暖房の、熱いほどに効く座席
ふうと腰を下ろせばその途端、
じいん、と芯まで痺れるような。
ふわり、乱れ広がるコートの裾を整えて。
まるで蝙蝠だねと
職場の仲間の呆れるように
笑みにからかう、真っ黒の。
本当に欲しかったのは、あのギャルソンの。
指先にも触れぬ、高嶺の花。
でも、ノーブランドの、これだって。
自分のお金に初めて買った。
一体どれだけの人数を
飲み込めば気の済むのかと
一本の針を、す、と刺せば
ぷしゅう、と弾け空に舞うかの
ぱんぱんに膨れ上がった
電車はそれでも定刻となれば
がたん、と、ひとつ
軋みの叫びの声をあげ
点々と、明かり灯す暗闇に滑り出す。
中はといえば人いきれ、人いきれ。
防寒に、着ぶくれた人達の。
走行に車体が揺れれば
人の山並みも同じように。
本を読み、ウォークマンを聴き、無言に車窓を眺め、
或は何もせず、
ただ、その時だけを待ち。
縦に、横にと細く切れ切れの
隙間、隙間にふと視界に入る
幾千億、いや京の、極の、阿僧祇の汗腺の
吐く熱に、息に曇った窓の外
尾を引く光
流れ流れて、褐色(かちいろ)のなか。
次は……と、アナウンスの籠もり声
かたん、こととん、こととんと
ゆっくり車速を落としてゆき
降り支度を始めれば、もうすぐそこに。
しゅん、と音を立て、ドアが開く。
ほおら、来るぞ、来るぞ、その時が。
誰が誰の棹となる?
流れに身を任せ押し流されて
剥き出した恰好の、プラットフォームに。
その途端。
人いきれに火照る頬に
ぼんやり濁った頭の芯に
きり、と、一本の
冷気の槍が刺す。
この瞬間。
醍醐味、たまらない。
吐く息づかい、玉には成さず
それでも霧と、幽かに白く
駅を出れば、すぐ目の前に
神のお社、八幡の宮。
大木の、闇に沈んで姿もいずこ。
三つに、七つに、艶やかな
着物を羽織って砂利の道
慣れぬ草履の足元に
それが面白可笑しくて
手を引く父の、母の手を
煩わせたのも昨日のよう。
それを抜ければ
あとはもう、あるのはただ、
家、家、家の、並木道。
ぼたんの雪のひとひらの
舞えば、それらは贈り物。
幾歳重ねた人々であろうと
童心へと、誘う白銀の
魔法をかけた、天よりの贈り物。
そんな地方のここだから
ひゅうと、音の友さえ呼べぬほどの
頼りのなきにあったとしても
それでもやはりあなどれぬ
風は風、北の風。
長くウエーヴのかかった髪と
コートの裾をひらとゆらと
そうして一歩、一歩にも
ああ、どうしてこんなにも
揺れるものには心が踊る。
人の営みの千差万別、十人十色
窓明かり漏れ来る家の、広い庭。
続く、続く、次から次に。
これは何の木?
枝が光る、細い枝。
まるで雨露に濡れた蜘蛛の糸。
雨露は月星。
顔を上げれば
今宵は更待、ついこの前には弓張りの。
いつ見るよりも白きに厳と
いつ見るよりも気高くに。
透き通った黒紙に、針、刺したかの星々の
ひときわきらきら、したたるごとく
あれは夕星(ゆうづつ)、宵の金星(きんぼし)。
広い歩幅に体内に、上気は自然沸き上がり
冴え冴えの、冷気と相殺し合い、融け合って
髪も頬も氷のように
けれども芯はほわほわと。
やわらかい灯の、あちらこちらの窓より漏れて
湯気立つ夕飯の待つ、
犬は耳折り尾を振って
さあ早く散歩に行こうよと出迎える、
そんな場所に、辿り着く。
こんな日々は続かない。
ふと、どこからともなく
まるで水泡(みなわ)の、ぽわんとひとつ湧くように
何の脈絡もない一瞬に
漠然と、けれどもひどく確固とした。
とらわれの。
この先私はどうなるのだろう。
振り切ろうとすれば絡みつく。
迷いのなかの、見えぬ先の。
だからこそ。
愛おしかった、帰り道。
アスファルトを黒の銀にと染め上げて
舞台と踊る小夜の時雨
身を縮め、それでもかかる雨露に
コートを珠と濡らすのも
身を切る凍えの吹鳴りも
朔の無明も蓋する雲も
暗冥のなかただひとつ
後追う靴の響く音(ね)も
なにもかもが
美しかった、冬のみち。