雫の犬・Schaferhund

 深夜の、地下駐車場。

 コンクリートうちっぱなしの、周囲をただ
灰の色ひとつに取り囲む、
ちいさなライトの、広く低い天井に三つ
淡いひかりをうすぼんやりと放つだけの、仄暗い
独特の、匂いを放つ、正方形に切り取られた
音のない、空間。

 なだらかに坂となる通路を、まるで水の流れるように
ただ、ライトだけは煌々と
速度を落とし、ゆっくりと、音一つ立てずに
まるで鳥が枝に留まるかのような、一旦停車。
そうして切り返せば、バックで所定の位置に、
ただ一度にぴたりと、寸分の狂いもなく。

 BMW 302i クーペ、スター・グレイ・メタリックシルバー。
風を切り割き、タイヤを鳴かせ、走る喜びを、喜ぶ為の。
そりゃあそうだ、俺だってこんな走り方も、停め方も
生まれてこの方初めてだ。

 ライトを落とす。
途端、熱気を帯びた車体を彩る黒銀の
ほんの一瞬ぼわりと浮かび上がるかと
思えばすぐに、薄暗がりのなかへと沈み同化する。

 風を感じ、僅かな音をも漏れ聞き逃さぬように、
数センチを必ず開けて走る、パワー・ウィンドウも
スイッチひとつで、ういんと唸りを上げて、閉じてしまえば
生糸一本の、入り込む余地さえ残さぬ閉塞の出来上がり。

 エンジンを切り、イグニッション・キィを抜く。
排気の、息づかいが止まる。
音が死ぬ。

 バックミラー越しに、後部座席を見遣る。
闇に落ちた車内ではどうにも目に不確かに
故に、次には左肩越しに。
そうしてふう、とひとつ息を漏らす。

 三階、と云った処でエレベータもすぐそこに。
明日の軽い筋肉痛にさえ目を瞑れば済む話。
だが、問題は違うところに。


 第一種低層住宅専用地域、おまけに風致地区。
緑豊かに閑静極まる住宅街に建つ、俗に言う高級マンション。
ワンフロアに二住居、合計で六世帯。
最上階の三階の、三分の二を占める、南東に姉夫婦。
そうして北西に残りの三分の一、
それが定められた、自分の塒(ねぐら)。

 二十四時間、入れ替わり、立ち替わり
片時も現場を離れる事のない、
極めて高度に訓練を受けた、番犬、軍用犬。
──シェーファーフント。
姉夫婦へと、俺へと向けられる刃からの
護衛を主目的にと配属、配置された
忠実なる、忠実なる、親父の下僕(しもべ)。

 見ずとも分かる、聴かずとも。
ガキの頃から、代わり映えもせず。
ひねりのひとつも、あれば可愛げもあるものを。
その目が見張りが、矛先が、
ただ、敵にのみ向けられているなどと、
お目出たい話を一体、どこの誰が信じる。

 どのみち、隠しきれない。
それならば、楽をするまで。
携帯を取り出し操作。
相手は二度のコールを待たずに出る。



 「ベッドに運び下ろせ。そっとな。」
暗証番号を含む、二重、三重の防犯鍵を開けながら。
M60マシンガンで、こんなものなど
ひと吹きだと、開ける度に苦い笑いが胃に上がる。

 「若の、ですか。」
流石の番犬も命令の再確認か。そりゃあそうだな。
「お前の、がいいか?」
「……ご冗談を。」

 全く訓練のゆきとどいた事には感心もせざるを得ない。
図体ばかり大きな少年を、一方の肩に担ぎ上げたままに、
玄関先で、ロウ・カットのバスケ・シューズを事もなく脱がせ
それらを丁寧に、黒光りする大理石の玄関床に揃え置いて
間取りなど熟知して当然と言わんばかりに、ベッド・ルームに自ら進み入り
命令通り、清潔にメイキングされたダブル・ベッドの上に、そっと寝かせ置く。
ん……と、下ろされた少年の口から
息とも声とも、呻きとも取れぬ音がただ一度。

 「失礼ですが、何方で。」
ほう、そこまで踏み込むのか。
「見ての通りだな。酔い潰れた高校生。」
ならばそれ以上の、一切を許さんと、遮断の一言。
「ご苦労。」



 広々とした、銀鼠色の、光沢放つリネンのうえに
すうすうと、未だ目を醒ます気配さえ見せぬ
図体ばかり大きな子供のような、姿を上から見遣る。

 今時の、流行りとも到底思えぬ、不自然に伸びた髪が
染めているのか、そうでないのか、濃茶のいろに
未だ幼げな寝顔に、容赦もなくに垂れかかる。

 初夏の盛り。
薄手のシャツ一枚、その袖を、そっとまくって、肘の上まで。
そうして手首をかえす、両の腕とも。

 次には足。
ジーンズの裾を少し持ち上げ、靴下を下げる、
くるぶしを走る、静脈の見えるまで。
……こちらか。
隠したい、その気持ちはまだある訳だ。
左……これは……一度や二度じゃあないな……。
……右もか。
こいつは新しい。しかもやり口がひどくずさんだ。
自分で刺すのは、今日が初体験だったか。
これじゃあ、目覚めぬのも道理と、
靴下も裾も、袖も、元の通りに。

 ん……と、また、低い、獣のような声を吐き、
ちいさく寝返りを打つ。
髪が揺れる。
あどけなさを残す寝顔に乗せる、眉間に深く
寄せられた皺を隠すように。




 ぴた……ん。
ああ、まただ。
また、あの音がする。


 「おーい、もう帰んのかよ。つきあい悪いなぁ!」
「ごめん、はよ帰らなあかんから。」

 自転車で、片道25分の通学路。
4時半にはもう、家庭教師が勉強机の横に座る。
今日は英語、明日は数学、その次は……。
3時に授業は終了するから少しなら
遊ぶ時間もあるのだけれど
ただ、自分がそうしたくない。
いや、遊びたくない理由など、ある訳もない。
ただ、見たくない、聞きたくない。
グラウンドに、響く声、ユニフォーム姿。
軟式なんかつまらないと、背に言い聞かせて
自転車にまたがる。


 この25分。
与えられた24時間のなかでこの時間が一番。
風を受け、風に押され、何も考えずに、
全てを真っ白に、そう、一枚の、
風に遊ばれる布にでもなったように
ひとり、ただ、走る。
春も、夏も、秋も、冬も
行きも、帰りであろうとも。

 雨の日には、また全く違う感覚に。
雨合羽を羽織って尚、降りかかる雨粒が
顔に手に、皮膚に直接、遅い来て
毛穴から、汗腺から、皮膚にある、あらゆる穴という穴から
吹き出し止まぬ、あれも、これもを浄化して、
全身より垂れる雨雫とともに、流し去ってくれるようで。
凍えるような冬の日には、
それがほわほわと湯気ともなって
それはもう、身体の芯を疼かせるほどに。
だから、クルマで送ろうかと
せめてバスで行きなさいと
そんな言葉をいつも、振り切った。



 「お前、何で必修まで将棋部やねん。
なんで野球、やれへんねん。
もったいな過ぎるやろ、リトルリーグでエースまで張って。
それとも、もう、興味ないんか? 飽きたんか?」
ただ、微笑んで、流す。


 音ひとつない、八畳の自室の空間には
蛍光灯の眩い光が白々と、照らし続けているにも関わらず
時に押し寄せる、その部屋隅に、己の背に、闇が迫り来るような感覚に
テキストの上を滑る目を止め、こくりと生唾を飲み込んで
一間隔をあけて振り返る。

 はは……笑いを禁じ得ない。
何やってるんだ、中学生にもなって。

 そうして次には、腕を見る。冬なら袖を捲り上げて。
また、筋肉が落ちた。
思うだけかも知れない、そうかも知れない。


 『お前はな、細すぎる。腕も、脚も、腰もな。
リトルの内はそれでも、上背でごまかしていられるが。
筋肉がつきにくい体質なのかも知れんが、
それなら余計、人一倍努力せな、な。』
監督に、コーチに、事あるごとに、口癖のように。


 椅子から立ち上がり、腕立て伏せを始める。
30……50……70……100。
もう一度。もう一度。
それから腹筋。
同じく30……50……70……100。
こちらは多少、やり過ぎても大丈夫、
馬鹿になり、シャープペンシルが持てなくなる心配もない。

 自室を出て、階段を下り、
勝手口から裏庭に出て、縄跳びを始める。
100……300……もう何百回飛んだか分からない。
満月、三日月、輝く星、そんなものは
存在自体が蚊帳の外に
暗闇も、暑さも寒さも気にならず
いやもっと言えばその感覚もなく
今が何時かさえも、もう良く分からない。

 いくら広い庭、隔てる隣とは随分の間を置くにしても
真夜中の、中学生のこの行動は
近所の噂になったとしても何らの不思議もなく
無論、母は知る、夜の遅い父には幾度も直に目撃を受けた。
だが口は決して挟まない。咎めもしない。
心配を訴える母を、なだめ置いてくれる、父のお陰だと、思う。

 汗を全身に滲ませた、夏ならば流れるまでに、
熱を帯びた身体のまま、息の切れるまま、
ベッドに横たわり、六法全書を広げる。

 すれば、すうと、潮の引くように、
火照りがベッドの底へと沈みゆき
脈の、あらゆる波の、静まってゆくのが
手に取るように。

 そうして一時間ほども、難解極まる文字に遊べば
平常心を取り戻し、また、勉強机に。

 

 勉強、それ自体は苦にはならない。
小学生時代、授業以外、自分で勉強するという癖の
全くついていない野放図ぶりであったから、
最初は途惑いもしたけれど
やればやる程に、理解の度合いの深まる程に
面白いように成績が上がる。
家庭教師連中も手放しに褒めそやすほどに。
だがそれよりも。
知らぬものを、知る喜び。
分からぬものを、理解する喜び。
躯の、心の、魂の芯が熱く火照り、痺れゆく
恍惚に似た感覚を一旦覚えれば
まるで中毒のように。
小賢しい受験テクニックさえ、まるでゲーム感覚のように
身につけてゆくのを楽しんだ。



 そうして過ごして来た、ある、夏の夜のこと。
中学三年の、追い込みに入った頃。


 夏休み、冬休み、春休み。
長期の休暇にはいつも、大手塾の主催する、
集中講座、或いは合宿にも参加した。
中二の春にはその塾の、管理職とやらが
授業料全額免除を当然の条件として、我が塾生の
名前を連ねる一員とならないかと
直々に家までご挨拶に来る始末。

 そんな講座より帰宅をすれば
居間に父親がくつろいでいた。

 TVモニタに映し出されるナイター中継は、まだ中盤。
こんな時間に父の姿を見るなんて。
弁護士としての腕を買われ
仕事は年数を重ねるほどに増え続け
今や連日の出張、事務所への泊まり込みも珍しくない。

 「やぁ。今帰りか。頑張るな。」
ソファの、隣に座る。
画面は、手に汗握る、首位攻防戦。
二死一・三塁の危機を
ショート・ゴロに仕留めて、大歓声。
見事に討ち取りましたと、実況の、興奮の声。

 「今のは遊撃手の勝ちやな。投手は助けてもらった。」
一見、軽々と、処理したかに見える。
くだらない、平凡なゴロに見える。
それが本当の名守備だと、監督も常々に言っていたっけ。

 「そう言えば、青次(しょうじ)のチームメイトの遊撃手、何て云うたかな。」
「明隆(あきたか)……香月(かつき)明隆。」
「ああ、そう、アキ君な。あの子はほんまに巧かった。」
目線は、画面に遣ったまま。

 「うちにも、よう遊びに来ていたらしいな。
僕は一回しか会うてないけど、その時も
試合の時も、いつも、あの子は、ええ目していた。
実直で、一本気で、負けん気に溢れた……。
アキ君は今、どうしてるんや?」
「硬式野球部のある附属中学に行ったよ。
噂やと、一年からレギュラー取ったって。」
「そうか。」



 思い出す。
基礎を徹底的に仕込まれる、リトルリーグ。
ゴロは腰を落とし、体躯の正面に、しっかりと捕球、
握り直した上で、送球。
『おおい、香月。言うたやろ、躯の前で捕れ。』
『なんやと。』
戦闘開始。

 『今のが躯ん前で捕れるんやったら、お前捕ってみろや。
万一捕れても、体勢歪んで、まともな一塁送球出来るか。
送球遅れてランナー殺されへんでも、正面で捕れ、ゆうんか。
そのへん、ちゃんと考えて指導しろや、ボケ。』
『なんやその、物の言い方は! 誰に向かって言うか!』
『お前以外に誰がおんねん。』
『お前とは何やお前とは!』

 アキの顔に、痣や傷が絶えなかったのは、これも一因。
本当に、何回、何十回、繰り返されたか分からない。
いつだって、アキの言い分はもっともで
反面、コーチや監督の指導にも間違いはなく
しかもアキのそれは、対自分だけには留まらず
他チームメイトへの、指導にさえも
同じように口出しをするものだから
それは内野手、外野手、投手捕手、
守備位置にも打順にも差別なく行われるものだから
いつだってブラックリストのトップに名を連ね
それでも、そのプレイを見れば
誰もが唸り、認めざるを得ない。

 投手の自分も、何度か、助け船、出してもらったっけ。
懐かしいな……懐かしい。
中学でも、同じようにやってるのかな、
きっとそうだ、あの性格が、簡単に変わるとは到底思えないもの。
頑張ってるんだろうな……アキ。



 「あの子は、身体が小さかったからな。
ああいう子は時に、無理をし過ぎて身体を壊す事がある。
プロを狙える逸材やと僕には思えた、ええ指導者に恵まれればええな。」
相変わらず、視線は、TVモニタより離さずに。

 「青次も、高校に入ったら、硬式、もう一回、やるか。」
どき、と、芯が脈打つ。
「うん。やりたいな、思てる。」
「そうやな。大学受験は、一浪くらい、全然構わんからな。
今……辛いか。」
「……ううん。そんな事ない。」



 夜、10時。
2分とずれる事の、恐らく一度もなかっただろう、
母が、夜食を持って来る。
片手に持って食べられるように、俵型に握られて
海苔を巻かれた、ちいさなおにぎりが三つ。
夏には冷えた麦茶、冬には熱い煎茶を添えて。

 邪魔を憂慮し、母も殆ど話すこともせず
机の端に、そっと盆のままに、置いてゆく。

 このおにぎりが、いつもいつも、美味しかった。
美味しくて、身にしみた。

 だがその日は。

 「青ちゃん、高校行ったら、野球やるの?
嬉しいわ、お母さん、青ちゃんの野球やってる姿、大好きやもの。
どこの高校に行っても、練習試合も、ううん、練習風景も、
出来る限り、お母さん、観に行くからね。」
茶を帯びた、髪を愛おしそうに撫でながら。


 ぴた……ん。
あの、音がした。


 どうやってそれを食べ終えたか、分からない。
気がつけば、全部、机上にもどしていた。
以降、あらゆる食事を受け付けなくなる。


 県立医科大学付属病院に、緊急入院。
胃カメラ、消化器系のCTスキャン、脳のMRI、
血液検査……精密検査の限りを尽くしても
病変とも云うのも憚るような、自力治癒の充分可能な、
極めて小さな潰瘍が、胃に二つ、三つあるばかり。

 もうすぐ受験なんですよと、
周囲顧みず泣き叫び、崩れ落ちる母親に
医者はこれで全て理解したという顔つきに。
良くある事です、と、胃潰瘍治療薬のH2ブロッカーと共に、
精神安定剤のソラナックスを処方され、退院した。




 「んん!……あぅ……う……」
深夜の静寂に、突然の呻き声が響き渡る。
ぎし……大きな寝返りに、ベッドが軋む。

 明暗調節可能な主照明を、ぐんと落とし、
ぼんやりとやわらかな間接照明を灯した部屋。
ベッド横に、添えるように配置された小さな机の上より
興を殺ぐような青白い光の放たれるのは
そこに置かれた、ちいさなノートパソコンの故。

 一心にそのモニタに見入っていた視線を
瞬時にベッドへと向ける。
眼鏡の端から端までを、モニタの光が同じ速度で流れる。

 立ち上がり、傍に歩み寄る。
腕を支点に、ぎしり、と、顔を近づけ覗き込む。
黒い前髪が、さらと流れる。

 相変わらず、すうすうと、寝息をたてる顔には
うっすらと汗が滲み、髪の数本をその位置に留める。

 室温を少し下げるか……。
恐らくは、そういう問題ではないのだろうが。

 元居た場所に戻り、椅子に腰掛ける。
モニタを埋め尽くす文字、その一番上には
“Of Shouji Kiritoh” (ショウジ・キリトウについて)と。
それらを一瞥、ふと視線がパソコンの
右端に刻まれた時刻に止まる。
4時15分。
夜が白むまでにはまだもう少し間があるな……。
煙草に火を点ける。
赤い火元が、幽かな首の動きに合わせ、尾を引き流れる。




 ドイチェル・シェーファーフント──ジャーマン・シェパード。
屋敷にも居た。
警察犬訓練所を、極めて優秀な成績に卒業した三匹が、
常時、広大な敷地内に放し飼い。

 自分がまだよちよち歩きのその頃から
そいつらは其処に居た。
流線型に、均整の取れた容姿。
黒っぽい顔の中に鋭く光る、精悍な茶色の目。
真っ黒い鼻面から、尻尾の先まで
ものすごく、でかくてカッコいい。
恐る恐るに手を出せば、
尾をひとつ振り、茶色い瞳に優しさを滲ませて
ぺろ、と一度、暖かい舌に顔を舐め
耳を軽く折って撫でられるがまま。

 少し育ってボール遊びが出来るようになれば
投げれば、きちんと取って来る。
呼べば、必ず寄って来る。

 なんて立派で、賢く美しい生き物なんだろう。
ガキの自分は、ただもう夢中。


 「あれらはな。立派に仕事を持ち、こなしている。
お前の愛玩物として、ここに居る訳じゃない。
煩わすのも頃加減にしろ。」

 咎められ、初めて気がつくというのも
呆れた馬鹿さ加減だ。
自分は立ち入り禁止の日本庭園にも
こいつらと云えば、入り放題。

 やっと理解する。
友達だなどと、勝手に思い込んで。
面倒でも相手をしてやるか、相手は子供だ。
犬達は、ただ、そう思っていただけなのに。
思い知る。
俺はここで、誰より何より、
一等下の、生き物なのだと。


 「若坊ちゃん。これから、犬達を連れて散歩に行きますが、
宜しければ、ご一緒しませんか?」
うちに常駐する、犬の世話を任された、若い奴のひとり。

 「若坊ちゃんは、犬がお好きなんですね。」
「うん。シェパードが、特に好きだ。」
「犬は、利口で愛情深く
信頼を決して裏切ることのない、
それは素晴らしい生き物ですからね。
若坊ちゃんがお好きで、私も嬉しいですよ。」
「犬って、そうなの?」
「ええ。ひとつ面白いお話、しましょうか。
犬がどれだけ、飼い主を感じられるか、ってお話です。」


 この話は興味を引いた。
ホラー映画を観て、興奮に頻脈となる飼い主の
傍に居る犬は、同じように脈が速くなるのだと云う。
そうして何が起こっているかは分からなくとも
主人を案じ、決して傍を離れないのだと。



 八歳の誕生日をすぐそこに
親父に連れられたのが、警察犬訓練所。
そこに、生後二ヶ月に手が届こうという、
シェパードの仔犬達が居た。

 「お前の為に生き、お前だけの言う事を聞く、
立派な犬に育てる自信があるか。」

 育てられるか? 育てるさ。
何があっても、どんな事をしても。

 見た事があるか、抱いた事があるか。
黒灰いろの綿毛にくるまれて、
青みを帯びた、潤むちいさな目のなかに
不安そうな色をゆらゆらと乗せ
まだ豚のように短い尾を振り、振って
くうくうと、くうくうと
不釣り合いなまでに太い前足を出して
抱けばずっしりと重たくて
ほのかにミルクの匂いがする。

 あんなものを目の前に
あんなものを抱き上げて
一体誰が、どうやって
こんなもの要らないと断れる。


 それでなくとも普通のガキに比べれば
忙しい身ではあったが
そんなものは苦にもならぬ。


 『あの子とは、遊んじゃ駄目ですよ。』
それは謂わば、遊べと促す呪文のようなもの。
それでも流石に毎日毎日影踏みじゃあ、
誰だって嫌気も差して当たり前。
葬式帰りさながらの
強面の偉丈夫の、影が常につきまとえば。
──シェーファーフント、親父にのみ忠実な。


 九種混合ワクチン接種、狂犬病予防ワクチン接種
フィラリア予防薬投薬、その他定期的な健康診断を始めとして
良質のドッグフードの選択から
躾けの方法まで。
小学生には荷に重い、漢字だらけの参考書を手に
誰の手も借りずに
いやその実、金は全て親父から
知恵の数々は例の若い奴からと
あちらこちらより手を差しのべられながら
そうして、警察犬訓練所定年退職者による
直々の指導を仰ぎながら
寝食をさえ共にして
ジャギュアと、当時好きだった車種の名前をつけた
雄のシェパードとの生活が始まる。

 敏感に、家の中の人間、一人ひとりの
立場を位置を察知する、
能力に長けた犬なら尚更の事。

 その最下に属する自分の言う事だけを聞くように
躾ける事が、如何に困難を極める所業か
思い知っても、諦めなどは当然、眼中になく。
どんな事をしてもと、誓ったのは自分だ。


 ジャギュアは日に日に
目に見えて、まるでぎしぎしと
音を立てるように大きく育ち
おおきな、片方の耳が立ち、
次に片方が立ち追いついたと思えば
また最初の片方が垂れる。
あはは、と笑い、抱きしめれば、温かい。
そうしてすぐに、あっという間に
自分を追い越す大きさに成長する。

 どんなに疲れていても
朝夕の散歩は欠かさずに
そうしていつも、俺達は共に居た。



 「あれは駄目だな。
厳しい訓練に耐え抜き、主人を信頼し切った犬は
例えそれが厳命であったとしても
主人の利にならぬ命令には耳を貸さぬもの。
その反対も、また然り。
そこまでに育てる力量が、沁弥(しんや)にはなかったという事だ。」
「……御言葉ですが、親父さん。
まだ小学生の身にありながら
大型犬をここまでに育てられるなど、本当にたいしたものです。
失礼ながら、親父さんの命令にさえ耳を貸そうとしない犬を
後にも先にも、私の見たのは初めてです。」
「……お前はいつも、あれに甘い。
情けなど一切が無用、それは我々の立場にとって
命取りとなる罠でしかない。」

 漏れ聞いた。
その夜、ジャギュアを、抱きしめて、眠った。



 二つ、大学の名前を出された。
それ以外は認めぬと。浪人など云うに及ばずと。
前期後期を上手く利用し
その二つ共に、血反吐吐く思いで現役合格を果たしたのは
謂わば意地、そうして、自らに一方を選択した理由はただひとつ、
それが自宅通学範囲内だったから。

 何を腑抜けた事を、と
これから人の上に立とうという
何十何百の命を預かろうという
十八にもなろうという男が、と
学費くらいは出してやる、
住み処はうちの持ち物にしろ、
そうして生活費は自分で稼げ、と。

 親父の鶴の一声に、全てが否定され、決定される。
飽きる事さえ馬鹿馬鹿しくなる、
same old game──いつもの事だ。


 家を出て、親父の持ち物たるマンションに一人暮らし。
ジャギュアは当然、実家に置き去り。

 もう、十の齢を重ねる。
それでなくとも、シェパードの寿命は
平均のそれよりかなり短く
厳しい訓練を受けた犬ともなれば尚更。

 講義とバイトの都合と、親父の留守を
合わせ狙って実家に戻る。
まるでこそ泥のように
ただジャギュアに会う為にだけに。


 自分がそう訓練した、
誰の言う事も聞かない。
餌さえ、まともに口にしない。


 いいか、この人から餌をもらうんだぞ。
いいな、これは命令だ。
修学旅行の時は、食べたじゃないか。
合宿の時だって、食べたじゃないか。

 「若坊ちゃん。
犬は利口で感受性の強い生き物。
全部、分かってしまうんですよ。
ああ、若坊ちゃんは、数日で戻られる。
だからあの時は、私の手からでも餌を食べて
その日まで待つ事が出来たんです。

 四年は長い、長すぎる、この年齢の犬にとっては。
懸命に、食べようと、若坊ちゃんの為に食べようと、しているんですよ。
けれども、もう、魂が砕けてしまっているんです……。」

 それでなくともシェパードの忠誠心はあまりに気高い。



 こういう事だと、
親父のしたり顔が浮かんでは消え、
声が内耳に、呪いのように繰り返し繰り返し響きやまぬ。
これがこうなったのも全てはお前の所為。
育成法、訓練法の甘さ、決定的な指導力不足。
結果がこれだ。
刮目しろ、瞠目しろ、その様(ざま)を。

 ……黙れ……黙れ……だまれ!


 口の周りを真っ白に、痩せ衰えて
美しかった、光をさえ帯びた毛並みは遜色を失うばかり。
それでも俺の姿を見れば
残された力振り絞り、千切れんばかりに尾を振って
がつがつと、俺の手からものを食い。


 一年もせぬうちに、若い奴から緊急の電話を受ける。
死ぬな、これは最後の命令だ。
いいか、許さんぞ、決して許さん。
俺が行くまで、決して死ぬな。


 もう目も、見えていなかっただろう。
それでも俺の、ジャギュアと名を呼ぶ声を聞けば、
ぱたりと一度、尾を振って
そっと乗せた、俺の膝の上の大きな顔
一度、撫でればもう、息をしていなかった。



 気がつけば、ボードの上が灰だらけ。
ああ、くそ。




 ぴた……ん。
まただ……何の音だったか……。


 「おう、青(ショウ)、こっちこっち。」
ころ……ん、と、時代遅れのドアベルの残響のなか。
黒光りのする、木の床が、ラバー・ソウルの下に
歩く度に、きゅ、と、時に木と木の擦れる、
ぎし、と、年数を刻む音を立てる。
これぞ大人の珈琲の味だぜ、なぁ、と
密かに自分達のお気に入りとなっていた、
時代がかった、喫茶店。

 明後日に一年三学期の始業式を控えた、冬の日。
お洒落して来いよ、って何だろう、と思ったら。

 友人が、席を立って、窓側を譲る。
前には女の子が二人。
「青、こちら、森口水音さん。水の音、と書いて
“みずね” さん。」
「私達は、“みお” って呼んでいるんです。」
一人の少女がそう言い、紹介された、
窓際の、少女がちいさく、頭を下げる。
「で、これが、桐藤青次。
俺達は皆、青って呼んでる。別名、歩く六法全書。」
「はぁ!?」
思わず自分の口から飛び出た、素っ頓狂な声に
向かい合い、あははと笑みを交わす、二人のカップル。

 「じゃあな。俺達はこれで。」
席を立つ間に、そっと耳打ち。
「可愛いコだろ。上手くやれよ。」

 友人カップル二人、早速に手を繋いで。
立つ鳥跡を濁さず?……おい?
ちょっと違うぞ?
しかも、全然、聞いてないぞ?


 「あ……はじめまして。」
「……はじめまして。」
目の端(は)、曇った窓の外に、仲良く手を繋ぎ歩く二人の後姿が
紗をかけて浮かび動いて、とうとう視野の外。

 運び置かれた目の前の
熱い珈琲の、波揺れるカップから立ちのぼる、
湯気の向こうに姿を見せる、
ウェーブのかかった、肩までの髪が
うつむき加減の顔を隠すけれど
ほんの少し、微笑んだような、
表情は何故か、いつまでも
こちらに直に届くようで。

 「あ……あの、綺麗な名前ですね。」
「え……そうですか? だって逆さまから読むと。」
一瞬の、間。
そうして思わず吹き出す、二人一緒に。
ぴんと張った糸が、ふわりとほぐれる。

 そうして、名前の由来を話し出す。
高いけれども、真綿のようにやわらかな声で。

 母方の、祖父母の家の庭にある、水琴窟。
どこから聞こえてくるやも知れぬ、
けれどもその音は、清(すが)しく、つつましく、美しく、
いつまでも、耳にした人のこころに残響し
忘れ去られる事のない。
そんな風な、女性になれと願いを込めて。

 「名前負けもいい処でしょう? もう恥ずかしくて。」
言って、頬を染め、にこりと微笑む。
あ、と、気付く。
片えくぼがあるんだ。
水琴窟みたいな。


 水音は、自分達の通う高校の、駅三つ離れた処にある、
女学院高等部、音楽科の一年生。
エスカレータ式の大学ではなく、県立芸術大学の、
ピアノ科を目指している、と話す。

 「だから、あんまり、時間がなくて。」

 それはこちらも御同様。
一年という期間を受験勉強対策に充てる為
2年次二学期末までには、高等学校履修必須科目項目全てを終了、
その為に七時限、八時限目まで授業のある日も珍しくない。

 その上に、水音は大切な一人娘。
厳しい門限も立ちはだかった。

 それでも二人、会える時間を捻出して
休日なら月に一度、多くても二度
三時間から四時間を限度に
平日なら週に一、二度、
ほんの三十分、せいぜいが一時間。
熱いものを二人で飲んで
それから水音の家の前まで送って行って、おやすみと。
それだけが、ただもう、温かく。


 日曜に、デートがあれば
同じく一人暮らしをする友人宅に頼み込み、
前もって服と靴を預けおいて、
毎日曜日、十時には必ずマンションに訪れる、母には制服のまま
ごめんね、今日は英作文の補習講義があるからと
嘘をついて出かけてゆく。
あの服は、靴はと問われれば
ああ、友達に貸してるんだ、と、これも嘘を。


 繁華街に遊びに出かけ、
初めて手に触れ、つないで歩いた。
眼下に港の見える、夕刻に、
ふたり並び立って
美しい風景に融け合うように
そっと、やわらかい肩を抱いた。

 「歩く六法全書なんて云うし、
お父様が弁護士だって聞いてもいたから、
私ったら勝手に、もっと、こう……鋭利な感じの人なのかなって。
青くんって……ほんとうに……優しいね。」
そう言って、顔をそっと、胸に預けた。
髪から、ほのかにいい香りがした。


 春休みには、実家に戻らなければならないと、
告げれば、ほんの少し、伏し目がちに微笑んで。

 「その間、苦手なソルフェージュと即興、頑張っとく。
……あのね、実は、うち、母が教育大の特別音楽学科を出て
その後、芸術大学の、大学院で作曲を学んだ人で、
色んな音楽関係の、理事やなんかをやってるんだ。
だから、私、落ちる訳に行かなくて。
私立だったら、コネだと言われるから、
どんな事があっても、最低、県立に。」

 背に重い荷物を抱えると、知って余計に愛おしい。
自分にも、進みたいと思う、Kという大学、確かな目標が出来た。
あれも、これも、大事なものを
決して手の中から溢れ落とさないように。


 
 桜が花筏を作る頃、実家より戻り来て
葉桜の、交じった吹雪のなか
ふたり歩いて薄闇に暮れたころ
初めてちいさく唇に触れた。

 
 珍しく、補習のない土曜日に
マンションに来ない?と勇気振り絞って
無理を承知で誘ってみれば
女の子だもの、当たり前だと思いはすれど
当惑したように、なんだかまるで
悲しみのような表情を浮かべ
しばらく、ずっと、下を向いて
それからようやくこころを決めたというように
うん、と、返事を返してくれた。



 「うわぁ、綺麗にしてるんだね。」
「……ここに来る奴、みんな、そう言うよ。
ちょっと、俺、神経質かな。」

 ただ、自分のものを、人に、母に、片付けの名目に
触れられたくないだけのこと。
そんな事を、どうして水音に伝えられよう。


 ソファを促す。
アイスティの入った、ふたつのグラスを持って
自分も、隣に座る。
ちいさな、ラヴソファ。
グラスをひとつ、手渡す。

 「……美味しい。」
「コンビニの。」
ふふ、はは、と、笑い合う。

 そっと、手を、頬から、髪の下に。
水音の、目が、伏せられる。
長い、睫毛。

 そっと、くちづける。
それから、少し、力を込めて。
深く。

 ふたりの、胸の鼓動が、
静かな、静かな部屋のなかに
まるで反響するかのように
水琴窟のように。

 片方の、手で、肩を抱く。

 ようやくに、くちびるが、離れた、時。

 「……青くん……」
「ん……」
「……あのね……」

 水音の、伏せられた両の瞳が
長い睫毛から覗いたけれど
それらはどこをも、見ていない。

「日曜ごとに、お母様がここに来るって、本当?」


 一瞬に、身体が、強ばる。
肉に食い込む針金に、ぐるぐる巻きにされたように。
瞬きが出来ない、目蓋に針を刺されたように。
言葉も、発せない、声も、出せない。
喉に、石を詰め込まれたように。

 「……ごめんね。」

 腕のなかから、するりと、抜ける。
何が? 身体が? こころが? 世界が?

 と……ん……と、ドアの、閉まる、音。



 次の日、つまり、日曜日。
いつものように、母が来る。
七日分の、冷蔵冷凍保存可能の
夕食となるおかずを持って。

 「どうしたの?青ちゃん。何だか青い顔色して。」
ソファに座る、
昨日、水音が座った、その場所に。

 額に手を遣る、子供の熱を計るように。
「何もないよ。」
払い除けるように、下を向く。

 ああ、なんだ、なんだ、この、熱い渦。
どんなにとどめようとしても
口から耳から、鼻の穴から噴き出しそうな。

 「まだ十六やのに、男の子やのに、
一人暮らしなんて。
やっぱり無理やのよ。お母さん、心配で、心配で。」
その手がいつものように
いつものように、髪に触れ、
撫でた、その瞬間。

 びく、と、身体が揺れたと思うと、
……何だこれは?
呼吸が……息が、出来ない。
息苦しさのあまり、もがき、喘いで
次第、口元に、指先に、痺れを生じ
胸元に、強烈な痛みを感じ
ひぃ、ひぃ、と、喉元より音を発しながら
苦しみに、涙を流し
身体中をがくがくと、痙攣させて
その内に、目玉がくるりと
白目を剥いて
そのままその場に、倒れ込んだ。




 「んあっ!……うう……ん……」

 パソコンはとうに閉じ置いた、
椅子に目を瞑り座る男は、瞬時に席を立ち、近づき覗き込む、
先程と全く同じように。

 汗が引かんな……。
バーの雇われマスターに問い質(ただ)した、
酒の方は確かに、若者がよくやる無茶な飲み方だが
ヤクはコカインで、粗悪品という訳でもなく
要は質も量も、たいして問題になる程のものとも。

 枕元の時計に目を遣る。
六時半……もう夜は明けた、カーテンを開けるか。
部屋入り口付近に並ぶ、ボタンの一つを押せば、自動的に。
部屋が、さあと、明るいクリスタル・グレイに染まる。
薄闇に慣れた、眼鏡の奥の瞳を眩しそうに細める。




 ぴた……ん。
そうだ、あの音だ。
もう、ここまで、思い出しているのに。


 目覚めれば、あちらもこちらも、
天井さえも真っ白な、病室のなか。
どうした訳か、父が、傍に居た。

 「やぁ。気がついたか。」
「……お父さん?……何、俺、どうしたん……。」

 父の説明によれば
母よりかかって来た電話は、一向に的を射ず
ただもう、泣き叫ぶばかりで
父が、常駐するマンションの管理人に電話をかけ
二人を救急車で搬入、緊急入院させたとの事。

 「……お母さんは?」
「別室に居るよ。今は安定剤を注射されて、眠っている。」


 それから、医師立ち会いの下に
簡単な実験が行われた。

 母の言うには、ただ、頭を撫でたら、
途端にひどく苦しみ出して、倒れた、と。

 こんな風にか?と
父の手が、頭に伸びた、その途端、
程度は随分と軽くはあるけれども
全く同じ症状が繰り返される。

 「焦らないで、いいですか。」
慣れたものと、落ち着き払って、医者が言う。
「この紙袋を口に当てて。
きつく締めては駄目です、ゆったりと、隙間を持たせて。
ゆっくり、息をして下さい。
大丈夫、出来ます、ゆっくりと、焦らずに、ゆっくりと。」

 事実、発作は、これで徐々に、魔法のように治まった。


 父を廊下に呼び寄せ、医師との会話が始まる。
「典型的な過呼吸症候群の症状です。
しかし、皮下安定剤が、まだ効いている状態でさえも
一定の行動下で、こうもはっきりと
発作が導き出されると云うのは……。
失礼ですが、何かお心当たりは。」
「……ええ。」
答える父の表情が沈み、眉間に皺の寄る、
それをどうする術も、父も持たない。

 「治癒は可能ですか。」
「ええ。ストレスの元を取り除くのが一番の対処法ですが、
徐々に発作が軽くなるのが、この症状の特徴でもあります。
第一にこれは、命に関わる病気ではありませんから、
あまり深くご心配なさらないように。」
「……お世話になりました。ありがとうございます。」


 「病名、何て?」
「過呼吸症候群やて。聞いた事はあるか?」
「あぁ……うん……名前だけは。」
「原因や治療法は?」
「治療法は今初めて知った。
……原因は、だいたい、知ってる。」

 「青次。」
「何?」
「……いや、何でもない。
お母さんの処に行って来る。」
「うん。俺、悪い事した。びっくりさせて。」
「青次が大丈夫なら、お母さんも心配はない。分かるやろう?」
「うん……お父さんも、ごめん。仕事、あったんでしょう?」
「……あぁ。」

 「お父さん。」
立ち上がり様に。
「何や?」
「俺の……兄さんやった人って、どんな子やった?」

 家には、写真ひとつない。
仏壇さえ、母が無理矢理実家に押しつけた。

 「……事故死したのが三歳になったばかりやったからな。
やんちゃで、元気のええ子やった。」
「……俺に似てた?」
「どうかな……僕は、そうは思わんが。」
「そう。」


 ベッドの中から、父の背中を見送った。


 ぴた……ん。
 
 ああ。
思い出した。
あの音だ。



 子供の頃から、ほんの幼稚園児の頃からだろう、
朝食には必ず、ホットミルクが出される。
子供用の、熊やら兵隊やら機関車やらの
絵の施された、それでも子供には結構な大きさの、
ボーン・チャイナ製のマグカップ。

 あれはいつの頃だったか。
小学三年、四年……朧に判然としない。 
ある朝、いつものようにカップを手に取れば
カップの置かれていた場所が、乳白に濡れている。

 肘でも当てて、こぼしちゃったのかな。
濡れたダイニング・テーブルと、次にはカップの底を
ティッシュで拭く。

 その時、持ち上げたカップの底、
その真円の、丁度真ん中あたりから
ふわあ、と乳白のちいさな玉が浮き上がり
底を天井に、ぶらさがった、かと思うと
それがみるみるうちに大きくなって
そうして表面張力が、とうとう重力に白旗を揚げ
涙型に変化した、ミルクのひとしずくが
目の前を、まるでスロー・モーションのように
すぅぅ……と、落ちて
ぴた……ん、とテーブルに撥ねを上げた。

 ええ?
もう一度、ティッシュで拭いて、持ち上げる。
覗き込み凝視しても
指先に触れてみても、
罅の痕跡ひとつ、どこにもないというのに。

 ぴた……ん。

 「お母さん、これ、見て。」
父親の、出勤を玄関に見送り、戻り来た母に。

 「まぁ……。お母さん、洗う時にでも
気付かない内に、どこかに当ててしまったのかな。」
「でも、罅入ってないよ、ほら。」
「……ほんまやね、でもきっと、目には見えない
細い細い罅が、入ってしもうたんやわ。
ごめんね、青ちゃん、このカップ、
お気に入りやったのにね。ごめんね。」

 処分されて次の日には、新しいマグカップがテーブルの上。

 罅も入っていないのに。
どこから、雫は、こぼれていたんだろう。
何故、こぼれて雫となり、落ちたんだろう。
今も、分からない。

 あの音だ。
そうだ、あの音だ。
でも、何故……?




 途端、覚醒した。


 見たこともない、薄いグレイの天井が、
壁が、ベッドシーツが目に飛び込む。
……ええ?
急ぎ、起きあがろうとすれば、身体中が叛乱を起こしたように
突然襲う、全身の痛み、ひどい頭痛、そして耐え難い吐き気。
思わず手で口を覆う。

 「おい。大丈夫か。」
ええ……? 誰だ?
思う間もない、ちいさく首を横に振る。
その動作の終わる間も待たぬ敏速さに
男は、ぐい、と少年を脇に抱え込む。
「バスルームはすぐそこだ。我慢出来るな?」



 ざあ、と、水を流す音。
それが絶えた頃合いに。
「右肩の棚に積んであるタオル、適当に何枚でも使え。
ああ、コップもな。汚すのは気にするな。」
ドアに遮られ、低く、くぐもった声。

 はぁはぁと、肩で息をして、顔を流水に冷やした際に
濡れた髪を、ごしごしとタオルにこすりつけた結果の
ひどいヘアスタイル、そうして泣き明かしたかの赤い目が
容赦もなくに、磨き込まれた鏡に映し出される。

 一歩、踏み出せば、未だふらつき、
まるでウォーター・ベッドの上を歩いているような、
そうして頭にはまるで、重しの四つ五つもついている、
茨の冠をかぶせられたかのよう。

 それでも漸くにドアを開け、壁伝いに廊下に出てみれば、
そこに先程の男が、真っ黒いシャツを袖捲った腕を組み、
壁に背をもたせかけ、立っている。
ほんの少しの前傾姿勢に、これもまた黒い
織り模様の入ったネクタイが、振り子のよう。

 「……ベッドに戻るか?」
言葉の終わってから、ゆうるりと向けられた、
眼鏡越しの瞳は、まるでブラックホールのように
あらゆるものを吸い込んでしまいそうな。

 「……いえ……。」
「居間のソファまで歩けるか。」
「……居間?」
「あぁ。あの向こうのドアの奥だ。」
「……はい。」

 言ったものの、一歩足を踏み出せば、意に反し
ぐらあ、と身体が均衡を崩す、まるで無重力地帯に
放り込まれてしまったかのように。
おまけに、頭。
そのうちに、割れて中身が全部、どろどろと
溶け流れてしまうんじゃないかと思うほどに。

 思わず壁に手をつくと
ふん、と、男はひとつ息を落として
結構な乱雑さに、少年の腕を取ったかと思えば
それを己が肩にかけて、ゆっくりと歩き出す。
「背が高いな。何センチある?」
「え……春、測った時には179cm……でしたけど……。」

 なるほど。正直だな。

 ドアを開け、すぐ横のスイッチをオンにすれば
ベッド・ルームと同じ、広々とした窓に閉じられたカーテンが、
微かな機械音と共に自動に開き、
北西とはいえ、朝の光を、磨り硝子と
格子編みにされたレース・カーテンを透過して満面に引き連れ
世界を眩いクリスタル・グレイに輝かせる。

 慣れぬ眩さに少し目を細めながら、中に、連れ入る。
「適当に座って、少し待っていろ。」
そう言って、部屋に附随する、別のドアより、姿を消す。


 ……この部屋……居間、だって?
なら、ここって、ホテルじゃあ、ないんだな……。
綺麗な大理石のバスルームは、まるでホテルみたいだったけれど。
……この部屋は、ひどく広いし、それに……
目の前にあるのは……あれは……。

 モノトーンに抑えられた、生活臭の殆ど、感じられない。
ちいさなスポットライトが、天井から
あちらこちらと、あらぬ方に顔を向け、ぶら下がる。
周囲と同化するような、ベッドリネンと同じ、銀鼠色の、
革製の五人掛けのソファ。
その背もたれに、手をやり半ば身体を預けながら
そお、と、一番端に腰を下ろす。
そうして視線は、少し離れた処に、整然と、威風堂々に
まるで王のように鎮座するオーディオ機器に。


 『これがJBL4343B、スピーカの最高傑作だぜ。
ウーハ、スコーカ、トゥィータの、大きさと配置バランスが
絶妙に絶妙で、この世にあらぬ音を出す。
そう、あのストラディバリウスとおんなじだ。
人の手に神のなせる業、
これ以上のものはもう二度と輩出されない。』

 音楽マニアの友人が、『レコード藝術』って雑誌を広げ
羨望に瞳を輝かせて、耳にタコが、数十匹は住み着くほど、
あんまり何度も話すもんだから、流石に覚えてしまっている。

 
 それ……だよな?
目を奪われていると、かた、とドアの開く音がした。

 「オーディオに興味があるのか。」
あ……、と、急ぎ、立ち上がろうとして、
また、脱力し、世界が自分一人取り残して回る。

 「座ってろ。キリトウ・ショウジ。」
ぽかんと、口もぶらりと開けそうな相手を一瞥して
く、と笑う。
「名前も知らない泥酔野郎を泊める程には
流石に俺も、まだ、捻子が緩んでない。」

 小脇に抱えたスポーツ・ドリンクの、500mmペット・ボトル、
手に持つ、透明の液体を入れたクリスタル・グラス、
そして握られた、シートに入ったままの薬を三つ、
黒い大理石仕様のテーブルの、青の座る前に置いて
自分はひとつ、間を置いた場所に座る。



 「あ……あの……お……僕、お世話をおかけして……
すみません……ありがとうございます。」
「礼など要らん。下手すりゃこちらが誘拐監禁罪だ。」
憮然と、一言。

 渦巻くような脳で、必死に記憶を辿る。
俺は……俺は、何をしていたんだっけ?
そうだ、バー。あの、高架下のバーで、
ありったけの酒、まぜこぜにして飲んで、
その上にコカインを、常連客の囃し立てるなか、
生まれて初めて自分で打ったんだ。そうだ。

 ……そこから先は、何もない……白い闇しか。
ここは何処だ? この人は誰だ?

 ああ、なんだかもう、
何もかもが。


 「銀のシートに薄桃色の錠剤、が、頭痛止め、ロキソニン。
銀のシートに白のが、マイナー・トランキライザー、ワイパックス。
桃紫色のに白が、胃炎用、ムコスタ。
……適当にやれ。
胃が受けつけるなら、ドリンクは飲んでおいた方がいい。」

 無造作に置かれた、薬を前に
青は一度、こくりと生唾を飲み込む。
ムコスタは……知っている、服用した事がある。
「あ……あの、胃薬だけ、いただきます。」
ぱちん、と、シーツより錠剤を取り出し、
用意された白湯で流し込む。


 「あの……。ひとつ、お訊きして宜しいですか……?」
「あぁ。」
そりゃあそうだ、訊きたい事のオンパレードだろう。

 「あの……何か、スポーツされてるんですか。」
「何?」
声が裏返った。
目が点になるとか、円くなるとか良く云うが、
この時の沁は正にその通りだったに違いない。

 ……は。
はは。ははは!
こいつはすごい。完璧にやられたな。


 「あ……すみません、初対面の方に、失礼な事……。
あの……ほっそりしてらっしゃるのに、腕の筋肉が、
すごいな、って……力もお強いし……俺、重いのに。
本当に、すみません。なかった事にして下さい。」

 「いや。笑ってすまん。……極真だ。」
「極真……寸止め無しの、空手ですよね。」
「あぁ。ガキの頃からずっとな。
尤も最近は道場も、すっかりご無沙汰だ、
明日は筋肉痛かも知れん。」
「あ……すみ……ません……。」


「あぁ、忘れるところだった。」
黒いシャツの胸ポケットから一枚の、紙切れを取り出し、
すうと、テーブルを滑らせる。

 「……失礼します。」
手に取り見れば、こんな名刺、見た事がない。
左肩に浮き彫りのあるのは、これが会社か何かの
マークなんだろうけれど、あるのはそれと名前らしき、
“深嶌 沁弥” の文字のみ。
他に何もない、住所も、電話番号も。

 「ふか……しま、しんやさん……ですか。」
「それで “みしま” と読む。裏、見てみろ。」
裏返す。ローマ字で、Shin-ya MISHIMA の文字。

 「みしま……さん。……あ……!」
「鏃(やじり)、体中にぶらさげた、
聖・セバスティアヌスにうつつを抜かしていたかと思えば
鉄アレイでマッチョ目指し、挙げ句にハラキリした物書きと、
同じ字だと思ったか。」
「あ、はい……あの、高架下の店の、オーナーさんで
いらっしゃるんですね。」
「正しくは親父が、だ。」
言って、ふん、と、嘲るように。


 ……こいつは面白い。
こちらの素性を知って尚、恐怖と憧憬、
若しくは下卑た関心、そのどれもを
殆ど気色に見せないとはな。
……確かにひどく、緊張はしているし、
残り酒とヤクの所為も、あるにはあるんだろうが。


 あぁ……そうだったんだ。
マスターが一度だけ、話してくれた事があった。
『ここのオーナーの、ミシマの若はな。お前らの先輩に充たり、
K大を優秀な成績で卒業した秀才だ。
まだ三十路にも手の届かない若さだが
おっそろしく切れる人だぜ。』
……でも、そんな人が、何故?
そして、どこまで、俺の事を……?



 「ここもそうだ。一応は俺の根城、本当の持ち主は親父。
……でもな、あれは違うぜ。」
眼鏡越しに、視線をオーディオ機器に。

 「JBL4343B。プリメイン・アンプはマランツPM15。
学生時代、四年間のバイト代全部はたいた。
今もメンテナンスで、火の車だぜ。」

 「……高校の友人が、言うてました。
これの音は、人の手に作られた天上の音、神の音、
他では決して味わえない、って。」
「お前の友達は詩人だな。音、聴いた事はあるか?」
「いえ。」
「じゃあ今度、聴きに来い。本当に天上の音かどうか。」
不審気に、首を傾げるよう見遣ると、
目線を合わせる事もせず、
ただ、もう一度、口角を上げ、
「また、暇を見つけてバーに行く。」



 ……なんてこった。
こいつの髪色、これは地毛だ。
平均的日本人と比較して、少々色素が薄いんだ。
肌の色も白いしな。
明るい処で見る、こいつの瞳。
……お前と全く同じ色だぜ。
え、おい。



 「あぁ、それからな。
こういうのは……第一、総元の立場の俺が言うのも、
やたらおかしな話なんだが……。」
はあ、と、いかにも大儀そうに一息ついて。

 「ヤクは早めに抜いた方がいい、軽い経口の奴もな。
両方一緒が辛ければ、こっちは後回しでもいいが。
まぁ、多少の覚悟は要るが、
まだ深入りしてはいないようだから、今の内が賢明だ。
マスターには俺から直々にその旨、良く言い伝えておく。」

 窓より漏れ入る朝の光を受けて
赤ん坊のように覚束ず、不安気にゆらゆら揺れながらも
よりその色を鮮やかに、明瞭にする濃茶の瞳が
一瞬、ぴたりと泳ぎを止める。

 「あの……」
ひとつ、生唾を飲む、意識したように、こくん、と。
「多分……お……僕が、あの店で、前後不覚になっている処を
助けて下さったんやと思います……その事には
本当に感謝しています……け──」

 「あぁ。」
遮る音(おん)が、低く地を這う、さも疎まし気に、
だが確固たる強靱に。
「節介は百も承知だ。」

 恐る恐るに、ちらと見遣れば
その眼鏡の奥より、射貫くかの漆黒の眼光、鋭くただ一点、
焦点は如何に向けられているのか、有無を言わせず、厳然と、
ただ一点に。

 こくり。
またひとつ、息を呑み込む、今度は恐らく無意識に。
なにひとつ判然としない世界のなかで、
青は朧な、曖昧な、慄然が、
肩の辺りにじわりと落ちてくるのを、それだけを確かに感じる。




 「もう少し休んで行け、と言ってやりたい処だがな。
出かけなくちゃならん用がある。
勿論、送っては行くが。
バーか、それとも自宅がいいか。」

 自宅……あれは、あのマンションは、俺の自宅……なのかな。
「すみません、バーに、お願いします。」
「……あの横にな。専用の倉庫がある。
そこに付随して、六畳ほどの畳敷きの部屋があるから
そこでしばらく休めばいい。
……まぁ、お世辞にも清潔とはいえんが
数時間の事だ、我慢しろ。
マスターには俺から連絡を入れておく。」
「すみません……何か……お世話になるばかりで。」
「誘拐未遂だからな。これくらいは当然だ。」
また、く、と笑う。

 立ち上がる。
「歩けるか?」
「はい……何とか。」
代わりに沁がスポーツ・ドリンクを持って。

 全く。ガキの癖に上背のある。
まだ伸びる時期だ、下手すりゃ抜かれるな。
……まぁ、その位は目を瞑るさ、その位は。



 「気分が悪くなればすぐに言え。」
「はい。」
まるで女性をエスコートするかのように
左側のドアを開けてやり
自分はぐるり、車体前を回って運転席に滑り込もうとすれば
ご丁寧に、慣れぬ外車スポーツ仕様のシートベルトと格闘する姿が飛び込み
思わず、は、と声を上げて破顔する。
「いや、すまん。」


 ……全く。無理矢理、時を捻出、1000km の慣らし運転を
漸く済ませたばかりだと言うのに。
何だってこんな高校生に、“ナビシート、野郎初乗り” 許す羽目に。
あぁ、そう言やぁ、ベッドもだ、当然ながら。
……ったく。こりゃあ、良い笑い者だぜ。


 「これって……BMWですよね?」
相も変わらぬ素直な質問に、また別の、笑みを乗せる。
「あぁ。好きな車種なんだが、左ハンドルは、どうも性に合わん。」

 確かに、聞いた事はある、
ドイツ車でも、あの有名なメルセデスでも、
英国輸出仕様は右ハンドルなのだ、と。


 上機嫌なのか、ただ呆れているのか、
微笑む沁の横顔を、ちらと一瞥した青は思う、
この人は、広域暴力団傘下、深嶌組の、若頭、跡目取りだ、
佇まい全てが、美事なまでにそれを物語る、
黒ずくめに圧倒する凄みと……知性、
そればかりが滲み出る、
なのに……何だろう、今もそうだ、極真の大笑いの時は勿論、
……オーディオの話の時は特に、
そんな時に、この人がふと見せる表情は、
何だかまるで……ほんとうに、失礼だけれど、
あどけない、少年のような……。

だからなのかな……それともただ、
まだ感覚が麻痺しているだけなのか、
自分でも不思議だ、
極道の、それも高級幹部と、二人きりだというのに。


 「出すぜ。」
イグニッション・キィを回せば
深き睡りより呼び起こされた、獰猛なる怒りの咆哮が如くの
エンジン音が、ヴォオン、と、仄明るい駐車場に響き渡る。
じゃ……ゆったりとした発車、これもまたこれまでにない。



 「音は無理か。」
射すばかりの初夏の朝陽のなか
此処は一体、どの辺りだろう、
せめておおよその見当を、と
車窓を流れゆく、緑深い景色ばかりに気を取られ
どの位の時が流れたかも定かでないなかに
突然に発せられた言葉に
青は一瞬、きょとんと、返事もままならない。
 
 「小さめには鳴らすが。」
「あ……大丈夫……やと思います……多分……。」
「敵わんなら遠慮せず、すぐに言え。」
「はい。」


 かけられた音楽は、ひどく優しいピアノの調べ、
極小音量に絞られて、耳にも頭にも障らない、
ただ、ひどく、そぐわない、そぐわないのに、
心地好い。



 あ。
有無を言わせぬ無言のなか、思わず声の出そうになったのは
流れゆく景色に初めて見覚えを感じたからか
閉じられた空間に響く音に、
馴染みのあるのに気付いたからか、
それともそれが、同時に起こった故か。

 「知っているか。」
眼鏡越しに、漆黒の瞳を、ちらと見遣ればすぐまた前を。
「はい。ここ、聴いた覚えが。」
「『トロイメライ』は有名だからな。」
「『トロイメライ』……名前にも、聞き覚えがあります。
 綺麗な曲ですね。」
「意味は知るか。」
「いえ……。」
「夢。」
表情も、声音のひとつも変えもせず、憮然と。
「『トロイメライ』は、この一部分だけの呼称だ。
正式には『子供の情景』。シューマンだ。」

 言ったかと思うと、自嘲するかに、くっと笑って
「女々しいな。」
低く、独りごちるように、吐き捨てるかのように。
それからはまた、無言の行。


 あぁ、これはもう確かだ、山手のこの辺り、バーには多分
クルマだと……あと、10分かそこらもすれば。




 倉庫の畳敷きに、
不本意な顔付きの青を半ば強引に横にならせ
居間に戻って来た沁は
どう、とソファに腰を下ろし
燻した銀のジッポの蓋をかん、と開ければその音が
広い広い、パステル・グレイの居間に谺と響く。
口に咥えたマールボロの先に
ジッポの創り出す、蒼い炎を近づければ
じじ、と、今度はオレンジ色が誕生し
それら全てが部屋の、薄いグレイを暗幕に
一瞬の、戯れを見せる。

 ふうと、白煙を。
ウーハが、スコーカが、トゥイータが
薄灰色の、靄の向こう。



 シェーファーフント、俺の、俺だけの。
血統、毛並み、能力、性質、性格、品格
どれをとっても最高級。
予想以上、想像以上。
後は俺の腕次第、お手並み拝見って処か……。

 分かっている、分かっているさ。
二度と同じ轍など踏まん。
お前に遭わせたような目には、決して。


 走れ、走れ、シェーファーフント。
背を弓のように、足をバネのように。
耳を倒して、瞳輝かせ。
お前には、それが一番、相応しい。
それが一等、美しい。

思い出す、
お前もよく、そうして河川敷を走ったな。



 誰もその喜びを
奪う事など許されない。

 なあ、ジャギュア、そうだよな。