冬姫牡丹

 雪だ。
降って来たんだな。

枸人(くひと)はこころのなかに
瞳閉じたままに感じ取る。

蔀(しとみ)も堅く閉じられた小屋のなか
凍える冷気に褥(しとね)に身を縮めたままに。




 山里より、先へ先へと末も見せぬ野辺の道
その端に、今や足元には苔さえ生(む)して
姿形も朽ちゆく野仏の、それは唐帰りの徳の高い上人さまの
疲れ切った御脚を、お休めになられた所縁(ゆかり)の場所と。
そうして正にその日と、伝承された日付けには
誰云うともなく、或いは餅を果物を、或いは花の一輪を
供えに足運ぶ女性(にょしょう)の、絶える月もない。


 それは初夏の日のこと。
今、生命宿し浮き上がる、朝の陽射しさえ眩しいと
手にそれを遮りながらも、いつものように野仏さまに
お供え物をと歩み近づいてみれば
何ということ、粗い布に巻かれ巻かれたそれはと言えば
まるで大きな蓑虫のような。
近づけば、さてそれまでは夢の中にでも戯れていたのだろうか
気配を恐れ感じ取ったかに、声を限りに泣き叫ぶ。


 山里に抱き連れ戻れば、まだ乳飲み子に
何と憐れなと、どんな訳があったのだろうと、
あぁ、あぁ、そんなに泣かずとも良いよ、と
女性達の集まって、あやし、あやし、
あぁ、私がと、まるで奪うように、抱き揺らしては、またあやし。


 とにかくも、里のお坊様にお見せをせねばと
ただひとつ、建つ寺に皆で押し寄せ行けば
坊様もまた、慈愛とそうしてもうひとつ
やりきれぬ、ただもうやりきれぬという思いを
それでも流石にただしんと、静かに静かに湛えつつ
蓑虫さながらの乳飲み子を、袈裟のかいなに抱きながら
皆と共に堂に入れば、観音様の御像の見守るもとに
蓑の皮たる布を一枚、一枚と、剥がしてゆけばその首は
まるで観音様のそれとみまごうような
やわらかい輪の、ふたつみっつと刻まれて
白く光りをさえ帯びるがさまに
その首に、掛けられているのは、ちいさな胸を覆い隠すかの
粗末で粗悪な綿に、けれども丁寧に編み、織られた、御守りがひとつ。
坊様に、皆にまたひとつ、思いが湧き上がる、
行き場のない、やりどころのない。

 あぁ、男の子だ、男の子だねと
それでもひとりが気丈にも言葉を発すれば
本当に、男の子だねと、あちらこちらより声が上がる。

 さて、ともかくも、名前を付けない事にはと
坊様の一言に皆が、一間、しんとなれば
見つけ抱きかかえ戻った女性の言うのには
初夏のこと、野仏さまの周りには、枸杞(くこ)の
淡紫いろのちいさな花が、それはそれは美しくてと、
そういう訳でこの子供は、枸人と祝福のなかに名付けられる。


 世は戦乱の地獄を後に幾十年、さてそれでも先は知らぬ、
ともかく今は天と地の、恵みに有り難く生を生きるを許される、
そんな中であったから、
なに、どうせこのように次々と、溢れ出て来るのだからと、
乳飲み子を抱える女性たちの
乳を少し、少しずつ、与え、与えられて枸人は育つ。


 二親の、顔も、声も、素性も知らねど、このように
枸人はさしたる病も知らず、元気の良くにすくすくと育ち
ただ口数だけはどういう訳か、話せぬ訳でもないのだけれども
あまり多くを発さずに
同じ年頃の子供達と、楽しそうに遊んでいたかと思えば
よく、木の太枝に登り、ひとりそこで時間を過ごす。
風を受けてざわと鳴る、葉々のなかに黒い髪をなびかせて。
良く陽に焼けたその姿はまるで、葉陰に同化したかのよう。

 「おおい、枸人、何が見える?」
あちら、こちらの女房の、乳を飲んで育った枸人には
まるで我が子も同然と、そうして声をかける男達も後を絶たず。
「……何も。」
すとん、と、器用に降りて来る。
「ほぉれ、今日はこんなに大漁だ。うちで夕餉を食べないか?」
「……じゃあ坊様に、そう言って来る。」
「あぁ、それが良い。待っているよ。」



 いまだ幼い枸人の、身を預かるのはこのように
とりあえずは坊様のお役目ということに。
坊様と、寝起きを共に、朝にはお堂の掃除をし、念仏を唱えてその後は
好きにあちらこちらへと出かけてゆく。

 鋤鍬(すきくわ)を、持ってみるかと問われれば
うん、と、厭な顔などひとつもみせず
ちいさな身体に重い鋤鍬、ふらつかせては愛おしげに笑われて
「なぁに、初めてにしては上手いもの。これが好きか?」
「うん。」

 魚獲りなら子供達と共に、沢に入ってよくやった。
その延長だ、やってみないかと誘われれば川のなか。
まだ背も立たず、ごほんごほんと喉を襲う水に咽せる姿も可愛らしく
「ほら、もう一匹獲れたじゃないか。これが好きか?」
「うん。」

 あぁ、でも、何故なのだろう、枸人の言葉の、そのどちらもが、
どうした訳か、こころあらずにより響かない。


 夕彩(ゆうあや)の、陽射しのお堂の斜めに入り込む
その光を黒光りのする、樟に彫られた等身大の観音様の
やはり斜めより左半分ほどを照らし出し、
右半分の陰となる御姿を、ふと枸人は目に留める。
おかしいな、毎日見ていた筈なのに。
あぁそうか、光の加減なのかも知れない、いつもは朝に
その御姿を拝んでばかりいたものだから。

 観音様の手指。
やわらかく、はなびらのふわりとひらくに似るように
美しい御姿勢とばかり思っていたのに。
差し込むひかりの目の惑わしか、
これではまるで、無理に捻られているかのよう。

 「あぁ、枸人。それは“施無畏”(せむい)と云われてな。
何ものをも一切を畏れずに、すべてを受け入れて下さるという御印、
有り難い御手の御形だよ。」



 山里のこと、子供の足でも一時も、歩けばそこは森のなか。
子供同士の恰好の肝試し。
今日は深沢まで、今日は一本松までと
名状しがたい恐ろしさを、背に遠くにと感じながらも
十三の齢を数える頃には、まるで庭のように縦横無尽に
獣道さえ我が物顔に。


 ある秋の、虫達の、音(ね)もこころなしにか、ものがなしく
葉もからからと、乾いた音をあちこちより投げかける
そんな頃にひとり山森を、あてもなく歩いていれば
ふと、吏助(りすけ)の、着物の上肌も露わに、
切り出した、木々を葛(かずら)にまとめたものの上
じっと座る姿に出くわした。

 「おう、枸人じゃないか。しばらく見ぬ間に大きくなった。」

 無精の髭に白色の、混じる吏助は森のなか
ひとり炭焼きを生業(なりわい)と生きていた。
出来上がった炭を、里に持ち帰ればまた、山に籠もる。

 「あぁ、ようやく窯の白煙が消えた。
これから練らしを入れねばならん。
熱い仕事だ、辛い仕事だ、一日がかりの。
さぁ、もう行くがいいよ、今の頃は釣瓶落とし、早く下りねば陽が蔭る。」

 言われれば目の前に、ここまでその熱を運び来るかの炭窯と
そうして少し離れた処には、吏助の住まいとなる粗末な小屋が建つ。

 「少しの間、見てもいい?」
「あぁ、少しの間ならば。」
吏助は、傷だらけの半身に、がさりと着物を羽織る、熱から身を守る為に。

 土に練り込め閉ざされた窯の口。
そこにちいさな穴を穿ち、穿ち空気を送り込む、少しずつ、少しずつ。

 押し寄せる、巻き上げる炎の熱の、もの凄さ。
枸人のまだやわらかい、顔の皮膚などひとたまりもなく、
ただ真っ直ぐに、顔を近づけるだけが最早苦痛に耐えられない。

 だがそうしてゆっくりゆっくりと、休み、休みを入れながら
穿たれた穴より見える、噴き上がり、舞いあがる炎のその勢いも
さることながら、なんという、それはあまりに眩くて、まともに開けも
出来ぬ目に、なんという青のいろ。
そうしてまた一方に、
ちん……ちりん……と、それは今、正に生まれんとする生命の息吹か、
それとも業火に焼かれる断末魔の叫びか、どちらにしても、
ちいさく響く透明の、音はこころに耳に沁みとおる。

 まるで捕われ人のごとく、こうして枸人は目も耳も、
魂の芯までもを熱の最中(さなか)に魅入られてゆく。



 それから三日の後のこと。
「……炭焼きは、木の択伐(たくばつ)、窯入れ、釜くべに窯出し。
そればかりを繰り返す、熱との闘いと、山に籠もって
ただひとり、孤独だけを相手の仕事。
そんなものに、枸人は本当になりたいと言うのかい。」
ただ、枸人は頷くばかり。
窯出しを終えたばかりの、被せられた白灰を、いまだ熱を保ち
それを煙と巻き上げる、炭の山に目を遣りながら、
ふうう、と吏助は息を吐く。
「継がせる子供も儂にはない、身体の方も云う事を
どんどんと聞かぬようにもなって来た。
枸人が継いでくれると云うのなら、一年二年三年を、かけて伝授も
一向に、儂の方はそれこそ望むべくもないことだが、
けれども里の坊様は、さぞかし寂しく思われるだろう。」
「良いと仰ってくれたよ、坊様は。」


 「ああ枸人、何を遠慮の要るものや。
就きたいと、思う生業に、巡り会えるほどの幸いもそうはない。
けれども、枸人よ、ひとつ、たったひとつだけ。
御前の首より掛かるその御守りを、いつも肌身離さぬように。」
「坊様、これは何の為に?」
「まずは御前の為に、そうして何より、
それを持たせた御前の母様の為に。」
「母(かか)の?」
「そうよ枸人。母様は、いつも御前を見守っている。
どの様な身になろうとも、如何な思いをしようとも。」




 こうして枸人の修業が始まる、炭焼き人としての。
約束通り、一年、二年、三年間。
まるで人の喜悦に踊る形のような、或いは悶え苦しむ形のような
姥目樫(うばめがし)の、二十年、三十年ものの択伐の仕方から
運び出し、窯入れ、夜を徹しての火継ぎ、窯出し、
その熱の、収まりやらぬ間の窯くべと、
炭焼きに欠かせぬ技術のひとつひとつを、
朝餉、昼餉、夕餉となる森の恵みの採り方を、
山のなか森のなか、ちいさな人たる動物としての過ごし方を
吏助と寝食を共にして、枸人は一日、一日と、
学び、学びとって大きくなる。
木伐に材木運びに、体の至るところに傷を彫り
柔(やわ)い顔肌を、熱に焼かれて赤黒く
そうして十六を迎えた頃に、ふたり力を合わせて
真新しい窯を作りあげ、その横に小屋を建てた。

 「吏助どん、これからどうして生きてゆく。」
「あぁ、儂はこのように、女房ひとり持たぬ天涯に
たったひとりの身軽だし
幸いにもまだ足にもそうは、歳は取らせもしないから
これから方々を経巡り歩きたいと思っている、
昔からの、それが夢だったんだよ。
お前が叶えてくれたんだ、感謝をするよ。
いい炭焼き人になれ、枸人。」

 そうして枸人に全てを残し、吏助はひとり、山を下りた。



 初めて一人、迎える山の、森の小屋の夜。
小屋の隙間のあちこちより漏れ入る、月のひかりは
青白い、絹の糸を幾重にも張り巡らせたかのように
自分の顔を、身体のうえを、這って縦横(じゅうおう)に。

 ぱちぱちと、黄赤の火の粉を飛ばす、囲炉裏の灰の下。
静寂のなかに、音があれもこれもと入り込み
何もかもが、畏ろしく、何もかもが、愛おしい。
そうして身体の真中に、まるで熱く赤く焼けた石でも
あるかのように、持て余すほどに感じやまずにおられない、
自分の今ここにある、生を、これほどまでに強く、つよく。



 そのように、たったひとり、枸人の炭焼き人としての
人生が、始まりを告げた訳だけれど、どうして上手くいかない、
上手くいかない、何もかもが、こんなにも。
吏助と過ごした最後には、ただ吏助は見守るばかりに、全ての
手順を作業を、枸人ひとりが成し遂げて、ここまで出来れば
何の不都合も心配もないと、そうして己なりに自信もつけて
いた筈なのに。

 悔しさに、歯痒さに、幾度拳を、額をさえも
地に木に、叩きつけ、血を滲ませたか数えも切れぬ。
それでも誰にも尋ねられぬ、ただひとり、吏助の教えを反芻し、
吏助の手付きを思い出し、次にはきっとと、また炎との、熱との闘いを
始めるばかり、白灰のなかの美しい、光沢の黒に輝く、叩けば
こん、と、天へと澄みゆく音の鳴る、そんな炭を焼き上げようと。



 そんな夜のこと。

 あぁ、雪だ。
雪が、降って来たんだな。

 雪は不思議だ、ふわりふわりと空より降りて
夜の森、闇に巣食う音おとを
ただ一瞬に吸い取って、白のなかにくるめ取る。

 だから一瞬、ほんの一瞬だけれど、世界は真の無音になる。
その、瞬きの間にわかるのだ、あぁ、雪が降って来たのだと。


 ふと、目を開けた。
すると、そこに、鬼が居た。



 鬼はひとり、蓑を背に、小屋の隅にうずくまっていた。
思えばこれもおかしな話、小屋のなかの明かりと云えば
ぶすぶすと、燻るばかりの囲炉裏の下の
黒く死に行くばかりの炎の残骸より他になく
閉めた蔀や小屋のあちらこちらより雪の明かりは幾筋も、
入り込みはしたとしても、そんなものでは
人影ひとつ判然としない筈。

 それなのに、鬼が居る、それがはっきりと見える。
それが朧に、まるでその場所だけが浮き上がり、この世ならぬ
ぼやりと白い霞に包まれでもしているかのように。



 鬼はゆうるりと、背を向けた顔を、枸人の方にと首を回す。
まるで白灰を乗せた枯れ枝のような、身を覆うざんばらの髪が、
無音のなかにさえざわりと音を立てるかのよう。

 思わず枸人は褥より、半身を起こして目を見張る。

 絹に織られた反物さえも、こうにはとてもゆかぬだろう、白い、白い肌。
そこに乗せる、幾本もの縦皺を刻む、こちらもまた、白い唇。
その白の、なかに宿る血の赤は、真白い目蓋の内を、一筆に縁取って
白濁した目に、鈍く光る虹彩もまた、同じいろ。
その赤の内、縦に割れた暗黒の瞳孔の、何処までも堕ちゆくような、
真中だけをほんの少しに膨らませ、糸のように細いこと。
そうして白き額にあるのは、ざんばらの、枯れ枝の
髪にも隠しおおせぬに盛り上がる、ふたつの並んだ、ちいさな角。
金色(こんじき)のような、梔子(くちなし)色のような、罅の入った。

 鬼は視る。
血の赤の瞳(め)に、じっと、枸人を。

 それに浮かぶ、表情を、何と例えれば良いのだろう。
枸人はただ、息を呑む。
静かに湧きあがる感情を、こちらもまた、どう表せば分からぬように。

 がさ、と、蓑が揺れる、やはり音を立てずに。

内より、腕(かいな)が伸ばされる、やはり枸人に向かい、ゆうるりと。
まるで焼き損ない、ひび割れた炭のような、
或いはただもう、骸(むくろ)に紙でも巻き付いたかのような、
ただ色だけは真っ白い。

 そうしてその手の、先に続く、朽ちゆきそうな指が、
ぎしりぎしりと、悲鳴を上げるように折り曲げられて
出来上がった姿は、まるで枯れゆくはなびらのよう。

 あぁ、あの手の、指の形は。
知らず知らずに枸人の目を潤ませていた、
涙がとうとう堪えも切らず
溢れ、つうと、一筋に。

 その一筋の、漏れ入る雪明かりに、鬼の目にも届いただろうか、
思う間もなく一瞬に、鬼はふぅ、と、姿を消した。
残されたのは、ただの闇。




 夜が明け、外に出てみれば、そこは白銀の雪景色。
まだ動物たちの、足跡のひとつもない。
吐く息が口元から、まるで生き物のように白くたちのぼる。
雪の布団を敷くと云え、流石に朝はひどくに冷える、
思わず身を一度ぶるりと震い、竦めると、
着物の下、一日も一時も、肌身離さぬ御守りが、
炎に火の粉に焦げをつくり、体躯を神経を、責め続ける、
熱より身を守るため、浸かる沢の水にとろけ、流され行きそうに、
幾度慣れぬ手に修繕したかも知れぬ御守りが、素肌の胸に
確かな感触をじわりと伝える。

 踏みしめれば、そう深くもない新雪が足元に、くう、と声を上げる。
ふと見れば、小屋の軒あたりに
雪のなかよりけなげにも、ちいさく芽吹いた花があった。


 冬姫牡丹のひとひら。
けれども無論、枸人に、花の名など分かろう筈もない。
ただ、思う。昨夜の鬼の、角のようだと、
あぁ、全くに同じいろだと、それだけを。

 「母(かか)。」
ただひとこと、声にもならぬ声を発して
そうして枸人は今日もまた、炭焼きの、一日をひとり、始めゆく。