薬湯の香り漂う部屋
ぱちり……と薪の燃え崩れる音──。
「でも嬉しいな。
またこうして八雲兄様と一緒に薬の調合が出来るなんて。」
「それは私も同じだ……こうしていると心が和む。」
炎は照らす──二人のやわらかな表情を
凛と冷えた空気さえ なごませるかのように
ゆらゆらと 二人を照らす──。
「如月姉様は行く処があるからと お出かけになられたけれど
修羅ってばどこに行っちゃったのかな。八雲兄様何か聞いている?」
「いや……あの男は一時もじっとしていないな。
まるで育ち盛りの仔狼のようだ。」
木晩の木の実の瞳が煌めく。
「八雲兄様、狼の仔と共に居た事があるの!?」
「いや……森の中で幾度か かいま見たのみだが……。」
「……私はあるんだよ……。
少しだけ犬の血をひく狼犬(ろうけん)だったのだけれど……。」
炎は照らす──木の実の瞳を
その中に遠い過ぎた日々の想いを鮮やかに映し出して──。
「旅の帰り路に 森からはぐれ迷っていたと
ある時父様が 弱り切った狼の赤ん坊を抱いて戻ってきたの。
私は自分だってまだ ほんの子供だったくせに
無駄だという声に耳も貸さず 一生懸命手当をしたよ。
山羊の乳、羊の乳、何が合ったのかはわからない。
とにかく来る日も来る夜も一緒に居て──そうしてその子は
命をとりとめ生き延びたの。
それからはすくすくと、驚くような早さで大きくなって
そうして初めてこの子には犬の血が
ほんの少し混ざっている事がわかったので
私はその子を狗(くぅ)と名付けたの。」
「狗は見る間に私の背丈を追い越して いつも野原を駆け巡っていた。
でも森に戻ろうとはせず──そうして夜にはいつも
私の元に帰って来てくれたの。
殆ど狼なのだもの、夜こそ森が恋しかったと思うんだ。
実際よく窓の外を 月光が眩しい夜には特に
懐かしいような瞳で眺めていたよ。
けれども扉を開けてあげても 決して外には出る事なく
いつも私の寝床のそばに居てくれたの──
冬の寒い日も、蒸し暑い夏の夜も──。
家族以外の者が 触れようとすると
白い牙をむいて 低く唸り
そうして家の者の手からでさえ
決して餉を 口にしなかった。
それが私には とっても自慢だったんだよ。」
「でもある時 困った事が起こったの。
ねえさまが異の国に嫁がれる事になり
三日三晩続くという結婚の儀式に 私の父様母様と共に
出席しなければならなくなったの。
勿論狗は──ひとりで十分過ごせたのだろうけれど
私が そうはとてもできなくて
それで結局 連れて行くことにしたの。」
「私、修羅に逢えるのをとっても楽しみにしていたんだよ。
だってねえさまが言っていたもの──
修羅の瞳は引き込まれるように美しい銀のいろだって。
じゃあ狗と同じだ!──きっと狗のように優しい人なんだ、って。」
ぱちり……炎のはじける音。
木晩は思い出す──そう、ねえさまは言っていた──。
“木晩、私は先日初めて あの方が訳あって育てて来られたという
修羅という名の 年の離れた弟君にお逢いした。
『少々奔放に育ち過ぎ 礼儀作法のひとつも知らぬ。
あなたには迷惑な事も 少なくはないかも知れぬが
独り立ちするに足る年頃になってはいても
──あれにとっては ここが唯ひとつの寄る辺──
どうか受け入れてやってくれればと思う……。』
あの方はそうおっしゃっていたけれど
私の差し出した手を取る事もせず
その銀に光る美しい瞳を こちらに向けることさえせずに
ただ一言 『邪魔はしねぇつもりだから……。』と
年齢に似合わぬ低い声で呟いたその人を見た瞬間
私には全てが分かったの──。
この希なる瞳の弟君を あの方がどんなに大切に想っておられるかを。
そうして──それが どうしてかを。”
八雲の金の髪が さらりと肩から流れおち
その 炎に照らされ尚眩く輝く光りに
ふと 我に返った木晩は
微笑み 話を続け出す──碧の瞳線の見守るなかで──。
「あっ御免なさい──えっと どこまで話したっけ──。
そう、修羅に逢うのを私はとっても楽しみにしていたんだよ。
なのにね、八雲兄様。」
「お屋敷への途中に ねえさまが住まわれる事になる
にいさまの綺麗な館があって──その前に立っていたの。
額に巻き付けた白い布と対照的な漆黒の髪と
それこそ狼そのもののように鋭い銀の瞳をした男の人が
腕組みをして 背を壁にもたれかけてね。
私は思わず叫んだよ──
“わぁ修羅にいさまだね! 本当に狗のよう!”
すると修羅は その銀瞳に物凄い光りをほとばしらせて
私を睨みつけた──本当にどきりとしたよ。
でも 次の瞬間に修羅はしゃがみこんで こう言ったの。
“こいつが狗か……成程な。”──とても低い声だった。
そうして狗にすぅと手を差し出したので
私は思わず叫んだの。“駄目! 噛みつかれるよ!”
でも それより先に修羅の手は
狗のふさふさした鬣を撫でつけ
そうしてゆっくりとこちらを向いてこう言ったの。
“何がだ?”
私は驚きに声も出なかったよ。
そうして尚驚いた事に 狗はペロリと舐めたの
──修羅の頬を。」
「狗を撫でつけながら 低い声で修羅は言ったよ。
“こんなでかい狼犬を あんなぎらついたお祭り騒ぎの中に
三日も縛りつけておくつもりか?”
私は返事もできなかったよ。
修羅は私をちらと見て そしてこう言ったの。
“俺で良ければ ここでこいつと居てやるぜ。
婚儀が終われば ここにひきとりに来りゃあいい。
なぁ、狗。”
狗は尾をふわりと一振りして もう一度修羅の頬を舐めた。
“でも……修羅にいさまも御出席なさるんでしょう……?”
私が小さな声でそう言うと修羅は──
そう、いつものあの調子で ふんと笑って言ったの。
“御出席なさらねぇよ。”
それで私は 三日分の狗の餉を修羅に渡して──
この人の手からなら必ず食べてくれるって
もう私には十分わかったから──
そうして やっとの思いで言ったの。
“じゃあ狗をお願いします。修羅にいさま。”」
「婚儀は素晴らしいものだったけれど
私は終わるのを待ちわびて そうしてあの場所に駆けて行った。
ちゃんと狗は居たよ──少し離れた草むらのなかで
修羅と一緒に じゃれ合い 寝転び 走り 戯れ合って──。
まず狗が私に気付いてこちらを向いた。
それから修羅がこう言ったの。
“おう、御主人様のお戻りだ。”
狗は喜びを一身に表して 私の元に走って来たよ。
でも──一度立ち止まり 修羅の方を振り返ったの。
“またな。” 修羅がそう言うと狗は
くるりとこちらに振り向いて そうして喜んで走ってきた。
私は──何だかたまらなくて──でも今度こそ
ちゃんとお礼を言わなくちゃと思って──
そうしたら修羅が言ったの──“楽しかったぜ。”
それでとうとう 私は叫び走り去ってしまったの、
“修羅のバカ!”って……。」
「……あの男らしい……。」
炎がそのいろを金碧に変えた瞳を微笑ませ
八雲は静かに呟く──。
「その後は何もなかったよ。狗の様子も何一つ変わらなかった。
ただ──何年かして にいさまを
残酷な殺され方をしたねえさまが──
亜魏は一度にいさまを拉致し そうして責め殺した御遺体を
まるで見せしめのように ねえさまの元に連れ戻したんだよ──
身も心も病み 変わり果てたお姿で戻られたの……。」
「それから私は独学でだけれど
一生懸命薬の事を学びだしたの。
良い薬があると聞けば 良い薬師が居ると聞けば
それがどこであれ出かけたよ。
家の者が従者を付けてくれたけれど
私は狗さえ共であれば どこに行くにも平気だった。
──でも ある時──。」
「従者は殺され 勇敢に立ち向かった狗は──
それでも最期まで 私の元を離れようとしなかった──
斬り貫かれ血にまみれた体で、片方が見えなくなった瞳で、
動かない片足を引きずって──。
ごめんね狗──もういいよ、ここに一緒にいようねと
抱き締め言っても 私を連れて行こうとするの。
向かっていた村へ行こうとするんだよ──。
そうして村の門がようやく見える所まで着いた時
……狗は動かなくなってしまったの……。」
木晩の瞳からおおきな涙が溢れ出す。
しばらくの、間──。
「その小さな村は薬師達の修行の場で
素晴らしい薬が幾つもあった。
これで必ずねえさまも 少しでも良くなられるに違いない。
でも──ひとりでどうやって戻ればいい?
途方に暮れていると──思わず我が瞳を疑ったよ。
だって瞳の前に あの修羅が──。
それで私は思ったの──これは狗が呼んでくれたんだって。
そうに違いないって。
だって──そうだよね……。」
八雲がすぅと立ち上がると
煌めく金の髪がふわりと木晩に優しく触れる。
くつくつ煮え立つ薬湯の元に
八雲は歩み寄り 薬草を加え
それからまた 元の場所にもどり腰を下ろして
そうして 静かな声で話し出す。
「ここ久遠では 狼は
古来より全ての生命の守護神とされ
大切に崇えられてきた。
彼らの魂が 肉体を離れた時には
それは必ず 森にかえり
あらゆる生き物の守り神になるという。
だが狗は 木晩にその命を救われて
それから一度も離れる事なく 共に過ごして来たのだから
その魂は 森にかえることなく
今も木晩と共に居て
そうして木晩を守っているにちがいない。
私は そう思う──。」
木晩はうつむいたまま でもようやく微笑んで言う。
「私は馬鹿だね、八雲兄様。
私ってばいつも思っていた──狗を守らなくちゃ
私が狗を守らなくちゃ、って。
でも本当は 狗に守られていたのは私の方だったんだね。
そうして今も そしてこれからもずっと
狗は そばに居てくれるんだね……。」
一瞬──八雲の瞳に鋭い煌きが走る──。
「ありがとう……本当に八雲兄様は お優しいな……。」
ぱたりと扉が開くと──すぅと入り込む冷気。
「おう、陽が陰ると一段と冷え込んできやがったぜ。
……如月はいないのか?」
木晩が立ち上がる。
「本当だ。気付かない間に もう夕暮れ間近だね。
私、如月姉様をお迎えに行ってくる。」
「お迎え……って、お前、場所はわかっているのか?」
「聞いているよ。修羅のばぁか。」
木晩は修羅の横をすぅと すりぬけ部屋を後にする。
「……全くあいつは……。おう、ここは暖かでいい。」
修羅は炎の前に腰を降ろす。
冷えた体躯を 炎は優しくつつみこみ
その銀の瞳を 眩しく照らす。
しばらくの 沈黙──。
「修羅。お前は酷い男だな。」
「何だ? ……ははぁ 木晩の奴
また下らねぇ事話していやがったな。」
「……狗とは……楽しいひとときだったか?」
「狗? あぁ あいつは……
あいつは でかくて 賢くて いい奴だったが……。
だが俺は あいつに酷い事をした憶えはないぜ。」
「……狗は なつかなかったのだそうだ。
木晩以外、家族の者にさえな。」
修羅の瞳がちいさく光る。
「は……。そういう事か。そう言えばあの時以来だな。
尤も“にいさま”呼ばわりなんぞされたくもないが。
……だが 今の今までそんな事
一度だって考えた事はなかったぜ……。」
一瞬の間。
「私もだ。」
銀の瞳は ちらりと見る
炎をじっと見つめている 碧の瞳の横顔を──。
「……狗はその後どうしたんだ?」
「あの村……私達が 木晩と初めて逢ったあの村への道中で
木晩を守り斬られ──
それでも最期まで 木晩を守り続けたのだそうだ。」
「……そうか……。」
「あいつは……狗は……三日の間
俺をつつみこむようにして眠っていた。
生意気な奴だったぜ、居候のくせに
まるで“あの人を宜しく頼むぜ”と
言われているような感じだった──だが
……あたたかだったな……。」
ぱちり……炎の弾け飛ぶ音。
「あいつは そのために生まれてきたんだ。
木晩に愛され そうして木晩を守るためにな。
……幸せな奴だぜ。」
「そうだな……。」
八雲は立ち上がり 窓の元へと歩み行く。
白く曇り 露の絡む窓に その白い手をすぅと滑らせ
暮れなずみゆく空を眺め そして思う。
守ろうとしていたものに──必死で守ろうとしていたものに
その実 いつも守られていたのだとは──。
そうして その肩に流れる金の髪を握り締める。
「ただいま! 本当に寒くなったね。
明日あたり 初雪が降るかも知れない──
これから厳しい冬になるんだね──。」
「二人共 体が冷え切っただろう。
こちらに来て 炎に暖まると良い。」
「私は大丈夫。でも如月姉様ってば いくら美しい処でも
あんな寒い処でじっとなさっていては
体に毒だよ。」
「どこに行っていたんだ?」
立ち上がり 場所を譲って 修羅が言う。
如月の瑠璃の瞳が しずかに答える。
「……鎮守の森に……。」
その やわらかな言葉の響きが
ちん……とちいさな音をたて
しずかに そしてゆっくりと
八雲の胸のなかに沁みてゆく──。
炎は照らす──四人の瞳を
それぞれの想いを あたたかく
ゆらめき 煌きらとつつみこんで──。