように父親の 呼ぶ叫び声。
“ら……ぎ。 ……ら……あ……ぎ……。”
“えぇ?”
跳ね起きた如月の 闇のなかの 蒼白の顔。
「如月姉様? どうかなさったの?」
驚き 起き上がる 木晩。
だが如月の 小刻みの震えは 止まらない。
「姉様……?」
一点を見据えた瞳 震える唇 それを隠そうとする 手にも震え。
「八雲兄様を呼んで来る。いいね?」
木晩が隣の部屋に行くと ひとり八雲は褥の上に。
「……修羅は?」
「今夕 如月に魚をあずけたまま 戻らない。」
「何……だって?」
「どうした。」
如月の 横に坐り そぉと手を合わせる八雲の 優しい声。
それでも震えは とまらない。
揺れる肩に 腕を回し如月を 八雲は胸に 抱き寄せる。
静寂……そっと木晩は 部屋を出る。
震えは次第におさまりゆく……ゆっくり ゆっくりと。
「……八雲……。」
「私はここにいる。話したくなければ 話さなくてよい。」
「私は……」
縅黙(しじま)に 如月の声の 谺する。
「私は……亜魏の……人間なのか?」
広い胸に 身をあずけ 虚をみつめる瑠璃の瞳。
「……子供のころ 同じ夢を 繰り返し見た。
私は冷たい石畳の おおきな屋敷のような 処にいて
その扉のそとには どちらを向いても 水ばかり
私はどこへも 行くことができない。
寂しさと 怖さにふるえ 泣いていると
どこからか 父の呼ぶ声が 聞こえてくる。
……そうして ようやく目を 覚ます──。」
「……同じ夢を この頃何度も 見るようになった。
そうしてようやく 気付いたんだ。
私は この辺りを
南東にそびえる 大山脈を越えると そこに
亜魏の国せまる この土地を 見知っている……と。」
思わず漏らす 苦い笑み。
「……既視感かとも思ってみた。
だが そう考えると 妙なまでに つじつまが合う。
男ばかりの兄弟に ぽつんと 女の私が ひとり
父にも母にも 兄弟の 誰一人にさえ 似ていない……。
そして今 はっきりと 確信した。
私の名前は “あぎ”に ちなんでいるのだ……と。」
「如月。」
八雲の声音の 静かにも 何と沈鬱に 重い響き。
「確かなことは 私も知らぬ。
だが私の異母妹 彌勒には おそらく亜魏の血が 流れていた。
もし それが真実なら 瞳のいろも 髪のいろも
おなじあなたが 亜魏国の 赤い血をひく者で あったとしても
何ら 不思議はないだろう。」
驚きに 潤む瑠璃の 瞳揺らせて
如月は 八雲の胸より 身を起こす。
「……あなたは ……あなたは 知っていたのか?」
八雲は 瞳伏したまま。
「いつ……から……。」
「……亜魏急襲の際。」
「その相手に……瞬時に刃を 向けたというのか。」
あいかわらず 八雲は 碧の瞳 伏したまま。
「では私の仇討ちなどに なぜあなたは 手を貸した。」
「……あなたが 自分の血の素性を 心得ているのかいないのか
知る術は なかったけれど
私は 斬ることには 慣れている。」
如月は 瞳が別の 涙に潤んでゆくのを 感じながら
八雲の 静かに脈うつ 胸に手を置き
その手の上に 頬を乗せると
さらと流れる 灰青の 不思議ないろの髪。
「自分にその血が 流れていると
知って尚 私は 兄上を 父母を想うに
仇討ちを 止める心を 持てそうもない。
……あなたは 軽蔑するだろうな……。」
「何故……。 私はただ あなたが いとおしい。」
「八雲。」
先程と 同じように如月は
八雲の胸に いだかれながら
その潤む瞳で 静かにたたずむ 碧の瞳を
じっと静かに 見つめて言う。
「あなたは私の罪深い 仇討ちごときのために
己の身を 裂く思いに
最も 斬るに耐えぬ人達を 斬り続け
尚 これからも それを 厭わないというのか。」
碧の瞳にたゆとう 慈しみと 悲しみのいろ。
「私が 望んでしていることだ。」
「八雲。」
胸に置く 手を八雲の首に すぅと滑らせば
かたむく八雲の 金の髪が ふわり涛(なみ)となり
ふたりの姿は如月の 涙とともに 御簾のなか。
“……どうか私を 許してくれ──”
戸を引くと 即座 驚き振り返る 木晩。
「八雲兄様。今宵は 如月姉様の──」
「如月は随分 落ち着いた。」
言葉を遮り 八雲は言う。
「修羅は 年少のころより
独り時を過ごすのを 常としていたと聞く。」
榛の 瞳じっと 八雲を 見やる。
「そのくせ 根は人嫌いという 訳でもないのだから
あの男にも 困ったものだ。」
くすり 微笑む 碧のいろ。
「まだ夜の 明けるまでには 時がある。
あちらの如月のそばに ともに休んでやっては くれないか。」
この人は なんてうつくしく ほほえむのだろう
だがその思いさえ 溢れる言葉を 塞き止められない。
「八雲兄様。 修羅の抱いている暗黒って
そんなに……そんなに 大きなものなの?」
「誰のなかにも ひかりと闇は
真円のなかの 勾玉の如くに 存在する。」
即答された 静かな韻律と
夜闇のなかにさえ 光る髪なびく 碧の瞳の このひとの
尊厳湛える 美しき相貌は いま先程とは 別人の如く
思わず木晩は 息をのむ。
「修羅の抱く暗黒が 木晩の言うよう 大きな闇であるならば
それに見合う輝きの ひかりを修羅が 持つという事。」
瞳がふわり 微笑めば そこにはいつもの 穏やかな八雲。
「修羅の美しく 光る瞳に
誰もが魅かれ やまぬのも その故なのかも 知れないな。」
木晩の瞳に顔に ようやくの微笑み。
「……ありがとう 八雲兄様。
つまらないことをお訊きして ごめんなさい。」
部屋を出ながら 木晩は思う。
私は今 ひとの心の 深い闇を
拭い去れない 根源の悲しみというものを
生まれて初めて 見たような気がする。
私は今まで本当に 何も なにも知らずに いたんだ──。
隊商には とうに追い付いていた。
だが修羅は ここに来て 躇いを身に 固めている。
決意し ようやく立ち上がったのは 陽が西に 姿隠そうとしている頃。
「待ちな。」
途端 鞘より剣の抜く音の あちらこちらに 響きわたる。
その内の独りが 剣を揮りあげ 立ち向かう。
ぎん……。
刀背にその 刃を拾い
修羅は用心棒を 薙ぎ倒し 剣をぶらり 垂れ下げる。
「気の早い野郎だな。
俺は盗賊でも 辻斬りでもねぇ。」
ぎらり……西陽を浴びて 光る瞳。
それを見た 用心棒のひとりが 驚愕を隠せず 漏らす一言。
「銀の……瞳。 貴様 修羅か。」
「……間(あわい)なくも 周知とはまた 光栄だぜ。
この隊商の 責任者に 話がある。」
がちゃりと 鞘に 収められる 修羅の剣。
暫くののち 厚手の木綿布に 覆われた
先頭の俥から 一人の男が 姿現す。
「これは……成程 叢雲の 残照うけて
美事輝く まことの銀の瞳。
我は 連(むらじ) 名は緑雨(りょくう)。
この隊商を 預かる身である。」
「御託はいい。この中に 二三手前の 集落で
拾った 餓鬼とその姉が いるだろう。
その二人を 解き放して欲しい。
用件は それだけだ。」
緑雨に宿る 不惑の落ち着き
灰色帯びた 鈍色(にびいろ)の 濃緑の瞳にあらわに。
「嘆願に 隊商の足止めるとは それ相応の
見返りを 用意しての 所業であろうな。」
「……何が 望みだ。」
緑雨の口元に 不敵の微笑。
「八雲。久遠の誇る 金の髪の。
その手に握る 宝剣 朱壬。
……両方とは 流石に 欲に過ぎるかの。」
「……八雲とは袂分かった。俺は ひとりが性に合う。」
緑雨には あいかわらずの 余裕の微笑。
「猿芝居さえ 不得手と見える。
まぁ今 其方(そち)に八雲が揃わば
この隊商 一澑もない事 緋を見る如く。
この望み 今ひとまずは 置くとしよう。」
ぎらり……入り陽に 光る銀の瞳。
「ふざけていやがるんじゃねぇぜ。俺は本気だ。」
灰色帯びた 濃緑いろに きらりと光り。
「では其方に 何が出来ると申す。」
「……亜魏の用心棒になってやるぜ。」
一瞬 ざわめく 周囲。
だが 緑雨には 顔色ひとつ 変わるでなく。
「其方 今 己の口に 発したばかりであろうが。
一人が性に合う者に 用心棒など 務まりはせぬ。」
銀にひかる瞳に 更に 残り陽 ぎらと浴び
修羅は 地を這う 低い声音 確かに放つ。
「……では この命 くれてやる。」
緑雨の 灰色帯びた 濃緑の
瞳が初めて 真に修羅を しかと見据える。
静寂……周囲の ざわめきを他所に。
「笑止。」
「其方が己の 力量を
如何様に 過信しようと自由なれど
我が 亜魏軍にとり 其方などは
顔面にうろつく 蠅一匹も同然よ。
その命 咎人(とがびと)と引き換え程の 価値も無いわ。」
その声音の 森厳なこと 囂々と流れ落ちる滝の如く。
ぐ……。
思わず剣柄を 握る手に力。
はぁと 荒い息 おさめるだけが 必死。
「……だが俺は 貴様達の同胞を 数え切れぬ程 殺して来た。
復讐位には なるんじゃねぇのか。」
「個人的怨恨など 更に 我関知する処にあらず。」
「……では俺に 出来ることは 何もないという訳か。」
しばしの後の 諦観の呟き。
緑雨の顔に 元の微笑み。
「物分かりだけには 多少は長けていると見える。」
「あの餓鬼と女……どうするつもりだ。」
修羅の声は 独り言のよう。
「それこそ 其方の口出し 無礼至極。
両名は 咎人とその家族なれば 刑罰に処するが 当然の筋であろう。」
修羅は緑雨に 背を向ける。何も言わず。
そうして歩み去る。
剣を抜き 構える 用心棒達に
緑雨が それを 手に制止する。
「珍しい客人(まろうど)であったな。
あの 修羅なる男 幾歳程と見る。」
木綿布の中の 美事な毛織物の上に 坐り緑雨は 従者に問う。
「さて……二十歳かそこら……といった処に ございましょうか。」
「……色恋の なせる愚業かと 思うたが。」
従者の視線のなか 緑雨は 小さく溜息をつく。
「例の二人 修羅の心意気に免じ
無下な扱いなき様 諸氏に命ぜよ。」
「……畏れ多くも あの二人 亜魏に於いて
いかがなされる おつもりでしょう。」
「……童子には 年少ながら 鋭き瞳に
鍛練課すれば 強き剣士に育つやも。
娘には……沈魚落雁とまでは いかぬ様子に
帝に 献上申し上げるまでもなく
機織りの名手と 耳にすれば
相応の働きを 期待するより 外もなかろう。」
鈍色の 灰色帯びる濃緑の 瞳に幽かな影。
「……あの若さにて 既に大国亜魏を 震撼させる程の腕
その者の表情にさえ蜉蝣(ふゆう)の様が浮かぶなど
まこと 戦などは さてもあらぬ。」
修羅はひとり 焚火を前に。
“埒もねぇな。”
火影に揺らぐ ぽかり穴のあいたような 銀の瞳。
“埒もなければ ざまもねぇ。”
馳せる 想い。
“初めは義姉……。そうでなくては 名門の家主などと云え
異の国などと 呼ばれる処に 嫁がせなどするものか……。
“それから 維摩。 そうして……涓。”
浮かぶ 涓の たおやかな笑顔。
沁邪との 冬の陽光のなかの 退屈で しあわせな日々。
“緑雨か……食えねぇ野郎だぜ……。”
“くそっ。”
蹴り上げられる 湿り土。 そこに 打ち付けられる 左拳。
“全く……呆れるな……。”
炎に反射するのは 潤み ゆらゆらゆれる 虚の瞳。
漆黒の髪うなだれ 屈み込んだまま
どれだけの時が 流れたか。
遙か遠方に 神鳴りの 微かな轟き。
“八雲……そうだ 八雲。”
「余程 この樹の下が お気に入りとみえる。」
聞き慣れた声に 振り向きもしない 金の髪。
「木洩れ陽と 木の葉ずれの音は いいものだ。」
くすり 微笑む 碧の瞳。
「この季節の 日暮れ時 冷えた大気も 心地よい。」
「久遠は北の 寒い地方だからな。」
にやと笑うと 途端に 突如に襲い来る
安堵の気持ちと 虚脱の感覚。
「……何だか疲れた。 坐っていいか。」
「……あれは樫の木の下だったな。
お前は言った。剣の光る刃には 天魔波旬が潜むと。
……ようやく俺にも その意味が
多少は分かった 気がするぜ。」
八雲は あいかわらず表情の ひとつも 変えることがない。
「……俺は餓鬼のころ 実に下らねぇ 体験をしてな。
以来 同じ目に遭った 人間を
嗅ぎ分けられるようになった。」
自嘲するかに 修羅は嗤う。
「何故分かるのかと 問われても 自分でもよく 分からない。
ただ 特有の 負の感情
憎悪や怒り 屈辱といった 負の感情が
瞳や表情や 態度などの
どこかに 微かに 見え隠れする。
消し去ろうとして 出来るものでも ないのだろうな。
……だが お前のことは
つい先日まで 分からなかった。」
夕刻の 冷気含む微風が 八雲の髪をなびかせると
そこに覗く相貌には 伏された碧の 沈む瞳。
「……七歳のころの 休暇期間中
誰もいないはずの宿舎に 真剣を持った 若い男が現れた。
訳の分からないまま 急に恐怖が全身を貫き
思わず 振り返り見ると
男の 嘲り笑っていた表情は その途端 凍り付き
それからひどく脅え 震えだしたかと思うと
叫び声を上げ 走り去った。」
「もういい。俺は ただ──」
「将来を 嘱望された 剣技の腕前だったらしいが
以来 その男の姿は 見ていない。
振り返り見た 私の瞳が 皎々たる 碧色の光を放ち
そのなかに 魔縁が にやり
ほくそ笑んでいたと 口走りながら
衰弱し 狂い死にしたと 聞いている。」
ざわり……風受け 揺れる木の葉。
「俺は ただ そんな腐れ外道にさえ
お前は なぜ憎悪を 持たねぇのかと──。」
「……修行で我身を 傷つけることが 重なると
やがて 自分にも 分かるようになって来た。
身体に命に 何らかの危機が 及んだ途端
私のなかの なにかが 瞬時に覚醒する。
……憎しみや 怒りを感じる合間もないのだ……。」
伏されたままの 碧の瞳隠す 金の涛。
「お前の言った そのとおり
私は 常人ではないのかも知れぬ。」
修羅はその 銀の双眸に 複雑ないろ 織りこませる。
「真の強さという奴は そういうものなのかも 知れねぇな。」
「……真の強さなど 私には一生 縁のないものだ。」
ざわり……葉叢の 囁くおと。
「なんだ。つまらねぇ。」
予期せぬ言葉に 一瞬 円くなる碧の瞳。
「この世に 俺の知る限り 誰より強い 久遠の八雲
その お前をこそ
いつか必ず 俺の剣前に 平伏させてみせると
それだけを楽しみに 戻って来たと云うのによ。」
みつめる 碧の瞳。 にやり 微笑む銀の瞳。
「全く お前といると 倦(あぐ)むことがない。」
「八雲兄様 夕餉の支度が……あれ?
修羅ってば 今度はもう 戻って来たの?」
くすり 笑みに埋まる 八雲の顔。
「……悪かったな。」
立ち上がり 歩み出すと
入り陽を背にうけ 長く尾を引く 影ふたつ。
「ところで いつ殴らせてくれるのだ?
私の方は もうすっかり良いのだが。」
ごくり 唾を 飲み込む修羅。
「……できれば 夕餉の あとにしてくれ。」