陽は既に天高く昇り、その熱が肌にじわりと汗を湿らせるようになって
も、修羅はまだ例のちいさな器を前に微動だにせずにいた。痛みに動け
ずにいた訳ではない。その頭の中、こころの中であまりにも多様な事が
巡りめぐり、立ち上がる事も、痛みをさえも忘れていたのだ。伝説の産
物とばかり思っていた朱壬を今この瞳でまのあたりにした事、その使い
手の八雲と名乗った男の事……。だが修羅は何より自分を恥じていた。
その男の圧倒的な強さの前に怯えさえ見せた事、その男の情けに命を救
われた事……。だが……。物心ついた時から自分を育ててくれた兄。周
囲の誰からも敬われ、そしていつもそれを裏切ることのない存在でいた
兄。その兄の、隠された闇の部分を垣間見た事がこうまで自分に衝撃を
与えるとは、自分自身意外であった。そしてその気持ちをどうする事も
できずにいた。兄とてひとりの人間。それを勝手に神格化し、ひとり自
暴自棄に喘いでいたなど、それでは涎も拭えぬ餓鬼そのものじゃねぇか
……。修羅は下唇を血の滲むまでに噛み締めていた。銀の瞳は開かれて
いるだけで、何をも映してはいなかった。
陽が西に、赤く大きな光の玉となった頃、ようやく修羅は腰を上げた。
「痛ぅ……。」
確かに良く効く薬だな……。突然襲ってきたかの痛みに、修羅は思わず
くっと笑った。ふとちいさな器に瞳をやって、それからゆっくりと歩き
始めた。
異の国の関門の側を通る時、修羅は少し歩を止めた。何も告げずに発つ
事を、兄は咎めよう筈もない。だが修羅は義姉の事を思っていた。深手
を負った時だけふらふらと現れる疎まれ者の義理の弟に、厭な顔ひとつ
せず手当を施してくれた義姉。その義姉を修羅は思っていた。
“修羅さんは少し無茶をしすぎますよ。もしもの事があったなら、お兄
様がどれだけ悲しまれるか、少しはお考えになりなさい。”
兄は書き物の手を休める事もなく口を挟む。
“私はそんな事で悲しみはしないぞ。”
すると義姉は小さく溜息をついて俺の瞳を見て言う。
“それじゃあ言い直しましょう。修羅さん。私が悲しみますよ。”
あの母親ぶった口調も、それに反して結構手荒い手当とも、暫くはお
別れだ。
「それもいい。」
小さく低い声で修羅は呟いた。
それは流吠谷(るこうのたに)とも子夜谷(しやのたに)とも言われて
いた。曰くある剣士達ばかりが集まる修行の谷。ずっと修羅はそれを只
の御伽話だと思っていた。そう、朱壬剣のように。だが朱壬は実在した。
そうして修羅は決心した。路銀にはこと欠かなかった。八雲が現れるま
でに一体何人の命を斬り、どれだけの金銀を奪った事だろう。
朱夏のはじめに異の国を後に、果てしのあるかも定かでない旅に出た
修羅は、ひとり方々を巡りながら、白秋、玄冬を見知らぬ土地で過ごし、
そうして青春(じょうしゅん)を迎えようとする頃、人里からは遠く離
れた囂々と滝の音の絶える事のない、微かに雪の残る谷の奥に、ようや
く小さな集落を見た。
「成程。流れ吠えるとはこの事か。」
修羅は喜びに声に出してこう呟き、その険しい傾斜の崖を落ちるように
滑り降りた。
新参者が必ずするように、修羅もまた、まずその谷の長の元へと出向い
た。長は初老に手が届こうかという、流石その物腰に隙ひとつない、だ
がその表情に思惟の面持ちが印象的な男だった。長の御座す処へと修羅
を導き、そして今は長の側に立ち修羅を見つめる、使徒と名乗る七人の
男達の殺気立つ雰囲気に総毛立つ思いをしていた修羅だが、長の前へ出
ると、不思議とその心は平静を取り戻していった。
「名は。」
長の声は、その思惟の表情に相応しく悠然としたものだった。
「修羅。」
その低い声を受けて長は少し微笑み、言った。
「この谷に来るものは全て訳ありの剣士。故に理由は訊かぬ。だたここ
に入るを許すかどうかは、我が使徒の一人と手合わせをしての様子で決
めるが掟。だが汝(うぬ)にはその必要もないだろう。分からぬ事は全
て使徒に尋ねるが良い。下がれ。」
修羅が踵を返し歩き出すと、使徒の一人が近付いて来た。
「長の元では跪き、また立つ時には一礼をしろ。特待生。」
修羅は一瞬にして先程の殺気立った気分に舞い戻り、その銀の瞳で使徒
を睨みつけた。だが使徒は修羅の瞳など見ていなかった。
「活計(たつき)に関しては我々が全て行う故心配は無用。宿舎は三つ。
どこに決めるかはお前の自由。普段の修行の仕方も自由。だが真剣を揮
う事は禁止、これは厳守してもらう。」
「……なんだと……。」
使徒は修羅をちらと見て、口元に少し微笑を浮かべた。
「余程血が好きと見えるな。満月の日の月白(つきしろ)の刻、そして
新月の日の夜明けの刻。この二度がお前の好きな真剣勝負の時だ。相手
は我々使徒が決める。その日の為に剣の手入れは怠らぬ事だ。……他に
何かあるか。」
「……ない。」
「ではお前も今日からこの谷の住人だ。」
そう言って踵を返した使徒は、すぐに振り返りもう一度口を開いた。
「一つ言い忘れていた。真剣勝負の際にも決して止めは刺すな。」
だが修羅はもうどんどんと歩いて行ってしまっていたので、それに対し
ての返事を使徒は聞く事が出来なかった。様々な規制やしきたり、他人
との共同生活……。早くも修羅はうんざりしていた。だが、あの長。あ
の男の気配には、人を魅きつけるただならぬものがあった。それにあの
使徒達。奴らも……出来る。修羅は手近な宿舎の扉を開き、空いている
埃っぽい部屋の片隅に少しばかりの荷物と剣を放り投げ、そして寝床に
どうと仰向けになった。やっとここまで辿り着いたぜ。待っていろよ……
八雲。口元ににやりと笑みを浮かべたかと思うと、その疲れ切った体躯
からは、早くもすうと寝息が漏れていた。
それぞれの宿舎には食堂(じきどう)があり、好きな時に餉事を餌れた。
それぞれの食堂には給仕その他の賄いをする女が一人居り、修羅の宿舎
のそれには維摩(ゆいま)という名の女が居た。維摩はまだ少しばかり
少女の趣を残した、どう見ても修羅より二三は若い女だったが、妙に大
人びた様子をしていて、それを楽しんでいるふうにも見えた。初めて修
羅が食堂の座敷についた時、朝餉を運び持って来た維摩は、修羅の顔を
見るなり顔を輝かせて言った。
「あら。綺麗な色の瞳なのね。」
修羅は思わず箸を止め、だが顔を上げずに低い声で言った。
「瞳の事は言うな。」
維摩はその声の鋭さに一瞬言葉を失ったが、すぐに元の大人びた表情で
にこやかに言った。
「あら。だって綺麗なものは綺麗だわ。」
今度驚いたのは修羅の方だった。思わず維摩の顔を見上げた。
維摩は相変わらずにこやかに修羅を眺めている。
「お名前は何とおっしゃるの?」
「……修羅だ。」
「そう。修羅さん。黒い髪に綺麗な銀の瞳の修羅さんね。宜しくね。」
「あぁ……。」
修羅は何だか可笑しくなった。こんな処に来てまで瞳の色に過敏になっ
ている自分が、あんな少女のような女にまで楯突く自分がたまらなく可
笑しくなった。そうして朝餉の魚に箸をつけながら、思わずくっと小さ
く笑った。久しぶりに落ち着いて餌した餉事は、心に沁みて美味だった。
暫くの間、修羅は皆の動向を静観した。真剣を手に取れぬのはいかにも
もどかしかったが、そうして自分なりの修行の仕方を徐々に会得していっ
た。夜には宿舎で眠をとるのが一応のしきたりだったが、修羅は当初か
ら外の焚火の元で星辰(せいしん)を仰ぎ眠るのを好んだ。山奥の事、
獣も多くはいたが、彼等もこの谷の事は知っているのだろう、滅多に襲
いに来る事はなかった。勿論そういう時の修羅に容赦はなかった。季節
は良くなるばかりだったから、こうして外で眠る者の数も増えて来る。
そうすれば焚火で肉を焼く馬鹿も出る。そういう者は必ず獣に狙われた。
修羅はそれ達の悲鳴を聞いても、助ける事は決してしなかった。ただ自
分に襲いかかるものだけに刃を向けた。
修行者の中で、修羅の強さが噂の的となるのに時間は要さなかった。そ
こにこの、夜の出来事が絡み、修羅は狼の生まれ変わりと称されるよう
になった。そう言えば俺は狼の遠吠えを恐ろしいと感じた事は一度もな
い。本当にそうかも知れないな……。そんな頃に、待ちわびた初めての
真剣勝負の時がやって来た。修羅は五太刀目に相手の息の根を止めた。
「修羅さんは強いのね。」
修羅の夕餉はいつも誰よりも遅かった。維摩は例の大人びた様子で広い
食堂に一人居る修羅に給仕をしながら言った。
「そう言えば修羅さんの瞳の色は剣の刃の色のよう。修羅さんは皆の言
うような狼の生まれ変わりなんかじゃあなくて、きっと剣の申し子なの
ね。」
修羅は思わずくっと笑った。すると増々可笑しくなって、とうとう大声
であっははと笑った。
「何がそんなに可笑しいの?」
「俺が剣の申し子なら、あいつは一体何なんだろうと思ってな。」
維摩の顔に興味の色が広がってゆく。
「あいつって?」
修羅は答えなかった。その顔は真顔に戻っていた。その表情を見て維摩
が、推ててみましょうとばかりに得意気に言う。
「その人はとても強いのね。そして修羅さんはその人の為にここにいる
のね。」
大人びた微笑みを崩さない維摩を修羅は見た。そしてからかうように、
にやりと笑って言った。
「そう言えばあいつはとびきりの色男だったぜ。」
「あら。」
そう言って微笑み乍ら、維摩は調理場の方に消えて行った。
そんな日の夜には、修羅は眠る事が出来なかった。何故八雲は朱壬の使
い手でありながら、あんな処をうろついていたのだろう。俺に腕を斬ら
せるような真似をして、その上止めを刺さぬばかりか、何故助ける事さ
えしたのだろう。薬湯を口移しで飲ませた時に、月明かりと焚火の光の
中、おまけにぼやけた視力ではあったが確かに見えた、はだけた胸の、
あのおびただしい古傷……あれは一体何だと言うんだ。そして何より……
神々にさえ愛されずにはいられぬだろう腕と容姿を持ち合わせていなが
ら、何故あんなに沈み切った瞳をしていたんだ……。俺は八雲を倒す為
にここに来た。だが何故あの男はこうも俺の心に入り込む。何故だ……。
次の真剣勝負の時も、その次も、そしてその次も、つまり四度連続して
修羅は必ず相手に致命傷を与えた。これには長も瞳を瞑る訳にはいかな
くなった。修羅は長の元に呼び出され、使徒達に囲まれていた。
「修羅。何故今汝がここに居るか分かっているな。」
長の声には相変わらず人の心を沈静させる響きがあった。
「……俺が規則とやらを守らぬからだろう。」
修羅は口元に笑みさえ浮かべていた。
「他の規律破りなどなら呼び出したりはせぬ。だが汝は人を殺めた。
それも四度、たて続けにだ。」
修羅は何も言わない。銀の瞳も長を見ない。
「汝にそうする理由でもあるのなら言うが良い。」
修羅は顔を上げる。
「言いたい事など何もない。だが。」
「だが?」
「ここに居る者は皆これからも剣に生きるつもりなんだろう。それなの
に今の俺に簡単にやられているようじゃ、どの道少々寿命が延びるかど
うかの違いじゃねぇか。」
「ほう。儂はまた、汝は己を神と信じてでもいるのかと思うていたが。」
修羅はくっと小さく嗤う。
「思っていたさ……あの男に遭うまではな。」
「……その男が汝を変え、ここに呼び寄せたか。余程の男であったのだ
ろうな。」
修羅は返事をしない。その時ふと長の顔により深い思惟の表情が浮かん
だ。
「修羅よ。もしやその男……金の髪をしていたか。」
ふん……と修羅は低く笑った。朱壬の使い手とはこんな人里離れた谷奥
にまで知られる存在なんだな。流石だぜ……なぁ、八雲よ。
「修羅。」
修羅は少し驚いた。長の声がほんの少しだが変化している。
「汝のこれからの真剣勝負の相手は使徒のみとする。まずは最下級の使
徒と手合わせをし、それを倒す事が出来たれば次の使徒。今日よりきっ
かり一年の間、それを許す。一年の後、七人の使徒のどれだけを倒せず
にいようと、汝はこの谷を出なければならぬ。使徒は手強い、汝も知っ
てはいようがな。必死でやる事だ。無論使徒も、それ以外の人間も殺す
事は相成らぬ。万一これを破った場合はその場でこの谷より出ずるを命
ずる。そうすれば汝は一生、その男の金の髪一本斬る事ができぬだろう。」
修羅は小さく笑った。
「俺は一度の勝負で奴の腕に傷をつけたぜ。」
長の表情が恐ろしい勢いで変わっていった。ごくり、と唾を飲み込む音
が修羅の耳にさえ伝わった。一体何だというんだ。修羅は訳のわからぬ
恐怖を感じ始めていた。それからゆっくりと長は言った。
「汝はこれから使徒と共に谷奥の卒塔婆に向かい、自ら手を下した四人
に向かい詫び、鎮魂を念じよ。では、行け。」
修羅は使徒達に連れられ長の元を後にした。一人残った長は心底の畏怖
を感じていた。人に身を傷つけられ、初めてその本来の姿を現す闘神の
御子の力。その伝説が真実であった事、そうして真その人たる男、金の
髪の八雲に。
「今日は特別に遅いのね。」
そう言って夕餉を運んで来た維摩の手を乱雑に掴み引き寄せたかと思う
と、修羅は立ち上がり片方の手で女の頭を抱き締めて、強くくちづけを
した。それはほんの数秒の事だったが、放たれた維摩はその年齢どおり、
いやもっと幼げな、まるで仔猫のように脅えた表情を垣間見せた。だが
後ろを向いて暫く経った後、振り向いた顔はいつものように大人びたそ
れだった。
「今日の餉事は良い出来と評判だったのよ。ゆっくり餌べてね。」
そう言っていつもと変わらぬように調理場へと姿を消した。
維摩が谷の男と姿を消したのは、それから暫く後の事だった。駆落ちを
したのだともっぱらの噂となった相手とは、修羅より幾分年上の、剣の
腕は凡庸だが人あたりの良い、同じ宿舎の男だった。それから暫くは、
どこの土地で仲睦まじく働いていたとか、どこかの急流に上がった心中
死体の女が維摩に似ていたとか、谷付きの業者の持ち帰る噂話に花が咲
いた。だが修羅はそれらの話のどれにも全く興味を示さなかった。修羅
には何だか、維摩のその後がどうにも想像が出来なかったのだ。ただ、
食堂に行くと誰も居ないのには、少し寂しい感じがした。
その宿舎の者達は、暫くは他二つの食堂に世話になっていたが、そうす
るうちに新しい女が雇われて来た。今度は修羅と同い年か少し上の、清
楚な感じのする優し気な女だった。維摩とは立ち居振る舞いが全てに於
いて違っていた。だがある時、いつものように一番遅くなった夕餉を修
羅に運んで来た時、女が静かな声で言った。
「修羅さんと言われるのですね。綺麗な瞳をされておられる。」
「そうか?」
修羅が静かな声でそう言うと、優し気に微笑みながら、
「ええ、とても。」
と、女は答えた。修羅は何だか可笑しくなった。何故だかはわからない
が、とても可笑しくて仕方がなかった。
使徒達は本当に手強かった。最下級の男でさえ、倒すのに二月を要した。
修羅は真剣に修行をした。生まれて初めて、真剣に剣というものと対峙
した。二人目、三人目……日はどんどんと過ぎてゆく。約束の日が訪れ
た時にはまだ六人目と手合わせを始めたばかりだった。修羅は日の延長
を長に懇願した。だが長は聞き入れてはくれなかった。
「修羅よ。汝はこの谷に於いて、修めるべき事は全て修めた。後は汝の
心次第。それよりも、世に変化の著しい事、この谷にさえも聞こえ及ぶ。
外界に出よ、修羅。汝はよくやった。」
修羅は心残りばかりの暗たる気持ちで谷を後にした。もっと早くに谷を
出ていればとその後思うようになるなどとは、無論考えの及ぶ筈もない
事だった。
流吠谷の事を思いかえす事は、今となっては殆どなかった。だが修羅は、
ほんのふとした折りに、今も維摩を思い出す事があった。だがそれは思
い出すというよりは、まるで一陣の風が吹き抜けるように一瞬脳裏を掠
めるばかりで、何の味も薫りも残してはゆかなかった。同じ世の中に生
まれながら全く違う世界を生きた女、そんな女がいたという、ただそれ
だけの事だった。
そうして修羅には知る由もなかった。いつの日か朱壬の継承者にと嘱望
されながら叶う事なく、神官に手を引かれ怯えながら剣士の宿舎に連れ
てこられた、たった五歳の金の髪をした少年を見た瞬間、全てを悟り久
遠を後にした男、その男こそが流吠谷の長であった事を。