外伝5・巴

話は随分と遡る、
そう、八雲が修羅と初めて出逢う、それよりもほんの少し前の事。

ちゅんちゅん……まず、耳が一等最初に反応した。
朝啼鳥の囀りに、そうだと認識出来ずのまま気づき、
そうしてその音達に、いざなわれるかに
魂魄がこころが急ぐかに、あるべき処に戻り来る。

薄ら目を開けようとすれば、
縞々に入り込む細きひかりさえ眩さに痛い程。
ここはどこだ……とても狭くて……座位に漸く籠もっていられるような。
ひかりの入り来る縦格子の木の扉を押してみる。
それはぎぃと、軋みに音をたてながらも、ほぼ苦も無くに開かれる。

そぉ、と八雲は外に出遣る。
ふら……天がまわる、地が踊る。
手脚が、身体のあらゆる部位が軋みに鳴く。
降り立った地に座り込み、漸うのこと身を落ち着かせ見遣れば
これは……私の居たのは神祠堂の内。
八雲はぼうと曇る頭のなかに懸命に記憶を辿る。
そうだ……私は……私は、久遠を後にし、あてもなくただ歩いていたのだ
……彌勒の葬儀ののちに……。

不図、帯刀に意識と手を遣る。
いつものように其処に在る、久遠の宝刀、神剣朱壬。
……何故、これを置き出られなかったのか
何故それが適わなかったのか、未だ解らぬ……。
あれからそう、一週間……いや、十日になるか。
……そう、そこからの記憶がぽっかりと抜け落ちている。
どうやら行き倒れたのであろう、けれども、
何故そうなったのかも分からなければ
このような神祠堂に身を隠した覚えも当然にまた全くない。

体軀に特に痛む箇所もなく傷も見当たらぬ。
次に周囲を見回し記憶を辿ろうとする。
分からぬ……ただ、歩いていた、
それまで、何らの予兆もなかった。

立ち上がり、もう一度八雲は神祠を見遣る。
この辺りは特に狼の多く棲息する地だ、
何方か親切な方が倒れる私を此処に運び入れてくれたのか……。

と、ぐらりと一瞬世界が回り暗闇に落ち膝に崩れる。
いけない……一体私はどれだけの間この神祠に居たのだろう……。
……と、その瞬間、人の気配を感じた。

驚き瞳線を飛ばせば、その先、木に半身隠す恰好に
こちらを見据える少年のような少女もまた、
今、まさに今、八雲に気付いた様子。

はぁ……八雲は一息をついてすうと立つ。
「すまない、そこの貴女。驚かせましたね。」

そのやわらかに澄む声に、少女は引き寄せられるかに
半身隠した体軀を露わに。
「あ……あんた、どうしたんだ?……行き倒れか?」
可愛らしく、高くも、清々しい声。

ふ、と微笑む八雲。
「どうやらそんな処の様子。面目もない。」

一歩、一歩。
そお、と、まるで手負いの猛獣相手のように
少女は恐る恐るに近づき来る、
その栗色の瞳輝かせ、
八雲の顔を覗き込んだ、かと思うとすぐに
腰に許された美事な帯刀、それらに瞳線を交互に走らせる。

「あんた……剣士なんだよな?
 私みたいな童子、斬ったりなんぞ、しないよ、な?」

その一瞬の八雲を、何と表現すれば良いだろう。
ただ、瞳を伏せ、首を一度、横に振る、ほんの、ほんの少し。
朝陽受け存分に輝く金の髪、その姿隠しも切れず。

あ……口走ってしまった一言を心中に悔やみつつ
また一歩、近付いて少女は言う。

「私は杜(もり)。ここから少し行った処の者だ。」
そうして、まるで仲直りの握手をとばかりに、
少女は、まだ小さくやわらかい右手を、それでも確と八雲に差し出す。

ふ、と、氷解したものがぼろぼろと剥がれ落ちるかの
微笑み浮かべ、そのちいさき手を取りこちらも確と。
「……八雲。久遠の。」

「……へぇ。」
驚きに一瞬間を置いた少女は、その八雲の白く大きな手を
固く握り締める。
「八雲。良い名だな!」
その弾けるような笑顔。
そうして続ける。

「……空腹なんだよな?……うちの集落まで歩けるかな?
……と、あぁ、そうか烏威(うい)が……。」
「烏威?」
「うん。烏威は私の、いいや、私達、里全員の守り神なんだ。
……でも、うん、そうだ、村に入れなくても、
食べ物少し分けるくらいなら、いくらでも出来るから、さ!」

「なぁ、やっぱりちょっとふらついてるよな?
途中で倒れ込むのだけは勘弁しろよな、
あんた、綺麗な顔して背丈は結構でかいんだから
私じゃぁとても背負い切れないからな!」

ふ、と八雲は笑みを禁じ得ない。
杜、と名乗る少女、不思議なこと、
この新緑眩い季節に陽焼けにもないであろう
小麦色の肌全身にかがやかせ、
また片瞳の下頬には
丁度指ほどの太さ、長さに
眦へと弧を描くように、流れる一本の墨の彫り。
集落のしきたりなのだろうか……それにしても
なんて気持ちの良い少女なんだろう。
まるで春風のようだ。
歳の頃なら……そう、多分……
彌勒とそうも違わないのだろうな……。

ほんのしばらくゆけば突然に眼前に現れたのは
苦しい程の新緑を深い谷に沈める長い蔓橋。
「この橋を渡った処なんだ。」
一歩踏み込めば、ぐぅ、と生き物のような音を立て撓(しな)る蔓の橋を
少女はまるでないもののように飛ぶような身軽さに、
結わえもされない薄の穂色の髪を風に遊ばせながら駆けてゆく。
「あんたは来なくてもいいよ、そこで待っててくれたら。
 揺れて気持ちも悪いだろうし……何しろ烏威が、な!」

来なくて良いと言われはしても
あのような少女に重い食物をここまで運ばせるのもと、
それより何より妙なる興味の糸を引かれ
恐らくは杜そのものの愛らしさにも惹かれ
八雲は一足、二足と歩を進めてはみるが
空腹と、平衡感覚がいまだ毅然としない身に、
さすがにこの霧たち先もおぼつかぬ
蔓の橋は少々堪える、と、我ながら情けない、
ゆうるりと歩を進めればその先に
ぼうやり視界に入り込んで来たのは
件の少女とその横に、四肢凛と立つ巨軀著しい黒狼。

あれが烏威か、なるほど……。
腑に落ちたとばかり、こころのなかに八雲は思う。

「烏威、あれはね、敵じゃあないんだ。
 敵じゃあないから、噛んじゃ駄目だよ!」
まるで得意気に、杜はしゃがみ黒狼のふさふさした首に手を回し
その、大きく立つ耳に言い聞かせるように言う、すれば
如何にも聞き分けのよい耳の、ひく、ひくと動く。

「待たせてしまった、申し訳もない……これが烏威、か?」
……え? 烏威が唸らない? 威嚇もしない??
杜の驚きを待たず、更に驚かせた事には
烏威は、そぉと差し出す八雲の白い手を
金に鋭く輝く瞳にじぃ、と長く一瞥したかと思うと
次には今一度(ひとたび)その金の瞳に碧のいろ、
映し込ませるかにまたこちらも長きの一瞥、
そののち微塵もそれに逆らう事なく
頭を一度やわらかに撫でられるがままに
そのまま魔法にでもかけられたかにその場に自らそっと伏せ
それから美事な漆黒の尾を一度ふわりと振りさえした。

何本もの丸太を縦に重ね作られた門の閂を
がちゃがちゃと少々乱雑に開け杜はまるで吐き捨てるように言う。
「なぁ、あんた、狼が怖くはないのか。」
「狼は常に畏怖の対象、怖れている。」
「じゃあなんで!」
突然の声高にその場の皆が驚く、八雲も烏威も、
その声を出した杜本人さえも。
「……ごめん。そんなつもりじゃあ、ないんだ。」
「……いや。私は要らぬ事をした。里に入らない方が良いのなら」
「違う!」

「ごめん。そうじゃあ、ないんだ。」
そうしてにっこりと笑顔を見せる、春の陽だまりのような。
「八雲! 我が里、傀魍(くも)にようこそ!」


何だ……。
開かれた門をくぐり、一歩足を踏み入れた、その瞬間。
……この奇妙な感覚……。
頭の、こころの奥底に、つうう、と響(とよ)み渦巻くような。
身体をこころを共に絡め取ってしまうような。
不快なような、心地好いような……一体これは何だ……。

その思いの一方に
眼前に広がる光景に八雲はまた少々の驚きを禁じ得ない。
ちいさな集落に相応しい整然とした田畑、
円柱にとんがり屋根を乗せた珍しい恰好の
木造(きづくり)の家々はこぢんまりと可愛らしく。
穏やかな日常が普通に其処に在る、
閉ざされた陰国(こもりく)等とは到底思えぬ、信じられぬ。

「やぁ嬢。」
「おう、嬢はまた外にお出かけかい?」
「これは……嬢のお連れかな。」
「客人(まれびと)かね、嬢?」
「嬢が客人を連れてきた!」
「嬢が客人を連れてきた!」

口々にそう囃し立てる者達みなが、
杜と同じ、いやもっと濃い小麦色の肌に
それぞれ、二本、三本、多いものは
片方に収まりきらず、両の頬に合わせ五本、六本と
墨を彫り入れている、ひとりの例外もなく、
ただ、遠巻きに、賑やかに群がり来る子供たちを除き。

“客人だと……”
“何年ぶりかね……”
“あの肌、なんて白さだ……”
“一体何処の……”
“あの光る髪……”
“見ろよあの腰の剣……”
ひそひそ話される声また声、止む気配一向にないのもまたむべなるかな。

そうして彼等彼女等のまとう着物の何と色鮮やかな事。
何色、といちいちに挙げるのさえ厭わしい、
世に在る、ありとあらゆる色全てをこれでもかと
鮮やかに或いはしっとりと再現し具現したかの彩色には
正に色の饗宴、狂乱とさえ表現したくなる程の。

「あぁ煩いなぁもう! そうだよまた出かけたよ、
 そうしてこれは私の連れて来た客人だよ、
 だからいちいち兄上に告げ口なんかしないでくれよ、
 私が今から行ってちゃんと説明するんだからさ、兄上の処に直直に!」
外界で目立たぬ工夫か、極く普通の藍染の着物を着る杜は
足早に歩きながら、ほんの少し頬を昂揚させ。

「兄上はな、八雲。
 私とは随分と歳の離れていて、もう三十路になる。
 三年前に父上が身罷り、その後を継いで村長(むらおさ)となったんだ。」

なるほど……と、腑に落ち次には、ふ、と、笑みを浮かべる八雲。
「それで杜は“嬢”なのだな。」
「やめてくれよ……!」
ますますに赤く染まり、熟した果実のような杜の頬。

「兄上! 兄上!」
他のものよりほんの少し、一回りほど大きめの
家の前に杜は声高に呼びつける。
扉を開け、ぬぅと現れるは、
極彩色の着物幾重と纏い、頬に三本の墨を彫り
真朱(まそほ)の色鮮やかな撚糸にて
不可思議な結いに結い合わせた太紐を額に巻く
やはり小麦の肌の、上背のある、ひとりの偉丈夫な男。

「杜。また外界に出たそうだな。」
男の声は存外と低くに澄む。
「兄上。この人は八雲、や・く・も!」
外出の咎など何処へやら、まるで自慢気なような杜の話ぶり。
「蔓橋の、つい向こうに倒れていたんだ、お腹空かせて、だよ!
 ほんとうは、久遠、って処の人なんだそうだけど。」

八雲は見逃さない、その一瞬、
相対する男の、眉間(まゆあい)に走る、ほんの少しの強張りを。
そうして二重(ふたえ)に面妖なるには
その、一糸違(たが)わぬ感覚に、八雲、己自身もまた囚われた事。

そう言い放ったかと思うと杜は
「じゃあ、後で、な! 八雲!」
と、あっという間に立ち去る様もまた、まるでちいさな春嵐のよう。

「八雲殿と申されますか。狭き処ではありますが、どうぞ中に。」
男の声あくまで静かに、少しの重みを必ず含み。
「……杜殿は。共に居られぬのですか。」
ふ、と男は笑みを落とす。
「刺青、十(とお)を数えば一つ。
 ひとつ彫らば以降、夫婦以外の男女
 同じ屋下に居るべからず。
 ……これもまた、数多い当地の仕来りの一つです。」


招き入れられた屋のなかは、仕切りなくただひとつの間に
これもまた極彩色、極彩色の敷物、布に、あらゆるものの覆われて、
また一方には木組みの美事さの、そちこちに見てとれる様、
まこと触れ得た記憶のなき美しさに眩暈覚えてしまうよう。

囲炉裏のようなものの前の敷物に、座すよう八雲は促される。
「……なるほど。どうも妹(いも)は貴方に、
 なにやら縁(えにし)を感じたのかも知れませぬ。」
そう言って正面に自らも座し、八雲を見据えるは珍しき水縹色の瞳。
杜と同じ薄の穂色の長い髪には、これもまた見た事もない複雑な結いを施す。
「我が里はいにしえより、傀魍、と、呼び称されております。
 そうして貴方のお名前が八雲。
 ……同じ、“くも”ですから。」

「挨拶の遅れました非礼どうぞ御寛恕に、私は名を霜夜(そうや)と申し
 この里の、村長の役を仰せつかる者に御座います。
 十八も年の離れた妹の無礼、これもまた平に御容赦、真にあれは頭痛の種。」

そう言って微笑んだかと思うとすぅと立ち上がる。
「空腹との事、何ぞ食餌を御用意致しましょう、
 我が里は菜食故、大したおもてなしにもなりはしましょうまいが。」

村長と自らを名乗る男に従者一人も其処にはなく、
何もかもを霜夜はひとりでこなす。

「こちらこそ、申し訳もありません、大変に図々しい事です。」
「いえ。けれどもよく門を入れましたね。大きな狼の居りましたでしょう。」

経緯を話すと霜夜はさも可笑しいといった風にあははと笑う、
その笑顔の爽快なこと。
「それは妹には、まるで烏威を其方に取られたかの
 幼き勘違いに、余程に障る事にあったのでしょう、
 なにしろ烏威は、数居る狼のなか特段に妹のお気に入りに
 あれの、まるで弟のような存在なものですから。」
「……他にも手懐く狼が居るのですか。」
「ええ。この里では古より狼と人は
 ひどく相容れぬ存在、ではないのです。」
ふ、と微笑む。
「我々が菜食なのも理由の一やも知れませぬ。
 ……尤も、乳製品や卵などは良く食するのですが。」

くつくつと、野菜が眼前の鍋中に煮立ちくる。
湯気の、もう、と、あがり、瞳前の、相手の姿をも
白き靄のなかに時として隠し、また時として露わとする。

「妹より他にもこの里の事、聞き及ばれもされたでしょうか。」
特には、と、八雲の返事を待てば
ふう、と一息、そうして放つ、声音一段と低い一言。
「傀魍は此処、まつろわぬ者の住処なり。」
水縹の瞳がぎらりとひかる、白き霞を通して尚、確と。

瞬時男は微笑みを落とす。
「さぁ、どうやらそろそろに食べ頃のようです、
 香味を幾重にも使用しておりますもので、
 御口に合わねば御容赦、とまれ、どうぞ遠慮の無き用。
 私も、今日は丁度朝餉を食べ損ねた塩梅、御一緒させて頂きます。」

これは……不思議な風味漂う、だが……旨い。

一体どれだけの間胃を空にしていたのか想像もつかぬ八雲は
その非礼を詫び、少しずつ、少しずつ、箸を進め、
進めながらに聴き入るのは、霜夜の話す言の葉、その全て。


「“数えも切れぬ往古、ひとりの男在り。
 肌浅黒く髪、類もなき型に結い
 木の根ばかりを食し痩せし事木乃伊の如く、
 それ故にか身軽な事これ人とも思えず。
 草木(そうもく)のあらゆるを知り尽くし
 色を獲り、香(こう)を味を毒を獲る。
 両傍らに黒と白、雌雄一対の狼侍らせ
 香に惑わせしか方は知らず、鬼と通ずる。
 遂には鬼との取り決め事成し
 その証となるもの持つやら持たぬやら、
 さて問えば高木(こうぼく)つつと伝い
 天高く舞い上がるばかりに
 断じてまつろわぬ。”
 ……この修験道者が、我々の始祖、と、伝わります。」

ふ、と閑かの笑みひとつ。
「無論、鬼などとは恐らくに唯の伝承。
 また人なれば他所への興味湧かぬ訳も沈める術もなく
 出入りも禁忌とまでは致しかねはすれども
 ただ数々の仕来りの下にこのように
 籠(こ)もの生涯を密かと営むを是としております次第に。」

「杜殿には、お父上から貴方は村長を継がれたと。」
「またそのような事まで。確かに仰せの通り。
 私の血筋が始祖直系と伝わります。」

湯気の立ちのぼる、たちこめる、
二人の男の、それぞれの思いを乗せてや否や、
さてそれこそは白霞のなか。

「剣は……この里の方々はお持ちではないのですか。」
口火切ったのは八雲。
「まつろわぬ者として護身は必須。
 けれども相応しき鉄のこの地には採れず
 柔術習得に草木の弓矢、加えその鏃(やじり)に
 この地特有の毒を。」

霜夜、ふ、と顔を上げ。
「そう言えば、八雲殿には毒味もされず、度胸のおありな。」
「……毒なら毒で、それもまた一興、面白きかと。
 少しは耐性も、備えてもおりますもので。」
声色(こわね)顔色微塵も変えず。

は、と破顔は霜夜。
「その様に美事な剣携える方には流石と申し上げるより。
 ……申し訳もありませぬ、非礼を詫びます。
 何、どうぞ御安堵を、もし貴方に何かしらしたとなれば、
 いや、私には妹のその後の仕打ちの方が怖ろしい。」
はは、と笑い合う二人。

「もうひとつ……無礼承知の上お伺いしても宜しいでしょうか。」
口にして、しながらも八雲は思う、
これはやはり薬効や何や、混在のあるのやも知れぬ、
このような事、口走るとは我ながら。

「何なりと、御応えに適うものでありますれば。」
「伺えば、生を授かれたその瞬間より、
 いずれ村長となる宿命(さだめ)にあられたと。」

白い薄帳の向こうに、水縹の瞳、据えて八雲を見る、今一度、確と。
「その通りです、逃れ得ぬ重き宿命に生を受け……
 ……或る日、申し出ました、そう、まだ随分と若き頃、父に。
 いずれ統治の身なればせめてその前に
 他所地を経巡る自由を今一度のみ、と。」
ふ、と一息。口角があがる、ほんの少し。
「亡父の温情と度量に今となれば感謝の想いより他にもありませぬ。
 お陰で私は……えぇ、そう、実は、八雲殿、
 貴方の御国、久遠にも、お伺いの機会を持ち得たのですよ。」
突然の告白に、その碧瞳を瞬時細める、ほんの少し。

「北の地の、それは美しい処に御座いました。
 方々を、彷徨致しました内にも際立ち印象に残り在ります。
 ……そのような様々なる体験を経て、
 私にも、覚悟の卵のようなもの、それを漸くに
 芯に据え抱く事の出来るようにはなれたかと存じます。
 など言いはすれ、その実まだまだ、村の年寄りには
 あれもこれもまだまだと、叱責の済むのは何時になるやら。」
また、ふふ、と笑う。


「大変に馳走になりました。御礼の申し上げ様も。」
「何、取りそこねた朝餉の相伴下さり、
 まこと楽しき時を、こちらこそ御礼を。」
すぅ、と立ち上がる八雲。

「先を急がれるのでなければ、どうぞごゆるりと。
 この屋には私より他に入り来る者もありませぬから
 御遠慮の無き様。」
「いえ、御陰様で身体の方も随分と確として来た様子に。」
言葉受け、こちらも、す、と立つ霜夜。
「大変御迷惑とは存じますけれども、どうやら妹の
 随分貴方はお気に入りとなられた様子、
 恐らくは外にて今か今かと待ち侘びておりましょう、
 無論、御時、御身体の許す限りにて、出来ますれば
 里の案内(あない)などに付き合うて下されば幸甚に。」
「私などで宜しければ。」

「実はたっての御願い一つ。」
碧の瞳一条(ひとすじ)とみつめる水縹。
「帯刀の剣。今一度(ひとたび)御見(まみ)え下さる訳に参りましょうか。」
次は碧が見据える、そのひかり一閃、火花散るが如く。

「……御手渡しは御容赦願わざるを得ぬ処に申し訳もありませんが。」
言うが、右手を鞘に、かけた、かと思わば、つうと
鞘より放たれ存分と、その輝き聖や邪や、
人には知れぬ、神々しきか、禍々しきか、
いずれなるやも、世に在るひかり全て飲み込み
そうして朱の一線を真中、煌々と放つかに、
神と立つ、魔と立つ、久遠の宝なる、朱壬の剣。

何だ?
今、一瞬の、霜夜の、顔に広がり散った
まるで雷光打たれたかの、痛みのような。
だがそれも一瞬のこと、常に、何もかもが一瞬だと
八雲は思う。
「これは……何と冴え冴えに美しい事この上もなく、
 例えれば臥待ちの月の如くの典雅そなえ持ち。
 ……重ねる無礼なれど宜しければ御銘御伺いしても。」
予想凌駕し、押さえても押さえきれぬ、
魅入られるとは正にこの様(さま)かと、霜夜の声。
「朱壬。」
八雲の一言、あらゆる感情に地を這い響む。


霜夜の、農耕に、柔術に馴染むのであろう
大きく如何にも剛気な手に戸を開け
八雲を送り出せば案の定
すぐ傍に杜の姿、この里特有の、極彩色の着物に着替えて立つ。
「八雲!」
霜夜と八雲は互に顔見合わせ、くす、と微笑み合う。

「手厚い御世話を重ね重ね御礼申し上げます。
 ……では。」
「……八雲殿、これから何処に向かわれるか
 一向存じ上げはせぬけれども、素葉国に御出になられた事は?」
「いえ……。」
「左様に。いえ、唯、こちらもまた、大変に
 美しい処であったものですから。」

「兄上、もういいよな? もういいよ、なぁ八雲!」
くすくすと笑う八雲。
「なんだ? 何が可笑しい?」
「いや、すまない。」
ほんとうに、杜は、春の風のようだ、
春に吹く、咲く花を優しく揺らす、かと思えば
まだ上手くそれに乗れず、ふらふらと危うく飛ぶ蝶の翅を
揶揄(からか)うように揺らす風のようだ、と
八雲は思う。
そうして想いを馳せる。

やっと八雲を独り占めの恰好、
にこにこ笑顔のなかにも杜は思う。
“良かった……随分、気色も良くなった。
……ほんとうに驚いたよ、迦陵頻伽、
寝物語に母上より、幾度となく聞かされた
迦陵頻伽が、その羽をもがれ地に落ち
もう美しい声に歌う事もかなわなくなったのかと、
なくしたものがあまりにも大きすぎて
こんなにもこんなにも
悲しみのあふれんばかりなんだろうかと
輝き流れる金の髪が、降る朝陽のなかに
溶け込んで消え去ってしまいそうなこの人を
見たときほんとうにそう思い
どうしても放っておけなくて声かけた、
余所者には決して深く関わるなと兄上に
あんなに強く釘差されていたのに。
……でも兄上の態度にも……少し驚いたな。
ひどく牽制する訳でもなく、あの様に即座歓待するなんて。
……烏威といい、兄上といい。
……不思議な、不思議なひと、八雲、
綺麗な、まるで、人ではないかのように綺麗な、八雲。”


時流れて火点し頃
ふぅ、と、一仕事終え敷物に、ごろり横になる霜夜。
“客人、まさに稀人(マレビト)であったな。”
心にひとりごちる。

『これ契約の徴、と、声高に放った、かと思うと
 三(み)つの宝(ほう)、ぱぁと、天(あま)高くひかりの尾引き、散り参じ。』

鬼などとは外(げ)の言い草、真には鬼神。
唯、始祖たる修験者と鬼神との契約、その中身に関して
何らの伝承一つ残されず、想像だにも及ばず、
故、それ自体が眉唾と、切り捨ててしまえれば佳きものを、
左にはゆかぬ、ゆかぬ理由(わけ)ありて、
つまりはその宝と称されたる三つの内、
神鏡・咫楼祇(たるぎ)、確とこの地に。

山深き三重(みえ)の滝、その水飛沫の御簾の内
裏岩に掘り穿たれたる洞の奥
大きさなれば人の顔、そのものの身幅の、
鏡、半ばを岩に覆われ隠す恰好に、其処に在る。
在りて幾星霜、絶え間なく水滴に晒されながらも
錆などの、一切を生ずることなくその銀たる輝きに
一切の曇も、またその形状に一切の欠けもみせぬ。
半身岩に封じ、錆も吹かぬは此れ人の業ならず。
加え、冬至る、暗黒底打つ日の暁光、その御姿真正面に受け
ひかり深き水御簾透過し、尚輝きを幾倍にも深く一線に
世界を白銀と照らし染め、明日よりの希望をもたらしむ。

故に此れ正に神鏡と、人の称え祀るは至極当然に
村長と為りし者、その依代、憑人として
朔月の夜半には滝に入りて禊賜るが必定。


“八雲殿は杜に案内され見ただろうか……三重の滝を。
滝裏に朧と鎮む咫楼祇の、輝きを。”
ごろり、寝返りを打つ。
“見たなら其処に何思うただろう。”
窓より心地好い風の入り来て、その頬をかすめゆく。

“父上に希(こいねが)い旅に出た、その御陰に腑に落ちた気がした、
何やら訳も分からぬ、唯、久遠と素葉、この二つの国には、
他にはない、我が里に相通ずる、不可思議な雰囲気の幽かに、
だが確かに其処此処に落ちていた、漂うていた。
……その『もの』が何かは、その依代が誰ぞかは、
当然、知る由もありはしなかったけれども。”

“それにしても……久遠の宝、神剣朱壬。
あれほどのものとは。
あれでは八雲殿の気さえ、太刀打ち出来ぬは真、道理。”

ふう、と一息。
“思えば今日は朝より何やら心落ち着かぬ思いがした。
或いは依代なる者が、或いはその『もの』が
近くに寄らば、磁石が互に撥ね付けようとする様に
妙なる力其処に及ぼすのやも知れぬ。”

ふ、と、思い立ったかに立ち上がり窓の傍に。
入り込む風にも、霜夜の複雑に、
霊呪除と編み込まれた髪は微動だにせず。


“あの様に、悲しみの沼に沈み藻掻く様(さま)に現れるとは。
御身に絡むものの何かなど知る由もない、尋ねるだに無礼千万。
だが八雲殿は、何があろうと久遠に戻られる……朱壬を久遠に持ち帰る。
……そのようにより他、生きるべくもない、
傀儡、そう言わば真、それ以外の何物にも無い、
鬼神の、や、宿命の、や、其処は定かにはないけれども。
それが、背負いし我らの一条なる生き様。
左様なるよ、なぁ、八雲殿。”

そうして額に巻かれた美事な結いの、真朱の太紐を解き放てば
額に刻まれしは、朱の墨に彫られた美事なる三つ巴の紋。
その、閑かなる水縹の瞳見遣る先に、浮かぶは夕の弧月ばかり。