「……おじいちゃん? だいじょうぶ?」
「あぁ。優しいお嬢ちゃん。大丈夫だよ。」
「行き? それとも、もう見て来たの?」
「アイシャ、アイシャ! 早く来ないと置いてゆくよ。」
「さぁほら、呼んでいるよ。早くお行き。」
一丸・丸丸時、いよいよこの心地よい基地より出立する時刻が来た。
ぱぁっと勢い良く、それまで蓑虫みたいにくるまっていた布団をひっぺがし、
誰よりも手際良く、ベッドの上柵に山と積まれた服を引き寄せ、パジャマを
脱ぎ捨てる。思わずぶるっとするのは、これは勿論武者震いだ。これまた
見事な手際に服を着替え、敵に察知されぬようベッドの隅まで匍匐前進の
後に、足の先で部屋履き靴の在処を確認!……さぁいざゆかん、次なる
目標地目指して!
バタン、と勢い良く重い木の扉を開けたかと思うと、一目散に石の階段
をかけ降りてゆく。
あぁ、ホリディはすてきだ。いつもは口やかましいお母さんが、朝早く
から救済民ボランティアとやらで教会に出向いてしまうこの季節のホリディ
ときたら、もうこれは最高としか言い様がない。
バン、と、これもまた重い木のドアを開ける。と、その途端。
……そうなんだ。これさえなかったら。
台所と居間には、間仕切りがない。それこそ敵より身を隠す兵士のように、
台所の棚やテーブルやらの間をひらひらと身軽に移動し、そっと居間を覗き
見遣る。
頑丈な石造りのこの家はとても古い。中世に建てられたものを、中身だけ
改装、改装を重ね繰り返しているだけだから、窓はとても小さく、まるで
牢屋のそれのように、鉄製の枠が瓶底のように分厚いガラスを仕切っている。
その窓、そのひとつのもとに、いつもと同じ姿があった。
はぁ、と半ば諦めのような、少年に似つかわしくもないちいさな溜息を
ひとつ落とす。それから冷蔵庫より、まるで腕の長さ程もある大きな
ミルク瓶を、うん、と取り出し、ばちゃばちゃとパンに注いで火に掛ける。
ふわぁ、あったかい。思わずガスの炎に手が伸びる。
ガスの火、って不思議だな。青いのに、ちゃんとあったかいんだ。
そこにオレンジみたいな色が時々混ざって、まるで喧嘩しているみたいだ。
じゅ、と沸き立つ寸前に火を止め、自分用のマグに注げば、まるで白魔法の
杖より呪文と共に噴き出したかの、湯気が一瞬マグの姿を消し去る。
シリアルをざらざらと流し込んだボールを左手に、マグを右手に、おっと
その前にテーブルの上のロールパンをひとつ口にくわえ、いざ居間に。
「おはよう、おばあちゃん。」
かた、とマグとボールを、次にその上に歯形のついたロールパンを居間の
テーブルに置いて。
「おはよう、ディルク。」
老婆は少年の方を見さえしない。黙々と、ただ、樫の木で出来た椅子に
座ったままに、窓より入り込む薄い灰色の光りの下に、頭にスカーフを巻き、
肩にはマフラー、そうして分厚い膝掛け姿に、一心に刺繍を続けている。
「あのね、おばあちゃん。」
パンをほおばり、熱いミルクを一口含めば、エネルギー充填とばかりに
体中至る処に隅々に、温かさが流れ込む。
「前にも言ったと思うけど、こんな室温じゃ体に悪いよ。」
温水ヒーターの設定温度確認は無論怠らない。やっぱり17度だよ、
再確認しても17度だ。二階は全部、いや、廊下もバスルームも、どこも
かしこも、とにかく、おばあちゃんの居る部屋以外は23度設定が普通なのに!
「いいんだよ。」
相変わらず老婆の声は小さくつぶやくようで、誰に向けられるものでもない
もののよう。
「あちらでは皆、もっと寒い思いをしているんだ。」
「ごちそうさま〜。」
何だかこちらも凍えているように見える、暖炉横に飾られたツリーを一瞥、
さっさと汚した食器をシンクにつけて、そのままディルクはだだだ、と
弾丸のように二階に駆け上がり、先程の基地へとダイヴ。
ディルク二等兵、只今無事、敵寒冷地より帰還! ……全くもう、お母さんも
お母さんだよな。いくらおばあちゃんがそうしてくれって言ったってさ。僕の
身にもなって欲しいよなぁ。
極厚手のウール・ジャケット、マフラー、手袋、ニットの帽子に編み上げ
ブーツを装着、おっとポケットに忘れずにこれを……と。さて再び極寒の
地へと、ディルク上等兵(一階級進級)赴きます!
「おばあちゃん。ちょっと出て来るね!」
この地方の冬は身に凍みる。雪は比較的少なく、吹雪く事もあまりないが、
夜ともなれば零下は免れず、石畳はそれでなくとも摩耗に光りを帯びるのに、
更にその上に薄氷の化粧を施して、薄灰色の空の光りを鈍くやわらかに反射
する。一歩、道に足を踏み出したディルクが思わず身震いをするのも至極当然。
と、あちらで人がひとり、滑って尻餅。
あはは。やってるやってる。
あんな滑りやすい靴で来るからだよ、観光客ってばさ。
きゃあきゃあと笑い、転んだ友人に手を差し延べる若い女性達の横をするりと
ディルクは抜けてゆく。
城塞の街、かぁ。城、なんて云っても立派な国王のならカッコもいいけど、
ただの領主の館だった、って話だし。丘の上にそびえるそれを中心に、
まるでかたつむりの殻みたいに、ぐるぐる、ぐるぐる取り囲むように一本の
石畳の道が、下より延々と続いているだけで、その道の両側には普通に家が
あって、僕達みたいに普通に人が住んでいる訳だし。おまけに肝心の城だって
今じゃあ、市の役所と僕達の学校になっちゃってるんだよ。そんなの、わざ
わざ観に来るんだよなぁ。領主の馬車の、勢い良く走り抜けるのに、いっつも
ぶつけられちゃあたまらないって、曲がり角度のきつい場所に住む人達は、
自分の家の前に石を置いて防御した、その石がまた珍しいんだって。ただの
邪魔っけな石なのになぁ。それよりフットボールの練習のしにくい方が、
よっぽど問題だよ。道は全部磨り減った石畳。その上に、なだらかとは云え、
坂ときてるんだから。下まで降りりゃあ、そりゃあ原っぱもあるんだけど、
20分位もかかる上に、そこではもう、僕達はよそ者なんだもんなぁ……。
ちいさな橋のかかる場所。真鍮製の、背の低くアラベスクのような模様を
施した趣のある欄干に、ディルクは分厚い手袋をした両手を乗せ、その甲に
ちいさな顎を乗せる。はぁ、と溜息をつけば口元から生き物のような白い
もやが上がり、ちょうど目の辺りで散じ姿を消す。
橋の下には幅3メートル程の細い川。元々がゆるやかな流れではあるが、
今や薄氷に閉じ込められて、どこか息苦しそうにも映る。両端の岸辺は
それぞれに川より広く、季節が違えば芝の緑も美しいのだけれど、それも
今は黄味に枯れ、あちこちに霜が立つ。
川辺に勝手口の通じている、ハルヴァおばさんちのガチョウの姿も見えない。
そうか、今頃はもう、羽根むしられているんだろうなぁ。
そうだ、“ごくつぶしのギャザ”。元はと云えば奴のせいだ。あいつが
そそのかしたんだ、産みたてのガチョウの卵って、そりゃあ旨いんだぜ、って。
ディルクは思い出す、まるで夢の中のように、そうして昨日の出来事の
ように。
全く、普段はあんなに間抜けで、これ以上の平和はない、って顔している
癖に、ちょっと卵を拝借しようとしただけで、あの豹変振りと来たら。
羽根を精一杯に広げ長い首を伸ばせるだけ伸ばして、地獄の底からのものと
しか思えない鳴き声をわめきちらして僕をどこまでも追いかけ回すんだ。
そのしつっこさと来たら。それをギャザの奴、橋の上から高見の見物で
笑い転げてたんだ。
お陰で僕はそれから結構な期間、白い羽根には恐怖の叫び声、の反応が
定着してしまい、天使の絵が怖くて見られないなんて、と、すんでのところで
教会か、もしくは病院にひきずり連れてゆかれる処だったんだからな。
はぁ、ともうひとつ、顔を覆うほどの大きな白い息。
あの頃の僕だったら、本気でおばあちゃんを魔女だと信じたかも知れない。
だって本当に、うちに来て半年、殆どおしゃべりひとつしないで、ただ
じっと座って刺繍しているばっかりなんだもの。
今度は欄干に肘をつき、両の掌に顎をあずける。見上げた空はいつもの冬と
変わりなく、薄墨をぬりつけたようにどんよりと、まるで重い空気を下へ
下へと圧しつけて来るかのよう。
分かってる、分かってるよ、お母さん。ちゃんとプレゼントは用意する。
でも一体、何を? 僕は生まれて11年、一度だっておばあちゃんと会った
事さえなかったんだ。だってずっと、あっちの国に居たんだもの。
……思い、考え、引き延ばし続けて、とうとうタイムリミットだ。
またふと思い出す。
そう云えばギャザが言っていたっけ。
『なあディルク。お前はいい色の眼をしてる。薄灰色に緑と青の両方が
混じるなんて、そうはない、自慢していい色だぜ。おまけに見事なこの
金髪。俺くらいの歳になりゃあ、女に困る事はないぜ、あぁ俺が保証する。
だがなディルク。ここって時ぁ、やっぱり、これさ、これ。』
色とりどりの、大きくてきれいな花束だった。
『花が嫌いな女なんて居ねぇからな。』
くす、と笑って次にはディルクの視線は橋の下。
そう、あそこだ。次の日、流れきらずにあの川辺にひっかかってたんだ。
結構な騒ぎになったよな。
『たむけの花だろ?』
『誰か往生したのか? 俺は聞いてないぜ?』
『そう言やぁソヴァーナんちの、ありゃ今にもって風だったが。』
『あんたの指、噛みちぎる位にはまだ元気よ、今もミルクやって来たのよ。』
『だいたい、たむけの花にすりゃ豪華過ぎないか? ピンクのリボンだぜ?』
『葬式だって盛大で賑やかなのがいい、って宗派もあるしなぁ。』
すると橋の上でわいわい言っている暇人達を後目に、ハルヴァおばさんが
川岸を、よっさよっさと巨体を揺らせて歩いて来て、その投げ捨てられた
花束を、事も無げに拾い上げたんだ。
『まぁまぁこんなきれいな花を、もったいない。うちの寝室にでも
飾ろうねぇ。』
くす、が、くすくすになり、思わず体が揺れる。
「おい楽しそうだな。」
心臓が口から飛び出るってのはこんな感じなんだと実体験した。
「ギャザ! 戻って来たの?」
にや、と笑うその瞳は、南国の空はきっとあんなだろうと思わせる、
どこまでも青い、吸い込まれるように青い色。
一体何処にそんなに喧嘩相手が居るんだろう、って、不思議な位、
生傷絶やさない顔のなかに、いつもちょっぴり沈んだように輝いている。
ギャザは素手の大きな掌で、ディルクの黄と茶に編み込んだ帽子を
つつみこむように乱暴にゆさ、とひとつ揺さぶってみせる。
「俺も知らなかったぜ。軍にもクリスマス休暇ってあるんだな。」
義務教育を終えて尚、働かない事約1年半、何を考えていたのか、何を
考えているのか良く分からないギャザは、丁度ディルクの祖母がやって来た
頃に、突然軍に入隊した。
「尤も朝一帰還厳守、自由は一夜限りのみ、ってな。」
「……カッコいいなぁ……」
ギャザの言葉も耳に入っているのか疑わしい、ディルクの目線は一心に
その、カーキ色の軍用オーバーコートに軍隊ブーツに。上へ下へと、
舐め回すとは正にこの事とばかりに。
「……そうか?」
あったり前だ、男なら誰だって憧れる。
「ねぇギャザ、本物の軍隊ってどんなの?」
「まぁ……な。」
また、すっと笑う。
言ったと思うとすぐにそびらを返し、またさっきと同じようにひとつ
ゆさっとディルクの頭を揺らして、もう足は一歩を踏みだしている。
「悪いな、急ぐ。またな。」
軍配給のひどく分厚い布製の、背中を覆い尽くすような大きな鞄を背負い
歩いてゆく “元・ごくつぶしの” ギャザの後ろ姿は、なんだか不思議な匂いが
した。 誇り高い戦士のような、疲弊しきった敗残兵のような、そのどちらもが
一足一足に、揺れて現れては消えるような、そんな妙な感覚がディルクを
掴まえて、その視線に背を追う事をやめられなかった。上気した頬の熱が
すぅと冷めていった。
と、余りの寒さに我に返った。
うう、こりゃ駄目だ。芯まで冷え切っちゃったな、震えが止まらない。
おばあちゃんにも花の威力は通用するか、それはまたの事として、とりあえずは
ハンフリーの店にでも行って体を暖めよう。そうだ、それにあそこなら
何なりと出物もあるかも知れないし。
がらん、と、くぐもったような、何かが割れるような耳障りな音が鳴る。
このドアベルって、この家が建った16世紀からそのままなんじゃないか?
でもちゃんとクリスマスの飾り付けだけはしてある、いかにもやっつけって
感じだけど、それにこの飾りがまた、良く言えばアンティークだけど。
「あ、居た居た。」
「よう、ディルク坊主か。また引っ掻かれないように気をつけな。」
聞き慣れた幼い声の客人に、店の、品だかがらくただか判然としない代物の
どこかから、店主は姿も見せずに声だけを発する。
……その前にこの、売る気があるのかないのか分からない品物の山を
どうにかしろよ。仕舞いに雪崩を見るぞ。……と、近づくのも一苦労だ。
「やぁハンフリー。気分はどう?」
背中を撫でられた猫はあちらを向いたまま、ふぐぅ、と、イエスともノー
ともとれる返事を寄越し、ふさふさのしっぽを一振りだけ。
全く、猫ってのは心地よい寝場所を探す天才だな。それにしても相変わらず
でかい、でかすぎる。山猫の血が入ってるって噂も、あながちじゃぁないかも
知れない。だって希にみるのはでかさだけじゃない、凶暴性だって折り紙
付きだ。ちょっと抱き上げただけだよ、そりゃあ抱き方はちょっとはまずかった
かも知れない。だって僕はまだもっと小さくて、しかもこいつの重さと
来たら……。
いきなりバリバリって、ものすごい音がしたかと思うと、買ってもらいたての
僕のダウンコートの左腕辺りから、ふわぁ、って羽毛が舞い上がって、それを
見た、“白羽根恐怖症” 真っ直中の僕があらん限りの叫び声を発し、今度は、
それに驚いたハンフリーが店中の品物を蹴散らして隅っこに逃げ込んで、
……とにかく大目玉くらったんだから。勿論、僕だけ。こいつは無罪放免。
理に合わない。
でも憎めないんだよな。それにちょっと長毛の、真っ黒ん中に、前足は
先っちょだけ、後ろ足はソックス風に、しっぽの先とお腹、そして額の真ん中。
この真っ白な毛の配置がまた、芸術的なまでに絶妙なんだ。
「よう、坊主。」
ようやく店主のお出ましだ。
「こんにちは、ダフィおじさん。」
「なんだ、頬っぺたと鼻の頭が真っ赤じゃないか。こっち来て暖ったまりな。」
雪掻き分け進むもさながらに、ダフィの居た、机と椅子のある場所に辿り
着く。机の上にはやりかけのクロスワード・パズル。随分スプリングの
微妙な椅子に腰掛けると、ダフィがほわほわ白い湯気の立つチョコレート
(ココア)を入れたカップを差し出してくれる。
「さっきね、橋ん処でギャザに会った。」
手袋を取り、直に手にしたカップの温かさをかみしめながら、ふうふうと
一口飲めば、熱さと甘さが、きぃんと脳天を直撃する。
「なんだ。もう出戻ったのか?」
「違うよ。クリスマス休暇だって。ちゃんと軍服着てたよ。」
「そうか。」
自らのチョコレートを入れ戻り、ディルクの隣の、年季の入った椅子に
よいせと腰を下ろす。
「あれもな。……まぁ、色々あるさ。」
何だか溜息でもつくようにそう言ったダフィおじさんの、たそがれた前髪を
チョコレートの湯気がほわりとつつむ。
「そう言やぁトスカも――あぁ、お前の父さんも、あっちの出だったな。」
そうなんだ。お母さんはこの国の人だけど、お父さんは違う。あっちの
国に生まれ育って、30年前の国交復帰の時、15歳で単身、こっちにやって
来たんだそうだ。
「トスカは希な例だ。今じゃあ立派な金箔職人だものな。運と才能を
神に感謝しなきゃなんねぇぜ。」
何だか妙な気分になった。
「ギャザんちも、そうなの?」
ずず、と何も云わずにチョコレートをすする、ダフィのカップからは、
ほのかにブランデーの香りが立ち上る。
「おまけにお前もあいつも一人っ子だ。きっと弟みたいに思ってるんだぜ、
お前の事。」
弟みたい? 弟にあんな仕打ちを??
『ひでぇガチョウだよな。どうせクリスマスにゃあ、ハルヴァばばぁの手に
昇天の運命なんだからよ、その前にフォアグラにして喰っちまおうぜ。』
“ふぉあぐら” なんて聞いた事もなかった。だから素直に訊ねたんだ、その
“製造方法” を。……ようやく “白羽根恐怖症” から脱却しつつあった頃だった。
トウモロコシの一粒を見た途端、口にジョウゴを無理矢理咬まされて、
延々と餌を流し込まれる自分自身の姿が映画の一場面のようにくっきりと
脳裏に浮かぶ、この新たなる “トウモロコシ恐怖症” は、より激烈だった。
何せ一日三食、一粒も見ないで済む日なんてない、と言って過言でないんだから。
でも……同い年の男子の殆ど居ないこの城塞の街で、そう言えば確かに良く
相手してくれていたんだ……“ごくつぶしの” ギャザ。
「軍に入隊すりゃあ、国連軍派遣から軍圧……って手で、あっちの国の
土踏む事は、まぁ可能にはなる訳だからな……。」
呟くようにそう言って、ずず、と少し冷めたチョコレートを一気に飲み干す。
「全くあの国も、どうにかならんもんかな。200年以上も前にこっちと
断絶、一国内のあちらこちらで小競り合い。何十年かに一度の停戦、こっち
とも国交復帰したかと思えばまたすぐに内紛、内戦の雨霰。半年前の
一時停戦を境に、今じゃあとうとう一国の中で三つ巴の三竦み状態だ……
“三国志” でもあるまいによ。」
“さんごくし”……? すんでのところで訊ね返す処だった。同じ徹、
踏んでたまるか。知らない事は自分で調べる。これが僕の学んだ処世術だ。
ハンフリーが、ごと、と大袈裟な音を立てて寝返った。
「そう言やぁあん時、トスカのお袋さんを引き取ったんだよな?」
街はちいさい、驚くほどに。全ての家の夕食のメニューが知れ渡っている
のではないかと思う程に。トスカの父、つまりディルクにとっては祖父が
あちらの国にて逝去したのが三年前。もはや亡命した身のトスカは当時、
祖国の地を踏む事さえ許されなかった。そうしてようやくの国交復帰。生まれ
故郷を離れる事を、泣いて拒み、拒みきれずに、ここに居る、トスカの母、
ディルクの、祖母。
「それでね、相談なんだけど。」
「まぁ待てって。確かこの辺に……」
しっぽで遊ぶのもどうやら限界だ。ハンフリーの怒りがびんびんこちらに
伝わって来る。瞬殺猫パンチ出現は目前だ……そう言えばこっちもお腹が
かなり空いて来たな……。第一ここって本当は『何屋』なんだ? 看板には
骨董品とかお土産とか、雑貨一般とか書いてあるけどさ。
「ほぉらこれだ。」
約一時間の格闘の末ダフィが掘り当てた代物は、シミだらけの白い布に
麻の紐でぐるぐる巻きの、ちいさな薄い長方形をしていた。喜色満面に
丁寧に麻紐をほどこうとするが、幾年もの間締め付けられていたままの結び目は
そう簡単には言う事を聞き入れはせず、仕舞いには鋏でぶちりと切られる始末。
布を取り除く手つきも自然荒っぽくなる。
「見てみな。」
息がぜいと切れ、こちらもまたたそがれの気配濃厚な頭頂部から、湯気が
立ち上っている。
手渡されたそれは油絵だった。ちいさなカンヴァスに描かれた、ちょっと
不思議な感じのする白の背景に、鈴蘭がただ一輪。それだけの、絵だった。
「lily of the valley 。こいつはあの国の国花だからな。喜ぶぜ、
ばあさん。」
そうなんだ……知らなかったな。これはいいかも知れない……と、
これ何だよ。
「ダフィおじさん。これ、ここ。この左端の方。ほら、ひび割れが
入ってるよ。」
ダフィは上からそれを奪取し、眼鏡をかけて凝視する。
「あぁ、裏面に書いてある年代から察するに、こいつぁ半世紀以上前の
もんだ。あまり質の良くない絵の具で描いたり、保存状態が良くなかったり
すると、それ位でひび割れが入るもんなのさ。ほら、ダ・ヴィンチのモナ・
リザなんかも、そりゃあひび割れだらけなんだぜ? 油絵にひび割れは付き物
だ。たいしたこっちゃない。」
もう一度手渡す。
「で。ポケットに幾ら入ってるんだ?」
正直に金額を告げた。
「よし。良い事を教えてやろう。ここを出て右だ。ずんずん坂道を下り
進むと左手に、ゴヴィルのグローサリー・ショップがあるからそこで──」
「チョコバーでも買ってベッドの中で喰って寝な!」
最後の一節は見事にハモった。
くす……はは、ははは! 笑い声もハモる。酒焼け声とボーイ・ソプラノで。
「まぁしょうがねぇ、今日ばかりは、な。待ってな、すぐにクリスマス用に
ラッピングしてやるからよ。」
ふごぁ、とまた妙な声をあげてハンフリーが、これでもかと大あくびをした。
イヴの夕食をこんなにドキドキして食べた事はない。折角のごちそうなのに、
味どころか何を食べているのかさえ分からない。そりゃあ今までだって、
プレゼントは何かを考えると、ドキドキしないなんて事はなかったけど、気に
入ってもらえるかどうかのドキドキとは、ドキドキの中身が違う。あ、勿論、
ミルカのお誕生日パーティに招かれた時とは比べ物にならないけど。あれは
プレゼントにまつわる、人生最大のドキドキだったな。……まぁ、顛末としては
金持ちロバル野郎の一人勝ちだった訳だけれどさ……。
デザートのプディングをいただいた後、とうとう大一番。おばあちゃんは
“おや”とちいさな声を出し、その皺だらけの手ににこやかに受け止めてくれた。
ダフィにしては趣味の良い包み紙を、老婆は噛みしめるかに丁寧に、ゆっくり
ゆっくりと開いてゆく。現れた2号サイズのカンヴァスは、まるで老婆の手に
しつらえたかにしっくりおさまる。
「おぉ。なんてきれいな……鈴蘭だろう……。」
老婆は慈愛に満ちた、優しい笑顔でそれをみつめ、そうして同じその目で
ディルクを見遣る。
「ありがとう、ディルク。優しい子。とても嬉しい、とても。」
刺繍ばかりを何十年と刺して来た、関節の曲がってしまった皺深い手に
指に、いとおしげに、いとおしげに絵をさする。すると、左端近くのひび
割れがぽろりと剥げ落ちて、そこからほんのちいさな、ちいさな青の色が
現れた。
「お……」
おばあちゃんの声がひきつる。まずい……! 最悪だよダフィおじさん!
「珍しいわね。下地に白を塗る画家はたまに居るけれど、これはきっと
鈴蘭の白を際だたせる為に、背景色の白を微妙にさせる手段として青を下地に
塗ったのね。」
そんな母親の、場をとりつくろう説明など最早何の意味も持たない。
お……おお……と、老婆の声は次第、嗚咽と変化して、曇る眼鏡の端からも、
涙が溢れ刻まれた皺を伝ってカンヴァスを持つ震える手に落ちた。
「レ……テ。レ……テ……。」
震える声に、ただそうつぶやくばかりのおばあちゃんの、肩をお父さんが
強く抱き締め、僕はお母さんに言われるがままに自室へと追いやられた。
ベッドに潜り込んで、どれだけ経ったんだろう。釈然としない。最初は
あんなにも喜んでくれていたのに。ほんの少し、2センチ四方位だ、しかも
鈴蘭の絵には全く関係のない場所だ。そりゃあ、ひび割れの入ったものは
いけないかも知れないけど、でも油絵ってそんなもんなんだろ?
駄目だ、泣きそうだ。
眠れない。何だか訳が分からない。そのうちにふと気付いた。そう言えば
お父さんの態度、あれはまるで何もかも理解しているかのようだった。
明日お父さんに訊く?……いや。
ベッドからむくりと起きあがり、百科事典の前。思い出せディルク、
おばあちゃんは何てつぶやいていたんだっけ?
れ……て……? そうだ、レテだ。
そう、あれはもう、60年も前のこと。
父に母に連れられて、七歳のわたしはそれを見た。
緑深い道なき道を、靴に湿る土の重い
長く長く、続く道をただ、歩いた。
時に人とすれ違う。時に人に追い越される。
それでなくとも空気の薄い高原地帯
ふと見れば、横の木陰に腰を下ろして休む老人。
「おじいちゃん。だいじょうぶ?」
「あぁ、かわいいお嬢ちゃん。ありがとう、大丈夫だよ。」
「行き? それとも見た帰り?」
「あぁ、これからだよ、お嬢ちゃん。
でも一度、ちょうどお嬢ちゃん位の時に見たんだよ。」
「本当に?」
「あぁ、本当だよ。」
「きれいだった?」
「だからもう一度とずっと、この時だけを待っていた。
60年も経ってしまったよ。」
「アイシャ、アイシャ。早く来ないと置いて行くよ!」
「呼んでいるよ、さぁお行き。」
「後から来る? おじいちゃん。」
「必ず行くよ、必ず行く。」
緑のまに間に
ぽかりと口をあけたように
白い石灰の水辺のなかに
その青はそこにあった。
何という青、なんという青。
形容になど尽くせない。
見たものにしかわからない。
魅入られ、とらわれ、忘れる事がない──。
『紛争を繰り返すその地にある泉は、そのあまりの美しさ故、一度見た者は
決してそれを忘れられないとの言い伝えより、反語的に、“レテの泉”――
The fountain of Lethe――と名付けられた、と伝わる。』
ぱたん、と重い百科事典を閉じた。風圧がディルクの金の前髪をふっと
吹き揺らす。小さな写真に収まっていた泉の色、確かに油絵の下地のような青。
そうして……どうしてそんな事がよぎったんだろう、良く分からない。
あの色、なんだかまるでギャザの……。
するとその時、世界の全てが、今までと違う色を発し始めたような気がした。
再びベッドに潜り込んで、そうして思う。明日は思い切り早起きをして、
橋に行こう、家族で教会に行く前に。ギャザに会えたら、ちゃんと言うんだ。
そうして家に戻ったら、今度はおばあちゃんに。
メリー・クリスマス、ギャザ。
メリー・クリスマス、アイシャおばあちゃん。