神の飴玉

 ざん……ざざぁん……。



 初老の男の目は常に定時に見開く。
季節によってその時を変化させる
窓より差し込む朝陽の眩しさも、月星より輝くもののない闇も
彼の目覚めの、何らの妨げにも、また助けにもなりはしない。

「ん……。」
呻くような声に、織物の上に円くなるソラスが反応し頭をもたげる。
横のファルはというと、こちらはすぅすぅと寝息を立てたまま。
男の方を一瞥しソラスはまたゆうるりと
頭を前足の上に降ろし目を綴じる。
何もかもがいつもと変わりない事に安堵して。

“つぅ……。”
半身を起こすだけで、突っ張るような痛みが腰に脚に走り抜け
こわばる体躯は自分のものでありながらそうでないもののよう。
仕様がないな……私ももう、いつしかそんな歳だ。
薄闇のなか杖を探り持ち、ようやくの事に立ち上がる。

春の訪れを感じたのはいつの事
陽ばかりは徐々に早く昇りはすれど
思わず体躯を震えさせる寒さはあいも変わらず。

すべてを樫の丸太に覆われたこぢんまりとした小屋。
瓶底のように分厚い硝子をはめ込んだ
ちいさな窓より差し込む重い光では到底事足りる筈もなく
男はランプの芯に火を灯す。
それからソラス達の横になる炉端に杖をつきつつ近づいて
ふたつばかりのピートをくべると
ざぁと音を立て高く踊りを舞う火の粉。
ファルは驚いて首をもたげる。
「口元の毛がまた白くなったようだな、ええファル?」
そんな事を言いながら、朝の紅茶一杯の為の湯を沸かし始める。
何百何千、同じ事ばかりをただ独りどれだけ繰り返して来ただろう。



 ぎぃと軋む分厚い樫の木の扉を開けると
鈍く光る朝陽の帯と身を切る冷気が今この時ばかりと入り込み
とだえることのない波の音がトーンを一段高くする。
ただひとついつもと違っていたのは
男の危うい足元を押しのけるようにして飛び出して行ったソラス。

背を丸めバネのように両足を弾けさせ
あっという間に坂を駆け降り波打ち際にたどり着いた
ソラスの激しい鳴き声が静かな入り江に響き渡る。


「なんだ? アザラシでも打ち上がったか。」
のそりと足元に寄って来たファルにはここに居るよう言い渡し
男は右手の杖を頼りにゆっくりと入り江の岸を目指す。
全く……このなだらかな坂ひとつさっさと降りられないんだからな。



 「なんてこった……腐ったアザラシの方が余程ましだ。」
自分が捜し当てた獲物とばかりに尾を振り振り
興奮に鳴きやまぬソラスはその頭を軽く撫でられると途端に声をひそめ
今度は身を乗り出して獲物を一心に見つめ始める。
男は手に持つ杖に軽くつついてみせる。
この入り江の浜辺に漂着した、妙な色をした塊を。

「えぇ? ソラスよ。
とんでもないものを見つけてくれたな。」
痛む腰を曲げ、ぴくりともせぬ漂着物に顔を近づけ
年輪を刻み白濁する膜に覆われた濃藍色の瞳を大きく見開き凝視して
そうしてそれから深い、深い溜息をつく。
「ますます厄介だ……まだ生きている。」




 「ん……痛(つ)う……!」
ぎし……これもまた樫で作られたベッドが軋む。
“くそぅ……何だってこんなに力が入らない……。”

「まだ動かない方がいい。
私は医者ではないから良くは分からないが、全身打撲のうえ
あばらの二、三本と左腕、右脚はどうやら確実に折れているようだ。」

昼の仕事を終え戻った初老の男の忠言など耳に入る余裕もないかに
ベッドの上に男は半身を起こす事より他に念頭にないがごとく。
そのはだけた腕や肩、胸や背に汗の珠が浮かび上がる様を見れば
この格闘の何時間にも及んでいるのは明らかだった。


「はぁっ……。」
ようやくに望みを成就した男は息の整うのを待ったのち
うなだれ不作法に伸びた髪に顔を隠したままに最初の言葉を発する。
「何処だ……誰だ……。」
掠れ、重い空気の下に下にと消えゆくような低い声。

途端、激しい咳き込みが彼を襲う。
体躯中を貫く激烈な痛みに耐え、咳の波が静まるのを待って
男は絶え絶えの息の元に脂汗の滲み光る顔をゆっくりと持ち上げる。
そうしてその射抜くような鋭い眼光に睨みつける。
食事支度を中途にベッドの横にやって来ていた初老の男の顔を。


 漂うスープの芳香のなか
初老の男はその怒りを帯びたかの瞳の色に一瞬釘付けになる。
まるで流れ出た血がその鉄分を酸化させゆく過程のような
五月女王の頃に咲き誇る英国国花である
薔薇の王たる薔薇のような
深い、深い深紅の色。

なるほど……それで全て合点がゆく。
長時間海水に弄ばれた故だとばかり思っていた
皮下を縦横無尽に流れる静脈の青が勝つかの肌の色。
耐えるに過ぎる恐怖の故かと想像した
この地方の春夏に特有の、厚く重い雲のような
薄くまだらな灰色に、尚薄い金の混じる髪の色。
“この男……半アルビノか……。”


「丸二日高熱にうなされていたとは思えない様子だな。」
ようやくに目覚めた事への安堵感に初老の男は微笑し言う。
「ここはロウ・ランドの端に浮かぶ名もない離れ小島よ。
お前さんはこの入り江に漂着し、そこに倒れていた。
私の名はフィネガン。 あれはファルと、その息子ソラス。
その他には羊が十頭ばかり。
他には……そうだな、野生の兎、鳥……」

「は……」
ベッドの上の男のちいさな嘲笑がフィネガンの言葉を遮る。
「ファルにソラスな……ケルト系か。
生憎だったな……俺はサクソンだ……。」

こちらもまたおかえしにと嘲笑するかに
フィネガンは離せぬ杖で自らの脚を軽く叩きながら言う。
「断っておく。
頼まれてした訳ではないから恩を着せるつもりなど毛頭ない。
だがこの年寄りの身に溺死しぞこないの屈強な若者の
肺やら胃やらから海水を吐き出させ
入り江からの坂道登りここまで運び
濡れた衣服を脱がせ寝かせるのがどれだけの重労働か
その程度ならバカなサクソンでも想像はつくだろう。
……サクソン、アーリア、ユダヤ……何だろうが
私の知った事ではないな。」


「……漂着した……のか……。」
相変わらず男の声は消えゆくよう。
「潮流の加減なのだろう、この入り江にはいろんなものが漂着する。
流木、アザラシ……人の死体も長年の間に幾体かは経験したが
生きて流れ着いたのはお前さんが初めてだな。」

まだ随分と若いだろう男は自由に動く方の手で髪を掻き上げ
その薄灰に金の混じる色の束をぐいとつかんだまま放さない。
己の身に起こった出来事を脳内に整理しようと努めているのか
それともただ全身を這い回る苦痛にじっと耐え忍んでいるのか。

「このベッドはあんたのか。」
ふと我に返ったかの一言。
「他に誰が眠る。」
「……そいつは……悪い事をしたな……。」

フィネガンはその顔により深い皺を刻ませる。
「動けるようになればすぐに退いてもらうさ。
まずスープを飲んで滋養をつける事だな。
あぁ……その前に名前を聞いておこう。」
深紅の瞳に重い影が宿る。
「あぁ……名前な……どうやら海に落っことして来たらしい。
好きに呼んでくれ……何とでも。」

白濁した濃い藍色の瞳でその様を一瞥し
スープの用意に背を向けフィネガンは言う。
「……先に逝ったファルの連れ合いはディアンと云った。
ケルトの名前などは真っ平か?」
たった今命名された男は犬の方をちらりと見遣りほのかに微笑む。
「いや。 それでいい。」



 フィネガンの作るスープは身に沁みて旨く
一匙ごとに指先にまで精気を運んでくれる気がした。
食事の後には体中を熱い湯に浸したタオルで拭いてもらい
急ごしらえではあったが用意された木片を
胸、左腕、右脚にリネンできつく巻き付けてもらえば
まるで魔法をかけられたかに脈打つ苦痛も潮を引き
杖と肩を借りればどうにかベッドを空け渡す事さえ出来た。

「急がなくてもいいと言うのに。 年寄りの言う事は聞くもんだ。」
「木製の堅いベンチソファではもう一睡たりとも出来ねぇって
面中に書いてる癖しやがって。
若者の親切には素直に感謝するもんだぜ、じいさんよ。」
フィネガンは呆れるように首を振る。
「憎まれ口をたたけるようなら上等だ。」




 日課はフィネガンに軽いものでは決してない。
早朝には羊の搾乳。
それから羊達を海岸より裏手のなだらかな草地に放牧する。
手伝うのは牧羊犬として見事な働きを見せるソラス。
口笛と犬笛を駆使するフィネガンの思惑に寸分の狂いもなくソラスは
白い尾先を振り回しながら動き、或いはぴたり静止して羊達を誘導する。
吹きすさぶ風は冷たく陽の光は相変わらず鈍いけれども
草地は緑濃くあちこちに白や橙の花を咲かせて
今春爛漫を伝え来る。

羊達がのんびりと草を食む間にはピートの掘り起こし作業が待つ。
この仕事が一番の難儀。
この時ばかりは杖を頼りにもしていられない。

野になるベリーを、食用になる草を摘み、
自生する数少ない樹木の枝を落とす。
猫の額ほどもない野菜畑の世話をする。
そうしてもうすぐそこには羊の毛刈りの大仕事が待つ。


牧羊の暇(いとま)を得た老齢のファルはというとその間
自由きままに過ごすことを許されていた。
フィネガンとソラスが丸太小屋を後にすると
いつもは連れだって外に出るファルが
木製のベンチソファに居残りのディアンの元にやって来た。

「よぉ。」
自由に動く右手でファルの体を撫でる。
白い部分は微かに黄ばみをおび
黒い部分は色褪せ白いものも混ざるものの
その長くやわらかな毛並みは手に大変に心地よい。
「お前の旦那の名前もらっちまったぜ。 悪く思うなよな。」
ふわりと先の白い尾を一度振り、そのまま足元に円くなる。
「そばに居るつもりか。 お前、旦那孝行なんだな。」


そういえば……ディアンは思い出す。
ガキの頃、俺の家の近くにもこんなボーダー・コリーが居たっけな。
そうだ名前はメグ。 あいつもこいつと同じように賢い雌犬だった。
日曜毎に家族揃って礼拝に行き家を空ける間
いつも玄関先でじっと帰りを待っていた。
そうだ……その間メグと遊ぶのが俺はいつも楽しみだったんだ……。




 フィネガンの古い杖と神経痛の鎮痛剤を借用して
ディアンが外に出るようになるには多くの日を待たなかった。
自分が流れ着いたという入り江は想像していたよりもずっと小さく
打つ波もひどく静かに何事もなくリズムを刻み続けていた。
ふと気付けばファルがふわと尾を振りゆっくりとついて来ていた。

「なんだ。 もう外に出られるのか。 馬車馬のように頑強だな。」
ピートの掘り起こしに悪戦苦闘の初老の男は切れた息の元に言う。
「見ていられねぇな。 どれ貸してみな。」
だが大の男が両手両足を駆使して尚コツの要る泥炭掘りが
満身創痍状態の若造に歯の立つ筈もない。
「お前さんはそこいらに腰を下ろして邪魔をしないでくれ。」

ちぃ……今に見ていやがれ……。
牧草地にようようの事腰を下ろすとファルもその横に添寝をする。
柔らかい毛並みを撫で撫でぼんやりと周囲を見渡すと
名も知らぬちいさな花に止まってはひらりとその姿翻すちいさな蝶。
吹く風の中に香る汐にも負けず生き生きと濃緑をとどめる草々。
のんびりと草を食む羊達。
視線を上げれば厚い、厚い雲の次々と流れゆき
そのはざまにまるで出し惜しみでもするように極希に顔を覗かせる太陽。
だが何よりもその、雲の間に間に降り注ぐ薄い金の光の帯。




 「あぁ、もう明日になるか。」
食事をとりながら印まみれのカレンダーを一瞥してフィネガンが言う。
「明日は船が物資を運んで来る日だ。
もうそんなに動けるのなら、便乗して戻ればどうだ?」
ディアンの匙の動きが一瞬止まる。
「俺が居るのは迷惑か。」
フィネガンは顔ひとつ上げず匙を動かす。
「ああ。 ひどくな。」
「そうか。 じゃあすまんがもうしばらく迷惑かけるぜ。」
即答し何事もなかったかに食事を進める若者に
思わず匙止め、呆れるように微笑を漏らしつつ首を振るフィネガン。




 初老の男の言葉の通り
昼も余程過ぎた頃、小さなモーター式の船が入り江に到着した。
フィネガンはこれもまた樫製の手押し車を持ち出し海岸へと急ぎ
鎮痛剤を飲み尽くし熱気を帯びていたディアンは
ファルと一緒におとなしくベンチソファで待つばかり。
久しぶりに聞く他の人間の声がだんだんと大きくなり
大きな荷物を抱えでっぷりと肥った
これまた初老の男が賑やかに
フィネガンより先に樫の扉より入って来る。


「やぁ……」
肥えた男の発した短い言葉さえ飲み込まれ
一瞬に顔を見合わす男達。
“こいつは……。
何でこいつがケルトのじいさんと知り合いなんだ……。”

反してにこやかに満面に笑みを湛え
重い荷物をどしんと置き握手を求めながらに男は言う。
「シンクレア? 君、シンクレアだね、アルスター義勇軍の。」

は……。
ディアンは嘲るような笑みを浮かべる。
「そいつにも色素異常があったのか?」

その鋭い眼光に臆したか、それとも深く立ち入るのも損と踏んだか
男は間違いを素直に認め非礼への詫びの言葉をいとも軽々口にする。
握った手は予想通り柔らかく、都市の富裕層の者の手だった。



 食事を共にした席で、彼は自らワイズフィールドと名乗りを上げた。
そうしてフィネガンを娘の命の恩人と、さも嬉しそうに告白した。
話題の変更を試みるフィネガンの苦労を余所に
ワイズフィールドの悪気のない快活な舌はとどまる処を知らず
開けられたワインが暴走する口元の潤滑油となった。




 フィネガンが司祭の立場にあった事。
獣徒と化したカトリック信者の集団に襲われそうになった処を
逃げ込んだフィネガンの従事するカトリック教会の礼拝堂のなかで
プロテスタントの我が娘の請うた助けを受け入れてくれた事。
その事件を機にフィネガンは教会を去らねばならなくなった事。
この島はワイズフィールドの遠い祖先の持ち物である事。
ここに住み着いたフィネガンへの恩恵は忘れる事なく
海の荒れさえなければ月に二度、必ず物資供給に訪れる事……。




 「よく啼きよく喰う。 ありゃあ正に豚だな。」
あらかじめ無線の連絡がゆきワイズフィールドの用意した
あばら用のコルセット、腕、脚用の簡易ギプス。
まずにわか作りの木片を外し、熱い湯に浸したタオルで体を拭き
それらの装着を手伝うフィネガンにディアンは
まるで申し訳のないように一言を呟く。
丁寧に拭かれる熱いタオルの心地よさがその心持ちに拍車をかけた。

「……あの話は全て事実という訳じゃない。」
手を忙しく動かしながらフィネガンは重苦しい口をようやくに開く。
「あぁ……想像は付く。
獣徒とやらはさしずめ只の熱心なアイルランド義勇軍の連中だろう。」
一瞬手が止まる、ほんの一瞬。
「金満ワイズフィールドはアルスター義勇軍の貴重な収入源だからな。
その娘が狙われた処で何の不思議もないさ。」
フィネガンは訝しげに若者を一瞥するが
一言も口に出さない、何も言わない。

“それよりも……”
ディアンは思う。
“驚いたのはこのじいさんがカトリック司祭だったって方だ。
ここにはロザリオひとつないし……食事の祈りもしないしな……。”

「私は……」
怪我人の手当を全て終え
ベッドの隅に腰を下ろしたフィネガンは重い口を開き出す。




 「捨て子だったのだそうだ。
カトリック教会の前に……そう、良くある話だな。
教会それ自体が住居。 神父達が親代わり。
自分をとりまくありとあらゆる世界は主イエスを中心に在った。
いや、そうでしかあり得なかったと言った方が正しい。
……そんな私が主を捨てカトリックを捨てさらねばならない。
理由はどうあれもうどこの教会も私を拾ってなどくれはしない。
背徒の烙印を押された者に残された道はただひとつ。

カトリックとの訣別……それはただひとえに死のみを意味した。
己の自我の死。
だが自ら命を絶つ勇気が私にはどうしても持てなかった。
お笑い草だろう……背徒となりながら尚
それに縛られ大罪を畏れていたのだからね……。」

「だがここに来て自然と向き合い
犬と羊を相手にひとり孤独に暮らしてゆくうち不思議なことに
いつしか神の存在を強く認識するようになった。
それは十字架上のかの主であってそうではない
ケルト神話に描かれるどの神でもあり、またそうではない
我々人類には所詮その姿形さえ理解の範疇の大きな外側にあるのだろう
人智の及ばぬ、だが確かな神の存在を。」



 「あんたの身に起こった出来事には同情するが
神云々ってのは……良くわからねぇな。」
そう言いながらディアンはベッドをフィネガンに空け渡す。
コルセットとギプスのお陰で体躯の動きはますます軽く痛みも軽減され
一番の大事だった寝起きの動作も比較にならぬ程に楽となった。
夕暮れに闇が迫り来ているのにようやく気づき
初老の男は黙ってランプの芯に火を灯す。
ゆらめく、ゆれる炎に丸太小屋のなか全てのものが。


「あぁ、ワイズフィールドのじいさんが
何やら土産を持って来てくれていたな。」
ゆらめくランプの灯火の元に
油紙の包みを破るとそこに現れたのは
透明の瓶に入れられた何十個もの大きな白い飴玉。
ランプの灯がフィネガンの微笑の皺に陰影を彫る。
「私の好みを覚えていてくれたんだな。
ひとつどうだ? 薄荷味の飴。 結構いけるぞ。」


「そうだ……奴がハッカ。 俺はジンジャー。
いつだってそうだった。」
差し出された大きな飴玉をひとつ摘み上げ
それをじっと見つめたままにディアンは独り言のように呟く。
そうしてゆっくりと話し出す。




 「アルスター義勇軍所属、紅眼(crimson eyes)のシンクレア。
俺はそう呼ばれ、チンピラ相手にゃ少々は名の知れた存在だった。

義勇軍に入隊したのに特別な理由など何もない。
俺をはけ口の対象としてより扱わないアル中の親父にヤク中の兄貴。
家計を支える為だけに必死で二言目には“神様のお導きが” のお袋。
そんな家から逃れられるのなら何でも良かった。
プロテスタントが何だ、カトリックがどうした……。
神などはなから信じてなどいなかった。
俺を教会に連れてゆこうとするお袋を親父はいつも足蹴にした。

色素異常は生まれつき抵抗力に難があるとの通説もあるらしいが
ガキの頃から親父と兄の暴力に揉まれたのが思わぬ功を奏したか
頑丈な体躯にだけは恵まれた。

ただこのアルビノもどきの悪目立ちはどうしようもなく
人目につかない陰の仕事ばかりが多く与えられた。

捕らえた敵軍人の口を割らせるのもそのうちの大事なひとつ。
だがこいつが結構骨折りだった。
仲間意識と結束力に優れるばかりか奴らときたら
殉教死を恐れずむしろ尊ぶ教えを信じ込んでいるんだからな。



 ある日軍幹部候補クラスが捕まったと
アジトの在処を洗いざらい、必ず吐かせろとの命令を受け
“それ用” の地下部屋へと足を運んだ。
いつ入っても胸糞の悪くなる
窓ひとつなく剥き出しのアスファルトに四方を囲まれただけの部屋。
厚い鉄の扉を開けると途端にひどい湿気とすえた匂いが鼻を突く。

そのほぼ中央にぽつんと
木製のちいさな椅子に後ろ手に縛られ
上下着衣のままに座らされていたのが……奴だった。

噂には聞いていた、
奴がアイルランド義勇軍の後釜として組織された
より強力なアイルランド共和国軍に入隊したと。
理由は苦もなく分かる、他につける仕事がなかったからだ。
ガキの頃からずば抜けて成績の良かった奴が軍内で
早々に出世したのも容易に想像が付く。


『よぉ。』
俺は薄ら笑いを浮かべ奴に近づいた。
当然の事、奴の顔には驚きの色がみるみる広がってゆく。
『やぁ。』
そう言った奴の笑顔はこわばっていた。
これも当然だ、これから死ぬより辛い拷問が待ち受けているんだからな。

『俺の部下には少々イカレた奴が居てな。
いくら言っても軍協定が理解出来ねぇ。
おまけにひどいサディストだ。
そんな奴にお前をまかせるのはいくら俺でも少々気が引ける。
ここで取引と行こうじゃないか。
お前の知る限りのアジトの在処洗いざらいを吐きさえすれば
今後一切お前には手を出さないと誓う。』

奴は目に見えぬほどにちいさくかぶりを振った。



 情報量が少なからずある場合
責めは通常喉より上と利き腕には与えない。
逃亡の阻止も兼ね、普通は脚からやっていく。
他の仕事に忙殺され、二日後に再び地下部屋に行くと
奴は全く同じようにぽつんと木の椅子に
後ろ手に縛られ座らされていた。
ただだらりと下げた首に滲む脂汗が奴を襲っている
過酷な状況を如実に物語っていた。

俺は相も変わらず薄ら笑いを浮かべながら奴に近付き
欲しいものはねぇかと訊ねると
奴はようやくに顔をあげ、煙草を、と絞り出すように言った。
その顔は流石にすっかり色を失くしてはいたが
それでも尚その榛色の瞳にはどこか決然としたものが宿っていた。

口に煙草をくわえさせ、マッチで火を点けてやると
二服、三服を奴はゆっくりと旨そうに味わっていた。
顔中に滲んだ脂汗が細い顎元よりぽたりと落ちズボンに染みを作る。
そのうちに小刻みな痙攣が体中を襲い出し
それはただ口元に煙草をくわえているだけの事さえ許さなかった。
出来た染みの上に落ちた煙草を急いで手に払い除けると
奴は痙攣の治まらない体躯をのけぞらせてひどい呻き声をあげた。

あのイカレ馬鹿が……。 誰が二日でここまでしろと言った。
これじゃあこいつは……。
俺は真顔にそれを奴に伝えた。
今すぐ治療を施さなければお前は一生一人で糞にも行けなくなると。

だが奴は最初にしたのと同じように、ただちいさくかぶりを振る。
『何を頑張る。 そんなにも仲間が大事か。』
かぶりを振る。
『おのれの誇りか。』
かぶりを振る。
『……では神か。』
ただ、かぶりを振る。


『二日後に来る。』
そう言い残しその場を後にした。
イカレ部下には鉄拳制裁、二日間一切の拷問を禁止させた。



その二日間で全てが変わった。

奴は俺を見て“やぁ” とやわらかく微笑んだ。
こいつはいい。 実に良い兆候だ。
案の定、奴の方から情報提供を承諾するとの口火を切った。
やったぜ……。
その時俺の顔にはこれ以上ない下卑た表情が浮かんでいたに違いない。

『だが条件が四つある。』
あぁ、それは当然だ。 出来る限り呑んでやるさ。
奴はちいさな、しかし確固とした声で話し出した。

『情報はメモを取らずお前の頭にのみ記憶しろ。
その後お前自らの手で私を殺せ。
私の遺体はこれもお前の手で海に遺棄しろ。』
ここで奴は一間をおいた。

何て事はない、どれも良くある話だ。
俺は奴を落とした喜びと、反面あまりにも簡単に落ち
しかも出す条件の極めて平凡な事への
失望感の入り交じる複雑な感情の中に居た。

『全て承知した。 あとひとつは何だ。』
俺は先を促した。
奴は今までと変わることなくうつむいたままに静かに
だがひときわゆっくりと最後の条件を口にした。
『これでこの情報はお前のものだ……お前が好きにしろ。』

一瞬に言い様のない気味の悪い戦慄が体中を突き抜けた。
“……こいつは……一体何を言っているんだ……?”

は……。
『当たり前だ。』
その名状しがたい感覚を打ち払うべく笑みを浮かべ俺は言った。
『四つの条件、全て俺が責任を持って執行する。
お前は安心して往きな。』

奴はゆっくりと三つのアジトの場所を伝えた。
そうしてその、ガキの頃より変わることのない
理知的で、どこか物思うような榛色の瞳で俺をしかと見据え
もう一度繰り返した。
あの言葉を、一言一句違えずに。

その瞳のなかに絶望などは微塵もなく
弱り切った体躯に反して強い意志に溢れる光を発していた。
それが俺を尚慄然とさせた。



苦痛を与えず殺る方法など馬鹿にして
習得せずにいた事を生まれて初めて後悔した。
頸動脈を押さえ失神させたのち
上官に検分されて尚ばれないように工夫するのは骨が折れた。

その間もずっとあの言葉が脳の表に裏に回りやまない。
“俺のもの” とは……俺“が”好きにするとはどういう事だ……。
第一に俺は今何をやっている?
死体への裏工作など何故必要がある?


何故そうしたのか今も本当に良く分からない。
上官は怒り心頭に降格を怒鳴り伝え、制裁は一時間に及んだ。
あのイカレ部下はもはや部下でさえなくなり
気違い雄鶏のような哄笑と罵声を俺に存分に浴びせかけた。



 真夜中に奴の遺体を運び断崖に辿り着いて尚
俺の頭の中はまるで眩暈をひきずりながら
出口のあるやも定かでない迷宮を彷徨い巡っているようだった。

トランクから遺体を引きずり降ろし
ぐるぐる巻きにされた縄をビニールをわざわざ剥いて
俺は奴の死に顔を見た。
暗闇のなかで奴は青白く微笑んでいた。
これも良くあることだ。
死後硬直が顔の筋肉をひきつらせ、そうなるだけのことだ。


ざん、と打ち付ける波の音より他に何も聞こえない
月明かりがどこを照らしているのかも分からない暗冥のなかに
俺は自分が手を下した奴を横にただじっと座っていた。



 奴と俺とは同い年で、同じ学校に通っていた。
家庭が極貧という以外は何もかもが正反対。
奴の家族は清貧という言葉がぴったりの敬虔なカトリック教徒だった。
だが何故だか妙に気が合った。
好きになるフットボール選手もミュージシャンも
何故かいつも同じだった。

土曜日にはよく二人して街に繰り出し
靴磨きのバイトに精を出した。
その帰り道には必ずライリーの店に寄って
でかい飴玉をひとつずつ買っては口に放り込み
まるで公園の栗鼠みたいに頬を大きく膨らませた。
俺はいつもジンジャー味、奴はいつだってハッカ味。
一度だけお互いのものを取りかえっこして
お互いの味覚を馬鹿にし合って大笑いした。



 “あばよ……ショーン。”
遺体を断崖より放り投げた時に
俺は自分の意志でそうしたのか
それともただおぼつかない足元にふらついただけなのか
それさえも未だ良く分からない……。」




 ベッドに腰掛けじっと話に耳を傾けていたフィネガンは
杖を取り、よいと腰を上げ
木製のベンチソファに、その雲のような色の髪に顔を隠し
うなだれたままの男の元に近付き
その肩に陽に焼け皺を深く刻む手を置いた。

労働に馴染む手の固さと温かさがじわりと肌に沁みてゆく。

それからランプの芯を最小に絞り
すぐに自分のベッドの毛布にもぐり込んだ。
「明日も早い。もう休もう。」



ディアンのその深紅の瞳に
今一度指に挟み持たれた真っ白の飴玉が映し出される。
「あんたの言うとおり神がこの世に在るのなら
俺達の人生なんてそいつにとりゃあ
この飴玉みたいなもんに違いないぜ。
慰みにひとつ口に放り込んでは
これはいける、なかなか上等だ、
こいつは駄目だ、ひどい失敗作だ、ってな。」

「……どうだろうな。」
毛布にくるまったフィネガンは背を向けたまま。



 するとその時、いつもの織物からふらりと起きあがり
ファルがディアンの元にやって来た。
そうして男の顔をのぞきこみ
その年老いた思慮深い瞳にじっと見つめる。

ふ……。
照れを隠すように微笑んで
やり場を失くした飴玉を口に含むと
それは只一度体験したライリーの店のものと同じ味がした。


白いふさふさの首周りをゆさゆさと撫でてやると
ファルはいつも眠る織物の敷かれた炉端には戻らずに
そのまま木製のベンチソファの元に円くなり
そうしてすぐにすぅすぅと
優しい寝息を立て眠りだした。