覚醒

はぁぁ。

目の前の、机の上に、広がる真っ白の、画用紙。
ぼおお、と、ファンヒーターの音だけがちいさく響く。

全く、空気読めねぇよなあ、担任も。
四年生の冬休みの宿題に、図画はないだろ、図画は。
ガキじゃああるまいし。
しかもこちとら、四月からは、夏休みも冬休みもない、
否応なしの受験戦争に突入だってのに。

おまけに題が『冬の景色』ときた。
こんな、雪も降らなきゃ氷も張らない、
温暖で、住宅以外、探すのが難しいような土地柄で。
変わるといえば、一年半ほど前に盛大にオープンした、
自転車で15分も走れば行き着く
巨大ショッピングモールが、
やれクリスマスだの、やれお正月だの、って、
きんきらきんきんのご大層に、
やたらめったら飾られて、お賑やかしに励むって位なのに。

はぁぁ。
なんべん溜息なんかついたって、真っ白の画用紙は
真っ白のまま。

そう言やゲームの魔法にも、
“絵を描ける”呪文なんて、見た事ないな。
ああ、絵心、画才、って云うのか?
あるヤツが心底うらやましいよ。

いや、せめて、冬景色満載の田舎に帰るヤツ。
僕んちなんか、母親の実家ときたら、徒歩10分だぜ?

父方は……雪深い、東北出身だって、聞いてるし
二年に一度くらい、やって来るおばあちゃんの
話すイントネーションは、お父さんのそれとやっぱりとっても似ていて
誰にだって本当に優しくって、温ったかくって
おばあちゃんの作ってくれる料理は何でも
そりゃあ美味しくて、僕もお母さんも、大喜びなんだけど
それでも、お父さん一人、何故だかいつも渋面で。

その東北にあるって家に、とにかく僕は、行った事もなけりゃ
おじいちゃんに至っては、顔も、声さえ、知りもしない。

……理由なんて知るかよ、大人の事情、ってヤツだろ。
夜遅く、トイレに起きた時に、居間で両親が
何やら言い合ってたのも一度や二度じゃない。
“長男”とか“戻る約束”とか……漏れ聞こえてたけど。

大人なんていつもそうだ。
研究が仕事のお父さんは、
当然といわんばかりに、そっちが最優先。
というより、僕との約束なんて覚えてるかも疑問だ。
お母さんだって、付き合いとか何とかって、
徒歩10分の“別荘”での方が、多いんじゃないのかって思う、
僕がガキん頃、過ごしていた時間。

だから、もう、慣れっこだ。


はぁ。もう一つ溜息。
うらやましがってばかりいても、らちあかねぇよな。

手始めに、目の前の、机の前の、窓を開けてみれば、
途端に入り込む冷気。
おお、ファンヒーターの熱風との壮絶なバトル開始!

「ううっ、寒っ!」
ホントはそんなに寒くもないけど、
どっちかって言えば頭が冷やされて、気持ちいい位なんだけど
ちょっと声に出して、言ってみる。

北を向いた二階の窓から見えるのは
春夏秋冬、代わり映えもしない、家々の、甍と塀と、道。
その隙間に顔を出す木々くらいのもんだけど
これだって“景色”だろ、それに今は冬なんだから
“冬の景色”に違いなんかあるもんか。

用意だけは周到、一年次から、使い慣れた画材用具一式。
ちゃあんと八分方入れた水に、ちゃぽ、と筆をつける。
くるくる回せば、透明の渦が、筆の後をついて走る。


……約一時間経過。
これはひどい。我ながらひどい、ひどすぎる。
時間を戻す魔法呪文を唱えたい。
いや、それより、絵が巧くなる魔法ってないのか。
パワー、魔法、防御全てパワーアップする魔法じゃ駄目か?
……駄目だよな……。
でも仕方ないじゃないか、僕は僕なりに結構頑張ったんだぜ?
……これでも。

忌々しげに、水彩絵の具箱に目を遣る。
きちんと並んだチューブの、色とりどりの、減り具合の
どうしても、随分と差の出来る事はしょうがないんだろうけど
そうだ、前から不思議だったんだ。
なんだって、白、一色だけ、こんなにチューブ自体が大きいんだろ。

白って、そんなに使わないよな。
第一、 下地の画用紙が真っ白なんだし。
減り具合も、青や緑、茶色に比べて全然少なくて
今日はそれでも、灰色作るために、少しは使ったけど、
まだ、こんなに沢山。

そこでふと、気がついた。

そうだ、白だ、白じゃないか、冬と言えば!

ファンヒーターの前に、その、とりあえず、何やら描いてある、
それだけはかろうじて、皆も認めてくれるだろう、シロモノを
まるで汚いものでも手に取るように、かざして渇かす。
芯から水気を吸い取られた画用紙が、あえぐように
ぽわり、ぽわりと、妙なゆがみを生む。

さぁ、見てろよ。
白の絵の具チューブを取り上げ、パレットに、
これでもかと、どばばばと一気に絞り出す。
水は極少量にしとかないとな、下の色と混ざってしまえば
ジ・エンド、もう一度最初から、だ。

ぺとりと、まずはお試しとばかりに、屋根辺りに一塗り。
おお。おお。一気に冬到来!
いや、我ながら己の才能に惚れるな。
この調子だ、いける、これはいけるぜ、もらったな!

白、ぺとり、とん、とん、とん。
白、べとり、ざ、ざ、ざ。

白、白、白。

冬、冬、真っ白の。

白い、白い、白い。

……あれ……?

ふと、我に返り、こくん、と、息を呑んだ。
何だろう、この感じ。
生まれてこのかた、味わったことのないような。
喉を、締め付けられるような。
頭の上に、胸の上に、どんと重しを乗せられたような。

苦しい、と、いう程ではないのだけど。
けれどもやっぱり、なんだか窒息してしまいそうな。

閉塞感、そう、そうだ、閉塞感。


急に、真実が降りて来た。
白は、濁りに、全てを、埋める。
光を全て、遮断する。

白は濁り。
ただひとつ、他のどの色にもない、濁りのいろ。
その力で、すべてを閉じこめ、くるめとる。


思ってもみなかった、白は、綺麗なものだとばかり。
優しくて、善良なものだとばかり。
だって、ほら、回復全般、白魔法、って、言ったりするじゃないか。


なんで、今まで、気付かなかったんだろう、
なんで、分からなかったんだろう。

僕は知らない、こんな白。
僕は知らない、こんな冬。
僕は知らない、こんな、畏ろしさ。

知らなかった、こんな世界。




その日の夕飯の献立は、クリームシチュー。
僕の大好物。
でも、今日ばかりは、なんだかいつもと違って見える。
ほんのり、黄味帯びた白のなかに、
にんじんも、じゃがいもも、マッシュルームも、ブロッコリーも
とろり、姿を、隠してる。

スプーンで、一周、混ぜてみる。
重い。重力半端じゃない。
一匙すくって、口のなか。
熱っつう!……広がるのはいつもの味、美味しい、涙が出るほど。

ほふほふしてると、ふと思い出して笑いがこみ上げる。
「今日は、お父さん、厄日だね。」
お母さんも、ふ、と、笑みを浮かべて。
「全く、いい歳をして、牛乳ものは、全部駄目なんだから。」

「牛乳に含まれる成分を消化する力が、腸にないんだよね。」
「それも勿論あるんだろうけど。
味や匂いが嫌いなのなら、そう言えば可愛いのに、
とにかく色が気にくわない、こんな白濁したもの、
そもそも食べ物としてその時点で失格だ、とか。
……まったく、何でもかんでも、理詰め、理詰めなんだもの、ねぇ。」

お父さんの屁理屈は、今に始まった事じゃないけど、
これは初耳だ。
そこまで言うか。やるなあ、お父さん。


「あのね。」
「うん?」
「僕、全寮制の中高一貫、止めようかな、って。」

お母さんの、スプーンの動きが、ぴたりと止まり
僕の顔をじっとみつめる。
ほら来た、だから嫌なんだ、こういうの。
ほんと、照れるんだよな。

「どうしたの。あんなに行きたがっていたのに。」
「べつに……。
お母さんも、お父さんも、元々、反対だったんでしょ。」

一人息子の、超有名進学校への進学希望を、
別段、生活に困窮している訳でもなし、
普通、そこは大喜びの場面だろ。
……そりゃあまあ、母親にすれば……
知ってる、お母さんが、こっそり泣いていた事。

でも、諸手を挙げて賛成すると、信じ切っていた、
大学准教授の父親までもが、
子供時代は遊びが本分、受験勉強漬けはどうも、とか
またまた屁理屈こねて、それでも行きたいというのならと、
半ば諦め顔だったのには、腹の立つのを通り越して、
まぁこっちとしても、引くに引けなくなってた訳で。


“お前も大変だよな。親父さんが大学の先生って、
お前、下手な大学、行く訳にいかないだろ。“
……子供の世界だって、大変なんだよ。

でも、なんだか、そんなの、どうでもよくなった。

それより。

「ねえ、お母さん。来年の冬休みね、
僕、ひとりで旅行、してもいい?」

また、何を言い出すの、と、
男の子はこれだから、と、書いてあるよ、顔に、お母さん。


まぁ、絵心のほうは、
どんなにしたって、つきも育ちもしないだろうけど。
でも、やっとわかったんだ、
白絵の具が、どうしてあんなに沢山要るのか、って。

それを知らなかった僕が、どんなにガキだったか、って。
今も、そうだ、って。

でも。

白い、濁りの世界のなかに、
僕はようやく、一歩、たった一歩だけど、
踏み出したんだ。

濁りの内からは、一体何が見えるだろう。
どんなふうに、見えるだろう。


「ごちそうさま。」
そう言って、席を立とうとした、その瞬間
今日は随分早い、帰宅したお父さんの、
姿がぬうと、居間のドアから現れた、
かと思うと、ダイニング・テーブルの、上を見遣って開口一番、
「うわぁ……。」

お母さんと、二人、顔見合わせて、くす、と、笑った。