……暑さのせいだ。
こんなことになっちまったのは
この、馬鹿馬鹿しい、暑さのせいに違いない。
「刑事さん、もういい加減──」
云いながら、ドアより姿を現したお袋の、
セレスト・ブルーの瞳が
俺の背にした、窓より差し込む鈍い光を浴びて
大きく見開かれる。
「ジグ。」
低く、絞り出されたような男の声。
対峙するそいつに向け、伸ばされた二本の腕に、
顔に、首筋に、あらゆる場所に、
汗が滲んで、次から次へと、この、反吐の出そうな気持ちの悪さ、
まるで頭から油でもぶっ被ったみたいだ。
モノを握る右手首固定の為、握り添えた左手の
汗のぬめりが耐えきれず、ジーンズの、腰の辺りで拭き取れば
放り出された一本の右腕が、何故こんなにも震える、ぶるぶると。
「落ち着くんだ。ジグ──分かるな?」
笑わせるなよ、デカのおっさん。
あぁ、今やもう、部長刑事か、それとも警部だっけか、
何でもいい、肩書きなんぞは糞食らえだ、
思えば、あんたにゃ、あんたが制服の頃から
何だかんだと世話になったな。
はは、何だよその、安物の、よれよれのシャツは。
ピザ配達のお仕着せでも、それよりゃマシな仕立てだぜ。
ネクタイなんか、それ、スーパーの三本10ポンド50、って
ヤツじゃねぇのか。
ヤクの元締め手合いが、イタリア製のスーツに身を包み
きんきんきらきらの腕時計振り飾してるというのに
……安月給で命張るか。泣けて来るぜ、なぁ。
顎の先から汗が、滴り落ちる。
……あぁ、全く、この暑さ……どうにかならねぇのか。
昨日のように覚えている、
あの日もこんな、糞暑い、夏の日だった。
消防車、救急車、ありとあらゆる音が鳴り響き
閑散とした小汚いこの街に、雪崩のように
どこから湧き出て来たのかと思う程に、
人、人、人、車、車、車、何もかもが押し寄せて来た。
それを俺は楽しんでさえいた、何も分からず。
そうだ、楽しんでいたんだ、まだガキだった、
たった四歳の、天真爛漫絵に描いたような、ガキだった。
炭鉱の落盤事故。
一瞬にして父無し子の一丁上がり。
後々になって知った、
大揉めに揉めた挙げ句、政府は最終的に非の一部を認め
故人一人につき、1万ポンドの見舞金を支払ったと。
……笑えねぇ冗談は大概にして欲しい。
犬一匹、飼ってる訳じゃあないんだぜ?
それでも、それを元手に
都会に仕事を求め、生活の場を移す家族が
大半を占め、一気に人口減少を招いたと聞くが
誰も彼もがそれを許される立場にあった訳じゃない。
当時からそう、今も変わらない、
これまた炭鉱に人生費やし、足腰と肺を壊して
車椅子生活のじいさんが、
自分の死に場所は此処しかないと
どうしたって首を縦には振らなかった。
お袋の、パートタイムに出る間、
頼むデイケアサービスだけに費やしたとしても、
そんな端金、底をつくのに数年とはかからなかっただろう。
手に何ひとつ覚えがある訳でもない、
最初はスーパーの店員、声かけられてパブ勤め、
そこから先は……お決まりのコースだ、
何せ、俺を産んだのが、十九の時だったって云うし、
ガキの俺から見たって──
あれから何年が経つ……十四、十五年……か?
居残り憂き目は何も俺一人じゃぁない、
似通った年齢のが、多くはないが、それでも数人。
そんな俺達が、連(つる)んだ処で、
これもまた、一体何の不思議がある。
薄暗い、灰色に沈んだ廃鉱の街に、俺達はいつでも、一緒だった、
ガキの頃の、他愛もない悪さからバイト先、
義務教育を終えての、仕事場まで。
食肉解体場、ゴミ処理場……どんな処でも働いたさ、
雇い入れさえしてくれれば。
その、糞みたいな一日の、
汗まで汚物の臭いにまみれたような一日の
全てを忘れさせてくれる、
酒、煙草、馬鹿騒ぎに──ヤク。
あぁ、ヤクにちょいとばかり
深入りしたのは誤算だった、
確かにかなりの、誤算だった。
異常気象です、と、TVはそればかりを繰り返す。
寝転がるだけで、ベッドシーツが汗にへばりつくなんざ、
尋常じゃない、この、狂ったような暑さが
連日、連夜、一体どれだけ続く、いつまで続く。
そんな、寝苦しいを通り越して、
狂気と諦観が交互に押し寄せ喘ぐしかない、ある夜中
仲間のルツァが俺を呼び出した。
「……何だって?」
元々、空調の極めて悪い、場末のパブの、
しかもその、照明さえまともでない、隅の席だ、
熱気が溜まり、充満して、身にとぐろのように巻き付き来る。
おまけにこの、粗悪極まるスピーカーが弾き出しているのは
これは音楽なのか、雑音なのか、一体どっちなんだ。
……眩暈がしたって不思議じゃあない。
今、ルツァが発したように思えた言葉は幻聴か、
目の前に、ベタつくテーブルの上に
置かれ在るものは、幻覚か。
ルツァは震えていた。
この、全てを参らせるような暑さのなかで、
かたかたと、音までたてて震えていた。
汗を、体中に滲ませて、
何処に居たって、女達の目線はあっという間に一所、
天使の円光を乗せたようにきらきら光る、
そんな、絹のような金髪の、先さえ額に首にへばりつかせ
ようように、指に挟んだ煙草が、かくかくと揺れ
かちりと点けたライターの、炎はこちらもがたがたと
どちらもが接点を、まるで持てずにすれ違う。
煙草を咥えさせ、代わりに、俺のライターで火を点けてやる。
瞬きばかりを盛んに繰り返し、
焦点の、まるで合わない視線を泳がせる、
何かから逃れるように、或いは、ない物を必死で探すように。
「一週間……七日……その間だけ……なんだ……」
それだけを吐き出すと、
目に見えて震える口元から
煙草がぽろりと、転げ落ちた。
ふと、気がついた、
いつだって小粋に胸はだけ、白い肌に燻し銀の十字架、
それが奴のトレード・マークと云っても良い程に、
なのに今日に限っては、この糞暑いなか、
首下まできちんとボタンを閉めて。
……何、その下に、隠してやがる、
震えも、汗も、そのせいだとか云うのかよ……。
訳も何も分からない、
こんな状態で、説明しろって方が酷だ。
だがこちとらとて、慈善事業じゃあるまいし、
これで引き受ける方がおかしい、そんな事位は
俺にだって重々承知だ。
だが、他の誰でもない、相手はルツァだ。
ルツァの頼みなんだ。
しかも、まるで、身体中、弄ばれて傷つけられ、
尚、首に縄結わえ付けられた、仔猫のような。
そんな姿を目の前に、一体、どうやって、断れる。
飴色の、皺だらけの油紙は
ベッドの上に、音一つ立てずに広げられ
そうしてそこに現れたのは、予想に一分の違いもなく、
使い古された、ロシア製の拳銃、一丁。
実弾がたった一弾、だが確かに装填されたまま。
皮肉としか言い様がない、モデルガンをいじりながら、
これが本物ならな、と、笑いながら、何度酒の肴にした?
つん、と、一瞬、硝煙の匂いが鼻を突いたと感じたのは
動転する気のせいか。
五日目、
俺達の仕事場でもあった、ゴミ処理場に
“その筋の”男性であろうと推測される、
銃殺死体発見のニュースが、待っていましたとばかりに
TVから垂れ流れ出た。
流石にこれはやばい、そうは思ったが
だからと云って何が出来る。
ルツァとの約束はあと二日、
その間に警察がここを嗅ぎ付けるなど、
そんな芸当が出来る筈がないさ、
そう、出来る訳がない。
「何、麻薬の捜査ですよ、たいしたこっちゃ──」
玄関にデカの声が響いた瞬間、
俺は半ば無意識に、ベッドの下に隠した包みに手を伸ばしていた、
そこから後は──
「いいか、ジグ。」
みるみるうちに噴き出し、玉となった汗が
デカの、やたら面積の広くなり、てかる額の上にぶつぶつと、
その内に飽和状態、一塊となって、
つう、と、一本、こめかみから、耳の前辺りを滑り流れる。
……分かるぜ、この暑さだもんな。
その上、銃口が正に、額のど真ん中を的に向けられている、なんて
商売柄とは云え、そうそう出くわす状況じゃあないだろう。
「する事はひとつだ。」
ほんの少し、デカの視線が泳いだ、
俺の背にした、窓に。
あぁ……成る程。
そうだ、デカはいつだって、二人で行動する。
おまけにここいらの共営住宅、狙いを定める場所には事欠かないだろう。
連絡網の見事さ、行動の迅速さには、全く拍手喝采だ。
涙型に、顎に留まっていた汗が、重力に耐えられず、
また、ぽたり、落ちて床に染みを作る……多分、だが。
とにかく、一瞬も、目を逸らせる訳には。
「銃を置け、ジグ。それで終わり、全て終わりだ。」
……へぇ。
そうなのかよ。
一体何が終わるって云うんだ。
……この暑さか?
あぁ、そうならそれもいいかも知れない、
そうだな、本当にいいかも知れない。
だがな……俺は、約束したんだ。
勘違いするなよ。
ルツァを庇い立てするつもりなんざ、毛頭ない。
ルツァにはルツァの人生がある、そうだろ?
奴がこの拳銃で何をしたか、そんな事はどうでもいい、
少なくとも今はな。
例えそれが人殺しでも、だ。
ただ、俺は約束した。
約束の日時は今夜、十二時。
だから、こいつを渡す訳にはいかないんだよ、
誰にも……ルツァ以外の、誰にも。
「もう一度言う。銃を置け。ジグ。」
デカが一歩、歩を出した。
俺は、震える腕に方向修正を加え、
トリガーにかけた、汗にぬめる人差し指に、一層の力を込める。
何だ、急に思い出した。
太陽が眩しかったから……そう云って、
あいつは何をしたんだっけ。
ルツァが……奴は呆れる程に本が好きで
いくらでも読めるからと、好んで夜警のバイトをしたりしていた、
──あれも、盗みの濡れ衣、着せられてクビになったんだよな、
いつものことだ──。
家に行くと、拾ったとか拝借しただとか、
そこら中、ペーパーバックスの山だった。
そのうちの一冊、ふと目に留まり、題名に惹かれて、
借りて読んだ、面白くて一気だった。
……確か、フランスの小説だったな。
……そうだ、母親が死んだというのに、
遊び呆けて、挙げ句人を殺して、死刑を宣告、
その時、言い放ったんだったよな、
「太陽が眩しかったから」と。
はは……馬鹿だよな。
馬鹿げてる。
本当に、何もかも、馬鹿げてる。
事は一瞬だったに違いない、
だが、全てがスロー・モーションのように
映画のコマ送りのように、ゆっくり、ゆっくりと
ひとつひとつが、気味の悪い程に鮮明に、
その映像を、音を、手の上に掬い取れるように。
デカが意を決したかに、俺に向かい、そっと、手を伸ばした、
それを遮るかに、両腕をぐいと上げれば、その無理な姿勢に
汗にぬめった指が、ずれそうになり、力が入って、
引くつもりもないトリガーを。
爆音の尾を引きながら、跳弾はあらぬ方に、それを目に追えば
次には背の窓ガラスが、びしゅ、と、妙な音を立て
右肩辺りに激烈な熱さを感じた、途端
鮮血が、まるでジュース・バーのように、部屋中に飛び散った。
お袋の、叫喚。
デカの、Shit! と吐き出す声。
力の抜けた身が沈み崩れてゆく、ゆっくり、ゆっくりと。
……ド下手糞が、俺達の血税で飯喰う狙撃手の癖に、
標的たる後頭部、確実に一発で撃ち抜いてみせろよ……。
意識が白む、白んで、次には灰色に、
そうして、真っ黒、真っ暗闇。
聞こえよがしの、母親を侮蔑する、
聞き飽きた陰口は、それでも常に胸に降り積もり
積もり続けていくけれど、そんな素振りのひとつも見せず
お互い、何処吹く風と、右に左にとやり過ごすふりをして
ルツァと俺はいつだって
校舎の入口へと続く、ステップにふたり、腰掛けて
ぼんやり校門を見つめ、母親の迎えを待っていた。
「せめて、フットボールやらせてくんないかな。」
「だよなぁ。用具使用禁止なんて、ケチくさいの。」
「あぁあ、今日はどっちが先だろな。」
どういう加減か、知る由もなかったが
十中八九は、俺のお迎えが先。
ルツァのお袋さんは、北の国出身だとかで
奴とおんなじくらい、きらきら光る
プラチナ・ブロンドの見事な女(ひと)だった。
そうして家族は他に、祖父母と妹がいた。
だから、彼女も、俺のお袋と、同じ処で仕事をしていた。
「お前のママな、綺麗な色の目、してるよな。
ああいうの、天上の青色──celestial blue──って言うんだろな。」
小雪舞う、ひどく寒い日だった。
その日はたまたま、ルツァのお袋さんが先。
その姿を認めた奴は、立ち上がり様、ポケットをがさがさと、
そうしてそれを、未だちんと、座る俺の手に握らせた。
「バイ。また明日、な。」
残された俺の、手の中には、ちいさなチョコバー。
はは、今思えば、おんなじ色だ、本当に、おんなじ色だ。
……お前の、俺に渡すものときたら。
手を繋いで、校門に向かう、ふたりの、揺れる金髪、
ルツァの頭の周り、鈍い陽光浴びて、それでもきらきら光って
出来上がる、輪っかはまるで、天使の光輪のよう。
待って、待って、待ちぼうけ。
ごめんね、と、吐く息白く、走り来る、
お袋の瞳は、確かに、吸い込まれるような、
この辺りの空には、到底拝めない、青の色。
白金の、天使の光輪、天上の青。
あぁ、そうか、俺、死ぬのか、そうなんだな。
……いや、ちょっと待て。
おかしいだろう、天国になんか──
その時、ふうう、と、意識が流れ落ちて来た、
まるで小さな滝のように。
ゆっくりと、瞼を開けば、眩しい、眩しすぎる、
白、白、白ばかりのなか、ようやく焦点が合い始める、
そこに映し出された、覗き込む、二つのセレスト・ブルー──
……嘘だろ……。
何で今まで気付かなかったんだろう。
……いつの間に、そんなに濁っちまったんだ。
それともこれは、俺の朦朧としている頭のせいか……
いや、違う……違う。
ガキの頃、俺の、背の後ろから包み込み、
抱きしめて、優しく覗き込む瞳は
いつだって、あんなに澄んで、
俺はいつも、いつも──。
……そうだな……そりゃあそうだ。
あんな、ガキだった俺が、今やこの有様と来てるんだ。
……知らない間に。
あぁ、もう、やめてくれよ、
……みるみるうちに潤んで、
目の回りの、細かく刻む皺に、どんどんと滲み入って
瞬きの度に溢れ出す、次から次に。
数日後、ルツァが、やって来た、
制服組の付き添いに囲まれ、布を、手にかけられて。
「よぉ。」
「……ジグ……許し…………。」
「……何がだよ。覚えてねぇな。」
声詰まらせて、下ばかり見つめ、ようやくのこと、
顔を上げたと思ったら、おいおい、何て表情してんだ、
色男が、台無しだぜ。
ルツァには金が要った、そこにつけ込まれた。
母親の頸椎ヘルニアは徐々に悪化し、
年老いた祖父の透析治療は週に三度、祖母は軽度の認知症。
自分は叶わなかった、だからこそ妹を、上の学校にもやりたかった。
その妹を盾に、そうして銃をジグに押しつけ自分は
ほとぼりの冷めるまで身を隠す、その場所の指定に至るまで
事細かくに指示されて、抗う術を持てないように縛り付けられたと、
デカに聞かされた。
知っている、奴が、男娼まがいの事さえしていたのも。
俺は銃刀法違反に、警察官傷害未遂、公務執行妨害。
いくら未成年でも、これまでの素行度合いを含め
執行猶予は望まぬ方がいい、とも。
はは、ルツァ、またご一緒だな。
しかも、今度もまた俺の方が、しかも随分早くに
お迎えが来るようだ。
一足先に出たなら、また待つさ。
面会なんぞ行く訳ねぇだろ──まぁ、一回くらいは冷やかしに、
……チョコバー持ってな。
出て来た時、
天使の輪っかが色褪せてたら、
いや、もっとひどくて、影も形もなくなっていたりしたら、
もしそうなら、その時は、思い切り、笑ってやる、はは。
俺は……ただの死に損ないよりひどい……だが、
まぁ……何とかする、何とかするさ、甚だ心許ないけどな。
だってよ……濁り、色褪せた、天上の色こそ、地上の色だろ?
全く、地上を這うのはいつだって、
楽じゃあない……楽じゃねぇよな……なぁ、ルツァ。
「ここは涼しいな。」
一人ごちるように呟くと、
親父が生きていたら、多分同年代だろう、
殺し損ねたデカが、ふん、と、そらを向いて、
ほんの少し、瞳を細めた。