びゅ、と、風を裂いた。
一縷の迷いも、躊躇もなく。
胞衣夜(エナヤ)の黒髪が
はらと数本、舞って散る。
白い頬に
赤い一本の痕が浮かぶ。
幽かな痛みがそこに残る。
ぴきぃ、と、ちいさな悲鳴が
高い空に抜けた。
水気を失った木の葉擦れの
騒々しさのなかにさえ
敏(さと)い胞衣夜の耳は逃さない。
碧玉のような瞳が斜めに緩む。
薄い口唇の片端が
引き延ばされて持ち上がる。
ざ、ざ、と、足下に
落ち葉踏みしめる音を繰り返す。
悠然と、規則正しく繰り返す。
静止。
碧玉のような瞳に、見下ろす。
見据える。
射貫きの的となった野兎は
溢れ続ける血のなかに
灰と白の毛皮を濡らし
身を横たえていた。
己の意思とは無関係の
断末の痙攣と
振り絞る一滴の願いを込めた
迸る命の喘ぎの直中に居た。
”ようこそ、我が獲物。”
右手を矢箆竹(やのちく)にかけて
踏み据えた足を支点に
胞衣夜は一気にそれを引き抜く。
一片の予断も、寸暇もなく。
ぴきい、と、同じ悲鳴が微かに上がる。
あらぬものを脚が蹴る。
その姿に一瞥をくれ
青銅の鏃を
碧玉のような瞳の前に持ち上げる。
緑の半球に血の赤が映り込む。
粘る液体が滴り落ちる。
血糊とこびりついた肉片を
懐より取り出した
布に丁寧に拭き取る。
腰の矢筒に収めれば
矢同士が重なり合って
かちゃりと静かな音を立てる。
腰を下ろす。
褪せた黄や茶に変えた
葉の木漏れ陽を受けて
洞窟のような漆黒の影が
胞衣夜の横に
寄り添うように丸く落ちる。
弓を、届く横に置き添える。
野兎の、うねる体躯に
手を滑らせる。
”肥り具合も、毛皮の密度もまぁまぁだ。
肉は喰らおう、毛皮はまとおう。
切り取った足先を
護符だとか何だとか
首より下げる輩もあると知ってはいる。
肉は喰らおう、毛皮はまとおう。
残り滓などあずかり知らぬ。
風が舞えば
綿毛も道連れ、匂いも撒く。
狐の餌に、鷹の餌に
あとは木の肥やしにもなればいい。”
胞衣夜は腰より
青銅の短剣を抜く。
瀕死の野兎は
開かれた瞳孔の先に
何を見ようとする。
いまだ揺らぐ命の焔
続くも絶つも意のままの
捌(さば)く剣持つ胞衣夜には
そんなものに
一寸の欠片の興味もない。
せせらぎに
濁れた血を洗い流す。
流水が
日に日に冷えて肌を刺す。
見上げれば
黄葉と枝の間に間に
空が一層高い。
薄ら雲が
青灰色の空に切れ切れにかかる。
かかった雲が見る間に流れる。
胞衣夜は思う。
里を後に、丁度季節を一巡りした。
あてなどなにも、何処にもない。
逃れなければならなかった。
だから方向を見失しなわぬよう
陽の昇る方へ方へと歩を進め
今、ここに居る。
胞衣夜の郷里は信仰深い。
大僧侶である賢者が
全てを司り且つ統治した。
その賢者は里の森に聳える
千の樹齢を数えるという
寄生木(やどりぎ)の幾本もまとわりつく
巨大な樫(オーク)の古木に支配された。
政も立法も祭祀も
決め事は全て
この神木の前で執行された。
森で採れるあらゆるものは
植物、動物の区別無く
御陰の恵みととらえられ
無為な殺生は云わずもがな
一等安楽な死を第一義とした。
その行いの正当を
示す意味合いも含み持ち
何を差し置いてもまず
御前に供物と捧げる、
それを責務とした。
作物でさえ家畜でさえ
辿りゆきつく元は同じと
麦なり芋なり
羽根なり尾なり毛皮なりが
餌とする前に供えられた。
この神の木を、寄生木を
理由がどうあれ傷つければ
親殺しより過酷な罰を免れない。
流れ矢に鞠なす寄生木の
たった一枝を折った者は
生きたまま腹を裂かれ
引きずり出された腸(はらわた)で
神木に結わえ付けられた。
息絶えた後は
埋葬さえも許されず
森奥深くに定められた
忌物をまとめる穢処に
風化するがままに放置された。
胞衣夜には解らない。
神ならば
居るかも知れない、
居ないかも知れない。
見えもせぬから神なのだろう。
何故ただの老木が
神なのかが解らない。
森のものは森にあるが
人が採れば人のもの。
どう採ろうがどう殺そうが
咎められる理由が解らない。
動物達はそうしている。
草食ならば
木の実も果物も草も葉も
採りたい時に採りたいように。
肉食ならば
知恵を搾り
死闘を尽くした狩りの末
得た獲物は只我が物。
苦しもうが喚こうがおかまいなし。
喰いたい部位を、喰いたいように。
それが自然の姿。
そうではないのか。
ならば人の人たる所以である
知識と知力の総決算
道具を、武器を用いる事、
何故それだけが戒められる。
只、人のみが
木ごときを神と崇め
傅(かしず)いて
恩恵と平伏し感謝する。
容赦を強いる。
その意味が
胞衣夜には全くに解らない。
解らないから訊ねれば
畏れ多い、と、母は戦(おのの)き
今に解る、と、父は嘯く。
挙げ句に
自分より十ほども
年上の甥にあたる
僧侶のお付き見習いがこう云った。
「胞衣夜。
樫木の葉と同じ色の瞳持つエナヤ。
生まれついて祝福されし人。
お前は利口で知識もある。
狩猟の腕も一人前だね。
早いものだ、もう十八になる。
身を固めるには
決して早すぎない年頃。
お前ときたら
里の娘達と遊んでばかり
一向その気はないようだけれど。
急かせるつもりは毛頭ないが
己が子でも産まれようなら
今の自分の愚かさが
厭でも解ることだろうに。」
呆れ返って二の句も告げない。
子に訊ねられて尚
答えのひとつも捻り出せない
逃げるばかりの両の親が
現にここに在るというのに。
だから胞衣夜は里を捨てた。
森の奥深く
偶然滑り落ちた洞穴が
決意を固める役割を果たす。
身をもって証とすべく
新月の夜闇のなか
神木の小枝を
守人の隙を見計らい
ぷつりと手折(たお)った。
神木たる樫木の葉も
鞠と身を丸める寄生木の葉も
数えきれぬほど散り舞った。
その後(のち)
自慢の足に物をいわせ
弓矢道具一式と短剣
髪色を落とす染料を
予め周到に持ち運んだ
洞穴に一旦身を隠した。
そうしてそのまま
二度とは戻らぬ旅に出た。
樫木など何処にでもある。
それが故かは胞衣夜には解らない。
行けども行けども
辿り着く村落という村落が
樫木信仰に身を染め委ねている。
何処まで追っ手は追い続けるのか、
それも胞衣夜には解らない。
信仰に特有である吟遊詩人の
姿を村に認めれば
どれほど疲弊に窶れていようとも
即座その場を
後にせざるを得ない。
漸くに
言葉を解さぬ地域に出る。
そうすれば信仰対象は
千変万化の様相を呈す。
ある地域は火を、
ある領域では巌を、
そしてある部族は
目に見えぬ風を神と崇めた。
目に見えぬから
藁人形を作り各家庭に据えた。
宿るのだと身振り手振りに語り
民人は藁人形に拝礼する。
信仰のない村落など
只一つとして存在しない。
胞衣夜は自らの脚に刻む。
そうして、何処にも
胞衣夜の落ち着ける場所はない。
せせらぎの
絶え間なく流れる音のなか
胞衣夜は懐に手を忍ばせる。
取り出した小振りの革袋より
摘み出したのは
小指程の長さの枯れ枝。
碧玉のような瞳に見遣る。
”あはれなものだな。
ええ? 神の一部たる御前様。
身を傷つけた者に
罰を与える術もなく
災厄をもたらす暇もなく
遙か彼方に
連れ去られるがままとは。”
薄紅色を乗せた口唇は
刻薄に弧を描く。
碧玉のような瞳が
暗澹の笑みに沈む。
黒髪が
一段と冷気の増す
風になびいてそれらを隠す。
立ち上がる。
ざ、と、死にゆく朽葉が
掻き乱されて音を残す。
ざ。
僅かの前触れもなく
規則正しく続いた
枯葉を踏み締める音が制止する。
残響が空に散る。
碧玉のような胞衣夜の瞳が
死を迎える者のように見開かれる。
凝(こご)りの硬直は
瞬きひとつも是認しない。
「……は。」
いま再び耳に戻り来た
木の葉擦れ、鳥のさえずり、
遠くに霞むせせらぎ。
そういった音達のなかに
弾き出された声が這う。
死の季節たる冬を
ほんの少し先に見据え
なお葉に遜色を見せず
泰然と
緑なす山がごとくに
威風堂々、森厳と
聳え立つ樫の古木は
寄生木の幾十と
まとわりつく様までもが
郷里のそれと見紛うばかり。
「驚かせやがる。」
もう一度、声に成す。
自らに言い聞かせるために。
樫木など何処にでもある。
常緑のものは
確かに希少ではあるが
それでもこれまでに
幾度となく遭遇した。
大木も枯木も、古木も老木もあった。
寄生木のついた物も少なくない。
だからこそ
胞衣夜は苛立つ。
一体何に自分は
……怯えている?
まさか。
……畏れている?
あり得ない。
第一、そうだ、第一、
一体、なにに?
腰の短剣を胞衣夜は抜く。
がっ。
両手に柄を握りしめ
あらん限りの力に
樫木の太幹を斬りつける。
ごわついた木肌が捲(めく)れ
生成りにほんのり
黄緑を混じたような
湿った樹肉が露わとなる。
死線など幾度も彷徨った。
獣に怖じ震え
一睡も許されぬ夜ばかりが
永劫のように続いた。
飢餓に枯渇に喘ぎ熱病に苛まれた。
里より
そこに広がる森より
一歩たりとも
踏み出した経験を持たぬ人間が
見知らぬ土地に
追っ手を避けながら
恐怖と懐疑に四面を封じられ
たった独りで
ここまでこうして生きのびた。
自ら選んだ道だ。
だから、口に出すはおろか
心に兆した覚えもない。
悔恨の念も、自己憐憫の思いも。
身に降りかかるあらゆる事象を
あるがままに
何もかも独り
こうして今まで生きて来た。
がっ。がっ。がっ。
がっ。がっ。がっ。
煮え立つような
或いは凍りつくような瞳が
黒髪と共に荒波と揺れる。
揺れ続ける。
はあっ。はあっ。はあっ。
凜列なる大気に
汗の珠が生じては散じる。
両肩を持ち上げ下げる
切れ切れの呼吸の合間に
無残な爪痕より
樹液の芳香が立ちのぼる。
それは胞衣夜の
皮膚全体を覆い尽くし
鼻腔から体内に侵入する。
はあ……っ。
次第、呼吸も
碧玉のような瞳も
振り乱された黒髪も
渦巻く吐露を鎮めゆく。
胞衣夜はいまだ短剣を
右手に握りしめたまま
自らが切り刻んだ
数十の傷痕無残な木肌に
左の掌を添えてみる。
郷里のものと寸分違わぬ、
ごつごつとして
ぬくもりの片鱗もない。
斬痕に滲む仄かな湿り気が
微かに、僅かに
このものの
生きている証でしかない。
精気の果てた絞り滓のように
そのままずるりと
胞衣夜は太幹を背に
尻をつく。
自分は何をやっている。
血腥さを撒き散らす
獲物を傍らに下げながら
こんな処にへたりこむなど
殺せと懇願するに等しい。
見上げれば
いつの間にか
陽光は西に翳って
切れ切れの夕雲に
杏子の色を流している。
落とす影が暗と濃い。
”あぁ、ほんとうに
急がなければ。”
……それにしても
幹下よりこうして見上げてなお
夕暮れ近い薄ら陽を浴びて
寄生木の絡む様子は
凄まじいほど。
その刹那。
樫木に凭せかけた
胞衣夜の背骨髄の内に
一閃の戦慄が
駆け上がり貫いた。
貫いた筈の尖った枝先が
錐のように胸辺りを穿つ。
寄生木……ヤドリギ……宿る……だ……と?
胞衣夜は
小刻みな震えを
制御出来ない手を懐に遣り
革袋より枯れ枝を取り出す。
碧玉のような瞳に視る。
じっと。
あの民人達は
藁人形に風たる神が宿ると云った。
『宿る』と、云った。
ひとつの真(まこと)の塊が
波紋となって
脳天より足先までを
震撼と、我が物と浸食する。
く。
くく。
はは。
ははは。
ははは!
何が可笑しいのか
それは胞衣夜には解っている。
だが笑いを止められないのが
解らない。
この自分が
心底の畏怖に臆したなど。
己が護られていたなど。
はは。はは。ははは……。
相好を崩すなどとは程遠い
歪(いびつ)の形相に
碧玉のような瞳を泳がせる。
文字通り潤むなかに
定まらぬ視線をくるくると泳がせる。
ひとつ、瞬きをすれば
大粒の涙が生じ
頬桁をうねるように這い伝う。
頤(おとがい)の果てに
生温かい露と垂れる。
こうして一旦溢れ出でた
あらゆるものは
もう、止め処がない。
どうにも止め処がない。
低い声質の慟哭と
途切れ途切れの嗚咽が交互に響く。
森のなかに、異質の木霊と成す。
鳥が羽ばたき発つ。
ざ。
天が杏子より紅の珊瑚に
刻々と彩りを変える頃
漸く胞衣夜は立ち上がる。
踵を返す。
依り代たる樫木に面と向かい
手を宛がう。
無数に斬りつけた剣痕に
額を押しつける。
冷たい。
熱い瞼を綴じる。
”あはれなものだぜ。
……一等あはれだ。
寄る辺なくしては
息も続かぬ生き物など。"
く、と、ものしずかな笑みを落とす。
ざ、と、馴染んだ音が
再び世界に放たれる。
黄昏に喧しい
鳥達の囀りに同化する。
歩み出す。
以前と全く同じように
規則正しいリズムのなかに。
歩みながら
護符たる枯れ枝をしまい込んだ
革袋を確認するかに
衣服の上より手を当てる。
碧玉のような瞳は
幽寂を湛える。
胞衣夜は歩む。
まだらの残り陽を受けた
黒髪が揺れる。
一歩、
また、一歩。