白蝶

「さぁ、御姫(おひぃ)さま、御起きの御時間に御座いますよ。」
四方のうちの一方を、鶯色の土壁に、
そうして他の三方は、襖にて封じ、作られた、
八畳の間、その、藺草(いぐさ)の香りの空間の、
真中に敷かれた、それは、御伽噺に現れる、
豊穣の、侏儒(こびと)のものと表現しても、
さほどの過ちもないような、真綿を絹織りに綴じ込めた、
ちいさなちいさな布団にも、
襖の合間、合間から、また、美事な彫りの欄間から、
朝の陽の、ひかりの筋と、漏れ入り、
描かれる、模様の、位置もおおきさも、
ゆうるりと、刻々と変化を見せて、そのうちに
灯りのない部屋全体をも、うすぼんやりと照らす頃、
漸くに、漸くのこと、すっと潔く襖を開け、
真白い綿の割烹着に身をくるませて、
いつも、顔の身体の、どこかしらを
仄赤く、熱(ほて)らせた、
登与(とよ)の姿の現れる。

目も頭も醒め切って、
思い返してみても、心当たりのひとつもない、
まだ眠い、と、ぐずり見せたなど。
それでも一人、起きても何も仕様もない、
だから、真綿の布団の中、ごろり、ごろりと
繭の中の蟲のよう、寝返りを繰り返し、
唯、登与の来るのを、待つばかり。

「さぁ、御姫さま、御可愛らしい、御跡取りの妙子(たえこ)さま。
今日はどの、御着物を召しましょうね、どの帯を締めましょう。」


織嶋(しきしま)本家の総敷地は、ひとつの村をも飲み込むと、
人々の声にも喧しい、その北端に数年前、新築の幕を落とした、
屋敷もまた同様に、西洋の城が如く、
それは幼きちいさな、白足袋にくるまれた妙子の足には
どこまでそれを運んでも、つるつる滑る、黒光りの一間幅の廊下、
あちらに縦に、こちらに横に、
見遣れば先は、仄暗くに沈むよう。

隔てられた、どこの襖を開いても、
あるのは、藺草の香りの、空間ばかり。
玄関隣、腕を伸ばせば漸う届く、金と輝くドアノブ回し
重い扉を押し開けても、迎えるのは唯
ぼかりと口を開けた、魔物のような石造りの大暖炉、
囲む壁には、隙間もなく、大仰しい額縁のなか、
描かれた人物の、目線はいつも、こちらを追い追って来る。
朝、昼、夜の区別なく、
来賓の、波と押し寄せれば自分にもお呼びのかかり、
自慢気な、口髭整う父様の、膝の上に乗せられて、
濡羽の黒髪、白絹の肌、まるで
木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)のご様子と、
人の手に創造されし人形(ひとがた)には、決してこうはいきもせぬと
褒めそやす言葉と共に、伸び来ては触れる、手、手、
皺ばんだ、汗ばんだ、噎(む)せる香料、撒き散らす、手、その感触、
歪む口元より覗く、黄身帯びた歯並び、
今、ここに、浮かび来るかのよう。

動く、息する、人たる者の、何処にも姿を見かけない、
ひとつの部屋を除いては。
居るのは、 黒光りする紫檀の廊下の、あちこちに、
登与と同じ、白の割烹着、
その方々に、色取り取りの染み滲ませた、
折角の結髪を、手拭いに隠す、惨めな姿、
丸めたかと思えば、背を腕を伸ばし、忙しなく、
横に廊下を、縦には美事に太い、紫檀の柱を、
黙々と、唯ひたすらに、磨き上げる、
それこそまるで、蟲のような、大きな白い、蟲のよう。

「ねぇ、一緒にお手玉して遊びましょう。」
「まぁ、まぁ、これは妙子さま、何て御勿体の無い。
申し訳もございません、私は今このように、少し、お仕事を。」

妙子に理解の及ぶ筈もない、
乳母代わりの登与以外、
賤なる使用人如き、口利きひとつも咎めのある等。

玄関近くに聳え立つ、踊り場有す、大きなそれとはまた違う、
見上げるその先、闇と隠す階段の、
屋敷の、隠されたかの端の方、対極に細く二つ、
見出した時にはほんの少し、胸も、どきりと脈を打つ。

今よりも、まだもっと幼かった頃、
大階段を、それこそ蟲のように這い上がり、
踊り場にさえも届かぬうちに
磨き抜かれた桜木が、 白足袋の下、つるりと滑った。

戒め事を侵す、顔を、身体を火照らせて。
白足袋のなか、爪先に力を込めて、そおろりと
一歩、一歩と登りゆけば、闇と思えた筈の先は
どんどんと、明るさを、光を強くして、
漸くに、登り切った、目に映るのは、
何の事はない、一体何処がどう、違う、
一階と、寸分の違いもない、
廊下と、隔てる襖、唯、それのみの、
延々続く空間の、居並ぶばかり。

落胆に、失意に、火照りはすうと色を退き、
次には、そろり、そろりと、足取り重く、降りゆくばかり、
つるり滑って、以前のように、
青痣を、白き肌の処々に乗せぬよう、
鼻腔より血を噴き出し、着物を汚さぬよう、
それらのもたらす、躯に感じる痛みよりも、
幾倍、幾十倍も……一体何と例えれば良い、
白き能面の上、ふたつ穿たれたる、奥底見えぬ暗黒の、
じいと、見下ろす、声一つ上げず、唯、見下ろす、
あの眼差し、あの、洞の目。
今、思い起こす、それだけで身動きを封じられるような。

踏みしめて、重き一歩、また一歩、恰(あたか)も、
地の底へと、今一度戻りゆくかに。

自らの、部屋に戻れば、たんとある、
金襴緞子の一松人形、卍に、巴に、麻ノ葉模様、目にも綾なる絹の手鞠、
けれども、人形は、抱いても、もの言わず、動きもしない、
手鞠は、投げても、戻って来ない。

日舞、お琴、礼儀作法に、茶道と華道、
幼すぎる身にも容赦のない、叱咤の声音、
ぴしゃりと、扇子に打ち据えられながらのお稽古事、
最早、慣れたと、顔色ひとつも変えずに済ませれば、
もう、妙子には、何も、する事がない。


或る日の事。
何ともなしに歩みを進めれば、辿り着いたは
麗らかの、金色帯びた束たるひかり降り注ぐ、
延々と先を細める、幅二間もの、南の広縁。
磨きに磨きをかけられて、
我が身を虹色に、在るや無しやに映し出す、
硝子障子を、覗き込めば、不図(ふと)。

日毎に庭師の手入れの入る、整然と、
緑、岩、とどめる事なき水の流れ、
これら三者の、生み出す空間、
彩なす、織りなす、調和に寸たる狂いも見せぬ、
観る者を、常に悠然たる風情に迎え入れるを役目と成す、
人の手に、限りを尽くした日本庭園。
その、まさにその横に、世界を隔て佇むは
唯一本、一本の、凜たる一重白彼岸の枝垂桜、
樹齢であれば、人の生き死にを、二周り、三巡り、
優に眺め来たであろう、山辺の丘に、神木と崇えられ
咲いては散り、恵み繰り返し来たものを、
財に知識に物言わせ、この庭へと植樹した。
その、白き可憐なる花、今爛漫と咲き誇り、
戯れの、ややたる風に、地に着くかの、重き枝先を幽かに揺らす。

その、仄かに淡い紅色滲む、白の間に間に、
ひらと、真白き蝶の、一羽、舞うのが見えた。

「あ。」
思わず喉を漏れ出た声は、最早後方に流れ去り、
春陽炎のなかを泳ぐかに
ひらと、ゆらと、高く、低く、右に、左に、
安定を欠き、予測もせぬ方向に、飛ぶものを、
我忘れ、追いかければ、自然、
と、と、と……と、
白足袋の下より生じた足音が、広縁に
響いたかと思うと、その尾を天井へと広げ散じる。

「あぁ、何だというの。」
棘の苛立ち籠もる一言に、
瞬時、妙子は我に返って歩を止める。

春の陽穏やかな午後なれば、仕切る襖を人の手の
ひとつ、入り込む程の隙間を開けて
その恵みを我が身にもと、考えた処で何の不思議もありはしない。

「お母様。蝶々が飛んでいるの。」
「蝶が飛んでいる。それは飛びもするでしょう、春なのですから。」
僅かに開かれた、襖のなかの、人影が声を成す、
麗らかの、春に漸く目覚めを見た、
蛇の、地を、ぬらぬらと、体くねらせ這うような、声。
「お母様。蝶々を、近くで見たいの。
決してお庭を踏んだりはいたしませんから……
お庭に出ても宜しいでしょう?」
「あぁ。要らぬ処に刺してしまった。」
ぷつり、絹糸を切る、容赦のない、
銀に光りを反射した、鋏の入る音。
「本当に。
幾度同じ事を繰り返し伝えれば、気の済むというのかしら。」

しゅ……しゅ……。
窓の外、鳥の囀り、 幽かに耳に、それ以外には何もない、
無音のなか、取り残された、妙子の耳に届くのは
仄昏い、襖の奥より、
母親の、絹糸を刺繍する、その際に、
布地との摩耗により、生まれては消えゆく音ばかり。
延々と、延々と繰り返される、その音は、
光り尖った針先のように、妙子の内耳に
次より次へと突き刺さる。
「用事は全て登与にお話しなさい。」
漸くに得られる答えは、常にいつもと同じもの。


妙子には知る由もない。
この、広大なる屋敷に、母親の、
生死を賭した叫び声、丸二日間、響き渡り、
挙げ句、内の赤子を救う為には麻酔の使用も、と、
医師さえ戸惑いの色を隠せぬ決断を求められれば、
父たる人、眉根ひとつ、声音の微塵も動かしはせず
世継ぎをこの世に誕生させるが、
この織嶋の、敷居を跨ぎ嫁ぎ来た者たる務め、
例え己(おの)が灯火尽きようとも、悔いのあろう筈もない、と、
まるで夕餉の献立の、好みに答えたかの、
飄々とした言い様に、
朧と霞み、混沌に靄する意識のなか、
それが誰の言葉やも、その意味さえも判然とせず、
自らの、意思等挟む余地の、ある筈もないままに
無残にも、腹、切り割かれ、叫喚に沈んだ。

次に意識の薄らと戻れば、唯一人、頼りと慕う夫の顔が
ゆうるりと舞い降り来て、あぁ、と、あぁ、と、
心底よりの、縋(すが)る想いに潤む目に、
見上げればその顔は、
発する熱の、何処にもない、刻まれた石像のような。
女児(おなご)とは、その上に、最早、石女(うまずめ)、
情けに里へは帰さずには遣る、
何、血を継ぐ法なら、他に無い訳でもない、と、
これもまた、眉も声音のひとつにも微動も見せず。
逃れるよう、横を見遣れば、其処に居るのは、
ちいさく、赤く、ぶよぶよとした、
口の周囲を涎に汚し、二つの膨れた瞼、
その縫い口のような睫を脂(やに)に閉ざし、
すうすうと、安穏に寝息を立てる。

……何だというの、これは、この生き物は、一体何?

さぁ、奥様、御子様をどうぞ御腕に、と、産婆より、
喜色満面に、手渡された、
その肌の触れた途端、
触感の、耐え難きおぞましさに、
喉絞る叫び声を上げ、放り出せば、
魔の取り憑いたかの、建物をさえ揺るがすような、
つんざく喚きの声。
何て事を、何て事を、と、
泣き喚く赤子を救うかに抱きかかえ、
よう、よう、と、さも愛おしげに揺らせあやしながら、
こちらを見遣る瞳に露わと浮かぶ、嘲りの色。

……これは夢に違いない、
未だ醒めぬ、悪夢のなかに溺れているのに違いない。

嘲りの色、その先が身を、つ、と突いた、まさにその時、
母親の顔に、白き狐の面が、張り付いた。
どのような悪夢の中にあろうとも、これさえ被れば怖くない。
一生、一時(ひととき)たりとも取りはしない。
誰にも決して、取らせはしない。

張る乳を、痛みをこらえ、搾り出すのも、何でもない。
誰彼の、言葉も態度も、どの道、悪夢の中。
待ち望まれ、四年を、五年を経た後に
漸くの事、漸くに、我が身の内に授かった、
我が内の、宮の中、十月十日を共に過ごした
愛しい我が子は一体何処に、
あの、我が身の分身たる、男児(おのこ)になれば、
この身、血肉の最後の一欠片、一搾りまで、
与え、死しても、本望なのに、
あぁ、愛しい我が子は一体、何処。


身を放り出された一度期以来、
唯の一度も、抱(いだ)くはおろか、
自らを生み出した者の、
手に、指先にさえ、触れられず、
慈愛の笑みの、一滴(ひとしずく)さえ注がれずに
妙子は、今、ここに居る。
あととり、と、恐らくはその言葉を、耳の脳の、
この世に生を受け一等最初に理解して、
日々登与の、そう繰り返すを耳にして、
自分は唯その為に、その為だけにここに居る、
幼き身に心に、沁みこませて、ここに居る。


北寄りの東側、そこに大きく陣取られた厨房の
扉を開ければ、むうと、常に湯気の立ち込めて、
様々な、湿りを帯びた、香りの、匂いの、交差する、
そのなかに、忙しなく、割烹着姿の、蟲達が動き回る。
「まぁ、妙子様、こちらには。」
ちいさき麗しの、姿に気づいた目に浮かぶは、困惑の色、唯一つ。
常の事、きっと蟲達は、この目しか出来ないに違いない。
だから、何程の事もない。
「登与はどこ?」

「まぁ、御姫さま、今朝申し上げた筈にございましょう、
今宵、大切なるお客様、多数お出での、盛大なる宴の催される故に、
私(わたくし)、登与も、その支度準備、采配に、終日、手一杯と。」
「蝶々が、見たいの、登与、お庭にいたの。」
「庭園には、出入り禁止にございましょう?」
「でも、見たいの。」

仕様事もと、秘密裡に
生まれて初めて通された、勝手口の外側には
屋敷と、外塀に囲まれた、それでも三間程の幅を有す、
彼方にまで、細長く続く空間、
その、外塀に、沿うように、紫雲英草(げんげそう)の、
四角を形取る、緑の葉々の、今咲き誇る、紅紫の花の、
根を張り、ぴんと茎立て、惜しむ事なく花弁を広げ、
生き生きと、春和(やわら)かの光を、体躯に存分に浴び、
下駄に踏めば、しわりと柔軟に足を守る、
毛先の長い、緑と紅紫、その、二色の絨毯と成す。

「御遠くには決して参られませんよう、この、戸口の御側だけに。
登与は直ぐに参りますから。」
登与の言葉も耳に、入らぬ程に
一瞬にして魅入られた、
その、緑と紅紫の絨毯に、誘(いざな)うかに、或いは誘われるかに、
あちらに一羽、唯一羽、
白い蝶の、戯れるかに、ふわふわと、舞う。

おぼつかぬ、赤い鼻緒の下、黒漆の滑る下駄に、追いかけ、
追いかけても、空(くう)に乗り、ゆらと、身を翻す様、
まるで、天より垂れる、目には見えない糸に
操られる傀儡(あやつり)人形のよう。

幼き身に、幾重にも巻かれた、金糸銀糸の着物に帯は
奴隷を繋ぐ鎖のように、身動きを封じ込め
袖の、地に垂れるも忘れ、中腰に息を切らせれば、
不図、眼前、蓮華の一輪に、
白き蝶、休めた翅を、ふわり、開いては閉じ、を、繰り返す。

じいと、見つめ、見つめ、そうして、
ちいさき、柔らかくふくよかな、肌白き両の手、
その、掌の、真中のみを膨らませる格好に、
ぱしん、と、綴じ込めるに成功すれば、
なかに、翅、はたはたと、身悶えする、
その、生き物の、喘ぎの齎(もたら)す、
決死の感触、掌に、直に、くすぐったく、
即座、脳髄に、躯の芯に、
ぽう、と、赤き幻惑の、熱の燈を灯す。

指の隙間より、覗き見れば、
昏き掌の牢獄のなか、
白銀の、ひかり撒く翅、鮮やかに
そおと、決して逃さぬよう、細心に、二枚の大翅、
親指と人差し指に、挟み持てば、
くねくねと、その体躯、ひくつかせ、
附随する、糸のような六本の脚の、空を蹴り
微毛と、鱗粉の織りなす、白粉よりも肌理(きめ)細やかな肌触りに、
指先を、これもまた白銀の、燦めきに染める。

片方の、手に持ち替えれば、
指先に、べとりと塗りついた、綺羅の鱗粉、
くるくると、指腹にその感触を味わって
そののち、ぴい、と、蠢く蝶捕らえる手背に引けば
そこに、銀のひかりの、輝く真一文字の道。
親指の、腹を頬になすりつければ、
自らには見えねども、そこにもまた、同じ。

びくびくと、死にものぐるいに自由を求める、
生命の、指先に与える振動、
腕を流れて、胸に、頭に到達し
灯った火熱に油を注ぎ、その熱、滾(たぎ)りのあまり、
全身を走りゆく血脈、その、末尾にまでも、
どくどくと、音を立て流れ亘れば
ぼぉ、と、恍惚に脳が揺らぎ、
瞳は、 瞬(まばた)きをさえ忘れ、
憑かれたかに見開かれた、暗黒を吸い込むような瞳に、
じい、と、その様、見つめた挙げ句、
びい、と一気に翅一枚を毟(むし)り取った。

空泳ぐ、銀鱗のひとひら、失って
ぽとり、地に落とされたる蝶は
飛力のみならず、平衡感覚をも同時に失い、
最早まともに、立ちさえ出来ぬ。
その、醜き姿に、似つかわしくもない、
すれば、と、また、摘み上げ、
残りの翅、もう一枚、もう一枚と
毟り取れば、手に、鮮やかに、三枚の、
白銀の、白粉よりも煌(きら)と輝き、
比類もなき、肌触り齎す、宝、我が手に。
一方に、無残、翅もぎ取られ、放り出された蝶は
今や重すぎる荷と化した、団扇のような一枚の白、
それから必死に逃れようとするかに
右に、左にと、倒しながら、断末の
苦しみに、喘ぎ、音も立てずに、体躯をくねらせるばかり。

動きの徐々に緩慢となる、その姿、
朱を乗せた頬に、奇妙に開いた瞳孔に見遣れば、
登与の、自分を呼ぶ声、何度目か、
漸くのこと、耳に、脳に辿り着き、
我に返れば、掌の、美しき、粉巻き上げる三枚を、
ぱぁ、と、散らして、緑と紅紫の絨毯の上、
きらきらと、光る、その上に、輪を掛けるよう、
ちいさき手を、ぱんぱんと、二度、叩(はた)けば
その音は、大きく宙に響いて、薄青い、霞の空へ登りゆき
舞い散る銀の粉、ゆるやかな風に、歪(いびつ)の三角を
描いたと思えばすぐに、姿を散じ、
世界を、綺羅の銀塵と染めるも束の間、
これにて妙子の、たったひとりの宴の終焉。



曾祖父の手に財力に、織嶋の、血筋、血統継ぐ者の為
建立された、私立の学校、
登下校は、運転手付の、黒光りの車の中。
そうして迎えた十三歳の、或る佳き日和、
妙子は、父親の決めた、五歳年上の、
自らは、見も知らぬ、男性との婚約を交わす。

「世は、戦乱の道へと、脇目も振らず突き進む。
華族だの財閥だのと、肩書きばかりは
この先、最早何の意味をも成さず、
勝ち目分けるは、目に見えたる生産力。
織嶋は、それに乗じて事業を拡大、
化学繊維工場の、建設経営に踏み切る所存。
その為にと、惺十朗(せいじゅうろう)君を婿に選んだ。
血こそ、遠縁、その末枝に過ぎねども、
東京帝國大学工科に、一等の成績に入学した、
その才覚、工学の知識こそ、これよりの織嶋に必要不可欠なもの。」

父に母、結納の品持つ、従者十数名、
それらに取り囲まれるように
薄紅梅色に綾な、総絞りの振袖に、身を包んだ妙子の見たのは
これは本当に、人の住む、家屋なるものか
家畜小屋の、周囲に緑を植え繕ったとより思えぬ、
この建物は、我が敷地、日本庭園の奥
樹木の壁に先を隠した、そのまた先に幾つも建つ
土壁造りの倉、そのひとつの広ささえ、あるやも怪しい。

結納の儀、その間中、
相手方の両の親共、唯もう畏(かしこ)まり、
恭(うやうや)しく、硬く縮こまり身を丸める様、
あの、蟲達と、幾分の変わりもない。

一方に、惺十朗は、一人、正座に佇んでいた。
ぴんと張る、烏羽(からすば)色の学生服、
膝の上に置く、握り締めた拳。
未だ少年の、あどけなさ留(とど)める面立ちに
口の端(は)を、きりと結び
伏し目がちに覗く瞳、その矛先を一方向にのみ注ぎ
時に、緊張に乾く喉奥を、潤ませる役目を果たす、
詰襟に絞められた、張り出た喉仏を上下させるのみに。

不図、脳裏過(よ)ぎるは、陽だまりのような笑顔。
第一高等学校理科乙類に入学、上京し、身を寄せた下宿先、
其処に居た、二つ年上の女性。
想い告げる勇気を持てず、帝國大学に合格し、
其処に身を留める自信の生じれば、
その時こそ、と、心に決めた、
正にその日の早朝、郷里よりの電報を手に握った。

それ、振り切るよう、握る拳に一層の力を込めれば、皮膚の下
浮き出る青い、血の巡る管がひくりと動く。
夢と描いた、研究者への道、絶ち切られるのが
最早逃れる術のない、運命(さだめ)であると云うのなら
諍(あらが)いはせぬ、足掻きもせぬ、代わりに
敷かれた軌道のその上の、定め置かれた生涯とやら
美事遂げみせてやると、一心の決意を覚悟を、
自らの、躯に心に魂に、
その、瞳の奥に彫り込むかに、
この一刻、一刻を噛み締め、
渦巻く静寂に、佇んでいた。

「幾久しく。」
双方の声、奥付書院の障子より注ぐ、和かな光を頂いた
本床の間に活け飾られた、楚々たる花菖蒲、
耳傾けるかに、谺と響く。



「識らなかったな。」
独り言のように、発せられた低い声に、
不図、妙子は、その、広い背に視線を投げる。
背の向こう、硝子障子窓越しの、眼前に広がるは、
この高さに悠然と太枝広げ、八方の底へと垂らす、彼岸の桜。
「満ちもしない、朧の月明かりの下(もと)にさえ
桜花というものは、このように仄白くに、闇に浮かび上がる。」
そう言って、漸くに、背(そびら)を返せば、
半間を、開けた襖の作る陰影のなか
覗き見える、逢わぬ三年の間に、
当時の面影残しはすれど、
随分と大人びた、男らしくなった貌、
その、ほんの少し、微笑を乗せた唇に、
相変わらず、誰を相手ともない、呟くような言葉を落とす。
「そんな事さえ識らずに、僕はこれまで過ごして来た、
一体何を、見聞きして、識ったつもりで居たんだろう。」

父の予兆に狂いなく、火蓋は寸暇もなくに切り落とされて
帝國大学卒業を待つ筈が
それより先に、赤き召集令状の紙一枚、惺十朗の元に。
そうとなれば、有無を是非を語る猶予もない。

地方都市が幸いもした、何より織嶋本家、その世継ぎの婚儀とあらば
例え戦の渦中にあろうとも、贅を極めて当然至極。
唯、婿を取る、妙子に白無垢の姿はなく、
代々に継がれ来た、金襴緞子に干玉(ぬばたま)の尾長髪、
何十たる双眸に、おぉと、響(どよ)めきの興(おこ)るも
無理からぬ。

燈のみを暗幕に隠す饗宴、その賑やかなるは、
緊張に、衣装の重みに疲れの色隠すも無理と、
主役二人の退(ひ)いた後も、
明の星、天に輝くまで、潮引く気配ひとつもない。

桜花に似た、石竹(せきちく)色の、絹、単(ひとえ)の寝間着、
その上に、綿入れを軽く羽織り
濡羽の髪下ろし、寝化粧をほのかに施した、
妙子の、鎮と正座した、これもまた絹織りの座布団の
下より躯に響く、未だ終焉を見ぬ宴の賑わいを余所に
用意された、この十二畳の間には
真中に、豪奢に綾なる婚礼布団、
端(はじ)に、ぼやり灯り成す、
桜模様の鏤(ちりば)められた、磨硝子の丸い洋燈(らんぷ)、
それらがものいわずに取り囲む、
夜なる帳(とばり)、その縅黙(しじま)の流れるばかり。

縁側より、夜景色を眺めていた、
こちらもまた、錆浅葱色の薄絹を纏う、惺十朗の、歩み入り
後ろ手に、襖を閉めると、閉ざされた部屋のなか、
洋燈に照らされた、妙子の艶やかなる姿が、ぼうと、
夜桜の如くに、輪郭に紗をかけ、浮かび上がる。

三年前、少女の面影よりなかったこの女(ひと)の
今、自らの前に、身を任さんと佇む姿、
これはもう、美しい、唯、もう、美しいとより、
表現の仕様もない。
例えれば、例えるとするならば……
そう、そうだ、
市松人形に、息吹与え、大きさをのみ、整えたような。

何という事もない、ひとつの思い、
それの、心に過ぎった瞬間、
惺十朗は、慄然とした。

慄然としたままに、その前に、膝を折る。
人形のように、表情のひとつも変えぬ、
思い起こせば、三年前にも、全くそうに違いなかった、
唯、当時は、幼さの故、心の張りの過ぎた所為だと
深くに考えも及ばずに居た。
表情の、これは、変えぬのではない、
唯、虚(うろ)なる、それより他に、何もない、
今、漸くに、腑に落ちた、
その、人形にしか、在り得なかった、
織嶋の、人形より他に、在り得なかった、
それ故、こうして、明日、出征に発つ男に一夜、身を預け、
子種を、授かりさえすれば御の字と、
物一つ言わずに佇む、貌を、見遣れば、
幼き頃よりの夢、次には人の手に積まれた道標への覚悟、
その両方をも絶ち切られ、
仕舞いには、死との対峙を強いられる、
翻弄に身を転がす、自らへの、それと、
合わせ鏡を見るような、
或いはその、裏側を見るような、
音も立てずに、身を切り刻み続け止まぬ、
痛切なる憐憫を、其処に見た。

こくり、と、唾をひとつ、飲み込んだ。
「妙子さん。」
「はい。」
何という、何という、声音を発するのだろう。
夏の夕、涼やかなる風に、鳴る風鈴の音(ね)のようにありながら、
律動ひとつも、其処には無い。

「この戦いは、どうやらあまり風向きが好くはない。
現に今、一等最後の城壁とされ来た筈の、
理系大学生にまで、招集のかかる始末なのですから。
しかし……もし、それでも生き恥晒し、戻る事があるならば、
その時こそは、真に夫婦(めおと)と成りましょう。」
そう、言って、そっと、細い肩に羽織る綿入れを滑り落とし、
背に、手を差し延べ、床へと誘(いざな)った。

「寒くはないですか。」
「はい。」
「僕は少し、冷えた。」
変わらぬ、低き小声に放ち、そっと、抱き寄せる。
真綿の、布団のなかに、す、と、絹擦れの、音がこもる。

この人は、何を言い、そして何をしているのだろう。
初めての、床の有り様(よう)なら、登与より幾度も言い含められた。
目を瞑り、身を貫く痛みに耐える覚悟を持てば、
後は唯、全てを殿方に任せおけば良い、と。
それなのに。

抱き寄せられ、抱き締められ、
そのままに、じっと、そのままに。

その内に、気づいた。
地の底より、絡め取るかに這い上り来る、ざわめく狂騒の枝々を、
圧し遣るかの、縅黙のなかに、響く、
伏せ置いた、自らの耳元に、響く、
正確に、音律を刻む、胸の脈、その鼓動、
とくん、とくん、と、
その、命脈、打つ度、絹衣越しに、触れた耳にも、
振動の、存外な力強さに伝わり来る。

とくん、とくん。
不図、兆した、
何だろう、この、感覚。
肌から、殻の欠片がぽろ、と、剥げ落ちるような。

暫くの内、男の躯が軽く、ひきつりをみせた。
「……は。」
一言、喉に潰れた自虐の音を発したかと思うと、
抱(いだ)く腕(かいな)外し、大きな手に、自らの頬を、拭う。
「情けのないことです。」
ゆるり、薄く開かせた眼に、視線を上げ、見遣れば、
妙子の瞳の、更に開くを禁じ得ない。
ぼやと、輪郭隠す洋燈の灯りの下、
二十一年の歳月に、十六年の歳月に、
どちらも経験した覚えの、一度もない、
口惜(くや)しさの、哀しみの、
それより生ずる、縋るかの慈しみ露わの、
仄かに赤く潤んだ男の瞳が、其処にあった。

「妙子さん。」
「はい。」
「接吻しても宜しいですか。」
「はい。」

顔に撫でる黒髪を、やわらかく手に払い、
薄く紅のひかれた口唇に、そぉ、と、くちづける、
二度、三度、四度、次第、深く、
幾度となく。

くちびるを重ねる度、
薄絹を通し伝わり来る、躯の熱さを感じる毎に、
全身を覆う、殻に次々と罅が走り、
ぽろぽろと、剥がれ、剥がれ落ち、
終には最後の一欠片まで、その光景が有様が、
閉ざされた目に、妙子にはまざまざと見えるような気がした。

そのうち、自らにも判然とせぬ、
妙子の、綴じられた、豊かな黒き睫毛が濡れ、
生じ溢れた雫、一筋、また一筋と、眦(まなじり)より伝い、
同じく黒き、髪を濡らし、洋燈の下に光と為した。



「妙子様。本日は花冷え、御身体に障ります。」
「好いのですよ、あぁ、有難う。」
元は、母親の居た、この部屋。
開け放たれた襖のままに、
部屋の暖房温度を高めに調節し直し、
横に垂れる、カシミヤ織りの、落ち着く格子模様の膝掛けを、今一度
丁寧に掛け直して、軽く御辞儀の後、使用人の立ち去れば、
目の前の、磨きかけられた硝子障子越しに広がるは、
今爛漫と咲き誇る、かの、一重白彼岸枝垂の、一本桜。
生まれ育ちし土地を遙かに、ここに連れ来られ
屋敷と同様、戦禍逃れ、それから幾年瀬、
今尚、春には美事なる花を咲かせ、吹雪と散らす。
その様と、生涯を共に来た。

惺十朗は戻らなかった。
音割れの凄まじき、玉音放送の後、
幾年待てども、生死の報せさえ、届かない。
所属部隊を同じくし、生き残り戻り来た者の話には
ニュー・ブリテン島はラバウルにて、マラリアを発症、
野営病院に入院し軍隊と離別、後の記録の一切が
霧と消滅しているのだ、と。

子も成さず、待って、待つ価値もなかろうと
戦後益々に順調に利益を上げ続ける、化学繊維工場拡大を目論む
父は迷う事なく、次なる婿を、妙子に宛がう。
宛がわれれば、諍う術など、妙子にはない、
けれども、こればかりは父にも、誰にも知る由もない、
妙子の、覚悟の萌芽、確と胸に宿す事。

繰り返される、デ・ジャ・ヴュの光景。
唯、ひとつの違い、
妙子は拒む、肌の触れ合い、その一切を。

千の歳月を脈と流れる、織嶋本家直系の、
血を、絶った、ひとりの女、
その汚名、被るをただひとつの、生きた証と、
ただひとつの、矜恃の、ようなものとして。

不図、今や全ての世界を白く燻(けぶ)らせる、
我が眼前に、一際大きく、悠然と、泰然と、
揺らぐ、枝垂れの桜花、その白の間に間に、
白蝶の、一羽、ひらと、舞うのが見えた。

あぁ、と、妙子には、腑に落ちた気がした。
人の、魂魄を、
人の、生き死にを、
その美しき翅に乗せ、運ぶ生き物。
それを毟り取った身に、報せのあろう筈もない。

ごぉ、と、暖房器具より生ずる音の、
低く、足許に澱むなか、
ちいさな、溜息のような微笑みを
その、皺、深く刻み込む口元に浮かべ、
そうして膝掛けの上に乗せた、
斑の皺織りの布のような、手を重ね揃え、
妙子は、静かに瞼を綴じた。